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処刑を免れた悪役領主は目立ちたくない ~前世は土木の現場監督。黙って道と橋を直していたら、俺を捨てた王国軍が頭を下げてきた~  作者: 夜凪 蒼


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第2話「水面より低い村」

寄合は郷長の家の板の間で開かれた。


高床の下から梯子を上がると煙が目に来た。囲炉裏の火に生木をくべているせいだ。乾いた薪がないのだと匂いで分かる。


板の間には男が20人あまり。奥に年寄りが座り、手前に若い衆。全員が濡れた脛のまま上がってきていて、板が黒く濡れている。


俺が入っても誰も場所を空けなかった。


「そこに座れ」


ブルーノが囲炉裏の向かい側を顎で示した。座ると煙が正面から来る。上座ではない。煙の当たる側だ。


*


顔を上げて、俺は部屋の隅を見た。


戸口の柱にもたれて、男が一人立っている。歳は30半ば。腕が太く、爪が全部短く割れていた。ほかの男たちが座っているのに、この男だけが立ったままこちらを見ている。


視線が合っても外さない。


「カスパー」


ブルーノが名を呼んだ。


「座れ」


「立ってます」


「座れと言った」


「郷長。俺は座れます。ただ、座ったら手が出るかもしれん。立ってるほうが、あんたのためだ」


言い方は落ち着いていた。落ち着いた声で言われるほうが、怒鳴られるより背筋に来る。俺は目を逸らさずに一度だけ頷いて、それから囲炉裏の火に視線を戻した。


戸口の外に、赤茶の頭巾が見えた。イルザだ。郷の寄合に馬借は入らない決まりらしく、外の板廊に腰を下ろして、片膝を立てて中の話を聞いている。


*


「掘るつもりだと聞いた」


ブルーノが切り出した。前置きはない。


「掘る」


「どこを」


「東の村の南側だ。低いところの水を、河へ落とす筋を通す」


「何筋だ」


「まだ決めていない。歩いて、測って、決める」


「掘ってから決めるのと、どこが違う」


年寄りの何人かが笑った。笑いは短く、すぐ消えた。


俺は懐から折った紙を出して、板の間に広げた。昨日と今日で歩いた歩数を、線にして落としたものだ。村と村、畑と河、水の高さの差。紙は湿っていて、炭の線が滲んでいる。


「ここが低い。ここが少し高い。水は高いところから低いところへ行く。行き先を作れば、勝手に出ていく」


「勝手に出ていくものを、なぜ出す」


「麦が腐るからだ」


「腐らん年もある」


「10年に何年だ」


ブルーノは答えなかった。答えないことが答えだった。


*


老人は火箸を取って、灰に線を引いた。


俺の描いた図と同じ形の線だ。この人もこの土地の高低を頭に入れている。入れた上で、掘らないことを選んでいる。


「あんたに一つ教えとく」


火箸の先が灰の真ん中を叩いた。


「ぬかるみはな、神様の堀だ」


板の間が静まった。年寄りたちが小さく頷いている。初めて聞く言い伝えではないらしい。


「この郷は200年、誰にも攻められとらん。兵が来られんからだ。馬が入れば腹まで沈む。荷車は轍ごと消える。だから領主も代官も、来ては帰り、来ては帰りした。年貢の取り立ても甘い。なぜだと思う」


「取りに来るのが面倒だからだ」


「そうだ。面倒な土地は、生かしておいてもらえる」


老人は火箸を灰に突き立てた。


「水を抜けばな、堀が消える。堀が消えれば道が通る。道が通れば、兵隊とお上が来る。あんたは畑を増やすつもりでおるが、増えた畑は誰のものになる」


奥の年寄りが一人、痰を切ってから口を開いた。


「北のフェルダウがそうだったな」


「知っとる者は知っとる」


ブルーノは頷いた。


「わしが若い時分だ。あそこも沼地でな、王都から人が来て、立派に干した。麦がよく穫れると評判が立ってな。5年もせんうちに軍の秣場になって、村は柵の外へ出された。今は馬の草を刈る村だ」


「出された連中は」


「文句を言った者は牢に入った。言わん者は残って草を刈っとる。どっちがましかは、わしには言えん」


板の間の男たちは誰も笑わなかった。作り話ではないのだと、その黙り方で分かる。


*


俺は返す言葉を持っていた。持っていて、口に出さなかった。


出せば、口喧嘩にしかならない。それにこの老人の言っていることは外れていない。


昨日見た畑を思い出す。区画の6割が水の下で、去年の株が黒いまま浮いていた。あの水を抜いたところで、乾いた区画が誰の取り分になるかは、掘る前には誰にも書けない。便利になることと、暮らしが良くなることは同じ意味ではない。


そして、便利にした側の人間は、たいていその区別を最後まで理解しない。


「郷長の言うとおりだ」


俺が言うと、板の間の空気が妙な形に歪んだ。反論を待っていた連中が、行き場を失った顔をしている。


「ならやめとけ」


「やめると、冬に何人死ぬ」


「……なんだと」


「蔵を見せてくれ」


*


蔵は郷長の家の隣に建っていた。


やはり高床だ。梯子を上がって扉を開けると床板の匂いがした。麦の匂いではない。空の木の匂いだ。


中には麻袋が積んである。積んであるように見えて、俺は袋の腹を順に押していった。7つ目までが空だった。


「去年の分は」


「食った」


「今年の分は」


「あの畑を見たろう」


ブルーノは扉の外に立ったまま、中に入ってこなかった。入りたくないのだと思う。自分の郷の蔵の底を、他人と一緒に見るのは誰でも嫌だ。


俺は残りの袋を数えた。中身の入っているものが11。1袋がおよそ2斗。全部で22斗。


袋の口を開けて、掌に少し出してみる。粒が小さい。半分は虫が食っていて、指で潰すと粉になった。種籾に回せる質ではない。


村4つで320戸。頭数にして、およそ1300人。


計算するまでもない。ひと月も保たない。


「郷長。この蔵に、去年のいちばん多いときは何袋あった」


「30と少しだ」


「一昨年は」


「40は超えとった」


減っている。それも悪い年が一度来たという減り方ではない。毎年少しずつ削られていく減り方だ。こういう数字の並びを、俺は嫌というほど見たことがある。放っておけば、必ずゼロを跨ぐ。


「沼の魚は」


「凍る前に獲れるだけ獲る。獲れば減る。減れば来年獲れん」


「去年もそうやったのか」


「去年は、40人ばかり河を下って出ていった。出ていったぶん、口が減った」


*


俺は蔵の中で、袋の並びを端から目で追っていた。


追いながら考えていたのは堀の話だ。


この郷が生き延びてきた理屈は正しい。正しいのに、その理屈のまま毎年40人ずつ人が減っている。守りの堀の内側で、じわじわと人が消えていく。守りきったところで、守るべき中身がなくなる。


前にいた場所の言葉で言えば、これは維持管理の放棄だ。壊れないように何もしない、という選択は、たいてい壊れるより早く死ぬ。


俺は梯子を下りて、ブルーノの前に立った。


「全部は抜かない」


老人が眉を上げた。


「なんだと」


「堀は残す。あんたの言う神様の堀は、そのままにしておく。抜くのは水じゃなくて、水の行き先だ」


「同じことだろう」


「違う。畑の下に水の道を作って、雨のあとの余りだけを河へ出す。普段の沼はそのまま残る。馬も荷車も、相変わらず入れない」


*


ブルーノは黙った。


黙って、泥掻きの柄を握り直した。指の力が入って、柄の握り跡がまた深くなる。


「うまい話をする男だな」


「うまくはない。手間が倍かかる。全部抜くなら一直線に掘ればいい。堀を残すなら、水を回す筋を選ばないといけない。測るのに何日もかかる」


「その手間を、誰が出す」


「郷の人足を貸してくれ。日当は出す」


「出さん」


即答だった。


「あんたの銭は、あんたの家が抜いた銭と同じ色に見える。うちの若い者にそれを握らせたら、握ったほうが村で立てなくなる」


理屈が通っている。腹立たしいほど通っている。


そのとき、梯子の途中に腰かけていた若い衆が口を開いた。まだ髭も薄い、20そこそこの男だ。


「日当は、本当に出るんですか」


「出す」


「いくらで」


「6クロイツと、飯だ」


男の喉が動いた。飯、のところで動いた。この郷では銭より飯のほうが効くらしい。


「ヨナス」


ブルーノが名を呼んだ。声を荒らげてはいない。荒らげないぶん、若い衆は首を縮めて口を閉じた。


俺は何も言わずにその様子を見ていた。ここで銭の話を重ねれば、この子は村で居場所を失う。今日の言い争いは、俺と老人の間で済ませておくほうがいい。


*


板廊のほうで、布の擦れる音がした。


イルザが立ち上がって、こちらへ歩いてくる。中には入らず、梯子の下から見上げる形で口を開いた。


「郷長。あたしから一つ」


「言え」


「渡し場に足場を組むって話は、うちが銭を出す。組合の仕事だ。郷の若い衆を何人か借りたいが、それは郷長への貸しじゃなく、うちからの日当だ」


「馬借の銭ならいいと」


「よかないよ。よかないけど、うちの銭は誰も沈めてない」


言い切って、彼女はこちらを見た。助け舟を出したつもりはない、という目だ。渡し場が使えなければ商売が止まる。止まれば荷主が離れる。だから出す。算盤の筋がそのまま顔に書いてある。


ブルーノは何も答えなかった。答えないまま、蔵の扉を閉めて閂を落とした。


*


寄合はそれで終わった。


男たちが梯子を下りていく。誰も俺に声をかけない。最後にカスパーが下りてきて、俺の横を通り過ぎるとき、足を止めた。


「あんた、掘るのか」


「掘る」


「うちの村の堤もな、掘って、直して、盛り直したんだ。図面もあった。人足も入った。役人が来て、良い普請だと言って帰っていった」


男の声はやはり落ち着いていた。落ち着いたまま、喉の奥だけが震えている。


「その3日後に切れた」


俺は何も言えなかった。


「あんたの名前でな」


カスパーは泥の中へ下りていき、振り返らずに歩いていった。


その背中が葦の向こうに消えるまで俺は動けなかった。


謝る言葉は喉まで来ていた。来ていたが出さなかった。あの男が欲しがっているのは詫びではないし、詫びで払えるものでもない。払えるとしたら、言葉ではなく、これから掘る溝のほうだろう。


ブルーノが梯子の上で言った。


「明日から、郷の者は誰も出んぞ」


老人は俺の返事を待たなかった。


「一人で掘るなら止めはせん。その代わり、一枚目の畑で音を上げたら、二度と寄合には呼ばん」

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