序文
存在は完全に失われることができるのか
人を含む生命は死ぬ。物質は壊れ、燃え、溶け、分解され、別の物質へ変化し、長い時間の中では、それがかつて何であったのかを人間の観測能力によって判別できない状態へ移行する。記憶は薄れ、記録は損傷し、身体を構成していた分子は周囲へ拡散し、ひとまとまりの個体として保たれていた構造は失われる。私たちは、このような変化を日常的に「消える」と呼び、生命については「死」、物体については「消滅」あるいは「崩壊」、情報については「喪失」という語によって理解している。しかし、ここで最初に問わなければならないのは、それらの語が本当に同一の終端を指しているのか、ということである。生命活動が停止すること、個体としての形を保てなくなること、その個体に関する情報が復元できなくなること、そして、その存在が存在したという差異そのものが世界から完全に失われることは、互いに近接して見える一方で、論理的にはまったく異なる出来事である。死者の身体が分解されたからといって、それを構成していた物質まで無になったとは限らず、ある人物について誰も思い出せなくなったからといって、その人物が他者や環境に与えた変化まで存在しなかったことになったわけではなく、ある物体の初期状態を再構成できなくなったからといって、初期状態から後続状態へ至る変換関係そのものが消えたとは直ちに言えない。したがって、本論の出発点は、死や崩壊をそのまま絶対的な無と同一視することではなく、私たちが「失われた」と呼んでいる複数の現象の内部から、何が失われ、何が保存され、何が単に追跡不能になったのかを、一つずつ切り分けることにある。
本論が提出する最も基礎的な問いは、きわめて単純な形をしている。すなわち、一度でも存在として成立したものは、完全に存在しなかった状態へ戻ることができるのか、という問いである。ここでいう「戻る」とは、同じ場所から見えなくなることでも、その名称が忘れられることでも、その構造が壊れることでもない。ある存在をAとするとき、Aが現実に成立した世界と、Aが最初から一度も成立しなかった世界とのあいだにあった差が、ある時点以後に完全にゼロとなり、両者をいかなる物理的、情報的、因果的、関係的な基準によっても区別できなくなることを意味する。もしそのような完全一致が可能であるならば、Aは時間の中で消失しただけではなく、Aが存在したことによって生じた世界の差異まで含めて消去されたことになる。反対に、Aの形、機能、記憶、名称、直接的な痕跡がすべて失われた後にも、Aの成立によって変化した何らかの関係が、どれほど微小であれ後続状態の中に保持されているならば、Aは同一のAとして保存されてはいないものの、Aが存在したという差異は完全な無へ移行していない。この区別こそが、『永久保存性理論』の中心へ入るための最初の扉である。
この理論における「永久」は、ある生命や物体が同じ姿のまま無限の時間を存続することを意味しない。人体は変化し、細胞は入れ替わり、物体は摩耗し、構造は崩れ、星も宇宙的な時間尺度の中で状態を変える。したがって、保存を不変と同一視するならば、保存という概念は現実のほとんどすべての存在に適用できなくなる。変化しないものだけが保存されるのではなく、変化の前後を接続する何かが失われないとき、私たちはそこに保存を認める。水が蒸気へ変化したとき、液体としての形態は失われるが、変化の前後を結ぶ物理的な過程が存在する。木片が燃えたとき、木片という構造は失われるが、その過程は熱、光、気体、灰その他の状態変化として後続する。人間が死んだとき、生体としての自己維持は終わるが、それによって直ちに、身体を構成していた物質、周囲へ与えた運動、他者へ残した変化、成立させた因果関係のすべてが同時に無へ帰したことにはならない。本論が保存と呼ぶのは、このように同一性が失われてもなお、前後の状態を完全な断絶にしない関係である。永久保存性とは、同一形態の無限継続ではなく、存在差が完全なゼロへ到達する終点を、有限な時間発展の内部に指定できるかどうかに関わる概念なのである。
ここで、無とは何かという問題が避けられなくなる。日常生活において「何もない」という表現は、特定の対象が見当たらない状態を指すことが多い。机の上に本がない、部屋に人がいない、容器の中に水がないというとき、そこには空気や光や空間的な広がりが存在し、観測者と対象を結ぶ関係も存在している。したがって、日常的な無は、何らかの領域に期待された対象が存在しないという相対的不在であり、存在一般の欠如ではない。真空もまた、直ちに絶対的な無と同一ではない。真空という語によって表されるものは、ある理論的枠組みの中で特定の粒子や物質が存在しない、あるいは基底状態にある領域であり、その領域を記述する空間、場、法則、状態の差異まで存在しないことを意味しない。本論が問題にする「永遠の無」または「絶対的無」は、ある対象が見えないことでも、物質密度が極端に低いことでもなく、位置、時間、関係、差異、変化、法則、可能性、観測のいずれも成立していないと想定される状態である。しかし、そのような無を一つの「状態」と呼んだ時点で、私たちはすでにそれを他の状態と区別し、一つの規定を与えている。無が何らの差異も持たないならば、「無である」という規定そのものがどこに属するのか、無が時間の中で永遠に続くというならば、その無に時間的な長さを帰属させることが可能なのか、無の前後を語るならば、その前後関係は何によって成立するのかという矛盾が生じる。
絶対的な無は、存在する対象として示すことができない。示された時点で、それは少なくとも示されうる何か、記述されうる何か、他から区別される何かとして扱われるからである。もっとも、このことから直ちに「無は存在しない」と断定することはできない。記述できないことと成立しないことは同一ではなく、観測できないことと存在しないことも同一ではない。本論が初めに採るべき態度は、無の存在を肯定することでも否定することでもなく、絶対的無という概念を成立させるためには何が必要なのかを明らかにすることである。完全な無化を主張するためには、対象が現在の観測範囲から消えたことを示すだけでは足りない。その対象を起点として生じたすべての差異が、いかなる後続状態にも含まれず、どのような逆向きの推定によっても、対象が存在した世界と存在しなかった世界を区別できないことを示さなければならない。これは単なる観測技術の不足に関する問題ではなく、世界の時間発展が、過去の成立差を完全に消去しうる構造を持っているかという問題である。
この問いをさらに進めると、永遠の有と永遠の無の境界も不明瞭になる。何かが永遠に存在すると仮定しても、その何かが一切変化せず、他の何ものとも関係せず、何の差異も生まず、どのような観測可能性も持たないならば、その「有」は何によって無から区別されるのだろうか。存在を単純に「あること」と定義すると、あるという規定を成立させる基準が必要になる。何かがあると言うためには、少なくともそれが他のものではないこと、それ以前または周囲の状態と何らかの差を持つこと、その差が何らかの関係の中で保持されることが必要である。まったく差異を生じない永遠の存在は、存在すると言われながら、何も存在しない状態との差を示せない。反対に、永遠の無もまた、それが有ではないという差を持つことによってしか語れない。ここから、本論は存在を固定的な物体の所有としてではなく、差異を成立させる働きとして捉える必要に迫られる。存在とは、何かが単独で置かれていることではなく、少なくとも一つの状態が他の状態と区別され、その区別が時間的または関係的に接続されていることである。この意味において、有と無の境界は、物が置かれているかどうかではなく、差異が成立し、その差異が保存されうるかどうかに置かれる。
そこで、本論では「存在差」という基礎概念を導入する。存在差とは、ある存在Aが成立した世界W_Aと、Aが成立しなかったと仮定される世界W_0とのあいだに生じる非同一性である。この非同一性は、Aの外見、名称、生命活動、局所的な位置だけに限定されない。Aによって押し退けられた物質、Aが交換したエネルギー、Aが変化させた他者の状態、Aの成立を条件として生じた後続事象、Aが占めた時間的・空間的関係、さらにはAが存在したことによって選ばれなかった別の変化経路まで、理論的には存在差の構成要素となりうる。もちろん、現実の観測者がこれらすべてを追跡することは不可能である。しかし、追跡不能であることと差異が存在しないことを混同してはならない。永久保存性理論は、世界に残るすべての痕跡を実際に収集する理論ではなく、存在差が原理的に完全消去される条件を問う理論である。
この存在差を記号的に表すため、ある時刻tにおける世界の状態をW(t)とし、存在Aが成立した世界の時間発展をW_A(t)、Aが成立しなかったと仮定した世界の時間発展をW_0(t)とする。両者の差を測る一般的な関数をDとすれば、存在差は暫定的に、
D_A(t)=D(W_A(t),W_0(t))
と表現できる。ここでDは、通常の空間距離や数値差に限られず、二つの状態がどの程度同一でないかを表す抽象的な差異関数である。Aが同一の形を保っている間はD_A(t)がゼロではないことは分かりやすい。しかし問題は、Aが分解され、局所的な痕跡が失われ、情報が拡散し、観測可能な差が限りなく小さくなった後である。ある有限時刻Tが存在し、
D_A(t)=0 (すべてのt≧T)
となるならば、T以後、Aが存在した世界と存在しなかった世界は完全に一致し、Aの存在差は消去されたことになる。反対に、どのような有限時刻Tを選んでも、その後のどこかにゼロではない差異が残るか、あるいはD_A(t)がゼロへ近づいても有限時間内には厳密なゼロへ到達しないならば、Aの存在差は少なくとも弱い意味で永久に保存される。この定式化は完成した数学的証明ではなく、本論が何を問題としているのかを明確にするための最初の枠組みである。
ここで重要なのは、差異が限りなく小さくなることと、差異が完全にゼロになることを区別することである。ある量が時間とともに減少し、観測可能な範囲を下回り、実際上は無視できるほど小さくなったとしても、それが数学的にゼロへ到達したとは限らない。人間の感覚や測定装置には有限の分解能があるため、一定以下の差異は存在しないものとして処理される。しかし、理論上の消滅は、測定できないほど小さいという意味ではなく、差異そのものが成立しないことを意味する。本論はこの点において、実用的な消失と存在論的な消失を分ける。実用的な消失とは、ある対象を回収、識別、復元、利用できなくなることである。存在論的な消失とは、その対象の成立によって生じた世界の非同一性が完全に解消されることである。前者は日常的に繰り返し起きているが、後者が実際に起こりうるかどうかは、なお別の検討を必要とする。
また、復元不能性と無化も同一ではない。割れた器を元の微視的状態へ完全に戻せないこと、燃えた紙の文字を再現できないこと、死者の意識状態を再構成できないことは、いずれも不可逆性または情報回収の限界に関係する。しかし、元に戻せないという事実は、過去の状態が世界から絶対的に消えたことを意味しない。むしろ、過去の状態が多数の自由度へ拡散し、局所的には回収できない形へ変換された可能性がある。不可逆性とは、ある過程を現実的または統計的に逆行させることが極めて困難であるという性質であり、完全な無化とは、変換後のどこにも初期差が含まれないという性質である。この二つを混同すると、観測者の能力不足が世界そのものの消去能力へすり替えられる。本論は、観測者が知らないこと、取り戻せないこと、再現できないことを、そのまま存在しないことと見なさない。
同様に、同一性の喪失と存在差の喪失も区別されなければならない。生命Aが死に、身体が分解され、人格を支えた神経構造が失われたならば、Aは個体としての同一性を維持していない。この意味でAは終わったと言える。しかし、Aが個体として終わったことと、Aの成立によって生じたすべての差異が終わったことは同じではない。ここで永久保存性理論は、死を否定するのではなく、死が何を終わらせるのかを限定する。死は生命活動の自己維持を終わらせ、人格の継続を終わらせ、個体の内部的統一を終わらせる可能性がある。しかし、それだけでは、存在差の完全消去まで証明しない。本論は死後の人格存続や魂の実在を前提としない。むしろ、人格が保存されない場合であっても、存在したという差異が保存されうるかという、より弱く、より基礎的な命題を扱う。
この点から、本論における保存性は複数の層へ分けられる。第一は、対象が同じ対象として持続する「同一性保存」である。第二は、対象を構成していた状態や配列が再構成可能な形で残る「情報保存」である。第三は、対象を構成する物質的または物理的な量が別の状態へ変換されながら接続される「量的保存」である。第四は、対象が他の状態へ与えた影響や相関が後続状態に含まれる「関係保存」または「因果保存」である。そして第五は、対象が存在した世界と存在しなかった世界との非同一性が完全には失われない「存在差保存」である。これらは互いに独立ではないが、同一でもない。ある人物の同一性が失われても物質的な接続は残りうるし、個別情報が復元不能でも因果的な差異は残りうる。したがって、「何が永久に保存されるのか」という問いに対して、本論は最初から一つの答えを与えない。むしろ、保存される層を順に弱めていったとき、最後まで消去されずに残る最小の保存対象が存在するかを探る。
この最小の保存対象を考えるために、本論は【位置⇄運動量】という対を一つの基礎軸として用いる。ただし、ここで位置と運動量を、量子力学における二つの観測量について同時に任意の精度で確定できると主張するものではない。本論の段階では、位置を「ある存在が現在どの関係に置かれているかを示す配置的規定性」、運動量を「その存在がどの方向へ、どの程度の変化を後続させるかを示す遷移的規定性」として、より広い概念的意味で用いる。存在は位置だけでは完結しない。ある瞬間にどこにあるかだけを示しても、そこへどのように到達し、そこから何を変化させるかは分からない。運動量だけでも完結しない。変化の方向や強さを語るためには、何がどの関係の中で変化しているかが必要になる。存在は、現在の配置と未来への遷移可能性との結合によって、時間の中に具体的な差異を形成する。
したがって、本論の中心仮説は、ある存在が形態を失った後にも、その存在が有していた配置的規定性と遷移的規定性が、後続状態の中で完全に無関係なものへ切断されることなく、何らかの変換された関係として残るのではないか、という形を取る。ある粒子や物体の位置と運動量の数値が永遠に固定されるという意味ではない。むしろ、位置が変わり、運動量が交換され、相互作用によって状態が変換される過程そのものが、以前の状態と以後の状態を接続する。AがBへ変わったとき、AはBではない。しかし、BがAを経ずに成立した場合と、Aからの変換によって成立した場合とが完全に同じであるかどうかは別問題である。永久保存性は、数値の固定ではなく、変換履歴が完全な無履歴へ置き換わることができるかを問う。
この問いは、現在という時間の位置づけにも関係する。存在は、過去の完成した記録としてのみあるのでも、未来の可能性としてのみあるのでもなく、現在進行形の変化として成立している。ある存在Aが現在にあるということは、Aが一つの位置を占めているだけではなく、Aが周囲と相互作用し、次の状態へ変化し、世界の時間発展に差を与え続けていることを意味する。このとき保存性は、変化の終了後に初めて付加される性質ではない。存在が現在進行形で変化している最中から、その変化の前後を結ぶ接続として働いている。もし現在のある瞬間ごとに、直前の状態との関係が完全に切断されるならば、運動も因果も同一性も成立しない。私たちが一つの物体の移動、一人の生命の継続、一つの現象の進行を認識できるのは、状態が異なりながらも、前後のあいだに何らかの保存関係があるからである。ゆえに、永久保存性の問題は、遠い未来の終端だけを問うものではなく、現在が現在として連続するために、何が瞬間ごとに保存されているのかを問う問題でもある。
ここで「永久」を、無限時間がすべて経過した後の状態として扱うことには慎重でなければならない。無限時間の終端は、通常の有限時刻と同じように一つの観測時点として置くことができない。そこで本論では、永久性をまず有限時間に対する否定的条件として定義する。すなわち、任意の有限時刻Tに対して、その時点までに存在差が完全なゼロへ到達したことを示す最終消去点が存在しないならば、その差異は永久保存的である、と暫定的に考える。この定義は、「永遠の最後」を観測することを要求せず、どの有限時刻にも完全な終端を置けないという形で永久を捉える。もちろん、差異が無限時間の極限においてゼロへ収束する可能性は残る。しかし、極限としてゼロへ近づくことと、有限の現実過程の中でゼロになることは異なる。永久保存性理論は、まずこの異なりを明示し、そのうえで極限における消失が存在論的な無化と同じなのかを後に検討する。
以上を踏まえ、本論の基礎命題は次のように提示される。第一命題は、存在したものの完全消去を主張するためには、そのものが観測できなくなったことではなく、その存在によって生じたすべての差異がゼロになったことを示さなければならない、という命題である。第二命題は、同一性の喪失、情報の復元不能、物質構造の崩壊、観測可能性の消失は、それぞれ存在差の完全消去を単独では意味しない、という命題である。第三命題は、存在とは固定された形態だけではなく、他状態との差異と、その差異を後続状態へ接続する関係によって成立する、という命題である。第四命題は、保存とは不変ではなく、変化の前後において何らかの量、関係、履歴または差異が完全な断絶を免れることである、という命題である。第五命題は、永久とは無限に同一であり続けることではなく、任意の有限時間内に存在差の最終消去点を指定できないことである、という命題である。そして第六命題は、現在進行形の存在は【位置⇄運動量】、すなわち配置的規定性と遷移的規定性の双方によって世界へ差異を与え、その差異が変換後の状態にどのように接続されるかが、永久保存性の判定に関わる、という命題である。
もっとも、これらは結論ではない。とりわけ、存在差をどの範囲まで数えるのか、仮想的な非存在世界W_0をどのように設定するのか、二つの世界状態の完全一致を何によって判定するのか、微小な差異が残ることと意味のある保存が成立することをどう区別するのか、因果的影響が無限に拡散するときそれを一つの存在Aへ帰属させ続けられるのかという問題が残る。Aが存在しなかった世界を想定すると、その不在によって他の無数の条件も変わるため、単純な比較はできない可能性がある。また、世界の状態を完全に記述する視点そのものが成立するかも不明である。本論はこれらの困難を無視して、すべてが保存されると宣言するものではない。永久保存性を理論として成立させるためには、保存される対象、比較される状態、差異の尺度、時間発展の規則、ゼロとみなす条件を、一つずつ限定しなければならない。
さらに、本論は既存の物理学における保存則を、そのまま存在論へ拡張するものでもない。ある物理量が特定の対称性や条件のもとで保存されることと、個体の存在差が永久に保存されることは同じではない。エネルギー、運動量、電荷その他の保存を参照する場合にも、それらがどの理論的条件で定義され、どの範囲で成立するかを区別する必要がある。本論の目的は、既知の保存則を根拠として人間の人格や生命の永続を証明することではなく、「保存」という概念を、量の不変だけでなく、状態間の接続、情報の変換、因果的差異、存在履歴の非消去性まで含む一般問題として再構成することにある。そのため、物理学的な記述と存在論的な推論の境界は、常に明示されなければならない。
本論が死を扱うのも、死後に何が待っているかを断定するためではない。死は、存在と無の境界が最も切実な形で現れる事例だからである。生きていた人が死ぬとき、私たちは、そこにあった意識、意思、経験、身体的統一が失われたことを知る。しかし、その喪失を「永遠の無」と呼ぶとき、何が永遠であり、何が無であるのかを十分に説明してはいない。死者にとって経験が継続しないことと、死者の存在差が世界から完全に消えることは異なる。主観的経験の停止が確認できたとしても、存在一般の消去が確認されたことにはならない。反対に、物質や因果的影響が残るからといって、個人の意識が残ると結論することもできない。本論は、こうした異なる層を一つの慰めや恐怖へまとめず、どの層が終了し、どの層が変換され、どの層がなお定義不能なのかを明らかにする。
永久保存性理論が最終的に探ろうとするのは、存在を存在たらしめる最小条件である。もし存在が形態であるならば、形態が崩れた時点で存在は終わる。もし存在が情報であるならば、情報が復元不能になった時点で存在は終わる。もし存在が物質量であるならば、物質が別の配列へ変わっても存在は何らかの形で残ることになる。しかし、これらの定義はいずれも、それぞれ異なる対象を保存している。本論は、形態、情報、物質、関係をさらに下まで削り、何かが一度成立したことによって、世界がそれ以前と同一ではなくなったという差異に注目する。その差異さえ完全に消えるならば、存在は無へ移行できる。差異がどのような変換を経ても完全には消えないならば、存在は同一性を失いながらも、最小の意味で保存される。
したがって、本論の核心は、「人間は永遠に生きるか」ではなく、「存在したものは、存在しなかったことになれるか」という問いにある。これは感情的な救済を直接目的とする問いではなく、消滅という概念を成立させる条件を厳密に検討する問いである。存在したものが存在しなかったことになれないとしても、それは人格や意識の永続を保証しない。それでも、死、崩壊、忘却、不可逆性のいずれもが、ただちに絶対的無を意味しないことは示される可能性がある。反対に、存在差が完全にゼロになる過程を定義できるならば、永久保存性には限界があることになる。本論は、いずれかの結論を信仰として先に置かず、保存と消去の境界を、有限時間、状態変換、差異、位置、運動、情報、因果の各側面から検討していく。
この序文において提出された問いは、今後の全章を貫く基礎となる。無は一つの状態として定義できるのか。永遠の無に時間を帰属させることはできるのか。変化しない永遠の有は無と区別できるのか。対象が失われることと、対象が存在した差異が失われることは同じなのか。情報の回収不能は情報の非存在を意味するのか。不可逆性は完全消去を含意するのか。ある存在の位置的規定性と運動的規定性は、相互作用の後にどのような形で保存されるのか。存在した世界と存在しなかった世界は、有限時間の後に完全に一致しうるのか。そして、その一致を判定するための数学的なゼロは、現実の存在論的な無と同一なのか。
永久保存性理論は、これらの問いに対して、最初から「すべては残る」と答えるものではない。むしろ、何かが残ると言うために必要な最小条件と、何も残らないと言うために必要な最大条件を、互いに混同しないように配置する試みである。存在を保存するものが同一性でも形態でも記憶でもないならば、最後に残るものは何か。世界のどこにも回収できず、誰にも観測できず、どの局所にも固定できない差異であっても、それが時間発展の内部に含まれているならば、存在したという事実はなお保存されていると言えるのか。あるいは、保存されていると呼ぶためには、差異が原理的に読み取り可能でなければならないのか。本論は、この境界を曖昧なままにせず、保存性を強い保存、弱い保存、関係的保存、存在差保存へ分けながら、最終的に永久という語が担いうる意味を限定していく。
存在は、同じ姿を保つから存在するのではない。存在は変化し、他と交換し、位置を移し、運動を受け渡し、構造を失いながら、それ以前とは異なる後続状態を形成する。もしその異なりが完全に消去されないならば、存在は物としてではなく、世界が一度その存在を通過したという差異として保存される。『永久保存性理論』は、この可能性を一つの仮説として提出する。すなわち、物質的および存在的な決定性は、現在進行形の変化において一つの【位置⇄運動量】を固定的に保持するのではなく、その関係を変換しながら、完全な無関係へ落下することを免れているのではないか。そして、存在が存在しなかったことへ戻れないならば、永久とは、同じものが終わりなく残ることではなく、存在した差異に最終消去点が与えられないことなのではないか。
この問いに答えるため、本論はここから、無の定義、存在差の構造、保存と不変の区別、死と個体性の終端、情報と不可逆性、位置と運動量の関係、有限時間と無限極限、そして完全消去点の数学的可能性を順に検討する。




