第五節 時間の非二分性と、有限時間内における自己到達可能性
■ 第五節 時間の非二分性と、有限時間内における自己到達可能性
真の意味で二つ目の選択が現在に存在しないとすれば、世界は時間を二つに分けずに進むことができるのだろうか。この問いを検討するためには、まず「二つ目の選択」という表現が、時間的に二度目の行為を意味するのか、それとも一つの現在から独立して成立する第二の現実系列を意味するのかを区別しなければならない。人間や生命が、ある選択を行った後に別の選択を行うという意味では、二つ目、三つ目、それ以後の選択はいくらでも存在する。しかし、それらは一つ目の選択と同じ現在に並行して存在するものではなく、一つ目の結果を受け取った後続状態から生じる新しい選択である。これに対し、本節で問題とする「真の意味での二つ目の選択」とは、一つの現在に対して、互いに独立した二つの後続時間が、それぞれ同じ強さの現実として成立することを意味する。
ある現在SからAとBが可能であり、実際にはAが成立したとする。このとき、Aが成立した時間系列とは別に、Bが成立した第二の時間系列もまた、この世界の現在と同じ意味で実在しているならば、時間はSを起点として二つへ分かれたことになる。これに対し、BがSにおける可能度として存在していても、実際の時間発展として成立するのがAへ向かう一系列だけであるならば、世界は可能差を含みながらも、時間そのものを二つへ分割したことにはならない。可能性が複数であることと、時間が複数の実在系列へ分裂することは同一ではない。
この区別は、永久保存性理論にとって重要である。世界が可能性を保持するために、可能な結果のすべてをそれぞれ独立した時間として実在化しなければならないのであれば、可能度の保存は時間系列の無限な増殖を必要とする。しかし、可能度が現在の内部にある接続の幅として保存され、結果が成立するときには一つの時間系列へ変換されるのであれば、世界は時間を二つに分けることなく、可能差を保持できる可能性がある。
ここでいう時間の非二分性とは、未来が最初から一つに決定されていることではない。現在に複数の変化方向が含まれていても、それらがそれぞれ完成した第二、第三の時間として現在の外側へ独立しているわけではなく、一つの現在が持つ未完了の接続可能性として存在することを意味する。現在は複数の可能度を持つことができるが、現実に通過される時間は、その都度一つの現在から一つの後続現在へ接続される。この接続が成立した後、以前の可能度は新しい現在の条件へ変換され、そこからさらに別の接続可能性が形成される。
したがって、時間の非二分性は、可能性の単一性ではなく、現在の単一性として理解されるべきである。一つの現在には複数の可能差が含まれうる。しかし、実際に現在として成立している領域は一つであり、その一つの現在が次の一つの現在へ移行する。AとBが可能であったとしても、Aの現在とBの現在があらかじめ二つ並んでいるのではない。AとBは、同一の現在が次の状態へ変化できる二つの方向として含まれている。
このことを、選択という語だけで説明すると誤解が生じやすい。選択という語は、すでに二つ以上の対象が完成した候補として存在し、そのうち一つを取り出す行為を想起させるからである。しかし、現実の時間発展では、選ばれる以前のAとBが、結果としてのAとBと同じ完成度を持って存在しているとは限らない。現在にあるのは、AまたはBへ変化しうる状態Sであり、AとBはSから開かれた遷移関係である。したがって、Aが成立したときに起きることは、完成していたBを破壊することではなく、SがAへ変化したことによって、SからBへ向かっていた接続条件が新しい状態へ組み替えられることである。
真の意味で二つ目の選択がないという命題は、Bという可能性が存在しないことを意味しない。BがAとは別の第二の現在として独立していないことを意味する。Bは、Sの可能度に属しているが、Sから切り離された時間をまだ持っていない。したがって、世界がAへ進んだとしても、世界はAの時間とBの時間という二つの現実を同時に管理する必要がない。時間を二分せずに可能差を保持するためには、未実現の可能度が、独立した第二時間ではなく、現在の構造に属する未完了の接続として理解されなければならない。
しかし、世界が時間を二分しないとしても、ある一つの現在を通過した後に、以前には可能であったAが永久に不可能となるならば、時間は別の意味で二つへ分けられる可能性がある。すなわち、Aが可能であった時間領域と、Aが不可能となった時間領域との分割である。ここでは二つの時間系列が並行して進むわけではない。時間は一系列のままであるが、その一系列の内部に、「Aができる以前」と「Aができない以後」という不可逆的な境界が形成される。
この境界が成立するとき、時間は空間的な枝分かれではなく、可能度の状態によって前後へ二分される。時刻t₀以前にはAへの経路が開かれており、時刻t₀以後にはその経路が永久に閉じているならば、t₀はAに関する可能と不可能の境界となる。この場合、世界は第二の時間系列を生成していないとしても、一つの時間の内部に、互いに異なる二つの可能領域を確定したことになる。
本節において、世界が時間を二つに分けないことができるかという問いは、この内的分割を含めて考えなければならない。単に世界が一本の時間系列を持っているだけでは、時間の非二分性は十分ではない。一系列の内部で、ある可能度が有限時刻を境に完全に失われるならば、その時点において、可能な時間と不可能な時間が切り分けられるからである。
したがって、より強い時間の非二分性とは、任意の有限時間内に、ある一種類の可能度を完全な不可能性へ移す最初の境界が存在しないことを意味する。世界は変化し、到達可能域も変形する。しかし、ある可能Aが失われたように見えるときにも、Aを成立させていた関係が別の形式へ移され、Aに関する接続が完全なゼロへ閉じられていないならば、時間は「Aが可能な側」と「Aが絶対的に不可能な側」へ切断されていない。
ここで中心となるのが、「AからAを行える経路」という概念である。AからAへ進むという表現は、一見すると同じものが同じものへ移るだけの同語反復に見える。しかし、本節でいうAからAへの接続は、静止した同一状態を意味しない。時刻t₀においてAである存在が、正の時間幅Tを通過し、その間に位置、運動、内部状態、外部との関係を変化させながら、時刻t₀+Tにおいて、なおAとして認められる状態へ到達できることを意味する。
したがって、AからAへ進むことは、Aが何も変わらないことではない。むしろ、Aが変化を通過した後にも、Aとしての接続条件を失わないことである。生命であれば、物質を交換し、内部状態を変え、成長し、老化しながらも、一定時間後になお同じ生命個体の継続として存在していることが、AからAへの一例となる。物質的な系であれば、局所的な状態が変化しても、同じ系としての境界または構造を保持し、後の時点において自己との関係を再形成できることが該当する。
このため、Aを無幅の一点として定義するのではなく、一定の同一性条件を満たす状態領域として定義する必要がある。Aを一つの完全な微視的状態だけに限定すれば、時間の経過後にまったく同じAへ戻ることは極めて困難になる。一方、Aをあまりに広く定義すれば、ほとんどあらゆる状態がAに含まれ、自己到達可能性の意味が失われる。したがって、Aの同一性条件は、理論が対象とする保存層に応じて定められなければならない。
たとえば、位置が同じであることだけをAの条件とするならば、物体が別の場所を通過した後に元の位置へ戻れば、AからAへの経路が成立する。構造をAの条件とするならば、内部の一部が変化しても、一定の構造関係を再形成できればAへ戻ったとみなせる。生命的同一性をAの条件とするならば、完全に同じ分子配置を持つ必要はないが、自己維持、内部境界、代謝的接続、過去からの個体的連続などが保持されなければならない。
このように、AからAへの経路は、単純な回帰ではなく、時間を通過した自己接続である。本節ではこれを「自己到達可能性」と呼ぶ。自己到達可能性とは、ある状態領域Aに属する存在が、有限時間の変化を経た後にも、連続的な経路を通じてAに属する状態を再び形成できることである。
状態空間をΩとし、Aをその部分領域とする。時間幅Tに対し、Aから始まり、許容される状態を連続的に通過し、時間Tの後に再びAへ到達する経路の集合をΓ_A(T)とするならば、自己到達可能性は、
Γ_A(T)≠∅
によって表すことができる。すなわち、時間Tを通過した後にも、AからAへ至る少なくとも一つの連続経路が存在するということである。
この式が意味するのは、実際の世界が必ずAへ戻ることではない。Aへ戻りうる経路が、現在の可能度から完全には除外されていないことを意味する。実際にはAからBへ進むかもしれず、Aとしての構造を変化させるかもしれない。それでもΓ_A(T)が空でない限り、時間Tの内部においてAの自己接続可能性は閉じていない。
永久保存性理論にとってより重要なのは、特定の一つのTだけについてΓ_A(T)が空でないことではなく、任意の有限時間Tについて、AからAへの何らかの経路が閉じていないことである。すなわち、
任意の有限なTに対して、Γ_A(T)≠∅
であることが、有限時間内における自己到達可能性の非消失条件となる。
この条件は、Aが無限時間にわたって実際に同じ状態を維持することを保証しない。また、一つの同じ経路があらゆる時間Tに対応することを必ずしも要求しない。各有限時間に対して、Aとしての接続を維持または再形成できる経路が少なくとも一つ存在することを示す。これは、完成された無限の存続を直接主張するのではなく、どの有限時間にもAからAへの可能性を閉じる最初の終端がないという形で、永久性を捉えるものである。
ここで、「直線的に可能にできない一回が、ある有限時間内においてこそ無い」という命題の意味が明確になる。永久保存性を検討する際に重要なのは、無限時間の果てにAが保存されているかを直接確認することではない。人間は無限時間の完了後を観測できず、無限の最後を一つの時点として指定することもできない。むしろ、どの有限時間区間を取っても、その内部に「ここから先はAをAとして接続できない」という最初の閉鎖点が存在しないことが重要である。
もしある有限時刻T*が存在し、
Γ_A(T)=∅ (すべてのT≧T*)
となるならば、T*はAの自己到達可能性が失われた境界である。T*以前にはAからAへ進む経路が少なくとも一つ存在したが、T*以後にはそのような経路が一つも存在しない。このとき、時間はAに関して、自己接続可能な領域と自己接続不能な領域へ分けられる。
反対に、任意の有限TについてΓ_A(T)が空でないならば、有限時間の内部には、AからAへの経路を永久に閉じる最初の一点が存在しない。Aは実際に常にAであり続けるとは限らないが、AをAとして連続させうる可能度は、有限時間の範囲では完全なゼロへ落ちていない。この意味で、世界はAからAを行えないという可能差を、有限時間内に一個の完成した不可能性として生成していない。
ここで注意すべきなのは、「AからAへ進める経路があること」と、「実際にAがAへ進むこと」を区別することである。可能度の保存は、結果の強制ではない。Γ_A(T)が空でなくても、実際の軌道がその経路を選ばなければ、Aは別の状態へ変化する。しかし、本節の問題は、特定の存在が実際にどの経路を通るかではなく、世界の現在がAへの自己接続を原理的に閉じているかどうかである。
したがって、AからAへの経路が閉じられていないことは、Aの不変性ではなく、Aの再生成可能性または自己維持可能性を意味する。Aは変化してよい。Aを構成する物質が入れ替わってもよく、位置が移動してもよく、内部の微細状態が変わってもよい。ただし、それらの変化の中に、Aとしての同一性条件を再び満たす連続経路が残されていなければならない。
この意味で、AからAへの経路は、円環を形成する必要もない。空間上で出発点へ戻らなくても、状態の同一性条件が保持されればAからAへの接続は成立する。生命が昨日と同じ位置に戻らなくても、今日なお同じ個体の生として接続されているならば、個体的なAからAへの直線が維持されている。したがって、自己到達可能性は空間的な往復ではなく、状態同一性の時間的な持続である。
ここで「直線」という語も、再び幾何学的な線から区別される。AからAへの経路は、途中で複雑に変化し、複数の中間状態を通過し、外部と物質や運動を交換してよい。それでも、その経路上の各状態が直前の状態から連続的に成立し、最終状態がAとの同一性条件を満たすならば、全体は一種類の直線的接続を形成する。
したがって、一種類の直線が失われていないとは、まっすぐな一つの軌道が固定されていることではない。Aを起点とし、Aとしての接続を有限時間後まで維持できる経路の種類が、完全な空集合になっていないことを意味する。
この一種類の直線と、連続可能度の保存は、AからAへの経路が閉じられていないことと等価でなければならない。ここでいう等価性は、経験的に発見された自然法則というより、本理論が直線性と連続可能度を厳密に定義するための構造的な条件である。
一種類の直線が保存されているにもかかわらず、AからAへのすべての経路が閉じているならば、その直線はAの同一性を後続状態へ運ぶ線ではない。Aから始まっていても、途中でAに関する接続を失い、Aへ戻る可能性を持たない別の系列へ変化している。この場合、世界に何らかの時間的連続は残っていても、Aの直線性は失われている。
反対に、AからAへの経路が少なくとも一つ開かれているにもかかわらず、連続可能度が失われたとするならば、何をもってその経路が可能なのかを説明できない。Aへ到達する経路が存在するということは、その経路を構成する各時点において、次の状態への接続可能性が完全なゼロではないことを含む。したがって、AからAへの経路の非閉鎖と、一種類の連続可能度の非消失は、互いを含意する関係に置かれる。
この関係を、Aに関する連続可能度をP_A(t)として表すならば、P_A(t)は単なる確率値ではなく、現在からAとしての後続状態へ接続できる経路の存在を表す。ある有限区間[0,T]において、AからAへの経路が開かれていることは、
P_A(t)>0
となる接続が、区間全体にわたって形成可能であることを意味する。途中のどこかでP_A(t)が完全なゼロとなり、その後に回復経路も存在しないならば、AからAへの直線はそこで切断される。
もっとも、P_A(t)>0という表現は、経路の生起確率が正であると単純に理解されるべきではない。非常に起こりにくい経路でも、構造的に可能であればP_Aはゼロではない。一方、観測者が想像できるだけで、現実の状態条件から連続的に接続できないならば、それはP_Aに含まれない。連続可能度は、主観的な期待ではなく、現在の位置、運動、構造、利用可能な相互作用からAへ接続できる関係の非空性を表す。
AからAへの経路が閉じるとは、Aへ向かう一つの道が塞がれることだけではない。別の中間状態を通る経路、構造を変えてAを再形成する経路、失われた条件を回復する経路など、Aとしての同一性を有限時間後に再び成立させるすべての接続が失われることを意味する。したがって、経路の閉鎖は局所的な障害ではなく、Aに関する到達可能域全体の消滅である。
この完全閉鎖が有限時刻に発生するならば、そこには「AからAを行えない一回」が成立する。すなわち、それ以前にはAとして後続できたが、その一点を越えると、Aがどのような変化を経てもAとしての接続を再形成できなくなる最初の境界である。
この境界は、一つの行為の失敗ではない。ある時点でAへの特定の経路を選び損ねても、別の経路が残っているならば、AからAへの可能度は閉じていない。完全閉鎖が成立するためには、Aを維持する経路だけでなく、Aを回復する経路、Aの条件を再生成する経路まで失われなければならない。
したがって、直線的に可能にできない一回が有限時間内に無いという命題は、各瞬間にAが必ず維持されているという命題よりも弱く、同時により基礎的である。Aが一時的に崩れ、Aの条件を外れても、有限時間内に連続的な過程を通じてAを再形成できるならば、AからAへの広い経路はまだ閉じていない。
この点は、生命の生と死を区分するうえでも重要になる。生命Aは、各瞬間にまったく同じ構造を持っているわけではない。内部状態は変化し、一部の細胞や分子は失われ、外部から新しい物質を取り入れ、損傷を受けることもある。したがって、生を「Aが一瞬もA以外にならないこと」と定義することはできない。生はむしろ、変化や部分的崩壊を含みながらも、有限時間内に自己維持的なAを再形成できる経路が閉じていない状態として捉えることができる。
この観点では、生命の死は、単に現在の機能が停止した時点ではなく、生命Aから生命Aへ戻るすべての自己維持・回復経路が閉じた時点として定義される可能性がある。短時間の機能停止があっても、自己維持系が回復できるならば、AからAへの経路は完全には閉じていない。反対に、外見上の一部の反応が残っていても、生命としての統合された自己維持経路が不可逆に失われているならば、生の直線は閉じている。
ただし、生命Aから生命Aへの経路が閉じた後にも、Aを構成していた物質や因果的差異の経路は続く。そのため、生命的な自己到達可能性の閉鎖と、存在差全体の消滅は区別される。死は、特定のAの自己接続が閉じることであって、世界におけるすべての接続が閉じることではない。
本節の中心は、生命の定義そのものよりも、有限時間内の経路閉鎖が時間をどのように分割するかにある。AからAへの経路が時刻T*で完全に閉じるならば、時間はT*を境として、Aを自己接続できる時間と、Aを自己接続できない時間へ分かれる。T*は、Aに関する可能度の終端であり、それ以後、Aの連続可能度はゼロとなる。
しかし、任意の有限時間TについてAからAへの経路が少なくとも一つ存在するならば、Aに関するこのような最初の分割点は存在しない。時間が進んでも、どの有限時点にも「ここから先はAが絶対にAへ接続できない」という境界を置くことができない。このとき、世界は少なくともAに関して、可能な時間と不可能な時間を二つへ分けていない。
ここで、任意の有限時間に経路が存在することと、実際に無限時間へ到達する一つの経路が存在することを混同してはならない。各有限時間Tについて異なる経路が存在するだけで、それらを一本につないだ無限経路が必ず存在するとは限らない。したがって、本節が示す永久性は、完成した無限存続の証明ではなく、有限時間内に最初の完全閉鎖が存在しないという「有限非終端性」である。
この有限非終端性は、永久保存性理論にとって基礎的な意味を持つ。永久という語を、無限時間の最後に何かが残っている状態として定義するならば、その状態は観測も到達もできない。これに対し、どの有限時間にも完全閉鎖点がないという定義ならば、永久性を、有限な時間発展の各区間に適用できる条件として扱える。
したがって、「一種類の直線と連続可能度が失われていないこと」は、無限時間の先にAが実在することではなく、任意の有限時間区間において、AからAへの自己接続を完全に不可能にする最初の一点が存在しないことを意味する。そしてこの条件は、AからAを行える経路が閉じられていないことと等価でなければならない。
もし世界がこの条件を満たすならば、AからAを行えないという可能差は、現在において独立した一個の不可能性にならない。Aへ向かう特定の経路が閉じることはあっても、Aへの自己接続全体が閉じない限り、「Aは二度とAになれない」という完全な差は成立しない。
ここに、可能差の局所性と全体性の区別がある。ある経路γ₁が失われたならば、γ₁を通る可能性は失われている。しかし、別の経路γ₂によってAからAへ接続できるならば、Aの自己到達可能性そのものは失われていない。したがって、一経路の喪失を、一種類の可能度全体の喪失と見なすことはできない。
同様に、ある時点でAの構造の一部が失われても、その一部を別の構造によって補い、Aとしての同一性条件を維持できるならば、Aの直線は続いている。重要なのは、同一の部品、同一の位置、同一の運動を保存することではなく、Aとして後続するための少なくとも一つの連続的な構成経路が残っていることである。
これを【位置⇄運動量】の関係から見るならば、AからAへの経路が開かれているということは、現在の位置的規定性と運動的規定性が、Aとしての後続状態へ接続できる組み合わせを少なくとも一つ保持していることを意味する。位置が変わっても、運動量が変わっても、その変化がAの同一性領域から完全に脱落せず、後にAの条件を再形成できるならば、【位置⇄運動量】の直線的接続は閉じていない。
反対に、現在の位置と運動のすべての組み合わせが、Aの同一性領域から離れる方向しか持たず、Aへ戻る遷移も、Aを再生成する条件も存在しないならば、Aに関する【位置⇄運動量】は終端へ到達している。この場合、AからAへの経路集合は空となり、Aの連続可能度はゼロとなる。
したがって、AからAへの自己到達可能性は、単なる論理的なA=Aではない。A=Aという同一律は、同じ記号が自分自身と等しいことを示すにすぎず、時間の中でAがAへ接続できるかどうかを保証しない。本節で問題にするのは、時間幅を持たない論理的同一性ではなく、時間Tを通過した後にもAとの関係を再形成できる動的同一性である。
論理的にはAは常にAである。しかし物理的・存在的には、Aが時間経過後にAとして存続できるとは限らない。したがって、「AからAを行える」という命題は、論理的同一律に時間と変化を導入したものと考えることができる。Aは変化の前後で完全に同じではない。それでも、前のAと後のAを一つの系列に属させる連続経路が存在するならば、Aは自らへ到達している。
この動的同一性が有限時間ごとに保持される限り、世界はAに関して時間を二つへ分けない。Aが可能な時間とAが不可能な時間のあいだに、有限な最初の境界が存在しないからである。
もっとも、Aの自己到達可能性が保持されていても、A以外のBに関する可能度が閉じることはありうる。したがって、一つのAについて時間が分割されないことだけで、世界全体の永久保存性が証明されるわけではない。普遍的な永久保存性を主張するためには、保存対象とするすべての存在差について、対応する自己接続または変換接続が有限時間内に完全閉鎖しないことを示さなければならない。
それでも、AからAへの経路は、永久保存性を検討するための最小模型として重要である。ある存在が自らとの接続を有限時間後まで保持できるかを調べることによって、直線性が単なる外部的な因果の連鎖ではなく、同一性を維持または再形成する能力を含むことが明らかになる。
本節でいう「真の意味で二つ目の選択がない」という命題も、この自己到達可能性との関係で捉え直すことができる。AからAへの経路が閉じていないならば、現在はAを維持する時間とAを失った第二の時間を、同時に二つの実在として形成する必要がない。現在には、Aを維持する可能性とAから離れる可能性が含まれうるが、それらは同一の現在の遷移方向であり、まだ二つの時間ではない。
さらに、Aから離れる経路が実際に通過されたとしても、Aへ戻る経路が後の可能域に残っているならば、時間は「Aである側」と「Aではない側」へ永久に分断されていない。Aから離れた現在も、Aへの自己接続可能性を保持する限り、Aとの直線的関係を失っていない。
ここで、AからAへの経路は、必ずしも直接的である必要はない。AからBへ移り、BからCへ移り、CからAへ戻る経路があるならば、全体としてAからAへの自己到達可能性は保持されている。この場合、途中状態BやCはAではないかもしれないが、Aとの接続を失った完全な外部ではない。BやCはAへ戻る直線の中間状態である。
したがって、ある時点でAではなくなることと、AからAへの可能度を失うことも区別されるべきである。一時的にAの条件を外れることが、直ちにAの永久的消失を意味するわけではない。Aを再形成する経路が残っているならば、Aに関する直線は広い意味で継続している。
この考え方は、存在の保存を静的な持続から切り離す。保存される存在は、常に同じ状態領域の内部に留まる必要がない。一度外側へ移りながら、関係の連続によって再び同じ存在領域へ接続できるならば、その存在は変化を含む自己保存を行っている。
反対に、外見上は長時間Aの状態に留まっていても、内部ではすでにAからAへの将来経路がすべて閉じている可能性がある。たとえば、現在の形態は保たれていても、自己維持に必要な条件が不可逆に失われ、近い将来にAとしての構造を継続できないことが確定しているならば、Aの現在状態とAの連続可能度には差が生じる。
したがって、現在の状態だけを見てAの保存を判断することはできない。Aが保存されているかどうかは、現在がAに属していることに加え、有限時間後のAへ連続的に接続できる経路が残っているかによって判断される。
ここから、存在の現在性には二つの成分があることが分かる。一つは、現在そのものがAであるという状態的成分であり、もう一つは、現在から有限時間後のAへ進めるという経路的成分である。状態的成分だけがあり、経路的成分がなければ、Aは現在において形を持っていても、時間的なAとしては終端にある。経路的成分があり、現在が一時的にAの外側にあるならば、Aは潜在的な自己接続としてなお保存されている可能性がある。
永久保存性理論において、後者の経路的成分は特に重要である。永久とは、一つの現在状態を無限に凍結することではなく、有限時間を通過するたびに、次の自己接続可能性を完全には失わないことである。したがって、一種類の直線が保存されるとは、一つの状態が維持されることではなく、一つの自己到達関係が更新され続けることである。
この更新が各有限時間内に成立するならば、世界はAについて、「Aを行える現在」と「Aを行えない現在」を最終的に分ける一点を生成していない。現在は変化するが、変化後の現在にもAへの経路が残る。経路の形は変わり、必要条件も変わり、到達までの距離や時間も変化するかもしれない。それでも、経路集合が空にならない限り、Aに関する可能差は完全な二分へ至らない。
ここで「一種類の直線」という表現は、経路が常に一つしかないことを意味しない。複数の経路があっても、それらがすべてAからAへの同じ自己接続種に属するならば、Aの直線性は一種類として扱うことができる。重要なのは経路の個数ではなく、Aとしての接続型が少なくとも一つ残っていることである。
反対に、経路が無数に存在しても、そのいずれもAへ到達せず、すべてがAとは異なる状態領域へ向かうならば、Aの直線性は失われている。可能性の総数が多いことと、Aの連続可能度が保存されていることは同じではない。
したがって、永久保存性を可能性の量だけによって測ることはできない。世界に無数の未来が開かれていても、Aへ至る一種類の接続が完全に失われているならば、Aに関する永久保存性は成立しない。反対に、利用できる経路が一つだけであっても、その一つが任意の有限時間にわたって閉じないならば、Aの直線性は最小限保存されている。
この点において、本節の命題は、可能度の量ではなく可能度の型を問題にする。AからAへ進める型が一つでも残っているか、その型が有限時間内にゼロになる最初の時点が存在するかが重要である。
世界が時間を二つに分けないためには、可能度のすべてを同じ大きさで保存する必要はない。Aへの経路が狭まり、到達条件が厳しくなり、接続可能度が限りなく小さくなることはありうる。しかし、有限時間内に完全なゼロへ到達しない限り、可能な側と不可能な側の絶対的分割は成立していない。
たとえば、時間とともに通過可能な領域が狭くなり続けるとしても、各有限時刻において正の幅が残っているならば、通過不能となる最初の有限時刻は存在しない。幅が極限においてゼロへ近づくことと、有限時刻においてゼロになることは異なる。同様に、Aへの連続可能度が時間とともに弱くなっても、任意の有限時間にAからAへの経路が残るならば、Aを不可能とする最初の有限境界はない。
この差は、永久保存性の定義において決定的である。極限的な消失を、現実に発生した一回の消失と同一視すると、有限時間のどこにも存在しない終端を、現在の内部に先取りして置くことになる。本理論は、無限の極限で何が起こるかを無視するのではないが、まず、有限時間内に実際の完全閉鎖が存在するかを区別しなければならない。
したがって、直線的に可能にできない一回が有限時間内に無いという命題は、「いつか無限の果てで不可能になるかもしれない」という抽象的な可能性によって否定されない。有限時間内の各現在がAへの接続を持つ限り、現在進行形においてはAの完全な不可能性はまだ成立していない。
この「まだ」という状態が、時間の非二分性を支える。Aがいつか不可能になると想定できたとしても、その不可能性が有限な現在に一度も成立していないならば、現在の世界はまだAが可能な領域と不可能な領域へ完全には分かれていない。
もちろん、実際に有限時刻T*で経路が閉じるならば、その時点からAに関する時間分割が成立する。そのため、永久保存性理論は、あらゆるAについて経路閉鎖がないと無条件に断定することはできない。必要なのは、どのAを保存対象とし、どの同一性条件を用い、どの時間範囲と状態空間で経路を評価するかを明確にすることである。
たとえば、特定の生命個体としてのAには、有限時間内に自己維持経路が閉じる可能性がある。この場合、生命的Aの永久保存性は成立しない。しかし、Aを構成していた存在差が別の物質的・因果的状態へ接続される経路まで含めれば、より広い存在領域におけるAからA的な変換保存は続くかもしれない。
したがって、Aの範囲を変えることで、経路閉鎖の位置も変わる。狭い個体同一性では終端が存在し、広い存在差同一性では終端が存在しない可能性がある。これは定義を都合よく拡張することではなく、何が保存され、何が死によって失われるのかを層別化するために必要な区別である。
本節におけるAからAへの接続は、まず一つの同一性層の内部で評価されるべきである。生命Aについては生命的同一性、構造Aについては構造的同一性、存在差Aについては因果的・関係的同一性を用いる。そして、各層において有限時間内の経路閉鎖があるかを別々に検討する。
この層別化によって、生と死の境界も単一の消失点ではなくなる。生命的Aから生命的Aへの経路が閉じたとき、生は終わる。しかし、物質的Aまたは存在差的Aへの経路はなお続くかもしれない。死は、すべてのAが同時に不可能となる点ではなく、特定の自己接続型が閉じる点として理解される。
それでも、永久保存性理論の最も広い問いは残る。存在差としてのAからAへの経路も、有限時間内に完全に閉じることがあるのか。ある存在が成立したという差異が、ある有限時刻を境に、いかなる後続状態にも接続されなくなることがあるのか。この最も広いAについて経路閉鎖が存在しないならば、個体や生命の終端を越えて、存在差の永久保存性を論じることができる。
そのため、本節で提出される自己到達可能性は、単に同じ物が繰り返し存在することを意味しない。存在差Aが、形態を変えながらも、後続状態においてなおAを起点とする差異として認められることを含む。AからAへの経路は、同一形態への回帰から、存在差の変換継続まで、複数の層を持つ。
このうち最も強い自己到達可能性は、完全状態Aが同じ完全状態Aへ戻ることである。より弱いものは、構造Aが同じ構造種Aへ戻ることであり、さらに弱いものは、Aの存在差が別の状態の中にA由来の非同一性として残ることである。永久保存性理論が最終的に対象とするのは、最後の最小自己接続である。
したがって、世界が真の意味でAからAを行えないという可能差を生み出さないとは、あらゆる物体や生命が同じ姿へ戻れることではない。Aが形態的、構造的、生命的な同一性を失った後にも、Aが存在したことによる差が、後続状態から完全に切断されないことを意味する。
この最小自己接続が有限時間内に閉じないならば、世界はAに関して時間を二つへ分けない。Aが存在した時間と、Aが存在しなかったことになる時間とのあいだに、有限な切断点が形成されないからである。Aは現在の対象としては失われても、A由来の差として後続時間へ接続される。
本節の結論は、次のように整理できる。
第一に、真の意味での二つ目の選択とは、時間的に後から行われる第二の行為ではなく、一つの現在から独立して成立する第二の実在時間である。現在に複数の可能度が含まれていることは、時間そのものが複数へ分裂していることを意味しない。可能度を未完了の接続として捉えるならば、世界は一つの現在系列のまま、複数の可能差を保持できる。
第二に、時間の二分には、並行する二系列への分岐だけでなく、一系列の内部で「Aが可能な以前」と「Aが不可能な以後」が確定する内的分割がある。永久保存性理論にとって重要なのは、有限時間内に、この可能・不可能を分ける最初の完全閉鎖点が存在するかどうかである。
第三に、AからAを行える経路とは、Aが静止したまま同一であることではなく、正の時間幅を通過し、変化を経た後にも、Aとしての同一性条件または存在差条件を再形成できる連続経路である。
第四に、任意の有限時間Tについて、AからAへ至る経路集合Γ_A(T)が空でないならば、有限時間内にAの自己到達可能性を閉じる最初の一点は存在しない。この条件は、完成された無限存続を直接証明するものではないが、永久保存性を有限時間内の非終端性として定義する基礎となる。
第五に、一種類の直線が失われていないこと、Aに関する連続可能度が完全なゼロになっていないこと、そしてAからAへの経路が閉じられていないことは、同じ保存構造の異なる表現として等価でなければならない。一種類の経路が閉じても別経路が残るならば、Aの可能度全体は失われていない。しかし、すべての自己接続経路が失われ、回復条件を生成する経路も存在しないならば、Aに関する直線性は終わる。
第六に、AからAへの経路は、同一性の層ごとに異なる。生命的A、構造的A、物質的A、存在差的Aには、それぞれ異なる閉鎖点がありうる。生と死の区分は、生命的な自己接続経路の閉鎖として捉えられるが、それは存在差的な経路の閉鎖を直ちに意味しない。
したがって、より重要なのは、無限の終端においてAが残るかどうかを先に断定することではない。ある有限時間内に、Aを直線的に可能にできない最初の一回が存在するかどうかである。その一回が存在しない限り、Aに関する連続可能度は、現在進行形においてまだ完全な不可能性へ変わっていない。
世界が時間を二つに分けないということは、変化しないことではない。現在は進み、以前の状態は過去となり、同じ一回目へ戻ることはできなくなる。それでも、AからAへの接続が有限時間ごとに閉じていないならば、世界はAを可能な側と不可能な側へ完全には切断していない。
そのとき、AからAへ至る直線は、同じ形を反復する円ではなく、変化を通じて自己との関係を更新し続ける線となる。AはAのまま止まるのではなく、Aではない中間状態を通過しながらも、Aとの接続を失わない。永久保存性とは、この接続が無限の先で完成しているという主張ではなく、有限時間のどの地点にも、その接続を完全に閉じる最初の一回がまだ存在しないという仮説なのである。




