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永久保存性理論  作者: 平木明日香
第一章 存在差、及び生と死の区分
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第四節 選択以前の非二分性と、一回の喪失がまだ存在しない現在


■ 第四節 選択以前の非二分性と、一回の喪失がまだ存在しない現在



 前節では、ある一つの可能差がA≠Bを成立させるとしても、その非同一性がただちにAとBの断絶を意味するわけではなく、AからBへの変換関係が保存されている限り、両者は異なる状態でありながら同一の直線的系列に属しうることを確認した。そこでは、現在における【位置⇄運動量】を、固定された二つの数値ではなく、過去から受け取った配置的差異と、未来へ向かう遷移的差異とが接続される最小の関係として捉え、可能度が選択可能な形式を失った後にも、その喪失が現在の位置、運動、構造、到達可能域へ変換されているならば、可能度は存在差として保存されうると考えた。しかし、この理解をさらに厳密に進めるならば、選択が行われるたびに本当に一つの可能性が失われているのか、また、ある一つの可能性が現実化するためには、世界が必ず「選ばれたもの」と「選ばれなかったもの」という二つの領域へ分かれなければならないのかを、あらためて問い直さなければならない。


 通常、選択とは、少なくとも二つ以上の候補が存在し、そのうち一つが現実化し、それ以外が現実化しなかった出来事として理解される。Aを選んだならばBを選ばなかったのであり、右へ進んだならば左へは進まなかったのであり、ある状態へ変化したならば、それとは両立しない別の状態は実現しなかった。この理解は、選択の結果を整理するうえでは有効である。しかし、それは結果が確定した後から、過去の現在を複数の候補へ切り分けた理解でもある。Aが実現した後に、私たちはAと非Aを区別し、実現された側と実現されなかった側を二つへ分けることができる。しかし、Aがまだ完了していない現在進行形の内部において、世界がすでにAと非Aを、互いに独立した二つの完成状態として保持していたとは限らない。


 選択が成立する前の可能度は、あらかじめ番号を付けられた複数の結果が横に並び、その中から一つが取り出される形式で存在しているとは限らない。現在の状態には、位置、運動、構造、外部との関係によって、複数の変化方向が含まれている。しかし、それらの変化方向は、現在から完全に分離された完成済みの結果ではなく、同一の現在が異なる条件のもとでどのように変形しうるかという、まだ分割されていない差の広がりとして存在している。したがって、純粋な意味での可能度の差は、最初から「一個のA」と「一個のB」として数えられるものではなく、現在の内部に含まれる方向性、傾向、接続の幅として理解されなければならない。


 この点において、本節が問題にする「選択を二つにしなければ進めない一回のなさ」とは、現在が次の状態へ移るために、必ず一つの可能性を現実へ残し、もう一つの可能性を永久的な不可能性として切り捨てなければならない、その最初の一回が本当に存在するのかという問いである。もし、あらゆる時間発展が、進行するたびに少なくとも一つの可能度を完全に失わなければ成立しないのであれば、世界には必ず、最初の不可逆的な可能性喪失が存在することになる。その一点以前には、ある可能度Aが現在から開かれていたが、その一点以後には、Aは選択できず、Aを回復する条件も失われ、さらにAが可能であったという差異までもが後続状態から消去される。この最初の切断が一度でも成立するならば、できることとできないことは、その時点から二つの独立した領域へ永久に分かれたことになる。


 反対に、現在が次の状態へ進む際に、実現されなかった方向を独立した一個の喪失として切り捨てず、現在の変化を構成した条件、制約、履歴、可能差として後続状態へ受け渡すことができるならば、世界は進行しながらも、一種類の可能度を絶対的な無へ移す必要がない。この場合、実際にAだけが成立し、Bが成立しなかったとしても、Bは「一個の失われた世界」として現在から脱落するのではなく、Aがどのように成立したかを規定する非実現的差異として、Aの内部またはAに続く状態へ変換される。


 したがって、選択の現実化と可能度の喪失は、同じ出来事として扱われてはならない。一つの状態が実現することは、他の状態が同時に実現しなかったことを意味する。しかし、他の状態が実現しなかったことは、その状態への可能度が完全な無へ移されたことを意味しない。現実化には排他性がありうるが、排他性は必ずしも消去性を含まない。Aが現実化したためにBが現実化しなかったとしても、Bを可能にしていた条件がAの成立過程に含まれ、Bが選ばれなかったことによってAの位置や運動、構造、後続可能域が規定されているならば、Bは結果として存在しなくても、Bに関する可能差は保存されている。


 永久保存性理論における直線性の喪失のなさを厳密に捉えるならば、それは単に、実現した一つの状態が次の状態へ続いていることだけでは足りない。実現した系列が連続していても、その進行のたびに、別の可能性を何の差異も残さず消去しているならば、世界全体の可能度に関しては直線性が破れているからである。ある一つの直線だけが保存され、その直線を成立させていた周囲の可能差が絶対的な無へ落とされるならば、保存されているのは選択後の結果だけであって、選択前の現在の全体ではない。


 したがって、直線性の完全な保存を主張するためには、ある一つの選択の喪失が存在しないことと、直線性の喪失が存在しないこととが、等価でなければならない。すなわち、世界が現在から次の状態へ一つの直線を延ばせているという事実は、同時に、その進行によって少なくとも一種類の可能度が絶対的に失われていないという事実を含まなければならない。


 これを概念的に表すならば、時刻tにおける直線的連続性をC(t)、その時点までに生じた完全な可能度喪失の数をL(t)とした場合、永久保存性理論が求める強い条件は、


 C(t)が保存されることと、L(t)=0であることとが対応する


 という形になる。ただし、ここでのL(t)は、実現されなかった選択肢の個数ではない。実現されなかった可能性があっても、その差異が後続状態へ変換されているならば、それは完全な喪失には数えられない。L(t)が一以上になるのは、ある可能度が再選択不能になっただけでなく、その可能度が存在していたという差異までもが、後続状態の位置、運動、履歴、構造、可能域のいずれにも残らなくなった場合である。


 この意味で、直線性の喪失のなさと一つの選択の喪失のなさが等価であるとは、あらゆる選択肢が永遠に実行可能でなければならないということではない。Aを一度選ばなかった後、Aを同じ一回目として選び直せなくなることはありうる。重要なのは、Aが選べなくなったという変化が、後続状態へ一つの差異として保存されているかどうかである。Aが再実行可能性を失っても、Aを失った世界として現在が変化しているならば、Aの可能度は形式を変えて接続されている。これに対し、Aが可能であったことと、最初からAが不可能であったこととが、後続状態において完全に同一になるならば、Aは一種類の可能度として絶対的に消去されたことになる。


 したがって、「選択の喪失のなさ」は、選択肢の保存ではなく、選択差の保存を意味する。選択可能性は閉じることができる。しかし、その閉鎖は何の履歴も持たない無へ変わってはならない。選択されなかったこと、選択できなくなったこと、選択できなくなったために後続状態の構造が変化したことが、一つの変換系列として残る限り、選択の可能度は消去されたのではなく、現在の差異へ移されたと考えられる。


 ここで、純粋な意味での可能度の差は、まだ一個になっていないという命題が重要になる。可能差が一個になるとは、ある可能性が他の可能性から明確に切り離され、独立した一つの選択単位として数えられる状態を意味する。AかBかという二者択一が成立するとき、AとBはそれぞれ一つの候補として区別される。しかし、現在進行形の内部にある可能度は、必ずしもこのように離散化されていない。


 たとえば、ある物体が現在の運動から少しずつ方向を変えうる場合、その可能な進路は、右か左かという二つだけではなく、連続的な角度差として存在する。そこから結果を観測し、一定の境界を設定すれば、右へ進んだ、左へ進んだ、ほぼ直進したという分類を作ることができる。しかし、分類以前の運動可能域は、三個の完成した結果が並んでいたのではなく、一つの現在運動から連続的に変化しうる方向の幅であった。この幅の内部に差はあるが、その差はまだ独立した一個の可能性へ切り出されていない。


 同様に、生命の現在にも、多数の変化方向が含まれている。呼吸、代謝、感覚、運動、内部調整は、一つずつ完全に独立した選択肢として並んでいるのではなく、互いに関係しながら現在の生命状態を形成している。後から一つの行為だけを取り出し、「これをした」「これはしなかった」と区別することはできる。しかし、その行為が成立する以前の現在において、生命の可能度は、完成した候補の集合というより、複数の変化方向が互いに重なり合う一つの連続可能域であったと考えられる。


 この連続可能域を、最初からAと非Aへ二分すると、非Aの側にはA以外のすべてが一つにまとめられることになる。しかし、非Aは一つの具体的な可能性ではない。Aが生じなかった無数の異なる状態を、論理的な否定によって一つに括ったものである。したがって、Aが実現したときに「非Aという一個の可能性が失われた」と考えることは、現在にあった連続的な可能度を、結果の確定後に一つの論理的補集合へ圧縮している。


 永久保存性理論が問題にする純粋な可能差は、このような論理的二分以前の差である。それは、AとBがすでに別々の完成物として存在している差ではなく、一つの現在が異なる状態へ変形しうる内部的な偏りである。したがって、純粋な可能差がまだ一個になっていないということは、世界がまだ「失われるべき一個の選択肢」を形成していないということでもある。


 もし可能差がまだ一個に分離されていないならば、現在が一つの結果へ進んだとしても、その進行によって直ちに一個の可能性が消滅したとは言えない。連続可能域の形が変化し、一部の方向が狭まり、別の方向が強まり、結果として一つの状態が成立することはあっても、そこに「一個あったものが一個なくなった」という離散的な喪失が発生したとは限らない。可能度の変化は、個数の増減ではなく、到達可能域の変形として生じうる。


 この点から見ると、「選択を二つにしなければ進めない」という理解は、世界の変化に対して、結果の論理構造を先に与えすぎている。Aが成立したから非Aが成立しなかったという命題は論理的には正しい。しかし、それによって、世界がAの成立時に、非Aという一個の実在的可能性を切断したとまでは言えない。論理的な否定関係と、物理的・存在的な可能度の構造は区別されなければならない。


 世界が直線的に進むために必要なのは、二つの完成した候補の一方を残し、他方を消去することではなく、現在の状態から次の状態へ一つの変換関係を成立させることである。この変換の中には複数の可能差が含まれうるが、それらは必ずしも互いに独立した選択物として存在するわけではない。現在は、自らの可能度全体を変形しながら次の現在へ進み、その変形の結果として、後から一つの経路が実現したと認識される。


 この意味で、世界がまだ「ある一つのことが直線的に可能にできないという二分の一」にないということは、現在がまだ、可能な側と不可能な側を、互いに独立した二つの領域として永久に切り分けていないことを意味する。二分の一という表現は、二つの結果が等しい確率を持つことを示すのではない。現在が一回進むたびに、一方を保存し、他方を失うという二分構造が成立しているかどうかを表す。


 もし一回の進行が必ず一回の喪失に対応するならば、現在は進むたびに、自らの可能域を二分し、実現されなかった側を後方へ捨てていることになる。この場合、一つの現実状態の成立と、一つの不可能状態の成立とが一対一に対応する。Aが現実化するたびに、非Aが一個の永久的な不可能性として形成されるのである。


 しかし、永久保存性理論が求める一対一は、このような「一つの実現と一つの喪失」の対応ではない。必要なのは、「一つの現在の進行」と「最初の完全喪失がまだ発生していないこと」との対応である。現在が直線的に接続されている各時点において、少なくとも一つの可能度が完全な無へ移されたという独立した喪失点が存在してはならない。すなわち、現在が一回進んだという事実が、そのまま一個の可能性を永久に失ったという事実へ対応してはならず、むしろ、現在が一回進んだという事実と、可能度が変換されながら保存されているという事実とが一対一に対応しなければならない。


 この対応をより厳密に述べるならば、時刻tからt+Δtへの一回の遷移をT_tとし、その遷移によって完全消去された可能差をL_tとする。永久保存性理論における直線性の強い条件は、任意の有限な遷移T_tについて、


 T_tが成立するならば、L_tは独立した非ゼロの一個にならない


 という形を取る。


 これは、何も失われないという意味ではない。位置は変わり、以前の状態は再現不能になり、ある経路は閉じ、生命や物質の構造は変化する。しかし、それらの変化が後続状態へ差を残す限り、失われたものは「完全消去された一個」として独立しない。失われた内容は、次の状態を構成する条件へ変わっており、現在の直線から脱落していない。


 したがって、永久保存性における「喪失のなさ」は、不変性ではなく、孤立した消失単位の不成立を意味する。AがBへ変化したとき、AはAのまま残っていない。しかし、BがAを経た状態として成立しているならば、Aは一個の消失物として世界から脱落していない。AはBの形成条件へ変換されている。


 同様に、可能度P_Aが後に実行不能になったとしても、その喪失が後続状態の制約、履歴、運動方向、位置関係へ反映されているならば、P_Aは一個の消えた可能性になっていない。P_Aは選択可能性から存在差へ変換されている。純粋な可能度の差は、その変換の内部にある限り、まだ「一個失われたもの」として分離されていない。


 ここで「一%目に無い」という表現も、数量的な意味から切り離して理解する必要がある。一%は、百個の可能性のうち一個が失われることを必ずしも意味しない。それは、可能域全体に対して、どれほど小さくても完全に回復不能で、後続状態にも何の差を残さない領域が発生したかどうかを表す最小の非ゼロ境界である。


 可能度の九十九%が保存され、一%だけが絶対的に消去されたとする。この一%がどれほど小さくても、世界は少なくとも一種類の可能度を完全な無へ移すことができたことになる。その時点で、永久保存性は普遍的な原理ではなく、一定範囲にのみ成立する部分的な保存性となる。反対に、失われたように見える一%が、後続状態の差異へ変換されているならば、それは実行可能性としては失われても、存在差としてはゼロになっていない。


 したがって、世界がまだ一%目に無いとは、世界の変化の中に、完全な無へ対応する最初の非ゼロ部分がまだ成立していないことを意味する。一%目に無いという命題は、世界が百%同じ状態を維持していることではない。すべてが変化し、過去の状態が再現不能になり、多くの可能性が実行不能になっても、それらが後続状態へ何らかの差を渡している限り、完全喪失の最初の一%は生じていない。


 この「最初の一%がまだ無い」という状態と、現在の直線性とは、一対一に対応しなければならない。直線が保存されているにもかかわらず、一%の完全喪失が存在するならば、その直線は世界全体の差異を保存する直線ではなく、失われなかった部分だけを追跡する局所的な線にすぎない。永久保存性理論が扱う直線は、単に一つの物体や生命の見かけ上の継続ではなく、ある起点から生じた差異が完全な無へ落ちずに後続状態へ接続される系列である。したがって、一つでも完全消去された可能差が存在するならば、その意味で直線性は失われている。


 逆に、完全消去の一%が存在しないならば、状態がどれほど変わっても、起点から生じた差異は何らかの形で後続状態へ残っている。この場合、現在の直線性は、同じ状態を維持する線ではなく、差異を変換し続ける線として成立する。


 ここで、可能度が一個になる以前の状態を、より具体的に考える必要がある。ある現在S(t)から、複数の変化が可能であるとしても、その可能性がA、B、Cという三個の独立した対象として実在しているとは限らない。S(t)には、位置、運動、内部構造、環境との関係によって、変化の連続的な傾向が含まれている。後に結果を区別するため、私たちはその傾向の一部をA、別の一部をBと名づける。しかし、名称が与えられる以前の可能度は、一つの状態空間の内部にある差の配置であり、個別の対象ではない。


 可能差が一個になるのは、その差が他の差から切り離され、独立した到達条件、境界、結果を持つものとして定義されたときである。しかし、その定義は観測者の分類によっても変わりうる。同じ連続的変化を、二つの結果へ分けることも、十個の結果へ分けることもできる。したがって、結果の個数をそのまま世界に存在する可能性の個数と見なすことはできない。


 本論が「一種類の可能度」と呼ぶものは、観測者が便宜的に分けた選択肢ではなく、現在から特定の変化へ接続するために必要な固有の関係である。その関係が完全に失われたかどうかは、単なる分類の変更ではなく、現在からその変化へ至る接続が原理的に形成できるかどうかによって決まる。


 しかし、その固有の関係も、他の関係から完全に孤立して存在するとは限らない。一つの可能度は、複数の位置関係、運動条件、構造、外部作用から構成されており、それらの一部が別の可能度とも共有されている。したがって、一つの可能度が閉じるときにも、その構成要素のすべてが同時に消えるとは限らない。ある経路Aが失われても、Aを構成していた位置関係や運動、構造の一部は、別の経路Bへ用いられるかもしれない。この場合、Aは一つの結果としては不可能になっても、その可能度を構成していた差異はBへ変換されている。


 このような重なりを考えるならば、可能度の喪失を一個の離散的出来事として数えることはさらに困難になる。Aができなくなったとき、Aに含まれていた何が失われ、何が別の経路へ移ったのかを分解しなければならない。Aという名称全体が選択不能になったとしても、その内部の差異がすべてゼロになったとは限らない。


 したがって、純粋な意味での可能度の差がまだ一個になっていないという命題は、可能性が曖昧であるという意味ではない。それは、可能度が関係の網として存在しており、完全に独立した選択単位へ切り分けられる以前の状態にあることを意味する。この関係の網が一つの結果へ変換される際に、世界は一部を残し、一部を捨てるのではなく、全体の関係を異なる配置へ組み替えている可能性がある。


 この組み替えが成立する限り、Aが実現しBが実現しなかったとしても、AとBを含んでいた可能域は、二分の一ずつに切断されたのではない。実現前の可能域は、実現後の状態へ非対称に変換されたのであり、その変換の中にBの非実現性も含まれる。結果として存在するのはAだけであっても、Aは「Bが最初から存在しなかった世界のA」と同一ではない可能性がある。AとBの差が選択以前に存在し、Aがその差を通過して成立したならば、Aの現在にはBとの関係が変換されて残る。


 このとき、AとBは結果として二つに分かれているのではなく、Aの成立の中にBとの差異が含まれている。Bは独立した現実として存在しないが、AがBではなかったことを成立させる関係として保存される。これが、可能域を二分の一にしないということの一つの意味である。


 可能域を二分の一にしないとは、互いに両立しない二つの結果を同じ一つの現実として同時に成立させることではない。それは、片方が実現したとき、もう片方を何の差も残さない無として消去しないことである。選ばれなかった側は、現実的結果としては成立しなくても、選ばれた側の存在差を規定する非実現関係として残る。


 この構造を【位置⇄運動量】の観点から見れば、現在の位置は、単に実現した結果Aの位置ではなく、Aへ至るまでに開かれていた可能域が変換された配置である。現在の運動量は、Aから先へ進む力だけでなく、Aの成立によって閉じられた方向と、なお開かれている方向との非対称性を含む。したがって、実現されなかったBの差は、位置や運動量の数値としてそのまま残らなくても、Aの後続可能域を規定する関係として保存されうる。


 この意味において、現在進行形の【位置⇄運動量】を失わないことは、過去のあらゆる選択可能性をそのまま保持することではない。現在がどの可能域から形成され、どの方向を閉じ、どの方向を開き、その変化によってどの位置と運動が成立したかという関係を失わないことである。


 仮に、一つの選択が行われるたびに、選ばれなかった可能性が完全に消去されるならば、現在の【位置⇄運動量】には、その選択以前の可能域が含まれない。位置と運動は、結果だけから成立し、その結果がどの未実現差を通過したかは世界から失われる。この場合、現在は過去の全体を保存しておらず、選ばれた内容だけを残している。


 反対に、未実現差が位置と運動の関係へ変換されているならば、現在は過去の結果だけでなく、過去に開かれていた可能度の構造も、形を変えながら受け取っている。このとき【位置⇄運動量】は、実現した運動の記録ではなく、可能域の変形履歴を含む保存単位となる。


 この理解から、一回のなさについて次のように整理できる。世界に「一つの現在が進むためには、一つの可能性を完全に失わなければならない」という最初の一回が存在するならば、その一回以後、世界は実現と消失を一対一に対応させる構造を持つ。現在が一つ成立するごとに、一つの不可能性が永久に確定し、可能域は切断される。


 しかし、その最初の一回を特定できず、あらゆる喪失が後続状態への変換として接続されているならば、世界にはまだ独立した「一回目の完全喪失」が存在しない。この場合、時間は進み、選択は確定し、再到達不能な過去は増え続けるが、完全な無へ移された一個の可能度はまだ形成されていない。


 再到達不能であることと、完全喪失であることを、ここでも区別しなければならない。過去のAへ戻れないことは、Aが消去されたことを意味しない。Aを通過した差異が現在へ保存されているからこそ、A以前へ同一の形で戻れない可能性がある。同様に、選ばれなかったBを後に選べないことも、Bの可能差が消去されたことを意味しない。Bを選ばなかったという差異が、現在の構造へ含まれているために、選択以前の状態へ戻れない可能性がある。


 この場合、再到達不能性は、保存の破れではなく、保存の効果となる。過去が保存されているから過去へ戻れず、選択差が保存されているから選択以前へ戻れないのである。したがって、一回性と永久保存性は対立するのではなく、一回性そのものが、存在差の不可逆的保存から生じている可能性がある。


 ただし、この説明が成立するためには、再到達不能になった差異が、後続状態に本当に含まれていることを示さなければならない。単に戻れないという事実だけでは、保存と消去のどちらが原因かを判断できない。永久保存性理論は、あらゆる不可逆性を保存の証拠と決めつけるのではなく、不可逆性が前状態の差異を後続状態へ渡した結果なのか、それとも前状態を完全に消去した結果なのかを区別する必要がある。


 その判定基準の一つが、後続する可能域の差である。Aを通過した世界とAを通過しなかった世界が、その後に異なる到達可能域を持つならば、Aの通過差は保存されている。反対に、両者がある時点で、位置、運動、構造、履歴、未来可能域のすべてにおいて完全に同一になるならば、Aの差は消去されたことになる。


 選択以前の可能度についても同様である。Bが可能であった世界と、最初からBが不可能であった世界が、後に異なる可能域を持つならば、Bの可能差は保存されている。両者が完全に同一になるならば、Bの可能度は一個の喪失として世界から脱落したことになる。


 したがって、世界がまだ「ある一つのことを直線的に可能にできないという二分の一または一%目」にないという命題は、実現されなかったすべての可能性が未来に再実現できるという意味ではない。それは、実現されなかった可能性が、世界の時間発展から完全に無関係な一個の不可能性へ切り離されていないことを意味する。


 この非切断性が、一対一でなければならない。一つの現在が成立するたびに、一つの可能性が消えるのではなく、一つの現在が成立するたびに、直前の可能域全体が新しい存在差へ変換される。一つの遷移に対して一つの消失が対応するのではなく、一つの遷移に対して一つの変換保存が対応する。


 この関係を、本節では「非喪失的一対一性」と呼ぶことができる。非喪失的一対一性とは、現在の各遷移が、前状態の少なくとも一つの要素を無へ捨てることによって成立するのではなく、前状態の差異全体を、後状態の構成関係へ対応させることを意味する。ただし、「差異全体」とは、前状態を完全に複製することではない。何が実現し、何が閉じ、何が変形し、何が再到達不能になったかという関係全体が、後状態へ反映されるという意味である。


 この非喪失的一対一性が成立するならば、永久保存性は、量や形態の不変ではなく、各現在が前の現在を何らかの形で受け取り、受け取られなかった独立部分を一個も生じさせないこととして定義できる。世界は変化するが、変化の外側へ捨てられる一個の差異がない。すべての差は、次の差の構成へ参加する。


 もちろん、これは非常に強い仮説である。現実の物理過程において、前状態のあらゆる差異が後状態へ保存されるかどうかを直ちに断定することはできない。情報の不可逆的拡散、観測不能性、状態の粗視化、複数の異なる過去が同じ現在へ収束する可能性など、検討すべき問題は多い。しかし、本節の目的は、この仮説を証明することではなく、永久保存性理論が普遍的な保存を主張するために、どの条件を満たさなければならないかを明らかにすることにある。


 もし一種類でも完全な可能度喪失が存在するならば、永久保存性は完全ではない。もし一つの遷移が、前状態の一部を何の差も残さず無へ移すならば、直線性はその部分において切断される。したがって、永久保存性理論における直線性の喪失のなさは、一個の可能度喪失のなさと等価でなければならない。


 その意味で、純粋な可能度の差は、まだ独立した一個の喪失対象になっていてはならない。差は存在する。しかし、その差は関係の内部にあり、現在全体から切り離された対象ではない。AとBは異なる方向を示すことができるが、その違いは同じ現在の中にある差であり、AとBという二つの完成世界がすでに別々に存在していることを意味しない。


 現在がAへ進んだ後、Bは結果として成立しない。しかし、Bとの差異がAの形成へ含まれているならば、Aの成立はBの完全消去ではない。AとBは二つの実現へ分かれず、Aの中にA≠Bという差が保存される。ここでは、可能差は一個のBとして残るのではなく、AをAたらしめる非同一性として残る。


 したがって、世界がまだ二分の一にないということは、世界が一つの結果を選んでいないという意味ではない。世界は結果を形成する。しかし、その結果形成を、保存された半分と失われた半分という二分構造によって行う必要がないということである。


 また、世界がまだ一%目に無いということは、微小な差が存在しないという意味ではない。無数の微小差が存在し、それらは時間とともに拡散し、弱まり、変形する。しかし、そのどれもが完全なゼロへ移されず、別の差の構成へ参加し続けるならば、最初の完全消失部分はまだ形成されていない。


 本節における暫定的な結論は、次のようにまとめられる。選択は、必ずしも二つの完成した可能性を前提としない。選択以前の可能度は、一つの現在に含まれる連続的な変化方向であり、その差はまだ独立した一個の候補へ分離されていない。


 一つの結果が実現することは、別の結果が同時に実現しなかったことを意味するが、別の結果に関する可能度が完全に消去されたことを意味しない。未実現の可能度が、実現結果の位置、運動、構造、制約、履歴、未来可能域へ変換されているならば、可能差は保存されている。


 永久保存性理論における直線性の完全な保存には、少なくとも一個の完全喪失も存在しないことが必要である。したがって、直線性の喪失のなさと、一つの選択差の喪失のなさは、等価でなければならない。


 二分の一とは、確率の数値ではなく、一つの現実化が一つの永久的不可能性を形成する二分構造を表す。一%とは、可能度全体のうち、どれほど小さくても完全な無へ移された最初の非ゼロ部分を表す。


 世界がまだ二分の一にも一%目にもないということは、一つのことが直線的に可能にできなくなったとしても、その不可能性が、現在から独立した一個の無として確定していないことを意味する。できなくなったことは、できなくなった現在の構成へ含まれ、可能であった過去と不可能となった現在とを一つの直線上に結びつける。


 そして、一対一でなければならないのは、実現と消失の対応ではない。現在の各遷移と、前状態の可能差が後状態へ変換されることとの対応である。一つの現在が進むたびに、一つの可能度が無へ落ちるのではなく、一つの現在が進むたびに、その現在に含まれていた差異が、次の【位置⇄運動量】へ組み替えられる。


 この非喪失的一対一性が有限時間のすべてにおいて成立するならば、世界には、まだ「最初に完全に失われた一個」が存在しない。過去は増え、選択不能な状態は増え、同じ一回目へ戻ることはできなくなる。それでも、それらは無へ消えたのではなく、戻れないという差として現在に含まれている。


 存在が一度進むために、別の一つを存在しなかったものへ変えなければならない、その一回は、まだ成立していないのかもしれない。世界が進むということは、一つを残して一つを捨てることではなく、分割以前の可能度を、次の存在差へ変換し続けることなのかもしれない。


 もしそうであるならば、永久保存性とは、何も失われない静止した完全性ではない。それは、失われたように見えるものが、独立した一個の無にならず、次の差異の内部へ入り続ける変換の完全性である。現在は選択によって二つに割れるのではなく、選択によって異なる形へ変わる。そして、その変化のどこにも最初の一%の完全消失が存在しない限り、世界は一種類の可能度を絶対的な無へ落とすことなく、一つの直線を延ばし続けるのである。


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