第3話「畑一枚の説得」
翌朝、俺は東の村の畦に立って、人を待った。
日の出から数えて、一刻。
来たのはピムだけだった。
「誰も来ないよ」
「見れば分かる」
「郷長が、行くなって言ったわけじゃないんだって。誰も言わないけど、みんな行かない」
いちばん厄介な断られ方だ。命令なら覆せる。空気は覆せない。
俺は肩から下ろした道具を並べた。鍬が一丁。畚が2つ。縄が一巻き。それに樫の杖と、水を張るための木の桶。全部で、大の男が一人で運べる量しかない。
「これで掘るの」
「掘る」
「一人で」
「2人だ。お前が数を数える」
*
まず、水の高さを見た。
桶に水を張って、畦に置く。水の面は必ず平らになる。その平らな面と杖の目盛りを見比べれば、どちらが高いかは目で分かる。
畑の南の隅と河の岸。歩数にして220歩。差は杖の目盛りで2つ半。
数字を紙に落として、俺は少し笑いそうになった。2つ半しかない。この畑は河より低いのではなく、河の水面とほとんど同じ高さで、抜ける場所だけがないのだ。
つまり、道を一本作れば出ていく。
「ピム。ここからあそこまで、まっすぐ歩いて数えろ」
「なんで」
「まっすぐ歩けるかどうかを見る」
少年は妙な顔をしたが歩き出した。20歩ほどで足が沈み、迂回して、また戻ってくる。
「まっすぐ行けない」
「そうだ。じゃあ、行ける道を教えてくれ」
*
鍬を入れたのは日が高くなってからだ。
泥は思ったより粘る。刃が入るのは楽だが、抜くときに吸い付く。1回抜くごとに腕の付け根に来た。
腰を落として、足の裏で泥を踏み固めながら掘る。掘った土は上流側の畦に上げる。上げた土を鍬の背で叩いて締める。
この一連を、俺の腕は覚えていた。覚えているのは腕だけで、肩と腰はついてこない。この体は24年、鍬を握ったことがない。
半刻で、掌の皮が2枚めくれた。
「血、出てるよ」
「知ってる」
「布巻けば」
「巻くと握れなくなる。潰れてからでいい」
*
昼になると見物人が出た。
畦の向こうに5人、10人と増えていく。誰も近づかない。近づかずに、こちらを見ながら何か言っては笑う。
言葉の中身までは届かないが、笑いの種類は分かる。貴族が泥に入って鍬を振っているのが、この土地では見世物になるらしい。
一度だけ、泥の塊が飛んできた。
肩に当たって、首筋を伝って落ちた。投げたのは10かそこらの子どもで、投げた直後に母親らしい女に腕を掴まれて連れ戻されていく。連れ戻す女の顔にも、詫びる色はなかった。
俺は泥を払わずに掘り続けた。肩に乗った塊は日が真上へ回るころには縁から白く乾いている。鍬を振るたびに少しずつ欠け、背中を伝って最後の一片が落ちるまで、たっぷり半刻かかった。
畦の後ろのほうに、腕の太い男が立っているのが見えた。カスパーだ。笑ってもいないし、何もしない。黙って立って、俺の掘る速さだけを見ている。
俺は笑われている間に杭を打った。溝の両側に細い杭を並べて、縄を張る。縄より内側だけを掘る。こうしておけば、疲れてきても線が曲がらない。
「なんで縄を張るの」
「疲れると、人はまっすぐ掘れなくなる。曲がった溝は水が溜まる」
「あんた、疲れてる?」
「疲れてる」
素直に答えたら、ピムが笑った。今日、俺の周りで最初に起きた、悪意のない笑いだった。
*
日暮れに、赤茶の頭巾が畦を上ってきた。
イルザは俺の掘った溝を端から端まで歩いて見て、それから泥に足を取られて舌打ちをした。
「これ、何日で終わるの」
「この一本で4日。畑一枚分だ」
「一枚」
「一枚だ」
「320戸ある郷で、一枚」
「一枚やらないと、2枚目の話ができない」
イルザは腕を組んだ。組んだまま、俺の手のほうを見ている。掌の血が泥と混ざって、鍬の柄に黒い染みを作っていた。
「渡し場の足場、うちの若い衆が明日から組む。あんたの図面どおりにやればいいんだね」
「図面は置いてきた。杭の位置に印がついてる。分からなければ呼べ」
「呼ばれたら来るのかい。ここで一枚掘ってる人が」
「行く。足場のほうが先に人が乗る」
イルザは口の中で何か計算していた。指が2本、袖の上で動いている。荷の数か、日数か、それとも銭か。
「一つ聞くよ。あんた、この郷を耕して800石納めるつもりなんだろう」
「沙汰書にそう書いてある」
「納める麦は、どうやって王都まで運ぶ気だい」
俺は鍬を止めた。
そこまでは考えていなかった、と言えば嘘になる。考えたが後回しにしていた。掘るほうが先だと思っていた。
「渡しだ」
「渡しは、うちのものだよ」
彼女は返事を待たずに背を向けた。背を向けてから、帰り際に一度だけ振り返った。
*
2日目の朝、畦に男が一人立っていた。
ヨナスだ。寄合で日当を訊いた若い衆。手ぶらで鍬も持っていない。
「掘りに来たわけじゃないですよ」
「そうか」
「ただ、見に来ただけで」
「見てろ」
俺は鍬を振り続けた。振りながら、この男が帰らないことに気づいていた。半刻経ってもまだ畦にいる。
昼前に、ヨナスは自分の家から鍬を取ってきた。
何も言わずに溝の反対側に入って、縄の内側を掘り始めた。俺も何も言わなかった。言えば、この男が村に帰りづらくなる。
夕方、俺は麦飯を炊いた。館から持ってきた鍋で、蔵から買った麦を煮ただけのものだ。塩を振って、ピムと3人で食った。
火のそばに座ると、掌の傷が痛み出した。冷えている間は感じないのに、温まると思い出したように痛む。前にもこういう晩があった気がする。どこの現場だったかは出てこない。
「うちの母は」
ヨナスが椀を持ったまま言った。訊いてもいないのに。
「うちの母は、あの畑の株を毎年抜きに行くんです。腐った株を。抜いても次の年また腐るのに、抜かないと気が済まないらしくて」
「今年も抜いたのか」
「抜きました。抜いた後で、泣いてました」
俺は麦を噛んだ。返す言葉を探すより、噛んでいるほうが場が保つ。
ヨナスは黙って2杯食って、椀を返すときにだけ口を開いた。
「明日も来ます」
*
3日目に水が動いた。
溝が河まで通った瞬間、音がしたわけではない。畑側の水面に、細い筋が立っただけだ。筋は溝に向かって伸びていき、そこから先は目で追えなくなった。
俺は畦に座って、それを見ていた。
「動いてる?」
「動いてる」
「なんにも見えないけど」
「明日の朝には見える」
*
翌朝、畑に土が出ていた。
一面の水の中から、黒い島がいくつも顔を出している。去年の麦の株の間から、湿った土の背が見えていた。
畑一枚。増えたのはそれきりだ。
俺は畦にしゃがんで土を掌に取った。握ると形が残る。指で押すと崩れる。まだ水は抜けきっていないが、あと2日も晴れれば、鍬が入る硬さになる。
背後で足音がした。
振り返ると、畦の下に村の者が集まっていた。昨日まで笑っていた連中だ。誰も笑っていない。誰も何も言わない。
その沈黙は笑い声よりよほど重かった。
年寄りの女が一人、草鞋を脱いで畑に入った。
黒い土の上を3歩ばかり歩いて、しゃがんで両手で土を掬う。掬った土を鼻に近づけて、匂いを嗅いだ。それから何も言わずに畦に戻り、こちらを見ずに村へ帰っていった。
嗅ぐ、というのが分かる人間の動きだ。水に浸かった土は腐った匂いがする。抜けた土は匂いが変わる。この郷の年寄りは、それを目でなく鼻で確かめる。
*
「一枚か」
ブルーノの声だった。
老人は畑の端に立っていた。手ぶらだ。あの泥掻きを持たずに歩いている姿を、俺はまだ一度も見ていない。いつから立っていたのかは分からない。
「一枚だ」
「4日でな」
「3日と半日だ」
「同じことを言うな」
老人は畑に足を踏み入れて、土を踏んだ。踏んで、深さを確かめて、それから足を抜いた。抜いた跡に水が滲んでこない。
「悪くない」
言い切るまでが短かった。短いぶん、後から取り消しの利かない言い方だ。
俺は答えなかった。ここで得意そうな顔をしたら、この老人は二度と俺の話を聞かない。
「アルヴィン」
初めて名前で呼ばれた。
「3枚目まではやめておけ」
*
「なぜ3枚だ」
「2枚までは、村の中の話で済む。あそこの畑が乾いたな、で終わる。3枚目からは、隣の郷が見に来る」
「見に来ると、どうなる」
「話が歩く。歩いた話は関に届く。関に届いた話は王都に届く」
ブルーノは草鞋の先で、俺の掘った溝の縁を軽く崩した。
「わしが恐れとるのは、あんたの鍬じゃない。あんたの鍬の噂だ」
俺は溝を見た。
幅は2尺もない。長さは220歩。どこにでもある排水の溝だ。これが噂になるという話が、俺には実感として湧かない。
湧かないまま、頷いておいた。
「2枚で止める」
「止めればいいがな」
老人は俺の顔を見た。見て、口の端を歪めた。笑ったのではない。呆れた顔でもない。強いて言えば、負けを予感した男の顔だった。
「あんた、掘っとる間ずっと笑っとったぞ」
「笑ってはいない」
「掌から血ぃ出して、泥に膝までつけて、そういう顔をしとった。わしはあの顔をした男を何人か知っとる。ああいう手合いは、2枚では止まらん」
老人はそれ以上言わずに畦を下りていった。
*
その晩、俺は溝の様子を見に行った。
夜の葦原は音が多い。水の落ちる音、蛙、風で葉の擦れる音。掘ったばかりの溝は暗くて、どこを流れているかは音だけで分かる。
溝の脇に人影が立っていた。
カスパーだった。
こちらに気づいているはずなのに振り返らない。男は溝の縁にしゃがんで、掌を水につけていた。流れの向きを確かめるように、指を横へ動かしている。
俺は声をかけずに、少し離れたところで足を止めた。
長いあいだ、男は動かなかった。水に沈めた手のほうだけが、ときどき角度を変える。深さを測っているのだと途中で気づいた。指の第二関節までか、それとも掌が隠れるところまでか。素人がやる測り方ではない。
この男は堤の普請場で働いたことがある。
そう思い当たった瞬間、腹の底が冷えた。あの村の堤に人足として入っていたのなら、切れた夜に何がどう起きたかを、自分の足で知っているということになる。
やがてカスパーは立ち上がり、泥のついた手を膝で拭って、こちらを見もせずに言った。
「あの村の堤も、最初は溝からだった」




