第一節 事象の起点と、現在に保存される直線性
■ 第一節 事象の起点と、現在に保存される直線性
永遠に保存されるものは何かという問いは、何らかの物体、生命、情報、記憶、運動、因果関係が、時間の終わりまで同一の状態を保ち続けるかを問うだけでは十分ではない。なぜなら、現実に存在するものの多くは、その存在期間の内部においてすでに変化しており、同一の形態、同一の位置、同一の構成、同一の機能を一瞬ごとに厳密に維持しているわけではないからである。生命は代謝によって内部の物質を交換し、物体は周囲との熱的・力学的な相互作用によって微細な状態を変え、情報は記録媒体の変質や伝達過程を通じて表現形式を変え、ある運動は別の物体へ力を伝えながら、自らが持っていた運動の状態を失っていく。このように、存在している最中でさえ、存在は一つの固定した内容をそのまま保持しているのではなく、変化しながら、それでもなお一つのもの、一つの事象、一つの連続した過程として扱われている。したがって、永久保存性を考えるためには、まず何が変化してもなお一つの存在として接続されているのか、ある事象の起点から後続する状態へ向かって、何が完全には断たれずに残されているのかを問わなければならない。
本節における最初の命題は、保存されるものを、変化しない内容としてではなく、変化の前後を一つの過程として結びつける接続として捉えることである。ある存在Aが時刻t₁において状態A₁にあり、後の時刻t₂において状態A₂へ変化したとき、A₁とA₂が同じ状態ではないことは、Aが保存されなかったことを直ちには意味しない。A₁からA₂への移行に、一定の時間的、物理的、因果的、構造的な連続が存在するならば、変化した内容の背後で、A₁とA₂を一つの系列へ属させる何らかの保存性が働いている。ここで保存されるものは、A₁という形態そのものでも、A₂という結果そのものでもなく、A₁がA₂へ到達するまでの変換関係である。この関係は、対象がどの状態から出発し、どの方向へ変化し、どの範囲の可能性を保持しながら次の状態へ接続されたかを含む。すなわち、保存とは、一つの状態を静止させることではなく、状態が変化しても、その変化が無関係な別の出来事へ断裂しないための条件である。
このとき、「永遠に保存されるものは何か」という問いは、「永遠に変わらないものは何か」から、「いかなる変化の中でも、前後を完全な無関係へ分離させないものは何か」へと置き換えられる。前者の問いでは、変化したものは保存されなかったと判断される。しかし後者の問いでは、変化は保存の否定ではなく、保存が現実に現れる形式となる。あるものが何の変化も受けないのであれば、そこでは保存が働いているのか、それとも単に何も起きていないのかを区別しにくい。これに対して、状態が変わりながらも、その前後が一つの時間的な系列として接続されている場合には、変化の中に何らかの連続性が保持されていることが明らかになる。したがって、本論における保存性は、静止した対象の属性としてではなく、変化する現実の内部に成立する関係として考えられなければならない。
ここで必要になるのが、事象の「起点」という概念である。ある事象が起こったというとき、私たちは通常、それが始まった時刻、場所、原因、または最初に観測された状態を起点と呼ぶ。しかし、厳密に考えるならば、事象の起点を一点として完全に切り出すことは容易ではない。たとえば、物体が動き始めた時点を起点とするとき、その運動は力が加えられた瞬間から始まったのか、物体内部の応力が変化した時点から始まったのか、観測可能な変位が生じた時点から始まったのかによって、起点の位置は異なる。生命の誕生を起点とする場合にも、受精、細胞分裂、個体性の成立、出生、自己維持機能の確立など、何を基準とするかによって始まりは変わる。したがって、起点とは、時間上に孤立した無幅の一点というより、ある変化系列が他の系列から区別され、一つの事象として追跡可能になり始める最小の成立領域として定義する必要がある。
事象の起点をこのような成立領域として考えるならば、起点は単なる過去の位置ではなく、その後に続く可能性の分布を発生させる場所でもある。ある事象Aが起点Oにおいて成立したとき、そこからただ一つの結果だけが機械的に切り出されるとは限らない。Aは、周囲の条件、内部状態、他の事象との相互作用に応じて、複数の異なる後続状態へ接続されうる。もっとも、ここでいう複数の可能性は、すでに完成した複数の世界が並んで存在していることを意味しない。本論における可能性は、起点から将来の状態へ至る接続が、現在の内部において完全には閉じられていないことを意味する。可能性とは、結果の一覧ではなく、現在から次の状態へ変化できる関係の開かれ方である。
この開かれ方をより具体的に捉えるため、本論では「可能」と「可能度」を区別する。ある結果Bが可能であるという判断は、起点OからBへ到達する経路が少なくとも一つ存在することを示す。しかし、それだけでは、その経路がどの程度の時間を要し、どの距離を通過し、どれほどの条件を必要とし、どの程度の連続性を保ちながら到達できるのかは明らかにならない。可能度とは、ある起点から特定の状態へ至る接続が、現在の物理的・時間的条件の中で、どの程度保持されているかを示す構造的な概念である。それは単なる確率ではない。確率が、複数回の試行や分布の中で結果の生起割合を表すことが多いのに対して、可能度は、一回的な現在から将来へ向かう到達経路が、どの範囲まで切断されずに残っているかを問う。
ある事象Aの起点をO_Aとし、時刻tにおいて到達しうる状態の集合をR_A(t)とするならば、可能度は、単にR_A(t)に含まれる状態の数によって決まるのではない。到達可能な状態が多くても、それぞれへの経路が極端に不安定であり、わずかな条件変化によって失われるならば、その可能度は強く保存されているとは言いにくい。反対に、到達可能な結果が限られていても、起点からその結果へ向かう接続が、時間経過や局所的な変化を受けながら安定して維持されるならば、可能度は強い。したがって、可能度には、到達可能性の有無だけでなく、接続の持続時間、必要な距離、経路の連続性、条件変化への耐性、他の事象との干渉による変形可能性などが含まれる。
この可能度が保存されるということは、ある結果が必ず実現することを意味しない。たとえば、ある物体が右へ移動する可能度を持っているとしても、実際には左から力を受けて別方向へ移動するかもしれない。それでも、右へ移動する接続が現在のある範囲において開かれていたならば、その可能度は、その範囲では現実の構成要素であった。結果として実現されなかった可能性を、最初から存在しなかったものとして扱うと、現在の内部における選択可能な変化の構造が失われる。本論が保存性と可能度を結びつけるのは、事象の起点が後に実現した一つの結果だけを保存するのではなく、結果へ至るまでに保持されていた接続の幅もまた、現在進行形の存在を成立させていると考えるからである。
もっとも、実現されなかった可能性が、実現された事象と同じ意味で永久に残ると直ちに主張することはできない。実現された事象は、後続状態へ具体的な変化を与えるが、実現されなかった可能性は、そのまま物理的な結果として残るわけではない。しかし、ある可能性が存在していたことによって、実現された経路の選択条件や制約が形成されていたのであれば、その可能性は結果の外側に完全に無関係なものでもない。たとえば、複数の経路が開かれていた状況で一つの経路が成立した場合、成立した経路の意味は、他の経路が閉じられたこととの関係によって定まる。したがって、起点から後続状態へ何が保存されるかを考える際には、実現された状態だけでなく、実現に至るまでの可能度の配置が、どのように結果の内部へ変換されたかを検討しなければならない。
この問題は、時間と距離の関係を導入することで、さらに具体的になる。ある事象が起点から後続状態へ接続されるためには、少なくとも何らかの時間的幅を必要とする。起点と結果がまったく同一の時刻にあり、そのあいだにいかなる変化も介在しないならば、起点から結果へ至ったという過程を語ることはできない。また、物理的な存在が位置を変え、他の存在へ作用を及ぼす場合には、空間的または関係的な距離も必要となる。距離は、単に二点間の長さではなく、作用が伝達され、状態が移行し、存在差が別の領域へ接続されるための隔たりである。時間と距離は、事象を妨げる外部的な制約であるだけでなく、事象が一つの過程として成立するための基盤でもある。
ここで、起点Oから状態Bへ至るまでに必要な時間をΔt、通過する物理的または関係的距離をΔdとすると、可能度は少なくとも、この二つの量から独立ではない。到達に必要な時間が、事象の構造を維持できる時間を超えているならば、Bへの可能度は途中で失われる。到達に必要な距離が、作用を伝達できる範囲を超えているならば、起点と結果を直接的な一系列として結ぶことはできない。したがって、ある可能性が現在に存在しているというためには、その可能性が抽象的に考えられるだけでは足りず、起点から結果までの時間的・距離的な接続が、少なくとも一定の範囲で保存されていなければならない。
このことから、可能度の保存には「到達可能範囲」という概念が必要になる。ある起点O_Aから、有限時間Tの内部で連続的に接続できる状態の範囲をC_A(T)とする。この範囲は、事象Aが現在の条件を保持しながら、どこまで別の状態へ移行できるかを表す。ここで重要なのは、C_A(T)が単なる未来予測の集合ではなく、Aの現在的な実在の広がりを示すという点である。Aが存在しているとは、Aが現在の一点に固定されていることだけではなく、Aが次の瞬間へどのような変化を接続できるかが、完全には失われていないことでもある。何らの後続状態にも接続できず、いかなる関係も形成せず、時間の中で一切の差異を生じさせないものがあるとすれば、そのものを存在していると呼ぶ根拠は著しく弱くなる。
したがって、本論では、存在を「現在位置の占有」だけによって定義しない。位置を占めることは存在の重要な条件であるが、位置だけでは、その存在が時間的に継続しているのか、一瞬ごとに無関係な別の状態が現れているだけなのかを区別できない。存在が現在進行形において成立するためには、現在の状態が直前の状態から何らかの接続を受け取り、同時に次の状態へ何らかの接続を渡していなければならない。この受け取りと受け渡しの関係が、一つの存在を時間の中に直線化する。
ここでいう「直線」とは、空間上の幾何学的な直線を意味しない。現実の運動は曲がり、振動し、分岐し、他の運動と衝突し、複雑な軌道を描く。そのような変化であっても、一つの起点から後続状態へ向かう接続が、途中で完全な無関係へ断たれていないならば、本論ではそれを直線的な接続と呼ぶ。直線性とは、形状の単純さではなく、事象の前後が一つの系列として追跡できることである。A₁からA₂へ、A₂からA₃へと状態が変化するとき、それぞれの移行が連続的な関係を持ち、A₃がA₁およびA₂と完全に無関係な状態として突然成立したのではないならば、Aの存在は時間の中で一つの直線を形成している。
この直線は、一本の細い線として初めから完成しているわけではない。現在においては、複数の可能な遷移が開かれており、その中から一つの状態が現実化するたびに、存在の履歴が後方へ確定していく。したがって、現在の直線性は、過去から未来まで決定済みの経路を意味するのではなく、過去から受け取った接続を切断せず、未来へ少なくとも一つの到達可能性を渡し続ける性質である。存在が現在進行形において直線を作るとは、未来を一つに固定することではなく、現在が過去との接続を保持したまま、次の状態へ移行可能な幅を持つことである。
この点において、直線性と可能度は対立しない。直線が一本であるならば、可能性は一つしかないように見えるかもしれない。しかし、本論における直線性は、現在における可能性の分岐を否定するものではない。ある起点から複数の経路が開かれていても、それぞれが起点との連続的な関係を保持している限り、すべては同じ起点から派生する接続可能な直線である。実際に一つの経路が成立した後、その経路は過去から現在へ続く一つの履歴として確定する。しかし、成立以前の現在においては、複数の直線的接続が重なりながら、どれも完全には結果へ到達していない。可能度とは、この未確定の接続が、現在の内部にどの程度保存されているかを表す。
したがって、ある存在Aの現在的実在は、単一の点x(t)だけではなく、その点が過去から受け取った履歴H_A(t)と、そこから未来へ開かれている到達可能範囲C_A(t)との結合として捉える必要がある。これを概念的に、
E_A(t)=〈x_A(t), H_A(t), C_A(t)〉
と表すことができる。ここでx_A(t)は現在の配置、H_A(t)は現在まで保存された接続履歴、C_A(t)は現在から接続可能な状態の範囲である。存在Aが現在にあるとは、単にx_A(t)が与えられていることではなく、x_A(t)がH_A(t)から切断されず、同時にC_A(t)が完全な空集合になっていないことである。過去との接続を一切持たない点は、どこから成立したのかを持たず、未来への接続を一切持たない点は、現在の直後に何の差異も渡せない。両者が完全に欠けるならば、その点を時間的な存在と呼ぶことは困難になる。
もっとも、C_A(t)が空であることを、そのまま死や消滅と定義することはできない。ある個体の内部的な活動が停止しても、その身体や周囲への影響は後続状態へ接続されるため、個体を構成していたすべての存在差が未来への接続を失うわけではない。ここで区別すべきなのは、個体としての自己継続可能性と、存在差としての後続接続可能性である。生命Aが生きている間、Aは内部状態を調整し、自らの構造を一定範囲に保ち、環境から物質やエネルギーを取り込みながら、Aとしての同一性を未来へ接続している。この自己維持的な可能度が失われることは、生命としての死に深く関係する。しかし、Aが世界に与えた存在差まで同時に後続可能性を失うとは限らない。第一章が「存在差、及び生と死の区分」を扱う理由は、まさにこの二種類の接続を分ける必要があるからである。
本節の段階では、生を「存在差があること」だけによって定義しない。石や水や機械も存在差を形成し、時間の中で状態を変化させるからである。生を区別するためには、後の節で、自己維持、内部と外部の境界、可能度の再生産、状態選択、損傷への応答などを検討する必要がある。しかし、生と死の区分へ進む前に、存在一般が何を保存しているのかを明らかにしなければならない。生命が死ぬとは、存在一般が無になることではなく、存在の中に成立していた特定の保存構造が維持できなくなることかもしれないからである。
そこで、本節における問いをさらに限定する。永遠に保存されるものがあるとすれば、それは対象の外形でも、名称でも、局所的位置でも、特定の機能でもない可能性が高い。これらは時間の中で失われうる。しかし、それらが失われる過程において、前状態から後状態へ何も渡されていないわけではない。物質は別の配置へ移り、運動は別の系へ伝わり、熱は周囲へ拡散し、情報は読み取れない形へ変質し、因果的な変化はさらに別の事象を生じさせる。ここで残るものは、一つの内容ではなく、「以前の状態があったために、現在の状態がそれとは異なる形で成立している」という関係である。
この関係を存在差の継続と呼ぶことができる。存在差は、Aという対象がそのまま残ることではない。Aが成立したことによって、後続する世界の状態が、Aの成立しなかった場合とは同一でなくなることである。Aが別の状態Bへ変化し、さらにCへ変化したとしても、CがAを経由した系列に属しているならば、Aの存在差はCの中に、変換された関係として含まれている可能性がある。もちろん、CからAを完全に復元できるとは限らない。存在差の保存と復元可能性は同一ではない。Aの情報が多数の要素へ拡散し、実際には読み戻せないとしても、Cの成立過程がAの存在を条件としていたならば、Aは結果から完全に無関係になっていない。
この意味における永久保存性は、対象の完全復元可能性を要求しない。もし保存を復元可能性と同一視するならば、人間の観測能力や計算能力の限界によって、保存の有無が変わってしまう。ある情報が現在の技術では回収できないが、より高度な方法では回収できる場合、その情報は前者の観測者にとって消滅し、後者にとって保存されていることになる。しかし、存在論的な保存性は、特定の観測者の能力だけによって決まるべきではない。したがって、本論では、少なくとも「実際に回収できる保存」と「原理的な関係として残る保存」を区別する。永久保存性が対象とするのは後者である。
もっとも、「原理的に残っている」と述べるだけでは、検証不能な主張へ陥る危険がある。そのため、本論は、存在差保存を無制限に認めるのではなく、どのような条件のもとで前状態と後状態の接続を認められるかを定めなければならない。第一の条件は、時間的連続である。Aの状態とBの状態のあいだに、何らの移行過程もなく、因果的な接続も示されないならば、BをAの変換後と見なす根拠はない。第二の条件は、関係的連続である。AからBへ何らかの量、構造、作用、制約、情報、相関が移されていなければならない。第三の条件は、系列的識別である。Aを含む過程とAを含まない過程とのあいだに、少なくとも概念上の差を設定できなければならない。第四の条件は、完全な断絶が生じていないことである。A以前とB以後が、互いに何の関係も持たない独立した出来事であるならば、そこに保存を認めることはできない。
この四条件を満たすとき、Aの存在差は、同一の姿ではなく、直線的な接続としてBへ保存されたと考えられる。ここで再び、直線性は単純な軌道ではなく、起点から結果までの系列的な一貫性を意味する。ある出来事が複雑な変化を経ても、それぞれの段階が前段階を条件として成立しているならば、全体は一つの直線的な過程として扱える。反対に、見かけ上は同じ形が繰り返されていても、前の状態と後の状態に何の接続もなければ、そこに保存はない。たとえば、過去の物体と完全に同じ形の物体が後に別の場所で生成されたとしても、その両者に物理的・情報的・因果的な接続がなければ、前者が後者として保存されたとは言えない。形態の一致は、接続の保存を保証しない。
ここから、「何かが存在している」という定義を、現在進行形における直線形成として捉えることができる。存在とは、現在の一点に何かが固定されている状態ではなく、過去から受け取った差異を、現在の変換を通じて未来へ渡している状態である。何かが存在しているということは、そのものが少なくとも一つの前状態と一つの後続可能状態を結び、世界の時間発展の内部に一つの非ゼロの系列を形成していることを意味する。存在Aが現在にあるならば、Aは過去の全体をそのまま保持している必要はない。しかし、Aが現在のAであるためには、過去から現在へ至る何らかの接続が保存されていなければならない。同様に、Aは未来の全体をあらかじめ持つ必要はないが、少なくとも次の状態へ差異を渡せる可能度を持たなければならない。
この定義において、現在は過去と未来を切断する無幅の境界ではない。もし現在がまったく幅を持たず、過去がすでに存在せず、未来がまだ存在せず、現在だけが何らの持続も持たない一点であるならば、その一点の中で変化や保存が起こる余地はない。存在が現在進行形であるためには、現在は少なくとも、直前の状態を受け取り、次の状態へ渡す最小の接続幅を持たなければならない。この幅は、時計によって一律に測定される特定の長さを意味するとは限らない。それは、事象が一つの事象として自己を接続できる最小の時間的・関係的領域である。
したがって、現在における保存とは、過去の状態を現在の内部へそのまま複製することではなく、過去との関係が完全に失われない形で現在の状態が成立することである。現在における可能度とは、未来の結果がすでに現在の中に完成していることではなく、現在から次の状態へ向かう接続が完全には閉ざされていないことである。そして、現在における直線性とは、過去から受け取った差異と未来へ渡される可能度とが、同じ現在の中で一対一に接触していることである。
この一対一という表現は、過去の一つの状態が未来の一つの結果だけを決定するという意味ではない。ここでの一対一は、ある現在の状態が、少なくとも自らの直前状態と無関係ではなく、また、自らの後続状態へ差異を渡す唯一の現実的な接続点として機能することを意味する。未来に複数の可能性があっても、実際にそれらへ接続できるのは、現在のこの状態を通じてである。過去の事象が未来へ影響を与えるとき、その影響は現在を飛び越えて直接未来へ届くのではなく、現在の状態へ変換され、そこからさらに次の状態へ移される。したがって、現在は存在差の通過点であると同時に、可能度の更新点でもある。
事象の起点は、この現在的な更新が、一つの系列として識別され始める場所である。起点Oにおいて、存在差D_Oが生じ、同時に後続状態への可能度P_Oが開かれる。時間が進むにつれて、D_Oは同じ形のまま残るのではなく、各時点の状態へ変換される。またP_Oも固定された数値として維持されるのではなく、実現された経路、失われた経路、新たに生じた条件によって更新される。したがって、起点から保存されるものは、初期状態の完全な複製ではなく、初期状態が後続状態に対して持ち続ける非無関係性である。
この非無関係性を、本節では「起点保存」と呼ぶ。起点保存とは、事象がどれほど変化しても、その後続状態が起点をまったく含まない独立した状態へ転じることなく、起点からの変換系列として成立し続けることを意味する。ここで起点が保存されるとは、起点の時刻や場所が後続状態の内部にそのまま刻まれていることではない。後続状態の成立理由、構造、運動、制約、可能度の少なくとも一部が、起点を経たことによって異なっているという意味である。
たとえば、一つの小さな力が物体へ加えられ、その運動が別の物体との衝突を生み、さらに別の運動へ受け渡された場合、最初の力は途中で局所的な形を失う。しかし、後続する運動が最初の作用を条件として成立したならば、その起点は変換された形で系列の中に保存されている。時間が経過し、運動が多数の要素へ分散し、最初の作用を個別に追跡できなくなっても、それだけで起点が完全に消えたとは言えない。完全消去を主張するためには、最初の作用があった場合となかった場合とで、後続状態が厳密に同一になることを示さなければならない。
しかし、ここで一つの難問が生じる。時間が十分に経過し、起点から生じた差異が極めて多数の相互作用へ拡散した場合、個別の起点を一つの原因として切り分け続けることはできるのだろうか。世界の各状態は無数の先行事象を条件としており、ある一つのAだけを取り出して、その差異がどこに残っているかを特定することは困難である。Aの存在差は、別の存在差と重なり、相殺され、増幅され、別の構造へ組み込まれる。したがって、永久保存性は、Aの差異が永遠に独立した印として残るという理論ではない。むしろ、Aの差異が他の差異との関係へ変換されても、Aが最初から存在しなかった場合と完全に同一の系列へ戻ることが可能かを問う理論である。
差異同士が相殺される場合にも注意が必要である。二つの反対方向の運動が打ち消し合い、全体として静止したように見えるとき、それぞれの運動が絶対的に無になったとは限らない。相殺後の内部状態、熱、変形、微視的な運動その他に、相互作用の結果が残る可能性がある。数値上の総和がゼロであることと、構成要素の履歴が存在しなかったことは同じではない。この点は、永久保存性における「ゼロ」の意味を明確にするうえで重要である。ある測定量がゼロになっても、存在差全体がゼロになったとは限らない。存在差の完全消去とは、特定の量が相殺されることではなく、起点を経た系列と経なかった系列のあいだに、いかなる関係的な非同一性も残らないことである。
このような完全なゼロを現実に示すことは、極めて困難である。観測者は世界全体の状態を完全には取得できず、観測されなかった微小な差異が残っている可能性を排除できない。しかし、永久保存性理論は、観測できない差異を無条件に存在すると主張することで成立するのではない。必要なのは、完全消去を成立させるための理論的条件と、接続保存を成立させる条件を比較することである。もし世界の時間発展が、各状態を前状態から生成し、変化を何らかの関係として後続状態へ受け渡す構造を持つならば、完全消去には、その関係をすべて切断する特別な機構が必要になる。反対に、状態が一定の時点で過去との関係を完全に失い、同じ現在状態へ複数の異なる履歴が何の差異もなく収束できるならば、起点保存には限界がある。
この問題は、決定性と非決定性のいずれか一方によって単純に解決されるものではない。世界の時間発展が完全に決定的であるならば、現在状態は過去状態から一意に導かれ、起点の差異が後続状態へ保存されやすいように見える。しかし、異なる過去が同じ現在へ収束する非可逆的な写像が存在するならば、決定的であっても過去の区別は失われうる。反対に、時間発展が非決定的であっても、各結果がどの起点条件から生じたかについて相関を保持するならば、存在差は完全には失われない可能性がある。したがって、永久保存性を決めるのは、未来が一意に決まるかどうかだけではなく、時間発展が異なる起点の差異を完全な同一状態へ重ね合わせることができるかどうかである。
ここで、ある時間発展を写像F_tとして、起点状態O_Aを時刻tの状態へ移す関係を、
F_t(O_A)=S_A(t)
と表す。別の起点O_Bが、
F_t(O_B)=S_B(t)
へ移るとする。もしO_A≠O_Bであるにもかかわらず、ある有限時刻T以後に、
S_A(t)=S_B(t)
が完全に成立し続けるならば、時間発展は少なくともAとBの起点差を消去したことになる。反対に、どの有限時刻においてもS_A(t)とS_B(t)のあいだに何らかの非同一性が残るならば、起点差は変換されながら保存されている。この定式化によって、永久保存性の問いは、対象が同じ姿で残るかではなく、異なる起点が有限時間内に完全に同一の後続状態へ到達できるかという問題へ移される。
ただし、二つの状態が完全に同一であるとは何を意味するのかも、後に検討しなければならない。局所的な観測量が一致するだけで十分なのか、世界全体の状態が一致しなければならないのか、未来のすべての発展可能性まで一致する必要があるのかによって、同一性の基準は変わる。もし現在の観測値が同じでも、その後に異なる変化を生じうるならば、両者の可能度は異なっており、完全に同一とは言えない。したがって、存在差の比較には、現在の状態だけでなく、その状態から開かれている未来の可能度も含める必要がある。
この点は、本節の中心にある「現在進行形において何を直線にすることができているか」という問いへ直接つながる。現在に存在しているものは、過去の結果であるだけではなく、未来への可能度を持つ起点でもある。したがって、現在の状態を完全に記述するためには、そこへ至った履歴だけでなく、そこから何が可能であるかも考慮しなければならない。二つの現在状態が外見上同じでも、一方は次の状態へ移行でき、他方は移行できないならば、両者は存在論的に同一ではない。現在とは、過去から保存された差異と、未来へ保存される可能度が交差する領域である。
存在が現在進行形において直線にできるものは、第一に、過去の起点から現在までの変換履歴である。第二に、現在から次の状態へ向かう接続可能性である。第三に、過去の履歴と未来の可能度を、一つの存在の内部で連続させる現在的な関係である。これら三つが結ばれることによって、存在は単なる瞬間的な配置ではなく、時間の中に持続する一つの系列となる。
この系列が永久に保存されるかどうかを問うとき、永久とは、系列のすべての細部が永遠に判読可能であることを意味しない。起点から遠ざかるにつれて、差異は拡散し、他の差異と重なり、局所的な識別可能性を失う。そのため、強い意味での起点保存、すなわち起点の具体的内容を完全に再構成できる保存は、多くの場合に失われる可能性がある。しかし、弱い意味での起点保存、すなわち後続状態が起点を経た系列と経なかった系列とで完全に同一にはならないという保存は、なお成立しうる。この強い保存と弱い保存の区別は、今後の論証において重要になる。
強い永久保存性は、対象の同一性、構造、情報、履歴が、任意の将来時点から原理的に復元できることを要求する。これに対して、弱い永久保存性は、対象そのものを復元できなくても、その対象が存在した場合と存在しなかった場合の差が、完全なゼロへ到達しないことだけを要求する。本論が最初に検討すべきなのは後者である。なぜなら、生命や物質の同一性が永遠に保存されると主張するには多くの追加条件が必要であるが、存在差が完全には消えないという命題は、より基礎的であり、保存性の最小条件を表すからである。
この最小条件において、永遠に保存されるものは「物」ではなく「差」である。ただし、その差は固定された数値や印ではない。起点から現在まで、現在から後続状態まで、形を変えながら接続される非同一性である。Aが存在したために、世界がAの存在しなかった場合とは異なる経路を通ったという差であり、その経路差が有限時間の内部で完全なゼロへ戻らない限り、Aの存在差は保存されている。
このように考えると、存在とは、世界の中に何らかの内容を追加することだけではなく、世界の時間発展を一つの経路へ偏らせることでもある。ある存在が成立すれば、その存在との相互作用によって、周囲の状態、可能な変化、到達可能範囲が変わる。存在Aは、自らの位置だけでなく、他の存在がどこへ移動できるか、何と接触できるか、どの変化を受けるかにも差を与える。この意味で、存在は現在の一点を占めながら、同時に周囲の可能度の配置を変化させている。
したがって、存在差は、対象の内部だけに閉じていない。Aの存在によってBの可能度が変わり、その変化によってCの後続状態が変わるならば、Aの差異はBとCの関係へ拡張される。存在は、自らが直接届く距離だけでなく、自らの作用によって変化した別の存在を通じて、より遠い時間と距離へ差異を伝える。この伝達が無限に続くかどうかはまだ明らかではないが、少なくとも、存在差の保存範囲を対象の局所的な形態だけに限定することはできない。
時間と距離の中で連続的に残されるものは、まさにこの関係の拡張である。起点から直接届く作用が終わった後にも、その作用によって変化した状態が次の状態の起点となるならば、最初の起点は間接的な系列へ組み込まれる。距離は作用を弱め、時間は情報を拡散させるかもしれない。しかし、弱まることと消えることは同一ではない。差異が任意に小さくなってもゼロではない場合と、ある時点で厳密にゼロになる場合は区別されるべきである。
本論において永久保存性が問題とするのは、差異の大きさではなく、最終消去点の有無である。ある存在差D_A(t)が時間とともに減少し、
D_A(t)→0 (t→∞)
となる場合でも、任意の有限時刻tにおいてD_A(t)≠0であるならば、差異は有限時間内には完全消去されない。これを永久保存と呼べるかどうかについては、無限極限の意味を含めて慎重な検討が必要である。しかし少なくとも、現実に到達可能な有限時間の内部では、消滅点が存在しないことになる。永久を、無限時間の最後に同じ状態が残ることではなく、どの有限時間にも完全な消去点がないこととして定義するならば、この差異は永久保存的である。
反対に、ある有限時刻TにおいてD_A(T)=0となり、その後もAを含んだ系列と含まなかった系列が完全に一致するならば、Aの存在差はTにおいて消去されたことになる。この場合、AはT以前には存在していたが、T以後の世界においては、Aが存在したことを構成するいかなる非同一性も残っていない。これは、単なる忘却や分解よりもはるかに強い消滅である。本論が後に「死」と「無」を区分する際にも、この完全消去と、生命活動の停止とを混同してはならない。
生命の死は、生命が自らの可能度を内部から維持する能力を失う出来事として捉えられる可能性がある。生きている存在は、外部条件へ受動的に従うだけでなく、内部状態を調整し、損傷を修復し、環境から資源を取り込み、自らの構造が未来へ接続される範囲を更新する。この自己更新によって、生命は単に過去から未来へ押し流されるのではなく、自らの可能度を一定範囲に保ちながら直線性を形成する。死は、この自己維持的直線性が失われる境界であるかもしれない。しかし、死後にも物質的・因果的・関係的な直線性は続くため、死は存在差全体の終端ではない。この点については、次節以降で詳細に区分する。
本節でまず確定すべきなのは、何かが存在しているということが、現在進行形において少なくとも三つの接続を形成しているということである。第一に、その存在がどの起点または先行状態から現在へ到達したかという過去接続。第二に、その存在が現在からどの範囲の状態へ移行できるかという可能接続。第三に、過去接続と可能接続が現在の中で一つの系列へまとめられるという自己接続である。この三つのうちいずれか一つだけでは、存在の全体を捉えられない。
過去接続だけがあり、未来への可能接続がないならば、その存在は完成した記録としてのみ扱われ、現在進行形の変化を持たない。未来への可能接続だけがあり、過去接続がないならば、その可能性は何を起点としているのか不明であり、現実の存在から切り離された抽象的想定になる。自己接続がなければ、過去と未来は同じ現在を通過せず、互いに無関係な系列となる。したがって、存在は、過去を保持し、未来を開き、その二つを現在において一つの直線へ変換することによって成立する。
ここで「直線へ変換する」とは、複数の可能性を一つに削減することではなく、複数の可能性がどの起点から開かれているかを失わないことである。現在における可能度は、どこからでも生じる無制限な自由ではない。それは、過去から受け取った位置、運動、構造、条件の範囲内で開かれる。したがって、現在の可能度は過去に制約されると同時に、過去を単純に反復しない。過去から受け取った条件を用いて、まだ確定していない次の状態を形成する。この意味において、現在は保存と生成の双方を担う。
保存だけであれば、現在は過去の複製になる。生成だけであれば、現在は過去と無関係な突然の出現になる。現実の現在は、過去の差異を保持しながら、それを同一の形ではない未来へ変換する。したがって、存在の直線性は、同じものの反復ではなく、差異を失わずに異なるものへ移行する能力である。この能力が存在の現在量を構成する。
現在量とは、現在の一点に蓄えられている物質量だけを意味しない。それは、過去から保存された差異の量、現在において維持されている構造の範囲、未来へ開かれている可能度の広がりを含む。現在量が大きい存在は、多くの過去接続を保持し、多様な未来接続を形成できるかもしれない。現在量が小さい存在は、限られた接続しか持たないかもしれない。しかし、存在の有無を決める最低条件は、量の大小ではなく、接続が完全なゼロではないことである。
本節の問いに対する暫定的な回答は、次のようにまとめられる。永遠に保存される可能性を持つものは、ある対象の固定的な形態ではなく、その対象が一つの起点として世界に生じさせた存在差である。この存在差は、時間と距離の中を、同じ内容としてではなく、前後の状態を結ぶ変換関係として連続する。事象の可能度は、起点から開かれた複数の結果がすべて実現することではなく、現在から特定の状態へ至る接続が、有限時間と有限距離の内部でどこまで保持されているかを示す。そして、何かが存在しているとは、そのものが現在の一点を占めるだけでなく、過去の差異を現在へ受け取り、現在の変化を未来へ渡し、その前後を一つの非断絶な系列として直線化できていることである。
ただし、この回答は、永久保存性が証明されたことを意味しない。起点の差異が本当に任意の有限時間にわたって残るのか、異なる起点が完全に同一の状態へ収束することはないのか、可能度の差異を存在差としてどこまで含めるべきか、観測不能になった差異を保存と呼べるのかという問題は、なお残されている。さらに、生きている存在が形成する直線性と、生命を持たない物質が形成する直線性の違いも明らかにされていない。
それでも、本節によって、以後の議論に必要な最初の基準は示された。存在は、静止した一点ではない。存在は、起点から現在へ、現在から後続状態へ差異を接続し続ける過程である。保存は、変化しないことではない。保存は、変化によって前状態が完全な無関係へ失われないことである。可能度は、未来の結果がすでに存在することではない。可能度は、現在から結果へ至る接続が、時間と距離の中でまだ閉じられていないことである。そして直線性は、未来が一つに決定されていることではなく、複数の変化を含みながらも、それらが同じ起点と現在を通過する一つの存在系列として結ばれていることである。
ゆえに、永遠に保存されるものを探すためには、物質が同じ場所に残っているか、生命が同じ形で生き続けているか、情報が完全に読み取れるかだけを調べるのでは足りない。問うべきなのは、ある存在が成立したことによって生じた差異が、変化、移動、分解、拡散、相殺、忘却を経た後にも、起点を持たなかった世界と完全に同一になることなく、何らかの後続状態へ接続されているかどうかである。その接続が任意の有限時間内に最終消去点を持たないならば、存在は同一の物としてではなく、世界の中に引かれた消去不能な直線として保存される。
第一節において提出される基礎命題は、ここにある。すなわち、存在とは、何かが現在の中に置かれていることだけではなく、ある起点から生じた差異を、現在進行形の変換を通じて後続状態へ接続し、その接続可能性を完全なゼロへ落とさずにいることである。そして永久保存性とは、同じ存在が同じ姿で永遠に継続することではなく、存在したことによって形成された直線が、どれほど形を変えても、有限時間の内部で完全な非存在へ閉じられない可能性を指すのである。




