第7話「臆病者の普請」
3筋のうち、いちばん厄介なのは西の一本だった。
低地の底を抜くために、深さが背丈を超える。両側の壁が高くなればなるほど、土は自分の重さで崩れたがる。
18日目の朝、俺は西の掘り口に立って、壁の面を見ていた。
「乾いてますね」
ヨナスが言った。
「乾いてるのが悪い」
「乾いてたほうが崩れないでしょう」
「表だけ乾いてる。中は濡れてる。乾いた皮が剥がれると、濡れた中身が滑る」
*
その日は朝から風が強かった。
風が強い日は音が消える。土が鳴っても聞こえない。俺は掘り口の勾配を1割寝かせるように指示を出して、そのために出た余分の土をどこへ運ぶかを考えていた。
考えていた、というのが、後から思えばまずかった。
現場を見ていなかった。
ピムは水路の底を歩いていた。記録係の仕事で、深さを測る棒を持って端から端まで歩く。毎日やらせていたことだ。
壁が落ちたのは少年が真ん中まで来たときだった。
*
音はほとんどしなかった。
さらさら、という乾いた音が先に鳴って、それから壁の上半分が滑った。滑った土が少年の腰までを一息で埋めた。
俺が走り出したときには、体のほうが先に動いていた。
「上の縁に乗るな! 落ちる!」
叫びながら、俺は自分が縁に乗っていることに気づいて、腹這いになった。腹這いのまま、脇の杭に足をかけて、腕を伸ばす。
ピムの顔は土の上に出ていた。出ていたが口が開いている。
「息を吐くな! 吸うな! そのまま!」
胸まで埋まった人間が息を吸うと土が締まる。締まったら二度と出ない。
俺は少年の脇の下に腕を差し込んで、上ではなく横へ引いた。真上に引き抜こうとすると体が土に吸われる。斜めに、少しずつ、揺すりながら。
ヨナスが反対側から来て、掌で土を掻いた。誰かが板を差し込んだ。カスパーだった。
*
ピムが出てきたのは、埋まってから百を数えるより短い時間だった。
俺の頭の中の数え方ではそのくらいだ。実際にどれだけかかったのかは分からない。
少年は畦に転がって、盛大にむせて、それから泣いた。
泣いてくれてよかった、と俺は思った。泣ける人間は生きている。
俺は少年の背中をさすりながら、自分の手が震えているのに気づいた。
震えを止める方法を俺は知らない。知らないので、そのまま震えさせておいた。
ピムの母親が走ってきたのは、それから半刻あとだ。
女は息子を抱きかかえて、無事なのを確かめて、それからこちらを向いた。俺は殴られる覚悟をしていた。
殴られなかった。
「うちの子を、水路に入れんでください」
女はそう言うと、息子を担いで帰っていった。詫びる隙も言い訳をする隙もなかった。
正しい要求だ。俺は少年に紙と炭を持たせて、いちばん危ない場所を毎日歩かせていた。深さを測る仕事は、大人がやればよかった。
*
その日の午後、俺は工事を止めた。
25人を掘り口の上に集めて、縄を配った。
「今日から、深いところに入る者は腰に縄をつける。縄の端は上の杭に結ぶ。結ぶのは自分ではなく、隣の人間だ」
ざわつきが起きた。
「それと、掘り口の縁から2歩の内側に、細い縄を張る。この縄より内側には、用のない者は立たない。荷を担いだ者も立たない」
「棟梁」
年嵩の人足が手を挙げた。
「そんなもん張ってたら、土を運ぶのに遠回りになりますが」
「なる」
「どれくらい遅れます」
「1日か、2日」
男は仲間のほうを見た。仲間の何人かが笑った。
*
「臆病者の普請だな」
誰かが言った。誰が言ったかは分からなかったし、探す気もなかった。
俺はその言葉を否定しなかった。
否定すれば、こちらが気にしていることになる。気にしていると分かった瞬間、その言葉は現場の中で値打ちを持ってしまう。
「そうだ。臆病者の普請だ」
言うと笑いが止まった。
「臆病な普請は遅い。遅いぶん、全員が春に家へ帰る。勇ましい普請は速い。速いぶん、何人か帰らない。どっちの現場で働きたいかは、各自で決めてくれ」
誰も何も言わなかった。
言わなかったがその日から縄を外す者はいなかった。外さないだけで、納得したわけではない。人足たちの手つきには、面倒くさそうな角があった。
*
夜、雨が来た。
飯場の屋根を叩く音が、葦を通して低く響く。俺は板の間に座って、その音を聞いていた。
聞いているうちに、指先が冷たくなってきた。火のそばにいるのに冷たい。膝の上の手がまた震え始めた。
雨の音は嫌いだ。
理由を考えようとして、やめた。考えると、考えた先に何があるかを知っている気がする。知っている気がするだけで中身は出てこない。
俺は立ち上がって、外に出た。
濡れながら、量水標のところまで歩いた。今朝の読みは18。今は19。1つ上がっている。
数字を見ていると、指の震えが止まった。
*
イルザが来たのはその2日後だった。
馬に麻袋を積んで、飯場の前で下ろしていく。麦ではない。中身は塩だった。
「値上がりする前の分だよ。うちの蔵に残ってたのを回す」
「銭は」
「後で取る。利子もつける」
「助かる」
「助けてない。あんたの人足が塩を切らして倒れたら、うちの荷を担ぐ手がいなくなる」
彼女は袋を積み終えると、掘り口の縁に張った縄を見た。見て、片眉を上げた。
「これ、何」
「立入縄だ。内側に入らないための」
「ふうん」
イルザは縄をつまんで、張り具合を確かめた。それから、指を離した。
「うちも、荷を積む前に馬の脚を見る決まりがある。急いでるときほど省きたくなるやつ」
「省くのか」
「省いた年に、親父の馬が潰れた。それからは省かない」
彼女はそれ以上言わずに、空になった馬を引いて帰っていった。
*
工程は案の定、遅れた。
縄のせいではない。俺のせいだ。
20日目を過ぎたあたりから、掘る速さが目に見えて落ちた。俺は土質のせいだと思って、区間の割り振りを変えた。変えても戻らない。
3日目に、飯場で人足の手を見て分かった。
掌が潰れていた。全員の。
18日連続で掘らせていた。休みを入れていない。前の現場では10日に1日は休ませていたはずなのに、この土地では雨の日も掘れてしまうので、そのまま流していた。
数字ばかり見て、手を見ていなかった。
*
俺は工程表を書き直して、25日目を休みにした。
「休むと、日当はどうなります」
ヨナスが訊いた。
「出す」
「掘らないのにですか」
「掘らせた俺の落ち度だ。落ち度の分は、落ち度のあるほうが払う」
これで工程は1日遅れた。1日で済んだのは運がいい。手を見るのがあと5日遅れていたら、誰かが道具を落として足を潰していた。
自分の失敗を数えておくのは、気分のいい作業ではない。
だが数えておかないと、次に同じ場所で転ぶ。転んだ先に人がいれば、その人ごと転ぶ。
*
隣の郷から人が来たのは、休みの日の昼過ぎだった。
泥まみれの男が2人、走ってきた。走ってきて、飯場の前で膝をついた。
「埋まった。3人。うち1人が、まだ出ん」
俺は立ち上がった。
「どこだ」
「東のルドの郷。用水を掘っとった。自普請だ」
「深さは」
「背丈より深い。両側から落ちた」
*
俺が連れていったのは、縄と板と人足を10人だ。
道具より先に、掘り方の順番を伝えた。真上から掘らない。両脇から段を切って、幅を広げてから下ろす。埋まった人間の頭の位置を先に確かめて、そこには誰も乗らない。
ルドの郷の連中は、真上から掘ろうとしていた。
止めさせるのに、少し手間がかかった。埋まっているのが身内だと、人はまっすぐ掘りたがる。まっすぐがいちばん近いからだ。近いぶん、上の土が全部そこへ落ちる。
「段を切れ。3段だ。1段ごとに縄を張る」
「そんな悠長な」
「悠長にやって出てくる。急いでやると、掘ってるあんたが埋まる」
年寄りの一人が俺の顔を見た。誰だこいつはという顔だ。それから、うちの人足が腰に縄を巻いているのに目を移して、黙って段を切り始めた。
出てきたのは日が落ちてからだった。
生きていた。呼吸は浅い。土が肩のところで止まっていたのが効いたのだと後になって分かる。
ルドの郷の男たちは、掘り出した男を戸板に乗せて運んでいった。
俺は縄を回収して、板を担いで帰った。誰にも礼を言われなかった。言われる筋のことでもない。
帰り道で、うちの人足の一人がぽつりと言った。
「あの郷、縄が一本もありませんでしたね」
「なかった」
「なんでですかね」
「要ると思ってなかったからだ。今日までは」
言ってから、俺は口を閉じた。今日から先はどうなるかを、口に出すのはやめておいた。
*
翌朝、飯場の空気が変わっていた。
縄の話をする者がいない。
代わりに、掘り口の縁に張った立入縄を、誰かが張り直していた。俺が張ったときより丁寧に、たるみなく張ってある。
昨日の埋まった話は、夜のうちに全員に回ったらしい。
臆病者の普請だと言った男が、朝いちばんに自分の腰へ縄を巻いているのを、俺は見て見ぬふりをした。
*
ブルーノが来たのはその日の夕方だ。
老人は掘り口を一巡して、縄の張り方を確かめて、それからこちらへ来た。
「ルドの郷長が、あんたに礼を言いに来ると言うとる」
「要らない」
「そう言うだろうと思って、断っておいた」
「助かる」
「断ったが、代わりに向こうがこう言うた。うちの用水も見てくれんか、とな」
俺は縄を巻く手を止めた。
「断る」
「即答か」
「見に行けば、直せと言われる。直せば、次の郷が来る」
「そう分かっとるのに、なぜ縄と板を担いで走った」
答えられなかった。
走らないという選択肢が、あのとき頭に浮かばなかった。浮かばなかったことを、俺は今になって思い出している。
「断ればいいさ。だが、これで2つ目だ」
「2つ目?」
「1つ目は飯の話が歩いた。2つ目は縄の話が歩いた」
老人は泥掻きの柄で、地面に短い線を2本引いた。線と線のあいだが、指1本ぶんも空いていない。
「3つ目が歩いたら、次に歩くのは、あんたの名前だ」




