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処刑を免れた悪役領主は目立ちたくない ~前世は土木の現場監督。黙って道と橋を直していたら、俺を捨てた王国軍が頭を下げてきた~  作者: 夜凪 蒼


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第1話「ようこそ、神様の堀へ」

高床の家というのは床下がよく見える。


朝、梯子を下りながら俺は柱の根元をひとつずつ確かめた。太さは足りている。継ぎ手も悪くない。もっとも、根巻きの石が沈んで、柱の一本が指2本ぶん傾いでいた。放っておけば床が捻れる。


つまりこの土地では、家は建てて終わりではない。毎年沈むぶんを、住む側が直し続けている。


それが分かった時点で、俺はこの郷の連中を少しだけ見直した。


「なんで柱ばっかり見てるの」


声は下から来た。


昨日の少年が梯子の脇の泥にしゃがんでいる。細い脛と大きすぎる草鞋。手には縄で束ねた魚が3尾ぶら下がっていた。


「傾いでいるからだ。名前は」


「ピム」


「歳は」


「13」


もっと下に見えた。沼の子は育ちが遅いのか、それとも飯が足りていないのか。どちらでもある気がした。


「郷長に言われて来たの。あんたを歩かせろって」


「歩かせろ、か」


「うん。溺れられたら面倒だから、って」


ピムは魚を板の間に置くと、返事も待たずに歩き出した。俺は樫の杖を掴んで後を追った。


*


歩き出して四半刻で、俺はこの子の価値を理解した。


村と村のあいだは、見た目には一面の葦原だ。道らしい道はない。ところが、ピムは迷わない。葦の色の濃いところを避け、薄いところを選び、時々しゃがんで水面に指を入れる。


「ここ、冷たい。冷たいのは動いてるから。動いてるとこは底が硬いよ」


理屈が通っている。誰かに習ったのではなく、足の裏で覚えた理屈だ。


俺は杖を突きながら歩数を数えた。柄の刻みに親指を当てて、百を数えるごとに一つずつずらしていく。館から東の村までおよそ1200歩。半里といったところか。


「そのおっきい杖、なに」


「歩いた数を覚えておくための杖だ」


「歩いた数、覚えてどうするの」


「絵にする」


「絵?」


答える前に視界が開けた。


*


村がひとつ、目の前にあった。


高床の家が20軒ばかり。その向こうに畑が広がっている。畑には水が張っていて、去年の麦の株が黒く腐ったまま浮いていた。


畦に立って、俺は自分の胸のあたりを手で示した。


「ピム。あの畑と、この川の水面と、どっちが高い」


「川」


「即答か」


「そんなの誰でも知ってる。だから水が抜けないんだもん」


誰でも知っている。知っていて、そのまま20年、30年と暮らしている。抜く手立てがないからだ。


村の者が何人か、こちらを見ていた。目が合うと、顔を伏せて家の中へ入る。子どもを抱えて戸を閉めた女もいた。歓迎されていないのは分かる。分かるが理由の見当がまだつかない。


「みんな、あんたのこと知ってるよ」


ピムが言った。悪気のない声で。


「どう知ってる」


「川を殺した家の人」


*


昼前に、俺たちは渡し場へ出た。


昨日流されかけた舟は岸に引き上げられ、腹の板を2枚剥がして干してある。その脇に荷駄が並び、馬が7頭、綱で繋がれていた。荷を積み直している最中らしい。


そして、赤茶の頭巾が一つ。


背は女にしては高い。袖を肩までまくって、馬の腹帯を膝で押しながら締め上げている。締め終わると馬の首を一度叩いて、次の馬へ移った。


昨日、対岸で飛んでいた声だ。


「イルザ! その馬、右の前が浮いてる!」


若い衆の一人が叫び、女は振り返らずに手だけ上げた。


「石だ。抜いてから積め」


俺が近づくと、女は初めてこちらを見た。見て、俺の泥だらけの外套から手の中の杖へ、それから顔へと目を移した。値踏みの目だ。品物を見るのと同じ順で人を見る。


「あんたが新しいお代官かい」


「アルヴィン・ロートバッハだ」


名乗ると、周りの空気が止まった。


馬の腹帯を締めていた若い衆が手を止め、荷を担いだ男が担いだまま動かなくなる。女だけが動きを変えなかった。指の力も息の間合いもそのままだ。


「イルザ・モーア。馬借の若頭をやってる」


「昨日は助かった。対岸のさばきが良かった」


「あんたに褒められる筋合いはないよ」


語尾を上げも下げもしない言い方だった。怒鳴りもしない。怒鳴らないぶん、こちらの逃げ場がない。


*


イルザは腹帯から手を離して、俺の正面に立った。


「せっかくだから、この郷の言い伝えを教えてやる。4年前の秋、上のロートバッハ領で堤が切れた。夜中だ。誰も逃げられなかった」


「聞いている」


「聞いてる、で済ますな。あそこの堤は、直したばかりだったんだ。直した直後に切れたんだよ。なんでだと思う」


「金が抜かれていたからだ」


俺は答えた。答えてから、自分の声に温度がないことに気づいた。


「よく知ってるね」


「俺が抜いた」


その一言で、若い衆の一人が畚を落とした。


イルザは目を細めた。値踏みの目ではなく、罠を疑う目だった。ここで言い訳を並べるか、泣き落としに来るか、その両方かを待っている顔だ。俺はどちらもやらなかった。やる資格がない。


「沈んだ村の連中はな、川を下って、ここに流れ着いた」


「昨夜、館の下にいた」


「見たのか」


「見た。松明が4つ」


イルザは短く息を吐いた。呆れたのか、それとも別のものか、俺には読めない。


「4つで済んで運がよかったね。この郷はあんたの家に払わせたいものが山ほどある。あたしにもある」


「あんたに」


「あたしの親父は先代の馬借頭だ。軍の徴発で馬を40頭持っていかれて、返ってきたのは12頭。御用の株まで取り上げられて、そのまま死んだ」


言いながら、彼女は自分の馬の首を撫でていた。撫でる手つきだけが声より優しい。


「それは、うちの家の話じゃないな」


「そうだよ。貴族の話だ。あんたら全部ひっくるめての話さ」


*


俺は少しのあいだ、返す言葉を探した。


見つからなかったので、代わりに商売の話をした。


「渡し賃はいくらだ」


「荷馬一頭で4クロイツ。人は2。今日みたいに舟が壊れてる日は、上流の浅瀬まで回るから丸一日よけいにかかる」


「回る日は、月にどれくらいある」


「秋から冬で、10日は堅い」


「渡しが止まると、荷はどこへ行く」


「軍の関を通る川の道さ。通行料が高いから、うちらは使わない。使わないから待つ。待つと荷主が離れる」


イルザは早口だった。数字がすぐ出てくる。組合の帳場を自分で握っている人間の出方だ。


俺は杖の先で地面に線を引いた。


「舟は直るのか」


「板が要る。ここの木は水を吸って使い物にならない。上から買うと高い」


「板の代わりに、杭と粗朶で足場を組めば、荷は上げ下ろしできる。舟がなくても、水位が下がっているうちなら渡れる」


「そんなもの、増水で流れるよ」


「流れる。流れたら、また組む。3日で組める形にしておけば、流れても3日で戻る」


イルザは黙った。


黙って、俺の引いた線を見て、それから顔を上げた。


「あんた、貴族のくせに何を測ってるんだ」


*


その日の午後、俺は東へ回った。


ピムに案内させたのは草の丘だ。丘の上に立つと、葦原の中に一本、筋が見える。昨日、塚から見た筋だった。


近づいてみるとそれは道だった。


幅は3間ほど。両側に排水の溝の跡があり、真ん中が高い。土を盛って締めた造りだ。草に埋もれていても、踏めば足の裏に硬さが返ってくる。百年寝ていても締めた土は締めたままでいる。


道の先が河で切れていた。


河の中に黒い杭の列。昨日、粗朶を落とした場所だ。上流から見下ろすと、その並びが橋の脚だったことがはっきり分かる。等間隔で4つ。両岸に取り付きの石積みが残っていて、石の面はまだ角が立っていた。


俺は石積みに手を置いた。冷たい。苔の下の面が指の腹にざらりと来る。


いい仕事だ。


角石の据え方に迷いがない。水当たりの側だけ石を大きくしてある。組んだ棟梁はこの河がどこを削りに来るかを知っていた。


つまり、これを組んだ連中は河を舐めていない。舐めていないのに落ちたのなら、落とすだけの何かがあったということになる。


「橋、また架けるの」


ピムが訊いた。


「架けない」


「なんで」


「目立つからだ」


言ってから、俺は自分の手が石積みの目地をなぞっているのに気づいて、それをやめた。


*


日が傾いてから館へ戻った。


梯子の下に、鍬が一丁、突き立ててあった。


刃を上に向けて、柄を泥に埋めてある。真新しい土の跡が周りに散っていて、置かれたのはついさっきだと分かる。


俺は梯子に足をかけたまま、それを見ていた。


「触るな」


背後からブルーノの声がした。老人は泥掻きを肩に担いで、道の向こうから歩いてくるところだった。


「返事だ」


「誰の」


「あんたが名乗った相手の全部だな。うちの郷では、他人の家の前に刃を立てるのは、話がしたいという意味だ」


「刃を上に向けて、か」


「向けねば、ただの落とし物になる」


ブルーノは鍬の柄を掴んで抜くと、俺の胸に押し付けるように渡した。柄が濡れている。握った跡の形に、まだ土が乾いていない。


「東の丘まで行ったそうだな」


「道の跡を見た」


「道の跡、か」


老人は鼻から息を抜いた。笑いに似ていたが、目のほうは笑っていない。


「百年前、あれは王国の背骨だった。王都から北の国境まで、荷も兵もこの郷を通った。橋が落ちて、それきりだ」


「架け直さなかったのか」


「架けようとした者はおったよ。2代前の代官だ。半分まで組んで、資材の舟が関で止まって、それきり顔を見なくなった」


俺は鍬の柄を握ったまま、返す言葉を選んでいた。関で止まる。荷が止まれば普請は死ぬ。人足の飯代だけが出ていって、組みかけの櫓が腐るまで待たされる。当たり前の話がこの土地では当たり前に起きているらしい。


そして老人はその話を今このときに持ち出した。掘る前に言え、と言った口で。


「明日、寄合をやる。あんたも来い」


「何を話す」


「あんたが何を掘るつもりかを、掘る前に言え。掘ってから言う奴は、この土地で一度も許されたことがない」


老人は言い終わると、こちらの返事を待たずに背を向けた。3歩行って、足を止める。


「言っておくが、郷の者は水を抜いてくれとは頼んでおらん。頼んでおらんのに抜かれた土地が、この国にどうなったか。あんたはまだ知らんだろう」

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