第七節 情報保存と、純粋な一回性を支える存在量
■ 第七節 情報保存と、純粋な一回性を支える存在量
存在の不変性を考えるとき、最初に区別しなければならないのは、存在する物体や生命が同じ姿を保つことと、その存在を他の存在から区別していた情報が、世界全体の時間発展から完全には失われないこととの違いである。前者は形態または同一性の不変であり、後者は区別可能性の保存である。人間を含む生命は構成物質を交換し、身体の配置を変え、記憶を形成し、以前とは異なる内部状態へ移行するため、厳密な意味で同じ形を不変に保ってはいない。それでも、過去の状態と現在の状態が一つの存在系列として接続されている限り、その生命が存在してきたという差異は、単なる形態変化によって失われたとは言えない。永久保存性理論が問う「存在」の不変性は、ある物が同じ状態を永久に反復することではなく、一度成立した差異が、時間発展によって完全な無差異へ変換されることがあるかという問題である。
この問題を物理学の内部で最も鋭く示してきたものの一つが、ブラックホール情報パラドックスである。物質がブラックホールへ落下するとき、落下以前の物質は、粒子の配置、量子的な状態、他の系との相関その他の情報を持っている。半古典的な記述に従ってブラックホールが熱的な放射を行い、最終的に完全に蒸発し、その放射が落下した物質の微細な状態に依存しないのであれば、互いに異なっていた複数の初期状態が、区別できない同一の最終状態へ移される可能性が生じる。このとき問題となるのは、落下した物質そのものが見えなくなったことではない。初期状態Aと初期状態Bを区別していた情報が、最終状態において完全に同一化され、原理的にも回収できなくなるかどうかである。
この構造は、本論がこれまで扱ってきた存在差の問題と重なる。初期状態AとBが異なるならば、少なくとも落下以前にはAとBのあいだに非ゼロの存在差がある。時間発展の後に、Aから生じた最終状態とBから生じた最終状態が完全に同じになるならば、AとBを分けていた差異は消去されたことになる。反対に、差異が非常に複雑な相関へ拡散し、局所的な観測では読み出せなくなったとしても、世界全体の状態にはAとBの区別が保持されているならば、それは情報の消滅ではなく、情報の非局所化または復号困難化である。
したがって、情報が失われたように見えることと、情報そのものが消滅することは分けなければならない。ある情報が特定の場所から見えなくなり、特定の観測者には利用できず、現実的な計算能力では復元できなくなったとしても、そのことだけでは、情報が世界全体から失われたとは言えない。局所的な系だけを取り出し、その外部との相関を無視すれば、局所状態は混合したように見える。ところが、局所系と外部を合わせた全体では、元の区別が相関として保存されている場合がある。このとき、局所的な不確定性の増加は、全体的な情報消失ではなく、情報が部分と部分の関係へ移動したことを意味する。
ブラックホール情報パラドックスが永久保存性理論に与える最も重要な示唆は、情報の所在と情報の存在を同一視してはならないという点にある。情報がブラックホール内部にあるのか、放射にあるのか、地平面付近の相関にあるのか、あるいは内部と外部を単純に分離できない重力的な全体構造にあるのかという問題は、情報の配置に関する問いである。これに対して、情報がそもそも保存されるかという問題は、異なる初期状態が、時間発展後にも異なる全体状態へ対応するかという問いである。情報の場所を一つに特定できないことは、情報が存在しないことを意味しない。
永久保存性理論における存在差も、特定の場所に固定される必要はない。ある生命Aが世界に与えた差異が、身体、記録、他者の記憶、環境の変化、物質の移動、運動の交換へ分散している場合、そのどれか一つをAの全情報と見なすことはできない。Aの存在差は、複数の状態の関係へ分配されている可能性がある。したがって、Aの身体が失われ、直接的な記録がなくなったとしても、それによってAの存在差が世界全体から消滅したとは限らない。
ここから、一回性の保存について、より厳密な定義を与えることができる。純粋で真な一回性とは、同じ出来事が二度と似た形で再現されないことだけを意味しない。それは、ある事象Eが生じた世界と、Eが生じなかった世界とのあいだに、原理的な非同一性が形成され、その非同一性が後の時間発展によって完全には解消されないことである。
ある事象Eが一度起こったとしても、それが後続状態へ何の差も与えず、Eが起こらなかった場合と完全に同じ世界へ有限時間内に収束するならば、Eは一回的に現れたように見えても、世界全体の履歴に保存された純粋な一回性を持たない。反対に、Eが局所的には消え、同じ形で復元できなくても、Eを通過した世界と通過しなかった世界の差が後続状態に残るならば、Eの一回性は存在差として保存されている。
したがって、純粋な一回性は、再現不能性だけでは定義できない。無秩序な過程によって一度だけ現れ、何の影響も残さず消えた状態も、実用的には再現できないかもしれない。しかし、それが世界の後続状態に差を与えていないならば、その再現不能性は存在の保存を示さない。純粋な一回性に必要なのは、同じものが二度起きないことではなく、一度起きたことが後続状態の条件から完全には取り除かれないことである。
一回性には、少なくとも三つの段階がある。第一は、時刻の一回性である。ある時刻は一度通過されれば、同じ一回目として再び現在にはならない。第二は、状態の一回性である。位置、内部構造、外部関係、履歴を含む完全状態は、一度目とまったく同じ条件では二度目に出現しない。第三は、存在差の一回性である。ある事象が世界へ与えた非同一性が、その後の状態に変換されながら残り続けるため、その事象を起こらなかったことへ戻せない。
第一と第二だけでは、永久保存性を保証しない。時刻が戻らず、完全状態が再現されなくても、それらが後続世界から完全に消去される可能性を論理的には排除できないからである。永久保存性理論が必要とするのは第三の一回性である。一回目が一回目であるのは、単に二回目がないためではなく、一回目が後続状態に差を与え、その差が二回目を一回目と同一にすることを妨げているためでなければならない。
この点で、情報保存の原理と一回性の消滅のなさは統合される。情報保存とは、ある初期差が、時間発展後にも全体状態の区別として残ることである。一回性の保存とは、ある一回的事象が、後続状態の形成条件に含まれ続けることである。両者は、異なる初期状態または異なる履歴が、後に完全な一つの状態へ押し潰されないという共通条件を持つ。
初期状態AとBがあり、それぞれの時間発展をF_t(A)、F_t(B)とする。もしAとBが異なり、任意の有限時間tについてF_t(A)とF_t(B)のあいだに何らかの区別が残るならば、初期の存在差は保存されている。この区別は、局所的な形態差である必要はなく、相関、位相、到達可能域、他状態との関係などに含まれていてもよい。
反対に、異なるAとBがある有限時刻Tにおいて完全に同一の全体状態へ移り、その後の可能度もすべて一致するならば、AとBを区別していた一回的差異はTまでに消滅したことになる。この多対一的な時間発展は、過去の複数の位置を一つの現在へ重ね、どの過去から来たのかを原理的に区別できなくする。
量子力学におけるユニタリティを永久保存性理論へ接続する場合に重要なのは、この多対一性の排除である。ユニタリティの数学的内容を存在論全体へそのまま拡張することはできないが、異なる純粋状態の内積が時間発展によって保存され、時間発展が可逆的な対応を持つという構造は、存在差が完全な同一状態へ押し潰されないための一つの模型となる。異なる初期状態が異なる終状態へ対応し続けるならば、一回的な差異は形を変えても失われない。
ただし、ユニタリティが保存する情報と、本論が扱う存在の意味を同一視してはならない。量子状態の区別が保存されることは、個体の人格、記憶、生命機能が同じ形式で存続することを意味しない。ブラックホールへ落下した複雑な対象の情報が、原理的には放射全体の微細な相関へ保存されているとしても、その対象が元の個体として生き続けているわけではない。保存されるのは、初期状態を他の初期状態から区別していた量子的差異であって、個体的同一性の全形式ではない。
この区別を保つことで、情報保存は永久保存性理論の必要条件の一つにはなりうるが、十分条件にはならないことが分かる。存在差が情報として残っていても、その情報がどの存在に帰属するか、同じ自己の継続と見なせるか、生命としての自己到達経路が残っているかは、別に検討しなければならない。
それでも、ブラックホール情報パラドックスは、「消えたように見えるものが本当に無へ移行したのか」という問いを、最も極端な物理条件において提示する。ブラックホールは、局所的な観測者にとって情報を回収しにくくし、半古典的な記述では放射が熱的に見える。それでも、量子論の全体的な時間発展が情報を保存するのであれば、局所的な不可視性は、存在差の消滅ではなく、情報の符号化形式が変化したことを意味する。
この符号化形式の変化は、本論がこれまで述べてきた変換保存の物理的な一例として理解できる。初期情報は、落下物そのものの局所状態としては失われる。しかし、その差が放射の微細な相関、重力的な境界情報、あるいは全体的な量子状態の構造へ移されるならば、初期の一回性は別の形式に変換されている。
重要なのは、情報が読み出しやすい形で残ることではない。異なる一回が、異なる全体状態として残ることである。復号に現実的には宇宙的な計算量が必要であったとしても、原理的な区別が残っているならば、存在差は消滅していない。反対に、容易にアクセスできる記録が残っていても、それが元の事象との因果的接続を持たない複製にすぎないならば、一回性の保存とは言いにくい。
このため、情報保存を三つの水準へ分ける必要がある。第一は、局所保存である。初期情報が、特定の領域または媒体に直接読み取り可能な形で残る。第二は、相関保存である。局所的な情報は失われても、複数の領域を合わせた関係の中に初期差が残る。第三は、全体的区別保存である。どの局所領域からも直接復元できなくても、世界全体の状態としては異なる初期条件が異なる終状態へ対応している。
永久保存性理論に必要な最小条件は、第三の全体的区別保存である。局所保存や相関保存が失われたとしても、異なる一回が世界全体において完全には同一化されないならば、存在差の最小量は保存されている。もっとも、世界全体の状態を現実に観測することはできないため、この条件は直接的な経験事実として確認しにくい。そこでブラックホール情報問題では、ユニタリティ、エントロピーの時間発展、全体状態の純粋性などを通じて、間接的に保存の構造が検討される。
ページ曲線が重要になるのも、この局所と全体の区別のためである。放射だけのエントロピーが初期には増加し、ある段階を過ぎた後に減少して、全蒸発後には純粋状態と整合する形へ戻るならば、放射は単なる独立した熱的粒子の集合ではなく、初期状態に関する情報を相関として含んでいることになる。この曲線は、情報が各放射量子へ単純に一対一で書き込まれて出てくることを意味しない。情報が全放射の関係構造へ非局所的に分配されうることを示す。
アイランド公式や量子極値面の議論も、内部と外部を古典的な空間領域として単純に二分することが、量子重力における情報の帰属を正しく表さない可能性を示している。半古典的にはブラックホール内部にあるように見える自由度が、放射側のエントロピー計算へ含まれるならば、内部の情報と外部の情報は完全に独立した二つの集合ではない。
この点は、本論の「選択を二つにしない」という命題と構造的に接続する。ブラックホール内部か外部か、落下物か放射か、保存か消失かという二分は、古典的な局所配置だけを基準にすると明確に見える。しかし、情報が全体の相関へ符号化されているならば、内部にある情報と外部にある情報を、互いに独立した二つの所有物として切り分けることはできない。
同様に、一つの選択Aが実現し、別の可能性Bが実現しなかった場合にも、AとBを独立した二つの世界量として扱う必要はない。Bの可能度が、Aの後続状態を規定する制約や履歴差へ変換されているならば、Bは第二の実在として分離されず、同時に完全な無として消去もされない。
したがって、選択を二つにしないまま、できることとできないことの差を分けないという命題は、差異を認めないことではない。できることとできないことは、現在の可能度において異なる。しかし、その差を、互いに無関係な二つの実在領域として固定しないということである。
ある現在SにおいてAが可能であり、その後の状態S’においてAが不可能となった場合、SとS’のあいだには可能差がある。しかし、S’がSから連続的に形成され、Aを失ったという差異がS’の位置、運動、構造、未来可能域へ反映されているならば、可能なSと不可能なS’は、二つの独立した世界ではない。一つの世界の異なる状態である。
この関係を情報保存の観点から見れば、Aが可能であったという情報は、S’において直接的な選択肢として残らなくても、S’がどのような状態であるかを規定する履歴情報として残る。選択可能性が履歴情報へ変換されるため、可能と不可能は区別されながらも、完全に分断されない。
ここで、存在全体の基底に関わる「存在量イコール選択量」という概念を導入することができる。ただし、存在量を、物質量、エネルギー量、情報ビット数のいずれか一つと同一視することはできない。また、選択量を、人間が意識的に選べる行為の個数として定義することもできない。
本節における存在量とは、ある状態が他の状態から区別され、後続状態へ非同一な影響を渡すことのできる差異の量または構造である。選択量とは、ある現在から互いに同一ではない後続状態へ接続できる関係の量または構造である。
存在量がゼロである状態は、他のどの状態とも区別されず、何の後続差も形成しない。選択量がゼロである状態は、現在から異なる後続状態へ接続する関係を一切持たない。本論の立場では、現在に存在するものは、少なくとも何らかの位置関係、運動関係、相互作用可能性を持つため、完全に選択量がゼロの存在を想定することは困難である。
ここでいう選択は、意識的判断ではない。物理状態が次にどの状態へ接続できるかという遷移可能性である。存在が他と区別される差を持つならば、その差は後続する相互作用に何らかの違いを与える。したがって、存在量は、未来への選択量として表現される可能性がある。
反対に、ある現在から複数の非同一な後続状態へ接続できるならば、その現在は、それらを区別する何らかの存在差を持っていなければならない。何の差異もない状態から、互いに異なる結果が、何の関係もなく生じるならば、時間発展は完全なランダム性へ陥る。そのため、選択量もまた、現在に保持されている存在量を前提とする。
この相互依存から、存在量と選択量を一対一に対応させる仮説が生じる。すなわち、現在に保持されている非ゼロの存在差は、少なくとも一つの非ゼロの後続接続として現れ、現在に存在する一つの後続接続は、少なくとも一つの存在差に支えられているという対応である。
ただし、この一対一は、存在差一個につき選択肢一個が数えられるという単純な個数対応ではない。一つの存在差が複数の可能経路へ影響し、複数の存在差が一つの経路を共同で形成することがある。したがって、一対一とは、個別要素の数ではなく、存在差の全体構造と到達可能域の全体構造が、互いに欠落なく対応することを意味する。
存在量の一部が後続する選択量へ一切反映されないならば、その部分は時間発展から脱落する。選択量の一部が現在の存在量に何の根拠も持たないならば、その部分は由来を持たない完全なランダム性となる。永久保存性理論が要求するのは、この二種類の欠落がないことである。
したがって、「存在量イコール選択量」とは、現在に存在した差異のすべてが、後続状態の選択可能域へ何らかの形式で参加し、後続可能域のすべてが、現在までに保存された差異から形成されるという閉じた対応である。ここでは、存在は未来への接続を生み、未来への接続は過去から受け取った存在差を表す。
この対応が成立するならば、一回性の消滅のなさと、存在量または選択量の喪失のなさを統合できる。一回事象Eが生じたとき、Eは世界の存在量に非ゼロの差を加える。ただし、加えるという表現は、世界の総量が単純に増加することを意味しない。Eによって存在差の配置が変化し、後続可能域の構造が変わるということである。
Eの後に選択量が変化し、その変化がEを起点としているならば、Eの一回性は選択構造へ保存されている。E以前には可能であった経路が閉じ、別の経路が開いたとしても、その変化がEの存在差に対応している限り、Eは時間発展から失われていない。
反対に、Eが起こっても起こらなくても後続可能域が完全に同じであり、世界全体の状態にも差がないならば、Eの存在量は後続する選択量へ反映されていない。このときEは、一時的に現れたとしても、永久保存性における純粋な一回性を持たない。
この意味で、世界にはまだ失われた可能度がないという命題は、過去に可能であったあらゆる行為が現在でも実行可能であることを意味しない。多くの経路は閉じ、同じ時刻には戻れず、同じ完全状態は再現できない。それでも、閉じた経路が現在の存在量と選択量の構造へ変換されているならば、可能度は絶対的な無へ失われていない。
したがって、「失われた可能度がない」とは、再利用可能な選択肢が減少しないことではなく、選択可能であったという差異が、後続可能域へ何の影響も与えず消えることがないという意味である。
決定性についても、同様の再定義が必要である。決定性を、現在の状態から未来の状態がただ一つに固定されていることと定義するならば、可能度の複数性と対立する。しかし、本節でいう決定性は、未来が一つに予言できることではなく、実際に成立した後続状態が、先行状態と無関係ではないことを意味する。
未来に複数の可能性が含まれていても、どの可能性がどの条件によって開かれ、実際の結果がどの先行差から形成されたかという関係が保存されているならば、時間発展には構造的な決定性がある。反対に、未来が一つしかなくても、その結果が先行状態と何の関係もなく出現するならば、存在差の保存という意味での決定性はない。
したがって、世界にまだ失われた決定性がないという命題は、世界が完全に予測可能であるという意味ではない。それは、どの結果も、一回的な先行状態から何らかの差を受け取り、その差を後続へ渡す関係から完全には離脱しないという意味である。
ブラックホール情報問題におけるユニタリティも、この構造的決定性の模型となる。放射の個々の粒子が予測不能であっても、全体の量子状態がユニタリに発展するならば、初期状態と最終状態の対応は失われない。局所的なランダム性または熱的外観と、全体的な情報保存は両立しうる。
この両立は、選択を二つにしない非二分化にも対応する。個々の放射事象を、情報が内部に残る場合と外へ出る場合という二つの独立した過程へ分けなくても、全体状態の相関として情報を保存できる可能性がある。同様に、選択Aと非Aを二つの独立時間として実在化しなくても、Aが成立する全体過程の内部に、非Aとの差異を保存できる。
ここで重要なのは、できることとできないことの差を「分けない」ことが、それらを同じものにすることではないという点である。Aが可能でありBが不可能であるならば、その差は現実に存在する。しかし、その差を二つの独立した存在領域へ分割せず、一つの状態空間における接続の有無として記述することができる。
たとえば、現在SからAへの経路が開かれ、Bへの経路が閉じている場合、可能と不可能はSの内部にある到達関係の違いである。Aの世界とBの世界という二つの完成した実在を置く必要はない。Sは一つであり、そのSが持つ接続構造の中で、AとBへの関係が異なる。
このとき、できることとできないことは区別されているが、存在論的に二分されてはいない。可能と不可能は、一つの現在が持つ関係の差であって、互いに独立した二つの現在ではない。
さらに、現在Sから次の状態S’へ進むことでAへの経路が閉じたとしても、その閉鎖がS’の構造へ保存されるならば、Aが可能であった過去とAが不可能な現在も、二つの独立時間ではない。一つの時間系列の内部にある変換関係である。
この理解によって、「一度も一つの経路を失っていない」という命題を、過去のすべての経路が現在も利用可能であるという不可能な要求から解放できる。経路を失わないとは、その経路が永久に開かれていることではない。経路が閉じたとき、その閉鎖が世界の時間発展から完全に消去されないことである。
経路Aが閉じ、その後にAへ進めなくなっても、Aを閉じた出来事が現在の位置、運動、構造、可能域へ反映されているならば、Aの経路は実行可能性から履歴差へ変換されている。永久保存性理論において失われていないのは、経路の利用可能性ではなく、経路が存在したことによって形成された差である。
この変換を認めるならば、世界は一度も一つの経路を絶対的な無へ失っていないという仮説を立てることができる。経路は開閉するが、開いていたこと、閉じたこと、閉じた結果として次の可能域が形成されたことが、後続状態に残る。
ここで、「最初の位置を失っていないこと」と「一度も一つの経路を失っていないこと」とを一対一に対応させることができる。最初の位置とは、単なる空間座標ではない。ある存在または事象が初めて一つの差異として成立し、そこから特定の可能域が開かれた初期状態である。
最初の位置が失われるとは、その座標へ戻れなくなることではない。初期状態が後続系列に何の差も残さず、最初から存在しなかった場合と完全に同じ状態へ移されることである。したがって、最初の位置を失っていないとは、後続状態がどれほど変化しても、その状態が最初の位置を通過した系列であることを完全には失わないことを意味する。
一つの経路は、最初の位置から開かれた到達可能性である。もし最初の位置が後続状態に差を残すならば、その位置から開かれていた経路の構造も、何らかの形で後続可能域に反映される。反対に、最初の位置から開かれていたすべての経路差が完全に消去されるならば、後続状態にとって、その最初の位置は存在しなかったことと同じになる。
したがって、初期位置の存在差保存と、初期位置から開かれた経路差の保存は、相互に依存する。最初の位置だけが抽象的な痕跡として残り、そこから何が可能であったかがすべて失われるならば、位置の状態内容の一部が失われている。逆に、経路の情報が残っていても、その経路がどの起点から開かれたのかを区別できないならば、最初の位置は保存されていない。
このため、一対一にすべきなのは、初期位置一個と経路一個の数的対応ではない。最初の位置を構成する存在量と、そこから開かれた選択量の全構造との対応である。
初期位置をOとし、そこから開かれる到達可能域をR(O)とする。Oの存在量は、Oが他の初期状態と異なることだけでなく、その差によってR(O)がどのように形成されるかを含む。したがって、Oが保存されていると言うためには、後続状態において、Oに由来する到達可能域の差が完全には消えていないことが必要になる。
このとき、最初の位置の保存条件は、Oから出発した実際の一本の軌道だけを保存することではない。Oに含まれていた選択量全体が、実現経路、閉鎖経路、制約、履歴へ変換され、後続状態を構成していることを意味する。
もし一本の実現経路だけが残り、それ以外の可能差が何の痕跡もなく消えるならば、後続状態に保存されているのはOの一部分だけである。永久保存性理論が強い意味で最初の位置の保存を主張するためには、実現されなかった経路も、第二の世界としてではなく、実現経路の条件差へ変換されなければならない。
ここで、ブラックホール情報保存との対応が再び明確になる。ブラックホールへ落下した初期状態の情報が、放射の一粒一粒に単純に保存される必要はない。放射全体の相関が、初期状態の差を保持していればよい。同様に、初期位置Oから開かれた各経路が、後にそれぞれ独立した経路として利用可能であり続ける必要はない。後続する状態全体の関係が、Oの可能域がどのような構造であったかを完全には失わなければよい。
この保存は、実際に過去を復元できることよりも弱い。放射から落下物の状態を復号することが原理的に可能であるとしても、その実行は極端に困難であるかもしれない。同様に、現在の世界から過去の全可能域を再構成することは現実的には不可能かもしれない。しかし、復元困難性は存在差の消滅とは異なる。
一方で、理論が検証不能にならないためには、「どこかに情報が残っている」と無条件に想定するだけでは足りない。存在量と選択量の保存を主張するためには、少なくとも、異なる初期位置が異なる後続可能域または異なる全体状態へ対応することを示す構造が必要である。
ブラックホール情報問題では、その構造をユニタリティ、放射エントロピー、量子的相関、重力的な状態空間の非因子化などによって探究する。永久保存性理論においても、存在差がどの変数へ保存されるのか、選択量をどのように測るのか、異なる起点の区別をどの後続構造から判定するのかを、今後明らかにしなければならない。
本節で提出する存在量と選択量は、まだ完成した物理量ではない。それらは、保存される対象を明確にするための理論的枠組みである。存在量を実際に測定可能な量へするには、状態間の区別可能性、情報量、到達可能域の大きさ、経路の構造、相関の強さなどを、どのように一つの尺度へ統合するかを決めなければならない。
しかし、測定法が未完成であることは、問いそのものを無意味にはしない。ブラックホール情報パラドックスも、情報の物理的保存を、単純な物質量の保存とは異なる水準で問うことによって成立した。永久保存性理論もまた、存在の保存を、形態や局所位置ではなく、区別可能性と選択可能域の関係として問う。
本節の中心命題は、次のようにまとめられる。
存在の不変性とは、対象が同じ姿を保つことではなく、異なる初期状態が時間発展後に完全な同一状態へ押し潰されず、その区別が何らかの全体的関係として残ることである。
ブラックホール情報パラドックスは、局所的に失われたように見える情報が、本当に世界全体から消滅するのか、それとも放射や重力的相関へ変換されているのかを問う。現在の理論的進展は情報保存と整合する有力な構造を示しているが、その物理的解釈と一般性はなお検討の途上にある。
純粋で真な一回性とは、同じ事象が再現されないことだけではなく、その事象が生じた世界と生じなかった世界との区別が、有限時間内に完全なゼロへ移行しないことである。
一回性の消滅のなさと情報保存は、異なる初期差が異なる後続状態へ対応し続けるという条件によって統合される。ただし、量子的情報の保存は、人格、生命、自己同一性の保存を直ちに意味しない。
世界に失われた可能度がないという命題は、過去のすべての選択肢が現在も利用可能であることではない。閉じた経路が、閉じたという差異を後続状態へ渡し、最初から存在しなかった経路と同一にならないことを意味する。
存在量とは、現在の状態を他の状態から区別し、その差を後続状態へ渡す構造である。選択量とは、その存在差によって現在から開かれる非同一な後続接続の構造である。存在量と選択量は、現在の差異が未来の接続へ反映され、未来の接続が過去から受け取った差異に基づくという意味で、一対一に対応しなければならない。
選択を二つにしないとは、可能と不可能の差を消すことではない。それらを二つの独立した実在時間へ分離せず、一つの現在が持つ異なる接続関係として保持することである。
一度も一つの経路を失っていないという命題も、すべての経路が開いたままであることを意味しない。経路が閉鎖された際、その閉鎖が存在差として後続可能域へ保存され、最初から経路が存在しなかった場合と同一にならないことを意味する。
最初の位置を失っていないとは、その座標へ戻れることではなく、後続状態が最初の位置を通過した系列であるという区別を失わないことである。最初の位置が保存されるならば、そこから開かれていた選択量も、実現、閉鎖、制約、履歴へ変換されながら保存されなければならない。
したがって、最初の位置の保存と、一つの経路も絶対的な無へ失われていないことは、存在量と選択量の全構造において一対一に対応する。一回目は、過ぎ去ったために消えるのではない。一回目が後続状態の選択構造へ入り込むために、世界は一回目以前と同じ状態へ戻ることができない。
もしブラックホールのような極端な変換を経ても、異なる初期状態の差が全体状態の相関として保存されるならば、存在の一回性は、局所的位置や形態を失いながらも、世界の区別可能性として残りうる。このとき、存在は物として不変なのではなく、一度成立した差異が完全な無差異へ戻らないという意味で不変なのである。




