第5話「焼いてみれば、わかる」
秋が深くなると、この土地には木がないという事実が重くなってきた。
葦は無尽蔵にある。粗朶になる灌木もそこそこ採れる。だが柱に使える太さの木は一本もない。あるのは高床の家に使われているぶんだけで、それは百年かけて上流から流れてきた材を拾い集めたものだという。
「買えばいいでしょう」
ヨナスが言った。畑の2枚目の溝を掘りながらだ。
「買うと運び賃が乗る。運び賃は、渡しと関で二重に取られる」
「じゃあ、どうするんです」
「木を使わない普請を考える」
「そんなものありますか」
「ある。石か、土だ」
*
石はある。
河原の玉石と丘の裾の割石。どちらも小ぶりだが量はある。問題は積むための腕だ。石を積むのは技がいる。俺の手が覚えているのは石の据え方の理屈だけで、面を合わせる勘は持っていない。
土のほうはもっと分からなかった。
この土地の泥は乾かすと縮んで割れる。日干しの塊を作ってみたが、三日目に自分の重さで崩れた。
「割れちゃったね」
ピムが崩れた塊を蹴って言った。
「割れた」
「そりゃ割れるよ。乾かすだけじゃ割れる」
「詳しいな」
「うちの竈がそれだもん」
*
俺は手を止めた。
「竈?」
「うん。母ちゃんが泥を練って作ったやつ。乾かして、それから中で火を焚くんだ。焚いてるうちに硬くなる」
「見せてくれ」
ピムの家は沼の縁のいちばん低い高床だった。
母親は留守で、囲炉裏の脇に泥を練って作った竈が据えてある。俺は膝をついて、その内側に手を入れた。
火の当たる面が硬い。
指で叩くと、乾いた土とは違う音がした。爪を立てても削れない。外側の、火の当たらない部分は指で崩せるのに、内側だけが別の物質になっている。
「焼けてる」
俺は声に出した。
*
その日から、俺は泥を焼いた。
はじめは失敗した。生乾きのまま火に入れると、水が中で膨らんで割れる。乾かしすぎると縮んで割れる。火が弱ければ焼けず、強すぎれば表だけが固まって中が生になる。
窯は掘った。丘の裾に横穴を切って、口を風下に向け、上に煙の抜けを開ける。ピムが葦を運び、ヨナスが薪を割った。薪といっても灌木の枝で火持ちが悪い。悪いなりに、葦を混ぜると火が伸びることが分かった。
「葦って、燃えるだけで熱くならないと思ってた」
ピムが火口を覗き込んで言った。
「束ねると変わる。ばらけてると空気が抜けるだけだ」
「棟梁、それも昔の荷運びの人に習ったんですか」
ヨナスが横から訊いた。俺は返事をしなかった。
こういう問いが増えていくのは分かっていた。答えを用意しておかなければならない日がそのうち来る。
3回目の試しで、ようやく1つだけ、まともに焼けたものが出た。
握りこぶし2つぶんの塊で色は赤茶。指で弾くと澄んだ音がする。水に一晩浸けても崩れない。落としても割れない。
俺はそれを掌に載せて、しばらく見ていた。
見ていたのは塊のほうではなく、その向こうにあるものだ。
木がなくても石を積む腕がなくても、この土地には泥がある。畑の下から出てくる、麦を腐らせる邪魔者が焼けば材料になる。
*
「それ、なんの役に立つんです」
ヨナスが後ろから覗き込んで言った。
「竈が作れる」
「竈ならもう作ってます」
「蔵の床が張れる。道の下に敷ける。水路の壁に貼れる」
「……水路の壁?」
「土のままだと、水が流れるたびに削れる。削れたら埋まる。埋まったらまた掘る。毎年掘り直してるだろう」
ヨナスの顔が変わった。この男の家は毎年その掘り直しをやっている側だ。
「壁を貼れば、掘り直さなくてよくなるんですか」
「減る。なくなりはしない」
「減るだけでも、母は喜びます」
*
ブルーノが窯の跡を見に来たのはその3日後だった。
老人は焼けた塊を一つ手に取って、重さを確かめるように上下させた。
「重いな」
「詰まってる」
「これを、何に使う」
「まずは蔵の床だ。今の蔵は板が湿って、麦が下から傷んでる」
「そのあとは」
「道だ」
老人は塊を地面に置いた。置き方が丁寧だ。放り出さないというのが、この爺さんなりの返事なのだと思う。
「アルヴィン。あんた、水を抜くと言うたな。次は道か」
「歩けないと物が運べない」
「運べんほうが安全だと、わしは言うたはずだ」
「安全な村には、いま麦が22斗しかない」
老人は黙った。黙ってから次の口を開くまでがいつもの倍あった。
「堀は残すという話は、生きとるのか」
「生きてる」
「なら、今日のところは何も言わん」
言わないと言いながら、老人は帰り際にもう一度だけ振り返った。
「今日のところは、な」
*
巡回の駅使が来たのはその翌々日だ。
月に一度、王都から回ってくる馬が一頭。書状の束を置いて、返信を受け取って、また北へ行く。往復で24日かかると聞いて、俺はこの土地の遠さを改めて数字で理解した。
束の中に、王命の触れが一通あった。
『川関通行料改定の件』
俺は板の間に座り込んで頭から読んだ。読み終えるまでに、蝋燭が指一本ぶん短くなった。
*
改定の中身は単純だ。値上げ。
だが単純なのは結論だけだった。
積荷の種目が28に分けてある。麦・雑穀・塩・獣脂・材木・石材・鉄・皮。種目ごとに率が違う。しかも同じ麦でも、送り先が王領かそうでないかで率が変わる。
さらに末尾に、報告の義務が並んでいた。関を通る荷は種目と数量と行き先を関の帳に記す。記さずに通せば没収。
俺は文面を2度読んで、書いた人間の性格を考えた。
これは金を取るための文書ではない。金も取るが主目的ではない。この書式で集まるのは、国のどこに何がどれだけ動いているかという絵だ。値上げはついでだ。
*
署名の欄に名前があった。
『軍務府 兵站総監 メルヒオル・グラン伯爵』
聞いたことのない名前だった。この体の記憶を探っても、王都の宴席で出会った覚えはない。軍務府の人間と付き合うほど、原主は真面目な貴族ではなかったらしい。
俺は指で署名をなぞった。
紙の上のこの男は、俺のことを知らない。知らないまま、俺の土地の荷の値段を決めている。それが普通だ。普通のことなのに、なぜか背中の産毛が立った。
引っかかったのは28という数だ。
種目を28に割るというのは、割った本人が28通りの現場を頭に入れているということだ。皮の値と鉄の値を別に決めた人間は、皮と鉄の荷姿の違いを知っている。役所の紙をなぞっただけの男には、この分け方はできない。
つまり、書いたのは分かっている人間だ。
分かっている人間が、分かった上で全部を数えにかかっている。俺が今まで見てきた中で、いちばん厄介な型の相手だった。
*
その晩、俺は郷長の家へ行って、触れを読んで聞かせた。
ブルーノは板の間に胡座をかいたまま、腕も組まずに聞いていた。読み終えても口を開かない。囲炉裏の生木が湿った音を立てて爆ぜた。
「関の値が上がると、この郷は何が困る」
老人が訊いた。試している声だ。
「塩だ」
「ほう」
「魚は獲れる。獲れても、塩がなければ冬まで保たない。塩は種目の3番目で、率がいちばん上がってる」
ブルーノは初めて表情を動かした。
「去年、塩は一升で7クロイツだった」
「来月には10を超える」
「10」
老人は指を折って、何かを数えた。数え終えて、指を膝の上に戻した。
「うちの郷で、塩を買えん家が何軒出ると思う」
「郷長のほうが正確に分かるはずだ」
「40は下らん」
その40戸は去年河を下って出ていった40人と、たぶん重なっている。
*
翌朝、渡し場は静かだった。
荷駄が一列もない。桟橋の板が乾いたまま白くなっている。
イルザは小屋の軒下で、組合の帳面を膝に載せて座っていた。顔を上げずに言う。
「川の荷が、止まった」
「関の触れか」
「上の荷主が3人、今月の分を見送るって。値が決まるまで動かさないってさ」
「決まってるだろう。触れに書いてある」
「書いてあるのは率だよ。実際いくら取られるかは、関の役人が荷を見て決める。決まるまでは誰も動かさない」
彼女は帳面を閉じた。閉じる音がいつもより大きかった。
「せっかく桟橋を組んだのにね」
*
俺は樽に腰を下ろした。
腰を下ろしてから、言葉を選んだ。ここで慰めを言えば、この人は怒る。算盤の話をするしかない。
「川を使わないで、王都まで荷を運ぶ道はあるか」
「ないよ」
「一つもか」
「北回りは山を越える。冬は使えない。南回りは倍かかる。だから、みんな川を使う。使うしかないから、あの関は値を上げられるんだ」
「東は」
イルザの指が止まった。
「東は道が切れてる」
「切れてる、というのは」
「橋が落ちてるんだよ。百年前から。あの道は昔、王都から国境まで真っ直ぐ行けたって話だけど、今は誰も通らない。通れないんだから」
*
俺は口を閉じた。
閉じてから、自分の中の何かが勝手に動き出しているのを感じた。
道は残っている。丘の上から見た。踏めば硬さが返ってくる。切れているのは河の一箇所だけだ。
そして、その河には百年前の橋脚が4つ、まだ立っている。
——やめておけ。
自分に言った。目立たない。手柄を立てない。3年凌ぐ。橋を架けるのは目立つことの中でもいちばん目立つ部類だ。
「あんた」
イルザが顔を上げていた。
「今、変な顔をしたよ」
「してない」
「してた。畑を一枚掘る前にも、同じ顔をしてた」
彼女は立ち上がって、桟橋のほうを見た。
「言っとくけど、あの河は渡れないよ。渡そうとした代官が一人、行方知れずになってる」
「橋を組んでいる途中でか」
「材木を積んだ舟が関で止められて、そのまま腐ったって話さ。人のほうは、王都に呼ばれて帰ってこなかった」
俺は懐の中の、焼けた泥の塊を握った。
角が掌に当たる。硬い。木でも石でもないものが、この土地から出てきている。
関で止められない材料が、足元にいくらでもある。
そこまで考えて、俺はもう一度、自分に言い聞かせた。目立たない。手柄を立てない。3年を凌ぐ。
言い聞かせた回数だけ、河の向こうの杭が近づいてくるような気がした。




