↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
処刑を免れた悪役領主は目立ちたくない ~前世は土木の現場監督。黙って道と橋を直していたら、俺を捨てた王国軍が頭を下げてきた~  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/32

第3話「畑一枚の説得」

翌朝、俺は東の村の畦に立って、人を待った。


日の出から数えて、一刻。


来たのはピムだけだった。


「誰も来ないよ」


「見れば分かる」


「郷長が、行くなって言ったわけじゃないんだって。誰も言わないけど、みんな行かない」


いちばん厄介な断られ方だ。命令なら覆せる。空気は覆せない。


俺は肩から下ろした道具を並べた。鍬が一丁。畚が2つ。縄が一巻き。それに樫の杖と、水を張るための木の桶。全部で、大の男が一人で運べる量しかない。


「これで掘るの」


「掘る」


「一人で」


「2人だ。お前が数を数える」


*


まず、水の高さを見た。


桶に水を張って、畦に置く。水の面は必ず平らになる。その平らな面と杖の目盛りを見比べれば、どちらが高いかは目で分かる。


畑の南の隅と河の岸。歩数にして220歩。差は杖の目盛りで2つ半。


数字を紙に落として、俺は少し笑いそうになった。2つ半しかない。この畑は河より低いのではなく、河の水面とほとんど同じ高さで、抜ける場所だけがないのだ。


つまり、道を一本作れば出ていく。


「ピム。ここからあそこまで、まっすぐ歩いて数えろ」


「なんで」


「まっすぐ歩けるかどうかを見る」


少年は妙な顔をしたが歩き出した。20歩ほどで足が沈み、迂回して、また戻ってくる。


「まっすぐ行けない」


「そうだ。じゃあ、行ける道を教えてくれ」


*


鍬を入れたのは日が高くなってからだ。


泥は思ったより粘る。刃が入るのは楽だが、抜くときに吸い付く。1回抜くごとに腕の付け根に来た。


腰を落として、足の裏で泥を踏み固めながら掘る。掘った土は上流側の畦に上げる。上げた土を鍬の背で叩いて締める。


この一連を、俺の腕は覚えていた。覚えているのは腕だけで、肩と腰はついてこない。この体は24年、鍬を握ったことがない。


半刻で、掌の皮が2枚めくれた。


「血、出てるよ」


「知ってる」


「布巻けば」


「巻くと握れなくなる。潰れてからでいい」


*


昼になると見物人が出た。


畦の向こうに5人、10人と増えていく。誰も近づかない。近づかずに、こちらを見ながら何か言っては笑う。


言葉の中身までは届かないが、笑いの種類は分かる。貴族が泥に入って鍬を振っているのが、この土地では見世物になるらしい。


一度だけ、泥の塊が飛んできた。


肩に当たって、首筋を伝って落ちた。投げたのは10かそこらの子どもで、投げた直後に母親らしい女に腕を掴まれて連れ戻されていく。連れ戻す女の顔にも、詫びる色はなかった。


俺は泥を払わずに掘り続けた。肩に乗った塊は日が真上へ回るころには縁から白く乾いている。鍬を振るたびに少しずつ欠け、背中を伝って最後の一片が落ちるまで、たっぷり半刻かかった。


畦の後ろのほうに、腕の太い男が立っているのが見えた。カスパーだ。笑ってもいないし、何もしない。黙って立って、俺の掘る速さだけを見ている。


俺は笑われている間に杭を打った。溝の両側に細い杭を並べて、縄を張る。縄より内側だけを掘る。こうしておけば、疲れてきても線が曲がらない。


「なんで縄を張るの」


「疲れると、人はまっすぐ掘れなくなる。曲がった溝は水が溜まる」


「あんた、疲れてる?」


「疲れてる」


素直に答えたら、ピムが笑った。今日、俺の周りで最初に起きた、悪意のない笑いだった。


*


日暮れに、赤茶の頭巾が畦を上ってきた。


イルザは俺の掘った溝を端から端まで歩いて見て、それから泥に足を取られて舌打ちをした。


「これ、何日で終わるの」


「この一本で4日。畑一枚分だ」


「一枚」


「一枚だ」


「320戸ある郷で、一枚」


「一枚やらないと、2枚目の話ができない」


イルザは腕を組んだ。組んだまま、俺の手のほうを見ている。掌の血が泥と混ざって、鍬の柄に黒い染みを作っていた。


「渡し場の足場、うちの若い衆が明日から組む。あんたの図面どおりにやればいいんだね」


「図面は置いてきた。杭の位置に印がついてる。分からなければ呼べ」


「呼ばれたら来るのかい。ここで一枚掘ってる人が」


「行く。足場のほうが先に人が乗る」


イルザは口の中で何か計算していた。指が2本、袖の上で動いている。荷の数か、日数か、それとも銭か。


「一つ聞くよ。あんた、この郷を耕して800石納めるつもりなんだろう」


「沙汰書にそう書いてある」


「納める麦は、どうやって王都まで運ぶ気だい」


俺は鍬を止めた。


そこまでは考えていなかった、と言えば嘘になる。考えたが後回しにしていた。掘るほうが先だと思っていた。


「渡しだ」


「渡しは、うちのものだよ」


彼女は返事を待たずに背を向けた。背を向けてから、帰り際に一度だけ振り返った。


*


2日目の朝、畦に男が一人立っていた。


ヨナスだ。寄合で日当を訊いた若い衆。手ぶらで鍬も持っていない。


「掘りに来たわけじゃないですよ」


「そうか」


「ただ、見に来ただけで」


「見てろ」


俺は鍬を振り続けた。振りながら、この男が帰らないことに気づいていた。半刻経ってもまだ畦にいる。


昼前に、ヨナスは自分の家から鍬を取ってきた。


何も言わずに溝の反対側に入って、縄の内側を掘り始めた。俺も何も言わなかった。言えば、この男が村に帰りづらくなる。


夕方、俺は麦飯を炊いた。館から持ってきた鍋で、蔵から買った麦を煮ただけのものだ。塩を振って、ピムと3人で食った。


火のそばに座ると、掌の傷が痛み出した。冷えている間は感じないのに、温まると思い出したように痛む。前にもこういう晩があった気がする。どこの現場だったかは出てこない。


「うちの母は」


ヨナスが椀を持ったまま言った。訊いてもいないのに。


「うちの母は、あの畑の株を毎年抜きに行くんです。腐った株を。抜いても次の年また腐るのに、抜かないと気が済まないらしくて」


「今年も抜いたのか」


「抜きました。抜いた後で、泣いてました」


俺は麦を噛んだ。返す言葉を探すより、噛んでいるほうが場が保つ。


ヨナスは黙って2杯食って、椀を返すときにだけ口を開いた。


「明日も来ます」


*


3日目に水が動いた。


溝が河まで通った瞬間、音がしたわけではない。畑側の水面に、細い筋が立っただけだ。筋は溝に向かって伸びていき、そこから先は目で追えなくなった。


俺は畦に座って、それを見ていた。


「動いてる?」


「動いてる」


「なんにも見えないけど」


「明日の朝には見える」


*


翌朝、畑に土が出ていた。


一面の水の中から、黒い島がいくつも顔を出している。去年の麦の株の間から、湿った土の背が見えていた。


畑一枚。増えたのはそれきりだ。


俺は畦にしゃがんで土を掌に取った。握ると形が残る。指で押すと崩れる。まだ水は抜けきっていないが、あと2日も晴れれば、鍬が入る硬さになる。


背後で足音がした。


振り返ると、畦の下に村の者が集まっていた。昨日まで笑っていた連中だ。誰も笑っていない。誰も何も言わない。


その沈黙は笑い声よりよほど重かった。


年寄りの女が一人、草鞋を脱いで畑に入った。


黒い土の上を3歩ばかり歩いて、しゃがんで両手で土を掬う。掬った土を鼻に近づけて、匂いを嗅いだ。それから何も言わずに畦に戻り、こちらを見ずに村へ帰っていった。


嗅ぐ、というのが分かる人間の動きだ。水に浸かった土は腐った匂いがする。抜けた土は匂いが変わる。この郷の年寄りは、それを目でなく鼻で確かめる。


*


「一枚か」


ブルーノの声だった。


老人は畑の端に立っていた。手ぶらだ。あの泥掻きを持たずに歩いている姿を、俺はまだ一度も見ていない。いつから立っていたのかは分からない。


「一枚だ」


「4日でな」


「3日と半日だ」


「同じことを言うな」


老人は畑に足を踏み入れて、土を踏んだ。踏んで、深さを確かめて、それから足を抜いた。抜いた跡に水が滲んでこない。


「悪くない」


言い切るまでが短かった。短いぶん、後から取り消しの利かない言い方だ。


俺は答えなかった。ここで得意そうな顔をしたら、この老人は二度と俺の話を聞かない。


「アルヴィン」


初めて名前で呼ばれた。


「3枚目まではやめておけ」


*


「なぜ3枚だ」


「2枚までは、村の中の話で済む。あそこの畑が乾いたな、で終わる。3枚目からは、隣の郷が見に来る」


「見に来ると、どうなる」


「話が歩く。歩いた話は関に届く。関に届いた話は王都に届く」


ブルーノは草鞋の先で、俺の掘った溝の縁を軽く崩した。


「わしが恐れとるのは、あんたの鍬じゃない。あんたの鍬の噂だ」


俺は溝を見た。


幅は2尺もない。長さは220歩。どこにでもある排水の溝だ。これが噂になるという話が、俺には実感として湧かない。


湧かないまま、頷いておいた。


「2枚で止める」


「止めればいいがな」


老人は俺の顔を見た。見て、口の端を歪めた。笑ったのではない。呆れた顔でもない。強いて言えば、負けを予感した男の顔だった。


「あんた、掘っとる間ずっと笑っとったぞ」


「笑ってはいない」


「掌から血ぃ出して、泥に膝までつけて、そういう顔をしとった。わしはあの顔をした男を何人か知っとる。ああいう手合いは、2枚では止まらん」


老人はそれ以上言わずに畦を下りていった。


*


その晩、俺は溝の様子を見に行った。


夜の葦原は音が多い。水の落ちる音、蛙、風で葉の擦れる音。掘ったばかりの溝は暗くて、どこを流れているかは音だけで分かる。


溝の脇に人影が立っていた。


カスパーだった。


こちらに気づいているはずなのに振り返らない。男は溝の縁にしゃがんで、掌を水につけていた。流れの向きを確かめるように、指を横へ動かしている。


俺は声をかけずに、少し離れたところで足を止めた。


長いあいだ、男は動かなかった。水に沈めた手のほうだけが、ときどき角度を変える。深さを測っているのだと途中で気づいた。指の第二関節までか、それとも掌が隠れるところまでか。素人がやる測り方ではない。


この男は堤の普請場で働いたことがある。


そう思い当たった瞬間、腹の底が冷えた。あの村の堤に人足として入っていたのなら、切れた夜に何がどう起きたかを、自分の足で知っているということになる。


やがてカスパーは立ち上がり、泥のついた手を膝で拭って、こちらを見もせずに言った。


「あの村の堤も、最初は溝からだった」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。