第二節 有界可能域と、一回目の不可逆的消失
■ 第二節 有界可能域と、一回目の不可逆的消失
前節では、何かが存在しているということを、ある起点から受け取った存在差を現在へ接続し、現在において変換された差異を、さらに後続する状態へ渡し続けることとして捉えた。そこでは、存在は固定された一点ではなく、過去から現在へ、現在から未来へと連続する一つの系列であり、その系列が幾何学的にまっすぐであるかどうかとは無関係に、前後の状態が完全な無関係へ切断されていないことを「直線性」と呼んだ。しかし、存在が何らかの直線的接続を持つとしても、その直線があらゆる方向へ無制限に延びられるとは限らない。現実に成立する事象は、有限の時間、有限の距離、有限の物質量、有限の運動可能範囲、有限の内部構造その他の条件によって制約されており、その意味では、あらゆる存在が何らかの有界な範囲の内部で変化していると考えることができる。
有界であるということは、ある存在または事象が、どのような状態にも無制限に到達できるわけではないことを意味する。ある時刻に一つの場所を占めている物体は、同じ時刻に任意の距離だけ離れたすべての地点へ直接到達できるわけではなく、ある構造を持つ生命は、その構造とまったく無関係なあらゆる状態へ即座に変化できるわけでもない。現在における位置、運動、内部構造、外部条件が与えられるとき、そこから接続可能な後続状態には一定の範囲が生じ、その範囲の外側にある状態は、少なくともその現在から直ちに選択できるものではない。したがって、可能度は最初から無限に開かれた自由ではなく、ある境界を持つ到達可能域の内部に成立している。
しかし、有界であることと、永久に動けなくなる一点が存在することは同一ではない。ある範囲の内部でしか動けないとしても、その内部において移動や変化を継続できるならば、その存在は直線的接続を失っていない。閉じられた部屋の中を歩く人は、部屋の外へ直接進むことはできないとしても、部屋の内部では複数の位置を選択できる。一定の軌道に拘束された物体も、軌道の外へ移ることはできなくても、その軌道に沿った運動を続けられる。ある有界領域の外側へ進めないという事実は、可能性の範囲を制限するが、その領域内部の可能性を完全なゼロへするわけではない。
それゆえ、本節で問うべきなのは、単に「存在には境界があるか」ではない。問われるのは、有界な範囲の内部に、そこへ到達した後にはそれ以上どの方向にも直線的接続を延ばすことができず、また、そこから以前の可能域へ戻ることもできない一点が存在するかということである。その一点は、幾何学的な壁や空間の端ではない。それは、現在から開かれていた接続可能性が失われ、失われた可能性を後の時間においても回復できなくなる「可能度の終端」である。
この終端を明確にするため、まず四種類の境界を区別しなければならない。第一は、空間的境界である。これは、物体が一定の領域から外へ移動できないという位置上の制約を意味する。第二は、構造的境界である。これは、ある存在が自らの構造を保ったままでは特定の状態へ移れないことを意味する。第三は、時間的境界である。これは、ある状態へ到達できる期間が限定され、その期間を過ぎると同じ経路を利用できなくなることを意味する。第四は、可能度の不可逆的境界である。これは、ある時点を越えた後、以前には接続可能であった状態が、どのような後続過程を経ても二度と同じ直線上へ回収されなくなることを意味する。
前三者は、必ずしも永久的な不可能性を生み出さない。空間的境界は、通路が開かれることによって越えられるかもしれず、構造的境界は、構造そのものが変化することによって異なる状態への接続を可能にするかもしれない。時間的境界を過ぎたとしても、別の経路を通じて同種の結果へ到達できる可能性は残る。これに対して、第四の境界は、単に現在の経路が閉じたというだけではなく、対象となる状態Aへのすべての直線的接続が、現在以後の系列から永久に除外されたことを意味する。
ある時刻tにおいて、存在Xが将来到達しうる状態の集合をR_X(t)とする。この集合は、現在の位置、運動、構造、外部条件、利用可能な時間や距離などによって規定される。状態AがR_X(t)に含まれているならば、Xは現在から何らかの連続的な経路を通じてAへ到達できる可能度を持つ。反対に、AがR_X(t)に含まれていないならば、少なくとも現在の条件では、AはXの直線的可能域の外側にある。
ここで注意すべきなのは、R_X(t)が時間とともに単純に縮小するとは限らないことである。ある選択によって一つの経路が閉じても、その選択から新しい経路が開かれることがある。知識を得ることによって以前にはできなかった行為が可能になる場合もあれば、構造を変化させることで新しい領域へ到達できる場合もある。したがって、現在における選択は、常に可能域を減少させるだけの行為ではなく、古い可能性を失うと同時に、新しい可能性を生成する変換でもある。
それでも、あらゆる可能性が後に回復できるとは限らない。ある時点t₀ではAがR_X(t₀)に含まれていたにもかかわらず、時刻t₁における一つの通過または選択を境にAが可能域から外れ、その後のすべての時刻tにおいて、
A∉R_X(t) (t>t₁)
となるならば、Aへの可能度はt₁を境に不可逆的に失われたことになる。このt₁は、Aに関する「選択できない一回目」が出現した時点である。ただし、ここでいう一回目は、Aを選択しなかった最初の時刻というだけではない。選択しなかった状態から、後で選択し直すことが可能であるならば、Aの可能度はまだ失われていない。選択できない一回目とは、Aが選ばれなかったことによって、または別の経路を通過したことによって、Aを選択できる現在そのものが二度と再形成されなくなる最初の境界を意味する。
たとえば、分岐点において左右二つの道があり、左へ進んだ後にも戻って右へ進めるならば、右への可能度は一時的に遠ざかっただけで、永久に失われてはいない。左へ進んだ直後に分岐点が崩壊し、どのような迂回路も存在せず、右側の領域へ二度と到達できなくなったならば、その時点で右への可能度は不可逆的に失われる。この場合、右へ進めないという不可能性は、最初から世界の内部に固定されていたのではない。左へ進む以前には右への接続が開かれており、左へ進んだ後に初めて右への絶対的な不可能性が現在進行形の中へ成立したのである。
このとき、一つの可能域は二つに分割されたように見える。左へ進む可能性と右へ進む可能性があり、そのうち一方が現実化したことで、もう一方が失われたからである。しかし、本論でいう「二分の一」は、数学的な確率が正確に二分の一であったことを意味しない。左と右の選択確率が等しい必要はなく、選択肢が二つだけである必要もない。二分の一という表現は、現在の可能域が「実現された側」と「実現されなかった側」に切り分けられ、後者が現実の直線から永久に排除される構造を示している。
現在をこのような二分構造として捉えるならば、ある結果が実現するたびに、実現しなかった領域は現在から切り離される。可能域全体をPとし、実現した接続をP₁、実現しなかった接続をP₂とすれば、選択後の現実はP₁だけを後続させ、P₂を失う。この構造が不可逆であるならば、現在は一回ごとに可能域を分割し、選ばれなかった側を絶対的な非到達域へ移していることになる。
しかし、永久保存性理論の立場からは、この二分を直ちに前提としてはならない。なぜなら、実現されなかった経路が、結果として選択されなかったことと、その経路の可能度が世界から完全に消去されたことは同じではないからである。Aを選ばずBを選んだとしても、Aを選択できたという起点条件、AとBのあいだに存在した分岐構造、BがAではない経路として成立したという存在差は、Bの後続状態の中へ何らかの形で保存される可能性がある。実現されなかったAが、実現された事象と同じように物理的な結果として残るわけではないとしても、Aが可能であったことによってBの意味と位置が定まっていたならば、AはBと完全に無関係ではない。
したがって、「ある一つの可能が直線的に進める領域を二分の一にしないことができるか」という問いは、単に複数の選択肢をすべて実現できるかを問うものではない。問われるのは、一つの経路が実現した後にも、実現されなかった側を、完全な無として現在から切り落とさずに済むかということである。現実の身体や物体は、同じ時刻に互いに両立しない二つの状態を、同一の意味で同時に実現できない場合がある。しかし、それは、選ばれなかった状態が、現在に対して何の関係も持たない絶対的な無へ移行したことを意味しない。実現の排他性と、存在差の完全消去は区別されるべきである。
一つの可能が直線的に進むとは、その可能が他のすべての可能性を破壊しながら、一つの細い線だけを残すことではない。前節で述べたように、直線性とは、起点と後続状態の非断絶な接続である。ある可能Aが実現されるまでの現在には、A以外の複数の可能接続が含まれていてもよい。Aが実現した後には、Aへ至った履歴が一つの確定系列として形成されるが、その確定系列は、他の可能性が一度も開かれていなかった世界と必ずしも同一ではない。したがって、現実化された一つの直線は、可能域を単純に半分へ切り捨てるのではなく、選ばれなかった接続を、自らの成立条件の一部として変換しながら保持している可能性がある。
この点を理解するためには、「実現可能性」と「再到達可能性」を分けなければならない。ある時刻t₀においてAが可能であり、時刻t₁においてBが実現されたとする。このとき、Aはt₁において実現されなかった。しかし、後の時刻t₂からAまたはAと同等の状態へ到達できるならば、Aの再到達可能性は失われていない。反対に、Bを通過したことによってAへのすべての経路が閉じられたならば、Aは再到達不能となる。
ところが、「Aへもう一度到達する」とは何を意味するのかという問題が残る。Aを単なる位置として定義するならば、同じ場所へ戻ることでAへの再到達が成立する。Aを外見や機能として定義するならば、同じ形や同じ働きを再現することでAへ戻ったと見なせるかもしれない。しかし、Aを、ある特定の時刻、位置、内部状態、周囲との関係、そこへ至った履歴、未来へ開かれていた可能度を含む完全な状態として定義するならば、一度通過したAへ再び同一の意味で戻ることは著しく困難になる。
一度目のAと二度目のAとのあいだには、少なくとも「一度目のAをすでに通過した」という履歴差が存在する。一度目のAにいた存在Xは、まだAを通過した経験または変化を持っていない。Aを離れた後に同じ位置、同じ外形、同じ内部状態へ戻ったとしても、二度目のAには、一度目から二度目までの時間が経過している。周囲の状態も、世界全体の関係も、Aへ戻ったという事実そのものも、一度目とは異なる。このため、局所的に同じ状態を再現できたとしても、完全な関係状態としてのAは同一ではない可能性が高い。
ここから、「一回通過したAが二度と直線的に可能にできない」という命題には、少なくとも三つの意味があることが分かる。第一は、位置的再到達不能である。一度Aの場所を離れると、物理的にそこへ戻れない。第二は、状態的再現不能である。一度Aの状態から変化すると、同じ構造や機能を再形成できない。第三は、履歴的再到達不能である。同じ位置や構造を再現できても、Aをまだ一度も通過していなかったという履歴条件を再現できない。
第一と第二は、状況によって回復できる場合がある。閉じた通路を再び開けば同じ場所へ戻れるかもしれず、失われた構造を再構築できるかもしれない。しかし、第三の履歴差は、時間そのものを含むため、より根本的である。一度Aを通過したという事実を保持したまま、「Aを一度も通過していない状態」へ戻ることはできない。通過したという履歴を消去しなければ、一度目のAは再現されず、履歴を完全に消去できたならば、その時点で永久保存性の根本に反する別の問題が生じる。
したがって、一回性は、存在の直線性に不可逆的な差を与える。現在は、一度通過されるごとに過去となり、同じ現在として再び選び直すことができない。似た条件を再形成することはできても、最初の一回目そのものを二回目として再現することはできない。この意味では、あらゆる現在に、すでに「二度と同じ一回目へ戻れない」という不可逆性が含まれているように見える。
しかし、この不可逆性を直ちに「永遠に到達できない一点」と同一視することには慎重でなければならない。なぜなら、到達不能になったのが、一回目という履歴を含む完全状態Aなのか、それともAが持っていた機能、位置、関係、可能度のすべてなのかによって、失われるものの範囲が異なるからである。一回目としてのAは二度と再現できなくても、Aが未来へ渡した存在差は後続状態の中に保存されるかもしれない。むしろ、Aが一回限りであるからこそ、その通過は世界の履歴へ消去できない差を形成する。
この点で、一回性は永久保存性の否定であると同時に、その根拠にもなりうる。一度目のAへ戻れないということは、Aが完全に失われたように見える。しかし、戻れない理由が、Aを通過したという履歴が後続状態へ残っているためであるならば、Aの存在差は消滅したのではなく、後続する直線の中に組み込まれている。Aが完全に消えたから戻れないのではなく、Aが起こったことによって世界が変化し、A以前の条件へ同一のまま戻れなくなったのである。
したがって、「二度と可能にできない」という表現には、二つの反対方向が含まれる。一つは、可能性が消えたために再到達できないという方向である。もう一つは、存在差が保存されたために、以前と同一の無履歴状態へ戻れないという方向である。前者は永久保存性の限界を示し、後者は永久保存性の成立を示す。この二つを区別しないまま、一度きりの事象を単純な消滅として扱うことはできない。
本節で用いられる「一%」もまた、統計的な確率そのものを意味しない。それは、現在の到達可能域のうち、どれほど小さくても回復不能な部分が生じることを表す最小の非ゼロ差である。可能域全体を一〇〇と仮定し、そのうち九九が何らかの形で後に回復可能であっても、一だけが永久に再接続不能になるならば、現在の直線は完全な保存を維持していないことになる。この一は、具体的に一%である必要はなく、限りなく微小な非ゼロ部分でもよい。重要なのは、回復不能な領域がゼロであるか、ゼロではないかという区別である。
一回通過したAについて、一%でも二度と可能にできない側面が現在進行形の中に発生したならば、少なくともその側面に関しては、現在以後の可能域から永久に除外された一点が成立する。たとえば、Aの位置や機能は再現できても、「最初の一回目である」という履歴的条件だけは再現できないとする。この場合、A全体の九九%が回復されたように見えても、一回性という一%は戻らない。すると、二度目のAは一度目のAと完全には同一でなく、その差異は将来のどの時点にも残り続ける。
この一%が本当に永遠の非到達点を形成するためには、三つの条件が必要である。第一に、その差異が一時的に失われただけではなく、後の時刻に回復する経路を持たないこと。第二に、別の経路から同一の条件へ到達することもできないこと。第三に、対象となる一点の同一性が、別の近似状態や機能的代替によって置き換えられないこと。この三条件が成立するとき、失われた一%は単なる不便や一時的制限ではなく、時間の進行によって確定された絶対的な再到達不能域となる。
ただし、この絶対性は、何を同一とみなすかに依存する。ある人が幼少期の特定の日へ戻れないとしても、その日に行っていた行為と同種の行為を後に再現することはできるかもしれない。失われたのは行為の種類ではなく、その年齢、その身体状態、その周囲の関係、その日以前の履歴、その時点にのみ開かれていた未来可能域を含む一回的な全体である。この全体をAとするならば、Aは二度と可能にならない。しかし、Aの一部だけを取り出せば、類似した状態へ再到達できる可能性がある。
したがって、「永遠に辿り着けない一点」は、単純な座標として理解するべきではない。それは、時間、位置、履歴、構造、関係、可能度が一つに結合した全状態としての一点である。時間が一方向へ進み、過去の通過が履歴差として保存される限り、同じ全状態へ戻ることはできない。ここに、現在進行形の中で絶えず生成される不可逆的な非到達点がある。
しかし、あらゆる現在が通過と同時に永久的非到達点になるならば、世界は一瞬ごとに無限の不可能性を生成していることになる。直前の現在は二度と同じ現在にならず、一つ前の状態へ完全には戻れず、選ばれなかった可能性の一部は失われ続ける。この理解をそのまま採用すると、存在の直線は前へ進むたびに、後方へ膨大な非到達域を残し、可能域を連続的に削減しているように見える。
それでは、存在は時間とともに可能性を失い続け、最終的にはどこにも動けない一点へ到達するのだろうか。この問いに対しては、可能性の「消費」と「生成」を同時に考えなければならない。一つの現在を通過することによって、その現在を一回目として選び直す可能性は失われる。しかし、その通過によって新しい位置、新しい関係、新しい構造、新しい選択可能域が生じることもある。過去へ戻る可能性が減少する一方で、過去には存在しなかった未来への接続が開かれる。したがって、可能域は単純に一〇〇から九九、九九から九八へと減少する固定量ではない。失われる領域と新たに形成される領域が異なるため、可能度の総量を一つの数値として単純に加減することはできない。
ここで、有界可能域の内部における運動を、容器の中にある一定量の選択肢として考えてはならない。もし可能性が最初から一〇〇個だけ用意され、選択のたびに一個ずつ消費されるならば、有限回の選択によって可能性は尽きる。しかし現実の現在は、一つの変化が次の条件を生み、その条件から以前には存在しなかった複数の可能性が開かれる生成的な構造を持ちうる。可能域が有界であっても、その内部における状態変化が新たな分岐を形成するならば、接続可能性はただ減少するだけではない。
有界であることは、可能性の個数が有限であることとも同一ではない。限られた区間の内部にも無数の位置を考えることができ、有限の時間幅の内部にも複数の変化系列が成立しうる。したがって、有界可能域は、外側に境界を持ちながら、内部に連続的な差異を含むことができる。問題は、その連続性が、ある通過によって切断されるかどうかである。
ある可能域Ωの内部で、状態XがAへ進む経路を持ち、Aを通過した後にも別の状態B、C、Dへ接続できるならば、Aは運動の終点ではなく、新たな接続の中間点である。A以前の状態へ完全に戻れないとしても、直線性そのものは失われていない。直線は後方への完全再現を持たなくても、前方へ接続を続けることができる。したがって、永久に戻れない一点が一つ存在することと、存在全体が動けなくなることは異なる。
本節の最初の問いである「ある有界な範囲の中で動けなくなるという一点は存在するか」に対しては、少なくとも二つの答えを分ける必要がある。第一に、完全状態としての過去へ戻れなくなる一点は、現在の通過ごとに成立する可能性がある。第二に、未来へ向かうすべての接続が失われ、何の変化も生成できなくなる絶対的な停止点が存在するかどうかは、別に検討されなければならない。前者は履歴の不可逆性であり、後者は可能度全体の消滅である。
履歴的に戻れないことは、必ずしも未来へ進めないことを意味しない。むしろ、同じ現在を反復できないからこそ、存在は異なる状態へ進み続ける。過去へ完全に戻れないという非到達性は、未来への直線性を閉ざすのではなく、未来を過去とは異なる状態として成立させる条件にもなる。もしあらゆる状態へ完全に戻ることができ、通過の履歴が何の差も残さないならば、時間の前後を区別する根拠そのものが失われる。
これに対して、未来へ向かう可能度の全体がゼロになる一点は、直線性の終端である。その点に到達した存在は、現在の状態からいかなる差異も次へ渡すことができず、どのような関係も生成できない。このような完全停止が現実に存在するかについては、単に局所的な運動が停止したことだけでは判断できない。静止した物体も周囲との関係を持ち、時間の経過によって状態を変え、他の作用を受ける可能性を持つ。生命活動が停止した身体も、物質的変化や周囲への作用を継続する。したがって、動けないという日常的状態と、存在差を一切後続させられない絶対的停止は同一ではない。
絶対的停止点を定義するならば、ある状態Zについて、そこから到達可能な後続状態の集合が完全に空であり、同時にZの存在差が他のいかなる状態にも移されないことが必要になる。しかし、Zがある時刻に存在していると言えるならば、その存在自体が周囲との関係を形成し、少なくとも「Zがある場合」と「Zがない場合」の差を生じさせる。すると、Zは何の差異も後続させない完全停止点ではなくなる。この意味で、存在しているにもかかわらず一切の後続接続を持たない一点は、存在の定義そのものと衝突する可能性がある。
それゆえ、有界可能域の内部において「動けなくなる一点」があるとしても、それは存在一般の完全停止ではなく、特定の可能Aへの接続が永久に閉じる局所的終端として理解する方が適切である。ある可能性は終わるが、存在差のすべてが終わるわけではない。ある選択は二度とできないが、その選択不能性自体が後続状態の条件となり、新たな直線を形成する。
ここで、「選択できない一回目が現在進行形において出現するか」という問いに戻る。選択できない一回目は、最初から不可能であった対象には存在しない。初めからAへの経路がなかったならば、Aは失われたのではなく、最初から当該存在の可能域に含まれていなかった。選択できない一回目が成立するためには、まずAが現在の可能域に含まれ、その後のある変化によってAが除外されなければならない。
したがって、その構造は次のようになる。
第一段階では、Aが可能である。
第二段階では、A以外の状態Bが通過される。
第三段階では、Bの通過によってAへの接続条件が失われる。
第四段階では、Aが後のすべての可能域から除外される。
この第三段階から第四段階へ移る境界が、選択できない一回目の成立である。それ以前には「Aを選ばなかった」が成立しているだけであり、それ以後に初めて「Aを選ぶことができない」が成立する。選ばないことと、選べないことのあいだには、可能度の保存に関する決定的な差がある。
さらに、選択できない一回目は、必ずしも一点的な時刻として現れるとは限らない。可能度の喪失が徐々に進行し、ある期間を通じてAへの経路が狭まり、最終的に消える場合もある。このとき、Aがまだ可能である最後の時点と、Aが完全に不可能となった最初の時点のあいだに、連続的な移行領域が存在する可能性がある。したがって、一回目という語は、必ずしも無幅の瞬間を意味せず、可能から不可能への不可逆的移行が成立する最小領域を意味する。
この移行領域において、Aへの可能度が一〇〇からゼロへ突然落ちる必要はない。Aへ至る経路の一部が失われ、必要条件が増加し、到達に必要な時間や距離が拡大し、最終的に有限の条件では到達できなくなることも考えられる。ここで一%という最小差が重要になる。Aへの可能度のうち一%が失われても、残り九九%によってAへ到達できるならば、Aそのものはまだ可能である。しかし、その失われた一%が、Aの同一性に不可欠な要素であるならば、到達できるのはAに似たA′であって、完全なAではない。
この区別は、生と死の問題にも深く関わる。生命が損傷を受けた後、外見や一部の機能を回復できたとしても、失われた細胞状態、記憶、時間的履歴、内部関係のすべてを完全に戻せるとは限らない。生きている間にも、生命は過去の自己状態の一部を永久に失いながら、新しい自己状態を形成し続ける。したがって、生は、何一つ失わない完全保存ではない。生とは、不可逆的な損失を含みながらも、自らの直線性と未来への可能度を再構成し続ける過程である可能性がある。
死を考える際に重要になるのは、一%の不可逆的損失が生じたかどうかだけではなく、その損失によって、生命としての自己接続全体が再形成不能になったかどうかである。生命は日々、回復不能な過去を生み出している。それでも生命であり続けるのは、過去の完全再現ではなく、現在の自己構造を次の状態へ接続する能力を保持しているからである。死は、過去へ戻れなくなることではない。生きている存在も過去へは戻れない。死の区分は、未来へ向けて自己を一つの生命として更新する直線性が失われる点に置かなければならない。
もっとも、生命としての直線性が終わっても、存在差としての直線性が終わるわけではない。この点は前節から引き継がれる。生命Aが死によって自己維持可能域を失ったとしても、Aを構成していた物質、Aが与えた影響、Aが通過した履歴は、別の状態へ接続される。したがって、死はAに関する一つの巨大な可能域の閉鎖であっても、Aの存在差全体が無へ帰する完全停止点ではない。
本節における一%の問題は、永久保存性をより厳密にする。一%でも回復不能な可能域が発生すれば、完全な同一状態への再到達は不可能になる。この意味では、存在の時間発展は、常に何らかの非到達点を後方へ残している可能性がある。しかし、その非到達点が存在することは、保存性が失敗したことを直ちには意味しない。なぜなら、失われた一点が、後続状態に何の差も残さず消滅したのか、それとも、戻れなさという形で後続状態の構造へ保存されたのかによって意味が異なるからである。
一度通過したAへ二度と戻れない場合、二つの構造が考えられる。第一は、Aが完全に消去されたため、Aへの道も、Aの痕跡も、Aを通過した差異も存在しないという構造である。第二は、Aを通過したという差異が保存され、その保存によってA以前の状態へ戻れないという構造である。前者では、Aは絶対的な無へ近づく。後者では、Aは現在の中に履歴として残る。
永久保存性理論が中心的に検討するのは後者である。時間の不可逆性が、過去を破壊するために生じるのではなく、過去が後続状態へ変換されながら保存されるために生じる可能性である。一度起きた事象が二度と一回目として再現できないのは、その事象が無になったからではなく、その事象が起きたという差が、世界の現在条件へ組み込まれているためではないか。この仮説が成立するならば、一%の再到達不能性は、永久保存性を否定する裂け目ではなく、存在差が消去されていないことを示す最小の証拠となる。
それでも、すべての再到達不能性を保存の証拠と見なすことはできない。ある経路が閉じた理由が、単に観測者の知識不足や能力不足にある場合、それは存在論的な不可能性ではない。また、現在の条件では到達できなくても、別の条件が形成されれば到達可能になる場合、それは永久的な非到達点ではない。したがって、一%の不可逆性を認定するためには、将来のすべての接続可能性を含む強い条件が必要になる。
現実の観測者が未来のすべてを調べることはできないため、「永遠に不可能である」という命題を経験的に完全証明することは困難である。このため、本論では、永久的非到達性を直接観測するのではなく、構造的な不変条件として定義する必要がある。ある状態Aへの接続に必要な条件Cが、一度の通過によって失われ、その条件Cを生成するいかなる経路も後続可能域に存在しないならば、Aは構造的に再到達不能である。ここで重要なのは、単にCが現在失われていることではなく、Cを回復させる可能度まで失われていることである。
この構造を、可能度の二階的喪失と呼ぶことができる。第一階の喪失は、Aへ直接到達できなくなることである。第二階の喪失は、Aへ到達する能力または条件を回復する可能性そのものが失われることである。第一階の不可能性だけならば、後に接続が回復する余地がある。第二階まで失われた場合、Aは現在の系列から永久に除外される。
たとえば、扉が閉じたため部屋へ入れない状態は第一階の不可能性にすぎない。扉を開ける手段が残っているならば、可能度は回復できる。扉そのものが失われ、別の入口もなく、入口を再形成する資源や能力も永久に失われたならば、第二階の不可能性が成立する。このとき初めて、部屋への接続は構造的な終端を持つ。
一回目のAに戻る問題では、「まだAを通過していない」という条件を回復することができないため、履歴的には第二階の不可能性が成立しているように見える。一度Aを通過した後、Aを通過した事実を保持したまま、Aを通過していない状態を再形成することはできない。履歴を消去すれば条件を近似できるように思えるが、完全な履歴消去が可能であるならば、その消去過程自体が新しい履歴となり、最初のAとは異なる。したがって、一回性を含む完全状態は、本質的に再到達不能である。
この意味で、現在進行形には、一度でも発生すれば永遠に辿り着けない一点が、常に形成されている。それは過去そのものである。過去は、存在しなかったものとして消えるのではなく、すでに通過されたために、一回目の現在として再選択できない領域となる。過去が再到達不能であることは、過去が無であることを意味しない。むしろ、過去が現在の条件へ変換されて残っているからこそ、現在は過去以前へ戻れない。
ここに、本節の重要な反転がある。一%でも二度と直線的に可能にできない領域が生じれば、永遠に連続できない一点が存在するという命題は、ある意味で正しい。ただし、その一点は、存在の直線が完全に断ち切られた穴とは限らない。それは、直線が一度通過したために、同じ一回目としては再び通過できない履歴点である可能性がある。直線はその点へ戻れない一方で、その点を起点の一部として未来へ進み続ける。
したがって、「連続できない」という表現にも二つの意味がある。一つは、Aから先へ接続できないことである。もう一つは、後の状態からAへ逆向きに同一接続を再形成できないことである。前者は前方連続性の喪失であり、後者は逆向き再現性の喪失である。時間的存在は、後者を失いながら前者を保つことができる。過去へ完全には戻れなくても、未来へ進む直線は維持できる。
永久保存性を考えるうえで、前方連続性と逆向き再現性を同一視してはならない。保存されているものが常に完全に復元できるとは限らず、完全に復元できないものが必ず消滅したとも限らない。存在差は、逆向きに読み戻せないほど拡散しながらも、前方の時間発展へ影響を渡し続けることができる。したがって、一回目のAを再現できないという一%は、Aの保存が失われたことではなく、Aが可逆的な記録ではなく不可逆的な履歴として保存されたことを示す可能性がある。
本節の問いに対する暫定的な結論は、次のように整理できる。有界な可能域の内部には、特定の可能性へ二度と到達できなくなる局所的な終端が成立しうる。しかし、その終端が存在することは、存在全体の直線性が終わったことを意味しない。ある可能Aが失われても、Aを失ったという差異が後続状態へ保存され、新たな可能域を形成する場合がある。
また、選択できない一回目は、Aが最初から不可能である場合には存在せず、Aが一度は可能であったにもかかわらず、ある通過によってAへの直接的接続と、その接続を回復する可能性の双方が失われたときに成立する。これは、選択しなかった一回目ではなく、選択可能性そのものが不可逆に閉じた最初の領域である。
さらに、一つの可能が直線的に進む領域を二分の一にしないためには、実現されなかった可能性を、完全な無として切り捨てない構造が必要である。一つの結果が実現しても、それ以外の経路が、分岐条件、制約、履歴差、可能度の変換として後続状態に残るならば、現在は可能域を単純に二つへ切断してはいない。現実化の排他性があっても、存在差の完全消去がなければ、可能域は失われた側を変換しながら一つの系列へ保持している。
そして、一回通過したAが二度と直線的に可能にできないという一%が発生した場合、完全状態としてのAには、確かに永遠の再到達不能性が成立する。しかし、その一%は、Aが無になったために失われたのではなく、Aの通過が履歴として保存されたために回復不能になった可能性がある。Aへ戻れないことは、Aが消えた証拠ではなく、Aが世界を変えた証拠となりうる。
ゆえに、本節において提出される基礎命題は、次のようになる。
有界であることは、直線性の終端を意味しない。有界な領域の内部にも、変化と接続の連続性は成立しうる。直線性が本当に終わるのは、現在から未来へ差異を渡す可能度が完全にゼロとなり、その可能度を回復する可能性も失われたときである。
一度の通過によって失われる可能性には、一時的な不可能性と永久的な非到達性がある。永久的な非到達性は、対象への直接経路だけでなく、経路を再形成する可能性まで失われた場合に成立する。
現在が一つの結果を形成することは、可能域を直ちに二分し、実現されなかった側を絶対的な無へ移すことではない。選ばれなかった可能性が、実現された結果の条件、制約、履歴差として残るならば、可能域は形を変えながら保存される。
そして、一%でも回復不能な差異が生じるならば、完全な過去状態への再到達は不可能になる。しかし、その不可能性は、存在差の消去ではなく、存在差の不可逆的保存によって生じている可能性がある。
現在進行形とは、可能性を単純に消費する一点ではない。それは、一回限りの状態を後方へ確定しながら、その状態によって生じた差異を未来の可能域へ変換する領域である。現在は、通過されるたびに二度と同じ一回目にはならない。それでも、その一回目は無へ消えるのではなく、次の現在が以前と同じではないことを成立させる差として残る。
したがって、永遠に辿り着けない一点が存在するとしても、その一点は必ずしも存在の墓所ではない。それは、存在が一度そこを通過し、その通過をなかったことにはできないために生じる時間的な境界である。存在は、その境界へ戻ることができないまま、その境界を自らの履歴として保存し、さらに先へ直線を延ばしていくのである。




