第六節 完全自己の領域と、第二位置を持たない時間
■ 第六節 完全自己の領域と、第二位置を持たない時間
完全な自己と見なすことのできる領域は、どこからどこまでなのだろうか。この問いに対して、現在の一点に置かれた物質的状態だけを取り出し、それを自己の全体と定めることはできない。生命を構成する物質は時間とともに交換され、内部の配置は絶えず変化し、位置も運動も周囲との関係も、一つ前の時点と完全には一致しないからである。それにもかかわらず、ある時間幅の中で一つの生命や一つの存在が同じ自己として扱われるのは、各時点の状態が微視的に同一であるためではなく、異なる状態が同じ生成系列に属し、相互の変化が一つの自己関係によって接続されているためである。したがって、完全な自己とは、変化しない一個の点ではなく、変化を含みながらも別の存在系列へ離脱しない状態の領域として定義されなければならない。
この領域を完全自己領域と呼ぶならば、その内部に属する状態は、見かけや構成要素が同一である必要はない。必要なのは、ある状態から別の状態へ移る過程が、同じ自己の変化として追跡できることである。過去の状態から現在の状態が生じ、現在の状態から後続状態が形成される際に、自己を他から区別する関係が完全には切断されず、さらに一定の変化を経た後にも、同じ自己系列へ帰属できる状態を再形成できるならば、それらの状態は同じ完全自己領域に属する。
この定義において、完全という語は、欠損も変化も存在しないという意味ではない。自己を成立させるために必要な接続関係が、その領域の内部で閉じているという意味である。ある生命が傷を受け、内部構造の一部を失ったとしても、その損傷を自己の変化として引き受け、残された構造によって自己維持を継続し、後続状態を同じ個体の状態として形成できるならば、損傷後の状態も完全自己領域の内部にある。反対に、外見上は以前の形を保持していても、過去から現在への自己接続が切れ、現在から未来へ同じ自己を形成する経路も失われているならば、その状態は、形態が似ているだけで、完全自己領域の内部にはない可能性がある。
完全自己領域を成立させるためには、少なくとも四つの関係が必要になる。第一は、現在の状態が、同じ自己に属する先行状態から生成されたという由来の連続である。第二は、現在の内部で起こる変化が、自己の境界を完全に破壊せず、同じ系列に属する後続状態を生成できるという変換の閉鎖性である。第三は、その系列が他の存在系列と完全には混同されず、自己と非自己の差を一定範囲で保持できるという識別可能性である。第四は、現在の状態が一定の時間を通過した後にも、同じ自己領域に属する状態へ接続できるという自己到達可能性である。
これらの関係のうち、どれか一つだけを取り出して完全な自己を定義することはできない。由来が連続していても、後続する自己を形成する能力が完全に失われているならば、その状態は自己系列の終端にある。自己維持能力があるように見えても、先行状態との接続を一切持たず、偶然同じ形が現れただけであるならば、それを同一の自己と見なす根拠は弱い。また、内部変化が閉じていても、外部との区別を失い、どこまでが自己に属するかを定められないならば、個別的な自己領域は成立しにくい。
したがって、完全自己領域は、物体の表面や生命の皮膚と一致するとは限らない。それは空間的な境界であると同時に、時間的、因果的、構造的な境界でもある。身体の外へ出た物質であっても、生命の自己維持作用の中に組み込まれている間は、広い意味で自己関係へ属することがあり、身体の内部にある物質であっても、自己維持系列との接続を完全に失っているならば、自己の中心的構成から外れていることがある。完全自己領域は、現在の空間配置だけではなく、何がどこから来て、何へ変化し、どの後続状態を形成できるかによって定まる。
そのため、完全自己領域の境界は固定された線ではない。生命の成長や学習、損傷、修復、環境変化によって、自己が維持できる状態範囲は拡大または縮小する。昨日までは自己として処理できなかった変化を、今日の自己は内部へ取り込み、反対に以前には維持できた構造を、後には維持できなくなることがある。この可変性は、自己が曖昧であることを意味しない。むしろ、自己とは変化しない内容ではなく、変化を自らの系列へ統合できる領域であることを示している。
ここから、存在における二回目の位置のなさという問題へ進むことができる。ある存在が一度Aという状態にあり、時間を経た後に再びAと同じ状態へ戻ったとすると、私たちはそこに二回目のAが存在すると考えることがある。同じ場所へ戻り、同じ姿勢を取り、同じ機能を示し、測定可能な範囲で同じ内部状態を再現したならば、最初のAと後のAは同じ位置を二度占めたように見える。
しかし、状態の位置を、空間座標や局所的な測定値だけでなく、その状態へ至る履歴まで含めた全体として定義するならば、二回目のAは最初のAと同じ位置にはない。後のAには、最初のAをすでに通過し、そこから離れ、再び戻ったという履歴が含まれている。最初のAには、その履歴は存在しない。したがって、二つのAが同じ空間位置と同じ局所状態を持っていても、時間的な由来と後続可能域が異なる限り、それらは完全状態として同じ位置ではない。
この意味で、存在における二回目の位置とは、同じ空間座標の二度目の占有ではなく、同じ履歴を含む完全状態の再出現を意味する。完全状態が、現在の位置、内部構造、外部関係、過去の履歴、未来への可能度を含むならば、一度通過した完全状態を、二度目として同一に再現することはできない。二度目であるという事実そのものが、最初の状態との差となるからである。
したがって、存在には同じ自己領域への再到達はありうるが、同じ完全位置への二回目の到達はない。生命が一度離れた場所へ戻り、以前と似た状態を再形成したとしても、戻った状態は完全自己領域における新しい位置である。自己は同じ領域に属しながら、二度と同じ全位置を占めない。このことは、自己の同一性が点の反復によって維持されるのではなく、異なる位置を一つの系列へ統合することによって維持されることを示す。
二回目の位置のなさは、自己の継続を否定するものではない。反対に、自己が継続するためには、同じ一点を繰り返すのではなく、各時点で新しい位置を形成しながら、それらを同じ完全自己領域へ属させなければならない。完全自己は、一点の永久反復ではなく、一回限りの位置を連続的に統合する領域である。
ここで、時間と選択の関係における非二分化の非自明性が現れる。選択を二分しないというだけならば、すべての差を無視し、AとBを区別しないことによって容易に達成できる。しかし、そのような非二分化には選択も変化も存在しない。AとBの差を認めないならば、どちらへ進んだのかを語ることもできず、時間の中に異なる位置が形成されたことも示せない。この意味で、差の消去による非二分化は自明であり、永久保存性理論が求めるものではない。
本理論が求める非二分化は、AとBの差を保持しながら、それらを互いに独立した二つの時間へ分裂させないことである。現在は複数の変化方向を含み、それぞれの可能度に差があり、実際に一つの経路が形成される。それでも、形成されなかった方向を第二の現実として独立させず、同時に何の差も残さない無へ落とさず、形成された経路の条件として保存しなければならない。
この構造は自明ではない。差を保持すれば通常は二つの対象が成立するように見え、二つを成立させなければ差そのものが失われるように見えるからである。永久保存性理論は、この二者択一の外側に、差が関係として存在する第三の構造を求める。AとBは二つの完成した現在として並ぶのではなく、一つの現在の内部にある異なる遷移方向として区別される。Aが成立した後にも、Bとの差はAの成立条件として残るため、Bを独立した第二時間として実在させる必要がない。
非二分化の非自明性とは、このように、差異を消さず、実在を二つへ増やさず、しかも一方を絶対的な無へ落とさない三つの条件を同時に満たすことにある。差を消せば非二分化は容易になるが、可能度も選択も存在しなくなる。二つの結果をともに独立実在とすれば差は保存されるが、時間は分裂する。一方だけを残して他方を完全消去すれば、時間は一系列に保たれるが、永久保存性が破れる。したがって、本理論が必要とするのは、未実現差を関係として一系列へ保存する非自明な非二分化である。
この構造を数学的に考える際、リーマン予想との関係が問題になる。ただし、最初に明確にしなければならないのは、リーマン予想が時間の非二分化や自己の永久保存を直接証明する命題ではないということである。リーマン予想は、リーマンゼータ関数の非自明な零点の位置に関する数学的予想であり、素数の分布とその平均からの偏りを理解するための中心的な問題である。したがって、リーマン予想が真であることから、生命や存在差が永久に保存されるという結論を直接導くことはできない。
本節で模索する厳密な関係とは、リーマン予想と永久保存性理論を同一視することではなく、両者のあいだにどのような構造的対応を設定すれば、単なる比喩を越えた比較が可能になるかを明らかにすることである。
リーマンゼータ関数において重要なのは、素数という局所的で分解不能な構成単位と、自然数全体にわたる大域的な解析構造とが、一つの関数を通じて結ばれていることである。合成数は素数の積として構成され、素数の分布は一見すると不規則でありながら、まったく無秩序に置かれているわけではない。ゼータ関数の零点は、その分布が平均的な傾向からどのようにずれるかを大域的に記述する。
この局所と大域の関係は、永久保存性理論における一回的な事象と時間系列全体の関係を考えるための形式的な模型となりうる。一つ一つの事象は、時間の中で二度と同じ完全位置を持たない原初的な一回として現れる。それらの事象が連続的に組み合わさることで、より長い履歴や複合的な存在状態が形成される。もし複合履歴を、その内部に含まれる原初的な事象へ一定の仕方で分解できるならば、原初事象と全履歴のあいだには、素数と自然数の関係に似た構成原理が生じる。
しかし、似ているというだけでは厳密な関係にはならない。永久保存性理論にリーマン予想型の構造を導入するためには、少なくともいくつかの条件が必要である。
第一に、時間系列の内部に、他の事象の単純な合成としては表せない原初的な遷移単位を定義できなければならない。この原初単位は、それ以上の同種の遷移へ分解できない一回的な出来事であり、複合的な履歴を構成する基礎となる。
第二に、複合履歴が原初単位の組み合わせとして一意または十分に制御された形で分解できなければならない。同じ履歴が無制限に異なる分解を持つならば、局所事象と大域系列の対応は定まらず、素因数分解に相当する構造は成立しない。
第三に、それぞれの履歴へ、その長さ、複雑性、保存量、遷移回数などに基づく重みを割り当て、その総体を一つの生成関数として表現できなければならない。この生成関数が、個々の履歴を単に列挙するだけでなく、原初事象の分布と全履歴の構造を同時に含むとき、ゼータ関数型の大域表現が可能になる。
第四に、その生成関数が、定義された最初の領域を越えて解析的に延長でき、異なる時間方向または異なる記述領域を結ぶ対称関係を持たなければならない。局所的な履歴の単純な総和だけでは、有限範囲の情報しか扱えない。永久保存性と結びつけるためには、局所的な定義を越えて、全体の構造を一つの解析対象として保持する必要がある。
第五に、その関数の零点や特異点が、原初事象の分布、自己到達経路の偏り、可能度の消失または保存と具体的に対応しなければならない。零点が何を意味するかを定めないまま、リーマン予想の実部二分の一という形だけを移しても、数学的な関係は生じない。
これらの条件を満たす時間生成関数が実際に構成された場合にのみ、永久保存性理論とリーマン予想の関係は、単なる象徴的類似から、条件付きの形式的対応へ進むことができる。現段階では、そのような関数が物理的存在や生命の時間系列に対して確立されているわけではない。したがって、本論が提出できるのは、リーマン予想そのものを存在論へ適用することではなく、リーマン予想型の零点配置が、非二分化された時間構造を表現するためにどのような意味を持ちうるかという仮説である。
その際に重要になるのが、実部二分の一という位置である。この二分の一を、二つの選択肢が半分ずつ存在する確率として理解してはならない。リーマン予想における二分の一は、二つの可能性を等分する数ではなく、関数の対称性に関わる中心線である。したがって、この二分の一を永久保存性理論へ接続する場合にも、選択Aと選択Bが半分ずつ実現するという意味を与えるべきではない。
本理論における対応として重要なのは、二分の一が、一方の側と他方の側を切り離す境界ではなく、両側の記述が対応する中心であるという点である。対称線の外側に一つの零点がある場合、関数の対称性は反対側に対応する位置を要求する。しかし、零点の実部が二分の一にあるならば、左右の対応は異なる二つの実部位置を必要としない。ここに、存在における二回目の位置のなさとの限定的な構造対応を見いだすことができる。
ただし、これは零点が一つしか存在しないことを意味しない。リーマンゼータ関数には多数の非自明な零点があり、それぞれ異なる虚部位置を持つ。ここで対応させることができるのは、左右の対称性によって生じる第二の実部位置が必要ないという構造だけである。一つの零点が中心線上にあるとき、その零点を左右二つの異なる位置へ分けなくても、対称関係が保たれる。この構造は、現在に含まれる差異を、二つの独立した時間位置へ分割せず、一つの中心的な接続上に保持するという非二分化の模型になりうる。
したがって、永久保存性理論とリーマン予想の最も慎重な対応は、二分の一を選択確率として扱うことではなく、二つの記述方向を一つの中心構造へ対応させる非分裂的な対称位置として扱うことである。時間の過去側と未来側、保存側と変化側、自己と非自己の境界を、互いに無関係な二領域へ分けるのではなく、一つの現在的関係の両方向として結ぶ中心が必要になる。
完全自己領域も、この中心関係によって理解できる。自己は、過去の状態をそのまま保持する側と、未来へ完全に別の状態を生成する側との中間に置かれているのではない。自己は、過去を受け取りながら未来へ変換する一つの現在関係である。過去保存だけに偏れば自己は固定され、変化能力を失う。未来変化だけに偏れば過去との接続が切れ、同じ自己ではなくなる。完全自己は、保存と変化の双方を一つの系列に保つ中心領域として成立する。
ここで、リーマン予想型の中心線を自己の均衡点と同一視することはできないものの、構造上の対応を設定することはできる。すなわち、自己を成立させる時間生成関数が存在し、その関数が過去方向と未来方向を結ぶ対称性を持ち、自己差の消失位置がすべて一つの中心線上に制約されるならば、自己の不規則な変化は、二つの独立系列への分裂ではなく、一つの大域構造の内部にある変動として記述できる可能性がある。
この対応において、零点は絶対的な無を意味しない。数学的な関数が零になる位置には、その位置を定める座標があり、零となる次数があり、周囲の値との関係がある。したがって、関数の零点は、何の構造も持たない無ではなく、複数の寄与が一定の関係によって打ち消し合う構造的なゼロである。
この点は永久保存性理論にとって重要である。ある測定量がゼロになったことを、存在差の完全消滅と直ちに同一視することはできない。ゼロが特定の関数関係の中に位置し、その場所や次数が大域構造を反映しているならば、そのゼロは差異の欠如ではなく、差異が一定の形式で相殺された結果である。絶対的な無には位置も次数も周囲との関係もないが、解析的な零点にはそれらがある。したがって、ゼロと無は区別されなければならない。
リーマンゼータ関数の零点が素数分布の偏りを記述するという事実は、局所的には何も存在しないように見えるゼロ位置が、大域的には豊富な情報を担いうることを示す数学的な例である。永久保存性理論においても、一つの可能度が局所的に観測できなくなったことや、ある差が測定上ゼロになったことは、その差異が世界全体から絶対的に消えたことを意味しない可能性がある。差異は局所量として失われても、大域的な関係やスペクトルの配置として残ることがありうる。
この考え方は、直線的な一回の喪失のなさへ接続される。一度だけ起こった事象は、後に同じ完全位置を二度と持たない。その事象を局所的に再現できなくなったとしても、その事象が全時間系列の構造へ寄与しているならば、一回性は消滅していない。局所的な事象は、後続状態へ拡散し、直接的な形を失いながら、全体の変動、相関、到達可能域の偏りとして保存されうる。
ここで完全なランダム性を排除する必要が生じる。完全なランダム性とは、単に未来を予測できないことではない。ある状態から次の状態への遷移が、過去の位置、運動、構造、履歴のいずれとも関係を持たず、どの後続状態も同じように無根拠に成立しうることを意味する。このような完全ランダム過程では、現在の状態は先行状態から差異を受け取らず、後続状態も現在を起点とする必要がない。
もし世界がこの意味で完全にランダムであるならば、完全自己領域は成立しない。現在の自己状態から次の自己状態が生じる保証も関係もなく、同じ自己系列と別の存在系列を区別する基準が失われるからである。偶然に似た状態が連続して現れたとしても、それらを同一の自己として結ぶ因果的または構造的な接続は存在しない。完全自己は、後続状態が先行状態に条件づけられていることを必要とする。
ただし、予測不能性や確率性が存在することと、完全なランダム性は同じではない。結果が確率的にしか予測できなくても、その確率分布が現在の状態によって規定され、過去との相関を持ち、一定の保存則や対称性に従っているならば、そこには構造が存在する。永久保存性理論が排除しなければならないのは、あらゆる不確定性ではなく、過去と未来の関係を完全に無化する無条件のランダム性である。
素数の分布は単純な周期を持たず、一見すると不規則であるが、任意に投げ出された数の集まりではない。自然数の乗法構造によって厳密に規定され、ゼータ関数を通じて大域的な関係を持っている。この点において、リーマン予想は、外見上の不規則性と完全なランダム性を区別するための数学的な模型となる。予測しにくい配置であっても、その偏りが一つの解析構造によって制約されているならば、完全な無秩序ではない。
永久保存性理論における時間と選択も、同様に、完全な周期性と完全なランダム性のどちらにも還元されない構造を必要とする。未来が過去によって完全に一意決定される必要はない。しかし、未来が過去とまったく無関係であってもならない。現在には複数の可能度が含まれうるが、それらは現在の位置、運動、構造、履歴によって一定範囲へ制約されていなければならない。
この中間構造を非二分化された選択と呼ぶことができる。選択は、あらかじめ完成した二つの未来から一方を取り出すのでもなく、無条件の乱数によって何の由来もない結果を出現させるのでもない。現在の内部にある連続的な可能度が、過去から受け取った条件と周囲との相互作用によって一つの後続状態へ変形する。この変形には不確定性が含まれうるが、変形前後の接続は失われない。
完全なランダム性が排除されるならば、一回の事象は後続系列に何らかの条件を残す。一回的な差異がどれほど小さくても、それによって次の状態の可能域が変化するならば、その差異は完全に失われていない。反対に、一回の事象が起こっても起こらなくても、後続するすべての状態と可能域が完全に同じであるならば、その事象は世界の時間発展に何の差も与えていない。
したがって、直線的な一回の喪失のなさは、一回的な出来事を後から完全に再現できることではなく、その出来事が後続系列に与えた条件が、あらゆる記述から完全には消えないことである。一回の出来事は同じ完全位置へ戻らない。しかし、その戻らなさ自体が後続状態の履歴となり、次の位置を以前とは異なるものにする。
この関係を大域的に記述する生成関数が存在するならば、一回的な事象は、その関数を構成する原初単位またはスペクトル成分として残る可能性がある。個別事象の直接的な位置が読み取れなくなっても、事象の分布によって大域関数の零点や変動が変わるならば、その事象は全体構造から完全には失われていない。
ただし、一つの事象が大域関数に寄与していることと、その事象を一意に復元できることは異なる。多数の事象が同じ大域的特徴へ寄与し、個別の由来を区別できなくなることもある。したがって、スペクトル的な保存は、個別情報の完全保存よりも弱い。永久保存性理論においては、同一性保存、情報保存、関係保存、存在差保存を区別したうえで、どの保存層とリーマン予想型構造を対応させるかを定めなければならない。
リーマン予想型の構造が最も直接的に対応しうるのは、個別状態の完全復元ではなく、原初的な一回事象の分布が大域的な時間構造に制約を与えるという関係保存である。零点の配置が局所単位の分布偏差を記述するように、時間生成関数の零点配置が、自己到達経路や一回事象の分布偏差を記述するならば、局所的な不規則性と大域的な保存性を同じ枠組みで扱える可能性がある。
その場合、リーマン予想型の中心線条件は、すべての変動が一つの対称的な領域に制約され、保存側と消失側へ無制限に偏らないことを意味する候補となる。しかし、これはあくまで新たに構成される時間生成関数についての仮説であり、既存のリーマン予想がそのまま時間や生命について述べているわけではない。
永久保存性理論とリーマン予想の厳密な関係は、したがって次のように限定される。第一に、実際のリーマン予想は素数分布とゼータ関数の零点に関する数学的命題であり、存在の保存を直接証明しない。第二に、永久保存性理論が原初事象と複合履歴の分解構造を定義し、それらからゼータ関数型の生成関数を構成できる場合に限り、零点分布と時間的保存の形式的対応を論じられる。第三に、その生成関数が二つの記述方向を結ぶ対称性を持つ場合、中心線上の零点配置を、時間を二つの独立位置へ分けずに変動を保持する構造として解釈できる。第四に、その対応が成立しても、個体の意識や人格の永久存続が証明されるわけではなく、一回事象の分布と大域構造の関係が制約されるにとどまる。
この限定を守ることによって、リーマン予想との関係は、根拠のない象徴ではなく、今後数理化すべき条件の一覧となる。何を原初事象とするのか、履歴の一意分解が可能か、どの重みから生成関数を作るのか、解析的な延長と対称性が成立するか、零点がどの保存量に対応するかを明らかにしなければならない。
完全自己領域についても、同様の大域的記述が必要になる。自己がどの状態を通過し、どの状態を排除し、どの経路から自らへ戻ることができるかを、個々の時点だけでなく、時間系列全体の構造として表さなければならない。その大域構造が存在するならば、自己の現在位置は、孤立した一点ではなく、全系列の中に置かれた一回的な座標となる。
二回目の位置が存在しないということは、自己が二度と同じ領域へ戻れないことではない。完全自己領域の内部には、似た位置、似た構造、同じ機能への再到達が存在しうる。しかし、全履歴を含む位置は各時点に一つしかなく、後の状態は必ず以前の位置を通過した差を含む。この一回性が全体構造へ保存されるならば、自己は同じ点を反復せず、一回的な点を失わずに系列を形成する。
完全なランダム性のもとでは、この一回性は保存されない。各位置が前後と無関係ならば、一度目と二度目の区別も、自己と非自己の区別も、通過したことと通過しなかったことの区別も、後続状態に反映されない。したがって、二回目の位置のなさを成立させるためには、各一回が後続位置の条件となる必要がある。
この条件のもとでは、二回目が存在しないのは、一回目が消えたからではない。一回目が後続状態へ保存され、その保存によって二回目が一回目と同じ完全位置になれないのである。二回目の位置のなさは、一回目の喪失ではなく、一回目の消去不能性から生じる。
ここに、直線的な一回の喪失のなさの核心がある。直線は、同じ点を二度通過することによって持続するのではない。各点が一回限りであり、その一回が次の点の構成条件へ変換されることによって持続する。完全自己領域は、その一回限りの点を同じ自己系列へ統合する。
したがって、完全な自己とは、すべての時点で同一の状態を持つ存在ではない。それは、異なる時点の各一回を、何の由来もないランダムな点へ解体せず、一つの時間系列として保持できる領域である。自己が自己であるためには、変化を排除する必要はない。しかし、変化のたびに過去との関係が完全に失われてはならない。
生と死の区分も、この完全自己領域の観点から再定義できる。生とは、完全自己領域が内部変化を自己系列へ統合し、有限時間後の自己状態を形成できる期間である。死とは、生命的な完全自己領域が閉じ、以後の状態を同じ生命個体の自己変化として統合できなくなる境界である。
ただし、生命的な完全自己領域が閉じても、その内部で形成された一回的な位置が、世界全体の存在差領域から消えるとは限らない。生命の自己接続は終わっても、その生命が他の存在へ与えた運動、構造、因果、情報、可能差は、より広い時間系列へ移される。したがって、生命としての二回目が存在しないことと、存在差が完全に消滅することは異なる。
本節における結論は、次のようにまとめられる。
完全自己領域とは、微視的に同一な状態の集合ではなく、由来の連続、変換の閉鎖性、他との識別、有限時間後の自己到達可能性を保持する最大の状態領域である。自己は、その領域内部で変化しながら、一つの系列として統合される。
存在における二回目の位置のなさとは、同じ場所や同じ形への再到達が不可能であることではない。履歴と未来可能度まで含む完全位置には、一度目と同じ二回目が存在しないということである。二回目であるという履歴が、最初の位置との非同一性を必ず形成する。
時間と選択の非二分化は、差を消すことによって成立する自明な単一化ではない。AとBの差を保持しながら、それらを二つの独立時間へ分けず、また一方を絶対的な無へ落とさない非自明な関係保存である。
リーマン予想は、この非二分化を直接証明するものではない。しかし、原初的な局所単位と大域的な解析構造を結び、外見上不規則な分布の偏りを零点配置によって記述するという点で、一回事象と全時間系列の関係を数理化する形式的模型となりうる。
実部二分の一は、二つの選択肢の確率的な半分ではなく、左右の解析的記述を結ぶ中心線である。永久保存性理論との限定的な対応では、それを、差異を二つの独立した実在位置へ分けず、一つの中心関係に保持する構造として解釈できる。
完全なランダム性は、過去と未来の関係を失わせ、完全自己領域を成立不能にする。したがって、永久保存性には、未来が完全に予測可能であることではなく、後続状態が先行状態から何らかの差異を受け取ることが必要である。
そして、直線的な一回の喪失のなさとは、一回的な事象を後に同じ形で再現できることではない。その事象が、後続状態の位置、運動、構造、可能域または大域的な時間構造に、一度起きたという差を残すことである。
一回目は、二回目が存在しないために孤立するのではない。一回目が次の状態へ保存されているために、次の位置は同じ一回目にはなれない。したがって、存在に二回目の完全位置がないという事実は、一回的な存在の消滅を示すのではなく、一回性が時間の直線から完全には失われていないことを示す可能性があるのである。




