第三節 可能差による実在の分離と、位置・運動量の非消失性
■ 第三節 可能差による実在の分離と、位置・運動量の非消失性
直線的に到達できないAは存在するかという問いは、ある特定の場所、状態、結果へ現実に辿り着けるかどうかだけを調べるものではない。この問いにおいてより重要なのは、世界が一つの現在から次の現在へ進むたびに、それ以前には保持されていた一種類の可能度を、完全には失わないまま進行することができるかという点にある。もし世界が、どのような変化を経ても、現在に含まれていたあらゆる可能度を何らかの形式へ変換しながら後続状態へ受け渡せるならば、実現されなかった可能性は結果として選ばれなかったとしても、絶対的な無へ移行したとは言えない。反対に、一つの現在が次の現在へ移るだけで、そこに含まれていた可能度の一部が回復不能な形で失われるならば、その時点を境に、できることとできないことの差は一時的な条件差ではなく、世界の時間発展そのものに刻まれた永久的な分離となる可能性がある。
前節では、一回通過したAが二度と同じ一回目として再現できないという事実を、ただちにAの消滅とは見なさなかった。一度目のAへ戻れないのは、Aが何の差異も残さず失われたからではなく、Aを通過したという履歴が現在の条件へ保存され、その履歴差がA以前の状態への完全な回帰を妨げている可能性があるからである。しかし、ここにはなお一つの問題が残されている。Aを通過した履歴が保存される一方で、A以前には開かれていた一種類の可能度が、Aの通過によって永久に閉じられたとする。この場合、保存された履歴と失われた可能度は、同じ一つの時間発展の中に共存することになる。過去の事象は存在差として残っているにもかかわらず、その過去から選択できた未来の一部は、後の現在から完全に失われている。このとき、永久保存性とは何を保存していると言えるのだろうか。
本節では、この問題を明確にするため、「事象の保存」と「可能度の保存」を分ける。事象の保存とは、起こったことによって生じた存在差が、後続状態から完全には消去されないことである。可能度の保存とは、現在から到達可能であった状態への接続が、時間の進行後にも何らかの形式で保持されることである。ある事象Aが起こったという差異が永久に保存されても、Aが起こる以前に存在していた別の可能性Bが永久に失われることはありうる。したがって、事象差の保存が成立するからといって、可能域全体の保存が成立するとは限らない。
この区別を置かないならば、「すべては保存される」という命題が、何を意味しているのか分からなくなる。物質や因果関係が変換されながら残ることと、実現されなかった可能性が後に再び選択可能になることは異なる。ある選択の結果が世界へ差異を残していても、その選択によって閉じられた別の経路が回復するとは限らない。ゆえに、永久保存性理論は、存在した事象の痕跡だけでなく、存在しえた可能性がどのような意味で現在から失われるのかを論じなければならない。
ある時刻tにおける状態をS(t)とし、そこから有限の時間内に直線的に到達できる状態の集合をR(S(t))とする。ここでの直線的到達とは、幾何学的にまっすぐ進むことではなく、現在の状態から後続状態までのあいだに、時間的・物理的・関係的な接続が保持されていることを意味する。状態AがR(S(t))に含まれるならば、Aはその現在における可能域に属している。Aが含まれないならば、その現在からAへ至る直線的経路は存在しない。
しかし、Aが現在の可能域に含まれていない場合にも、少なくとも三つの異なる状況が考えられる。第一に、Aが最初から現在の構造と無関係であり、どの過去時点においても可能ではなかった場合である。第二に、Aへの直接経路は現在失われているものの、条件を変化させることで後に再び到達可能になる場合である。第三に、Aが以前には可能であったにもかかわらず、ある時点の通過によって、その直接経路だけでなく、経路を再形成する可能性までもが永久に失われた場合である。
第一の場合、Aは失われた可能性ではない。そもそも当該存在の可能度として成立していなかったからである。第二の場合、Aは一時的な非到達状態にあるだけで、可能度の基礎は保存されている。第三の場合に初めて、可能度の不可逆的消失が生じる。この第三の場合こそが、「直線的に到達できないAは存在するか」という命題の中心である。
この不可逆的消失を表すため、時刻t₀においてAが到達可能であり、
A∈R(S(t₀))
であったとする。その後、時刻t₁における変化を境に、すべての時刻t>t₁について、
A∉R(S(t))
となり、さらにAへの到達可能性を回復するための状態Cも、今後の到達可能域に存在しないとする。この場合、Aは単に現在の外側へ一時的に退いたのではなく、現在から延びる直線的系列の全体から除外されたことになる。
このとき、時刻t₁以前の世界と、時刻t₁以後の世界とのあいだには、単なる状態差以上のものが生じる。t₁以前の世界には、「Aへ到達できる」という可能度が含まれていた。t₁以後の世界には、その可能度が含まれていない。したがって、両者の差は、現在の位置や形態の違いだけではなく、未来へ開かれている到達可能域の違いとして現れる。世界は、同じように見える現在状態を持っていたとしても、そこから開かれている可能度が異なれば、同一の世界状態ではない。
ここから、一つの重要な定義が導かれる。すなわち、二つの状態AとBの差は、現在観測される内容の差だけによって決まるのではなく、それぞれが未来へ接続できる可能域の差によっても決まるということである。仮にAとBが同じ位置、同じ形、同じ局所的な物理量を持っているように見えても、Aからは状態Cへ到達でき、BからはCへ到達できないならば、AとBは完全には同一ではない。この非同一性を、本論では「可能差」と呼ぶ。
可能差とは、二つの現在状態が、それぞれ異なる未来接続を持つことによって生じる差異である。これを概念的に表すならば、二つの状態S_AとS_Bについて、
R(S_A)≠R(S_B)
であるとき、S_AとS_Bのあいだには可能差が存在する。この場合、現在の局所的配置が似ていても、そこから直線的に進める領域が異なるため、両者は同一の実在ではない。
もっとも、可能域が一つでも異なれば、直ちにA≠Bという絶対的な分離が成立すると結論することには慎重でなければならない。なぜなら、到達可能域は、どの時間幅を採用するか、どの距離を許容するか、どの程度の構造変化を同一存在の変化として認めるかによって変わるからである。現在から一秒以内には到達できなくても、一年後には到達できる状態がある。直接には到達できなくても、複数の中間状態を通じて到達できる場合もある。また、完全に同じAへ戻れなくても、機能的に同等なA′へ到達できることもある。
したがって、可能差によってA≠Bを導くためには、可能性の同一性をどの水準で定めるかが必要になる。少なくとも、可能状態には三つの水準がある。第一は、完全状態としての可能性である。これは位置、時刻、内部構造、周囲との関係、そこへ至る履歴、そこから開かれる未来可能域まで含んだ一回的な状態である。第二は、構造的可能性である。これは履歴の一部が異なっても、対象の内部構造や関係が一定の同一条件を満たしている状態である。第三は、機能的可能性である。これは位置や構造が異なっていても、同じ機能または同じ結果を実現できる状態である。
完全状態としてのAは、一度通過されれば、同じ一回目として二度と再現できない可能性が高い。その意味では、時間の進行は常に完全状態の可能域を失わせている。しかし、構造的または機能的なAは後に再形成できるかもしれない。したがって、一種類の可能度を失ったというためには、どの水準のAを指しているのかを明らかにしなければならない。
それでも、完全状態としての可能性を無視することはできない。なぜなら、永久保存性理論が問うのは、実用上同じ機能を取り戻せるかどうかだけではなく、ある一つの存在差が完全に失われるかどうかだからである。一度目のAと、後に再形成されたA′が機能的には同じであっても、A′には「一度目のAの後に形成された」という履歴が含まれている。Aにはその履歴がない。この差が残る限り、AとA′は完全状態として同一ではない。
ゆえに、可能差は少なくとも完全状態の水準では、A≠Bを生じさせる。一つの状態Aから到達可能であった完全状態Cが、Bからは永久に到達不能であるならば、AとBの未来接続は同一ではない。たとえAとBが局所的に似ていても、その可能差は、両者が異なる時間的位置にあることを示す。
ここで問題になるのが、「世界がまだ一種類の可能度を失わないまま直線的に進むことができるか」という問いである。これは、世界があらゆる可能性を同時に実現できるかを問うものではない。相互に両立しない状態があるならば、一つの現実的系列においてそれらをすべて同時に成立させることはできない場合がある。問われているのは、実現されなかった可能性を、絶対的な無として切り落とすことなく、その可能性が存在していたという差異を、後続状態へ保存できるかどうかである。
この意味では、「可能度を失わない」には二つの解釈がある。強い解釈では、以前に可能であったすべての状態が、後のどの時点からも再び選択可能でなければならない。弱い解釈では、実際の再選択は不可能になっても、その状態が以前には可能であったという差異が、後続状態から完全には消去されなければよい。
強い可能度保存は、時間の不可逆性と衝突する。現在が進むたびに、一回的な時刻、履歴、関係は失われるため、以前の完全状態を同じ一回目として再選択することはできない。したがって、すべての完全可能性を後の現在から再び選べるという意味での保存は、成立しない可能性が高い。
しかし、弱い可能度保存はなお成立しうる。Aを選べなくなっても、「Aが選択可能であった現在」と「Aが最初から可能ではなかった現在」との差が、後続状態に保存されるならば、可能度は実行可能性として失われながら、存在差として残る。この場合、世界は一種類の可能度を実践的には失うが、その可能度が存在していたという履歴まで失うわけではない。
永久保存性理論において重要なのは、この二つの保存を混同しないことである。永久保存されるものが、常に再利用可能な選択肢である必要はない。ある可能性は、実現されなかったことによって二度と選択できなくなっても、その喪失が後続世界の構造へ差を与えるならば、可能差として保存される。
たとえば、ある時点でAとBの二つの経路が開かれており、実際にはBが通過されたとする。Bの通過によってAが永久に選択不能となった場合、後続世界にはAそのものが結果として存在しない。しかし、後続世界が、「AとBの両方が可能であったうえでBが通過された世界」と、「最初からBしか可能でなかった世界」とで完全に同一であるとは限らない。前者には、Aを可能にしていた初期条件、AとBの分岐を成立させていた関係、BがAではない選択として形成された履歴が含まれている。この差が後続状態へ何らかの形で保存されるならば、Aの実現可能性は失われても、Aの可能差は消えていない。
しかし、もし両者がある有限時間後に完全に同一となり、Aが可能であったかどうかが世界のどの状態にも差を残さないならば、Aの可能度は存在差としても消失したことになる。このとき、世界は一種類の可能度を完全に失ったと言える。そして、その完全喪失が一度でも生じるならば、現在に至るまでに、できることとできないことの差が永久に分割された可能性が生まれる。
ここでいう「永久に分かれる」とは、単に一つの選択が選ばれなかったという意味ではない。以前には可能であったAが、以後のあらゆる現在において不可能となり、さらにAが可能であったという差異すら後続状態に残らないならば、Aに関する世界の系列はそこで完全に断たれる。Aは、実現しなかっただけでなく、可能であったという過去の位置からも切り離される。
このような完全分離が生じるならば、世界の時間発展は、保存と同時に消去を行っていることになる。実現されたBの差異は保存される一方で、実現されなかったAの可能度は無へ移される。世界は前へ進むたびに、一方の系列を残し、もう一方の系列を永久に失う。この構造では、現在は連続性の通過点であると同時に、可能域を二分する切断点となる。
しかし、本論が問題とするのは、本当に世界がそのような切断を必要としているかということである。Aが実現しなかったことは、Aという完成した結果が現実に置かれなかったことを意味する。しかし、Aへ到達できたという可能度まで完全に消えるためには、Aを可能にしていた条件、Aと他の結果の関係、Aが選ばれなかったことによって生じた制約などが、すべて後続状態から失われなければならない。現実の時間発展が前状態を何らかの形で後続状態へ変換しているならば、そのような完全消去が可能であるかは明らかではない。
ここから、本節の第二の中心である【位置⇄運動量】の問題へ進む。『永久保存性理論』において、現在進行形に一つの【位置⇄運動量】を失わずに済むかという問いは、特定の物体の位置と運動量を同じ数値のまま永遠に固定できるかという問いではない。位置は時間とともに変わり、運動量も相互作用によって変化する。保存されるべきなのは数値の固定ではなく、現在の配置と、その配置から後続状態へ向かう遷移方向との接続関係である。
本論における「位置」は、単なる空間座標ではない。それは、ある存在が現在、他の存在、時間、構造、境界の中でどの関係に置かれているかという配置的規定性である。また「運動量」は、狭い意味での物理量だけに限定されず、現在の状態がどの方向へ、どの程度、どのような条件で次の状態を形成しうるかという遷移的規定性を含む。したがって、【位置⇄運動量】とは、現在がどこにあるかと、そこからどこへ進みうるかとの相互関係を表す。
もちろん、物理学における位置と運動量の扱いを、存在論的な比喩へ無制限に置き換えることはできない。本論は、あらゆる物理領域において位置と運動量を同時に完全決定できると主張するものではない。ここで用いる【位置⇄運動量】は、物理学上の厳密な二観測量をそのまま永久保存すると断定する概念ではなく、存在が現在の配置と次状態への遷移傾向の双方を通じて時間へ接続されるという、理論上の基礎対である。
ある状態S(t)の位置的規定性をx(t)、遷移的規定性をp(t)とすれば、現在の存在状態を暫定的に、
Z(t)=〈x(t),p(t)〉
と表すことができる。ただし、このZ(t)は、存在の完全な記述ではない。実際には内部構造、周囲との関係、履歴、未来可能域などが必要になる。それでも、x(t)とp(t)の対は、存在が現在の一点に置かれているだけでなく、次の状態へ向かう方向を持つことを示す最小の模型となる。
時間が進み、Z(t)がZ(t+Δt)へ変化するとき、位置も運動量も同一の値を維持する必要はない。重要なのは、Z(t+Δt)がZ(t)と完全に無関係な状態として出現するのではなく、Z(t)に含まれていた配置と遷移の関係を受け取っていることである。この受け渡しが存在する限り、【位置⇄運動量】は数値としてではなく、状態接続として保存される。
反対に、ある時点で位置と運動量の接続が完全に失われるならば、現在の配置から次状態がどのように生じたかを結びつけることができなくなる。位置はあるが、そこから何が変化しうるかが一切なく、運動量はあるが、それがどの存在のどの配置に属するかが分からないならば、一つの事象としての直線性は成立しない。したがって、【位置⇄運動量】の保存とは、位置または運動量の単独保存ではなく、現在の配置と遷移方向を一つの存在系列へ結びつける関係の保存である。
この観点から可能差を見ると、一つの可能差がA≠Bを生む条件がより明確になる。二つの状態AとBが同じ位置的規定性xを持っていても、異なる遷移的規定性p_Aとp_Bを持つならば、
A=〈x,p_A〉
B=〈x,p_B〉
であり、p_A≠p_Bである以上、AとBは同一ではない。現在の配置が同じでも、そこから進める方向や到達可能域が異なるからである。反対に、運動量的な傾向が似ていても、置かれている関係的位置が異なるならば、その運動が生み出す結果も異なるため、やはり同一とは言えない。
したがって、一種類の可能差は、少なくとも【位置⇄運動量】の対のどこかに差を生じさせる。位置が同じでも可能な運動が異なり、運動が同じでも位置が異なれば、後続する直線は異なる。可能差とは、抽象的な選択肢の違いではなく、現在の配置と未来への遷移関係に生じた非同一性である。
しかし、ここでもA≠Bの意味を限定する必要がある。可能差が一つ存在するからといって、AとBのあらゆる内容が異なるわけではない。AとBは多くの性質を共有しながら、一つの未来接続だけが異なる場合がある。このとき、A≠Bは全体的な無関係を意味せず、少なくとも一つの保存関係または可能関係において同一ではないことを意味する。
本論で重要なのは、この最小の非同一性である。完全に同じに見える二つの状態でも、一つの可能度が異なるならば、その差は後続する時間の中で拡大する可能性がある。一方では到達できるCが、他方では到達できないため、時間が進むにつれて二つの系列は異なる結果を形成する。この意味で、一つの微小な可能差は、未来全体を二つの直線へ分ける起点となりうる。
ここで、可能差が永久的なA≠Bを生むためには、差が一時的でないことが必要である。時刻tにおいてp_A≠p_Bであっても、後に両者が同じ状態へ収束し、その後の可能域も完全に一致するならば、初期の可能差は後続状態に保存されなかったことになる。反対に、どれほど時間が経過しても、Aを起点とする系列とBを起点とする系列のあいだに何らかの差が残るならば、可能差は存在差として保存されている。
これを概念的に、Aを起点とする時間発展をF_t(A)、Bを起点とする時間発展をF_t(B)として表す。A≠Bであり、ある可能差が存在するとき、任意の有限時間tにおいて、
F_t(A)≠F_t(B)
が成立するならば、その可能差は永久保存的である。反対に、ある有限時刻T以後、
F_t(A)=F_t(B) (t≧T)
となり、未来可能域まで含めて完全に同一になるならば、AとBを分けていた可能差はTにおいて消去されたことになる。
もっとも、異なる状態が同じ結果へ到達すること自体は珍しいことではない。異なる道を通って同じ場所へ着くこともあり、異なる過程から同じ機能的状態が形成されることもある。しかし、局所的な結果が同じであることと、全状態が同一であることは異なる。異なる経路を通った履歴が、周囲の状態、内部構造、相関、未来可能域に差を残しているならば、結果は機能的に同じでも、存在差としては同一ではない。
したがって、可能差の消去を証明するためには、単にAとBが同じ場所や同じ形へ到達したことを示すだけでは足りない。AとBの過去差が、現在状態にも、未来可能域にも、周囲との関係にも一切残っていないことを示さなければならない。永久保存性理論における完全同一とは、外形的な一致ではなく、位置、運動、履歴、関係、可能度のすべてにおいて差が存在しないことである。
この完全同一の条件は極めて強い。もし一つでも差異が残るならば、AとBは完全には重ならない。その差が観測不能なほど小さくても、存在論的には非ゼロである可能性がある。しかし、観測できないものを無条件に差として認めれば、理論は検証不能になる。そのため、本論では、単に「どこかに差があるはずだ」と仮定するのではなく、AとBから開かれる可能域の違いを、存在差の判定基準として用いる。
現在の内部構造を完全に観測できなくても、AからはCが可能であり、BからはCが不可能であることが示されるならば、両者の差は未来接続として表面化する。可能度は、隠れた差異を後続状態の違いとして顕在化させる。したがって、可能差は、現在状態の非同一性を検出するための一つの基礎的な指標となる。
それでは、世界は一種類の可能度をまったく失わないまま進むことができるのだろうか。強い意味では困難である。時間が進むたびに、一回的な現在は過去となり、同じ一回目として再び選択できなくなる。ある選択によって他の経路が閉じ、構造変化によって以前の状態へ戻れなくなり、有限の時間窓を過ぎた可能性が失われる。この意味で、世界は時間の進行とともに、完全状態としての可能度を絶えず失っている。
しかし、弱い意味では、一種類の可能度を失わずに進むことがありうる。失われた可能性が、実行可能な選択肢としては消えても、その喪失が現在の位置と運動の関係へ組み込まれ、後続状態の可能域を規定しているならば、その可能度は存在差へ変換されて保存される。世界はAを再び選べなくても、「Aを選べなくなった世界」としてAとの関係を保持する。
ここで、保存対象は可能性そのものから、可能差へ移る。実現前のAは、現在から開かれた接続可能性である。Aが失われた後、Aは選択可能性としては存在しない。しかし、Aが失われたという差が後続状態へ残るならば、Aの可能度は可能差として保存される。これを「可能度の変換保存」と呼ぶことができる。
可能度の変換保存では、同じものが同じ形式で残る必要はない。選択できる状態が、選択できなかったという履歴へ変わり、さらにその履歴が新しい位置、運動、構造、制約を形成する。したがって、永久保存性は、可能度の永久的な再利用を意味せず、可能度が生じさせた差異の非消去性を意味する。
この変換保存が成立するならば、できることとできないことの差は、永久に分かれると同時に、完全には断絶しない。Aができた過去と、Aができない現在は異なる。両者の可能域は分かれている。しかし、Aができない現在は、Aができた過去から変化して成立した状態であるため、二つは一つの直線上に接続されている。できることとできないことの差は、二つの無関係な世界へ切断されるのではなく、一つの世界が自らの可能度を変化させた履歴として保存される。
反対に、可能度の変換保存が成立しないならば、世界はAが可能であった状態と、Aが不可能となった状態のあいだに説明不能な断絶を持つことになる。Aへの可能度は、何にも変換されず、何の差も残さず消える。このとき、現在は一種類の可能度を絶対的な無へ移したことになり、永久保存性には明確な破れが生じる。
したがって、本節における核心は、世界がすべての可能性を選択可能な形で保持できるかどうかではない。世界が、失われた可能性を無差異へ落とさず、その喪失を一つの存在差として後続状態へ接続できるかどうかである。
この観点から【位置⇄運動量】を見直すと、その保存が意味するものも明確になる。現在の位置は、過去の可能度が実現または喪失した結果として成立している。現在の運動量は、現在に残された可能域の中で、次にどの方向へ接続できるかを表している。したがって、位置は過去の差異を含み、運動量は未来への可能差を含む。【位置⇄運動量】は、過去の保存と未来の可能度が接触する現在的な単位である。
もし現在進行形において一つの【位置⇄運動量】を失わずに済むならば、世界は位置と運動量の数値を固定しているのではなく、過去から現在へ至った配置的差異と、現在から未来へ向かう遷移的差異との結びつきを失っていない。位置が変わっても、その変化が以前の運動と接続され、運動量が変わっても、その変化が現在の位置関係から生じたものであるならば、対としての直線性は保存される。
しかし、ある一つの可能差が生じ、AからはCへ進めるがBからはCへ進めないならば、AとBの【位置⇄運動量】は少なくとも可能域の水準で異なる。たとえ位置xが同じであっても、進行可能な方向または状態が異なるため、遷移的規定性は同一ではない。したがって、一つの可能差は、一種類のA≠Bを生む。
ただし、このA≠Bは、AとBが完全に別の存在であることを必ずしも意味しない。一つの存在が時間の中でAからBへ変化する場合にも、A≠Bは成立する。現在のAと後のBは同一の系列に属しながら、状態としては異なる。この意味で、非同一性と断絶は同じではない。
永久保存性理論が示すべきなのは、A≠Bが生じても、AとBを結ぶ変換関係が失われない可能性である。AとBが異なるからこそ時間的変化が成立するが、異なることによって両者が無関係になる必要はない。保存とはA=Bを維持することではなく、A≠Bでありながら、BがAを経た状態として成立することである。
ここに、本理論における「差」の重要性がある。同一性だけを保存の基準にすれば、変化した瞬間にすべては保存されなくなる。反対に、差異だけを断絶の根拠にすれば、時間の各瞬間は互いに無関係な世界となる。永久保存性は、同一でも完全な断絶でもない第三の関係、すなわち、差異を形成しながら接続を失わない変換保存を対象とする。
A≠Bは、保存の失敗ではない。AがBへ変化し、その変化関係が後続状態へ保持されるならば、A≠Bは保存が働いている具体的な形式となる。問題は、AとBの差が、どこからも生じず、どこへも渡されず、単なる切断として現れる場合である。
可能差についても同様である。Aから選べたCがBから選べなくなった場合、AとBは異なる。しかし、Cを選べなくなった理由がAからBへの変化に含まれ、その喪失がBの位置と運動量、構造と可能域を規定しているならば、可能差は直線の内部に保存される。Cが何の理由も差も残さず、突然可能域から消えたならば、直線性はそこで破れる。
したがって、現在進行形において一つの【位置⇄運動量】を失わずに済むかという問いへの暫定的な答えは、数値や状態を不変に保てるかどうかではなく、変化によって生じる可能差を、次の位置と運動量の関係へ変換できるかどうかにある。位置と運動量の一方または双方が変化しても、その変化が前状態の可能域から生じ、後状態の可能域を形成するならば、対としての保存性は失われていない。
この保存関係を概念的に、
〈x(t),p(t),R(t)〉→〈x(t+Δt),p(t+Δt),R(t+Δt)〉
と表すことができる。ここで保存されるのは、三つの値そのものではなく、左側の状態が右側の状態を形成したという変換関係である。R(t)の一部が失われても、その喪失がx(t+Δt)、p(t+Δt)、R(t+Δt)の構成へ反映されているならば、可能度は差異へ変換されている。
反対に、R(t)に含まれていた可能Aが失われても、その喪失が後続状態のどこにも反映されず、Aが最初から存在しなかった場合と完全に同一になるならば、Aの可能差は消去される。このとき、【位置⇄運動量】の対は、少なくともAに関する接続を失ったことになる。
したがって、位置と運動量の保存は、可能域全体の不変ではない。それは、可能域の変化が無履歴の断絶にならないための保存である。現在は、以前に持っていたすべての可能性を再選択可能な形で維持しなくてもよい。しかし、何を持ち、何を失い、その喪失によってどの位置と運動が形成されたのかという差を、完全には失ってはならない。
本節の命題を、生と死の区分へ接続するならば、生命が生きている状態とは、単に特定の位置と運動を持つことではなく、自らの構造を通じて可能域を更新し、失われた可能性の一部を別の可能性へ変換しながら、自己の直線性を維持している状態と考えられる。生命は、一つの可能度も失わずに生きているわけではない。成長、老化、選択、損傷、記憶の形成によって、多くの完全状態への再到達可能性を失っている。それでも生が継続するのは、失われた可能度を新たな位置、運動、構造、選択可能域へ変換し、自己の系列を未来へ延ばしているからである。
死は、過去の可能性が一つ失われることではない。生きている間にも、失われる可能性は無数にある。死の境界は、生命が自らの【位置⇄運動量】を一つの自己系列として更新し、可能差を次の自己状態へ変換する能力を失う点に求められる可能性がある。しかし、その能力が失われても、生命が世界に形成した存在差は、物質的、因果的、関係的な系列へ受け渡される。したがって、生命の直線性が終わることと、存在差の直線性が終わることは同一ではない。
本節で提出した「直線的に到達できないAは存在するか」という問いに対し、現段階では次のように答えることができる。完全状態としてのAには、時間の通過によって二度と到達できなくなるものが存在する。現在は一回限りであり、一度通過した履歴を持たない同一のAを再形成することはできないからである。また、構造的または機能的なAについても、必要条件とその回復可能性がともに失われた場合、永久的な非到達性が成立しうる。
しかし、Aへ到達できなくなることは、Aに関するすべての差異が消えることを意味しない。Aが可能であったこと、Aが失われたこと、その喪失によって現在の位置と運動、構造と可能域が変化したことが後続状態へ保存されるならば、Aは可能な選択肢としては失われても、可能差として残る。
ゆえに、世界が一種類の可能度を失わないまま進むことができるかという問いには、二つの答えがある。再選択可能性としての可能度を一つも失わないことは、時間の一回性と不可逆性のために困難である。しかし、可能度が存在していたことによって生じる差異を一つも絶対的な無へ落とさないという意味では、世界は可能度を変換しながら保存している可能性がある。
そして、ある一つの可能差がA≠Bを生むかという問いには、少なくとも可能域の水準では肯定的に答えられる。AとBから開かれる未来が一つでも異なるならば、両者は完全に同一ではない。ただし、A≠BはAとBの断絶を意味しない。BがAの可能差を受け取って成立したならば、両者は異なりながら一つの直線を形成する。
永久保存性理論が保持すべき中心命題は、ここにある。存在は、Aを永遠にAのまま残すことによって保存されるのではない。AがBへ変化し、A≠Bとなった後にも、BがAを経た状態であることを完全には失わないことによって保存される。可能度もまた、すべての選択肢を永遠に開いたままにすることによって保存されるのではなく、失われた選択肢が世界に生じさせた差異を、次の位置と運動の関係へ渡すことによって保存される。
現在進行形とは、できることとできないことを何の関係もない二領域へ切断する刃ではない。現在は、できたことを実現し、できなかったことを閉じながら、その双方の差を後続状態へ変換する接続領域である。もしこの変換が一度も完全なゼロへ落ちないならば、世界は可能性を失いながらも、可能差を失わずに進むことができる。
そのとき、【位置⇄運動量】とは、単に物体がどこにあり、どれほど動いているかを示すものではなく、世界がどの過去差を現在の配置として受け取り、どの未来差を次の運動として渡そうとしているかを示す最小の接続単位となる。位置は、すでに通過された可能性の結果であり、運動量は、なお開かれている可能度の方向である。両者のあいだに接続が残る限り、存在は差異を生みながらも、自らの直線を完全には失わないのである。




