第6話「抜くのは三筋だけ」
水が下がり始めたのは、霜が降りるようになってからだ。
雨が減り、上流の流れが痩せ、沼の水面が指の幅ぶんずつ落ちていく。畦を歩くと、去年の株の根が水の上に出ていた。
この土地で普請ができるのはこの時季だけだ。
「40日」
俺は郷長の家の板の間に、炭で描いた図を広げた。
「水が上がり始める前に、40日で3筋掘る。それ以上は掘らない」
ブルーノは図を見なかった。俺の顔を見ていた。
「あんた、2枚で止めると言うたな」
「言った」
「3筋抜けば、乾く畑は2枚では済まんぞ」
「済まない」
俺は認めた。認めてから、板の間に指を1本置いた。
「蔵に22斗。半分は虫が食っている。塩は一升7クロイツが、じきに10を超える。この2つを並べて、2枚のままで春まで持たせる筋道が引けなかった」
「引けんかったから、言うたことを反故にすると」
「反故にはしない。条件を出しに来た。上乗せするのは3筋まで。それ以上は抜かない。抜いていないことを、あんたのほうから確かめられる形にする」
「確かめる、とは」
「そこは、あとで見せる」
老人は俺の指を見て、それから図へ目を落とした。今日はじめて図を見た。
「3筋というのは、あんたが決めた数か」
「地面が決めた数だ。低いところは3つある。それぞれに出口が要る」
「4つ目はないのか」
「ある。だが4つ目を抜くと、堀の水位が下がる」
*
老人の眉が動いた。
「下がるのか」
「下がる。だから掘らない。あんたとの約束はそこだ」
「口ではどうとでも言える」
「言えるな」
俺は懐から、杭を2本出して板の間に置いた。樫の枝を削ったもので、片側に細かい刻みが入っている。刻みは尺で切ってある。下から上まで40。
「これを、村口の水際と渡し場の杭のところに立てる。目盛りを刻んで、毎朝、水の高さを読む。読んだ数を紙に書く」
「わしに読めというのか」
「郷長でも、ピムでもいい。誰でも読める。数字が下がり始めたら、そのとき俺は掘るのをやめる」
*
ブルーノは杭を手に取った。
刻みを親指でなぞる。上から下へゆっくり。老人の指は節が太くて、爪が割れている。長く鍬を握ってきた指だ。
「これは、あんたの道具か」
「約束のための道具だ」
「同じことを言うな」
「違う。俺の道具なら俺が読む。これは、あんたが俺を疑うための道具だ」
老人は杭を持ったまま黙っていた。指の腹が刻みを数えている。20を過ぎたあたりで手が止まり、そこからは動かない。
20という数が何を意味するのか、この爺さんはもう見当をつけている。20下がったら沼が死ぬ、という自分の目盛りを持っているのだ。
それから、老人は杭を板の間に立てるように置いた。
「立てろ」
「立てる」
「毎朝だぞ。1日でも書かん日があったら、その時点で終いだ」
*
量水標を立てたのは翌朝だった。
村口の水際に1本。渡し場の袂に1本。打ち込む深さを揃えて、水面の位置を読む。今朝の読みは村口が18、渡し場が11。
ピムが最初の記録係になった。
「これ、毎日書くの」
「毎日だ」
「雨でも?」
「雨の日がいちばん大事だ」
「なんで」
「上がるところを見ておかないと、下がったときに意味が分からない」
少年は紙と炭を受け取って、妙に真剣な顔で数字を書いた。書いた字は下手だったが読めれば充分だ。
*
問題は人だった。
3筋で40日。手が要るのは少なくとも30人。ヨナスと俺とピムでは、どう数えても足りない。
「日当は6クロイツと聞いたが」
寄合に来た年寄りの一人が言った。
「出す」
「銭より、飯にしてくれんか」
「両方出す」
板の間がざわついた。
「両方?」
「6クロイツと、朝晩の麦飯。それと、乾いた寝床だ」
ざわつきが引いてから、さっきの年寄りがもう一度口を開いた。
「その銭は、どこにあるんです」
まっとうな問いだ。この館の蔵が空なのは郷の誰もが知っている。前の領主が何を持ち出したかも知っている。
「手元にはない。掘りにかかる前に、馬借の組合に話を通してきた。銭と飯の麦は向こうから回してもらう」
「借りるんですか」
「借りる。あんたらが40日掘ったぶんは、俺の借りになる」
「利は」
「そこはまだだ。3筋が通ってから詰める。ただ、その銭を払うのが俺だということだけは、いま決まっている」
年寄りは俺の顔を見たまま、それ以上は訊かなかった。
*
飯場の話をするとたいてい笑われる。
普請の飯場に金をかけるのは無駄だと、どこの世界でも言われる。だが俺の中に残っている45年ぶんの記憶は、それが逆だということを知っていた。
濡れたまま寝た人足は、翌日の午後に手が止まる。手が止まると工程が延びる。工程が延びるとまた日当がかかる。
「乾いた寝床って、どういうことです」
ヨナスが訊いた。
「高床の小屋を組む。床下を空けて、中に葦を敷いて、火を1つ入れる。20人が寝られる大きさで、組むのに4日だ」
「4日も普請に使うんですか。掘るのが遅れます」
「遅れない。飯場で稼いだぶんは、後半で戻ってくる」
「戻ってこなかったら」
「俺が損をする」
*
小屋は4日で建った。
葦を編んで壁にして、屋根は粗朶と泥。床は焼いた煉瓦を並べて、その上に葦を敷いた。土間より暖かい。
初日の夕方、鍋に麦を入れて、沼魚を叩いて放り込んだ。塩は貴重だから、味付けは香草だけにした。
飯が炊ける匂いは遠くまで届く。
その晩、飯場に集まった人足は12人だった。翌朝には17人になっていた。3日目には25人。
誰も理由を言わない。乾いて寝られる場所と腹に入る飯。この郷にはそのどちらもなかった。
*
掘り方は3組に分けた。
先頭が線を掘る組。後ろが法を整える組。いちばん後ろが土を運んで畦に積む組。3組が同じ速さで進むように、朝と昼に1度ずつ位置を見る。
速い組を褒めない。遅い組を叱らない。叱ると、遅い組が急いで穴を掘る。急いで掘った穴は後で必ず崩れる。
「棟梁、うちの組が遅れてます」
10日目に、ヨナスが言いに来た。
「知ってる」
「怒らないんですか」
「土が違う。お前の組だけ砂が混じってる。同じ速さで掘れるほうがおかしい」
俺は3組の位置を入れ替えて、砂の区間に人を1人足した。それで終わりだ。
こういう調整を毎日続けるのが工程というやつで、派手なところは何もない。何もないから、うまくいっているうちは誰も気づかない。
*
5日目の朝、カスパーが列に並んでいた。
腕を組んで、こちらを見ずに立っている。俺は名簿にその名を書いた。
「日当は6クロイツだ」
「要らん」
「要らないのに来たのか」
「銭を受け取ったら、あんたを許したことになる」
男の声は落ち着いていた。落ち着いた声で、言うことだけが尖っている。
「飯は食う。寝床も使う。銭は要らん」
「分かった」
俺はそう答えて、名簿の日当の欄に線を引いた。線を引きながら、この男が何のためにここへ来たのかを考えていた。
考えても分からなかったので、聞かないことにした。
*
揉め事が起きたのはその日の夕方だ。
飯場の前で、郷の若い衆とカスパーが向き合っていた。若い衆のほうが声を張っている。
「銭を取らねえ奴が混じってると、こっちの日当まで下がるだろうが」
「下げるのは、わしじゃない」
「あんたら流れ者は気楽でいいよな。畑もねえんだから」
その一言で、飯場の空気が固まった。
流民はこの郷では畑を持てない。持てないのは彼らの村が沈んで戸籍ごと消えたからだ。若い衆は言ってはいけない場所を踏んだ。
カスパーは殴らなかった。
殴る代わりに、椀を持ったまま座り込んで麦飯を食い始めた。食いながら、若い衆のほうを見もしない。無視されるほうが、殴られるより堪える。
俺は間に入らなかった。
入れば代官が流民の肩を持ったという話になり、明日の朝には郷全体に広がる。この手の揉め事は、飯場の中で始末してもらうしかない。
結局、年嵩の人足が2人がかりで若い衆を引きずっていって、それで終わった。
その晩、俺は麦の量を1割増やした。腹が減っていると、人は些細なことで喧嘩をする。
*
イルザが工事の様子を見に来たのは7日目だ。
彼女は掘りかけの水路を端まで歩いて、それから飯場を覗いて、最後に俺のところへ来て開口一番こう言った。
「人を取りすぎだよ」
「25人だ」
「知ってる。いま飯場を覗いてきた。あの連中の日当も麦も、うちの帳面に載ってるんだからね」
「締めはいつだ」
「荷が動いてからでいい。動かないうちに取り立てたって、あんたから出てくるのは泥だけだ」
イルザは飯場のほうへ目をやった。
「25人の若い衆がここにいるってことは、荷を担ぐ手が25人減ってるってことさ」
「冬の荷は止まってるだろう」
「止まってるからだよ。止まってる間に、うちは陸で回す支度をするんだ。担ぎ手が要る。あんたが全部囲ってどうする」
*
俺は鍬を置いて、彼女の顔を見た。
こういう文句はたいてい正しい。現場は自分の工程しか見ないから、外の商売を潰していることに気づかない。
「何人要る」
「10人。冬までに」
「7人にしてくれ。うち3人は俺が回す。掘りが片付いた順から」
「順って、いつだい」
「30日目からだ」
「30日か」
イルザは腕を組んだ。組んでから、ため息をついた。
「あんた、こういうときに『できません』って言わないんだね」
「言うと、次から話が来なくなる」
「そういうやり方は、いつか自分の首を絞めるよ」
「絞まる前に数える」
イルザは首を振った。呆れているのではなく、本気で心配している顔に近かった。
「あたしの親父も、そういう男だった。頼まれたら断らない。断らないから信用された。信用されたから、軍務府に馬を貸せと言われて断れなかった」
彼女は自分の言葉に自分で舌打ちして、話を切った。
「30日目だね。忘れるんじゃないよ」
*
夜、俺は飯場の外で図面を見ていた。
葦の壁の内側から、人の声が漏れてくる。誰かが歌っていて、誰かが止めている。笑い声。それから、椀の触れ合う音。
25人が乾いた場所で寝ている音だ。
こういう音は工程表には載らない。載らないが載っている数字よりよほど正確に、明日の進み具合を教えてくれる。
歌が続いている晩は翌日の掘りが速い。声が絶える晩はどこかで無理をさせている。数字より先に音のほうが変わる。これは工程表の裏に書いておくべき類の話だが、書いても誰も読まない。
「アルヴィン」
ブルーノの声だった。老人は闇の中から現れて、量水標の数字を書いた紙を差し出した。今朝の読みだ。村口が18のまま。渡し場が10。
「下がっとらんな」
「下がらない。3筋は堀に触っていない」
「それは分かった」
老人は紙を懐にしまった。しまってから、飯場のほうを顎で示した。
「あの中に、うちの郷の者じゃないのが4人おる」
*
俺は手を止めた。
「4人」
「北の郷から2人。西の川向こうから1人。もう一人は、どこの者か知らん」
「飯につられて来たんだろう」
「そうだ。飯につられて来た。来たということは、飯の話が向こうまで届いたということだ」
老人の声が一段低くなった。
「わしは何と言った」
「話が歩く、と言った」
「歩いたぞ。まだ畑2枚と溝1本しか出来とらんうちにな」
俺は飯場の灯りを見た。
葦の隙間から漏れる火の色は、この葦原の中では嫌になるほどよく目立つ。今まで気づいていなかった。灯りが見える場所に人が住んでいなかったからだ。
「明日から、外から来た者はどうする」
俺が訊くと、老人は珍しく即答しなかった。
葦の壁の向こうで、また笑い声が上がる。老人はそちらへ顔を向けたまま動かず、やがて懐へ手を入れた。出てきたのはさっきしまったばかりの紙だ。それを俺の膝の脇へ置く。返事の代わりに置いていくものが、この爺さんの場合は言葉ではない。
草鞋の音が葦の道を戻っていく。速い。来たときより速い。
俺は紙を拾った。今朝の読みは下がっていない。約束の数字のほうは守れている。
守れていないほうの数について、老人は今夜ひとことも口にしなかった。飯場では毎晩ひとつずつ、頭が増えている。




