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処刑を免れた悪役領主は目立ちたくない ~前世は土木の現場監督。黙って道と橋を直していたら、俺を捨てた王国軍が頭を下げてきた~  作者: 夜凪 蒼


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第0話「泥の匂いは悪くない」

——濁流に呑まれかけた馬車の中で、俺は泥の匂いを嗅いでいた。


悪くない土だ、と思ってしまった。


長雨の9日目。護送の馬車は膝まで水の乗った道を這うように進み、車輪が轍を踏み外すたびに床板の隙間から泥水が噴き上がる。向かいの席で兵が2人、俺を名前で呼ばない。罪人、と呼ぶ。そのほうが気は楽だった。


匂いの話に戻る。粘り気があって、鉄気が薄い。指で捏ねれば紐になるやつだ。焼けば締まる。


——なぜ俺は流されかけながら土の品定めをしている。


問いより先に指が動いていた。


膝に立てた樫の杖。その柄に彫ってある細かい刻みに、爪の先が引っかかっては外れる。一つ、また一つ。何のための刻みかも知らないまま、指のほうだけが順番を覚えている。


耳の奥で、詰まった樋が抜けるような音が立つ。


流れ込んできたのは、俺のものではない一生だった。


45年ぶんの、知らない手。堤の天端を歩く長靴の底。橋桁の下に潜って亀裂の幅を測る指。無線の割れた声。足元が消えて、体ごと持っていかれる、あの一瞬の——


「おい罪人、舌でも噛んだか」


兵の声が遠く聞こえる。


頭を打ったか、と最初に考えた。この3日、揺れるたびに側板へ肩と頭をぶつけている。次に、宿場ごとに汲まれた濁り水を疑った。あれは煮ていない水だ。


どちらでもないと分かるまでに、そう長くはかからなかった。見せられた一生が終わりまで揃っている以上、これは俺のものだと置くほかに置き場がない。


置いても体のほうが動かない。


今この床板の下で泥水が鳴っている。尻に伝わってくる震えは、間違いなく今日のこの体のものだ。同じ体の指がいつのものとも知れない亀裂の縁をなぞった感触を残している。二つが一つの手に乗っていることを、俺の指はまだ承知していなかった。


車体が大きく傾いだ。


馬が悲鳴を上げ、御者が何か叫び、俺は扉に肩からぶつかった。窓の外は一面の茶色だ。道の左が消えている。いや、消えたのではない。水が道を越えて、右の畑へ抜けようとしている。抜けたがっている水の下に道の土がある。


その土が今、俺の座っている床の下で少しずつ持っていかれていた。


「降りろ」


俺は言った。自分の声が思ったより低く出た。


「じっとしていろとの命だ」


「馬車ごと沈む。轍の下が抜けている。上の畦へ上げるなら今だ」


兵は俺を見て、それから御者を見た。御者はもう答えを持っていて、鞭を投げて先に飛び降りている。判断の早い男だ。俺たちは膝上まで浸かりながら畦に上がり、馬の首縄を切って引き上げた。馬車の後輪は上がりきる前に土ごと河へ落ちた。


水音は思っていたより静かに聞こえた。


*


渡し場はそこから半町も行かないところにあった。


小屋がひとつ。杭が4本。杭に繋いだ渡し舟が一艘。舟には人が乗っていて、綱が張り詰め、綱を留めた杭の根元から水が噴き出している。杭が緩んでいる証拠だ。


対岸には荷駄の列と、馬を引く人影が10あまり。渡ろうとして渡れなくなった連中だろう。


俺は自分でも意外なほど落ち着いて、川の全体を見ていた。


上流に、水面から古い杭の列が頭を出している。木口が黒く、角が丸い。百年は経っている。あれは橋の跡だ。落ちた橋の脚だけが河床に残って、水を分けている。分けたぶんの流れが、この渡し場の岸を削っていた。


削られているのは足元の砂ではない。舟を留めている杭の、その根だ。


「小屋に粗朶はあるか」


俺は御者に訊いた。


「粗朶ぁ、そりゃありますが」


「土嚢は」


「畚と空袋なら。旦那、何をなさる」


答える前に体が動いていた。小屋の壁に立てかけてあった粗朶の束を抱え、水際まで運ぶ。手のひらが枝の切り口を覚えている。運びながら、俺は目で数を数えていた。束が14。畚が6つ。人足に使えそうな体がこちら側に7人。


足りない。足りないがやることは決まっている。


「そこの舟、綱を切るな。切ったら流される。緩めるだけにしろ」


「切らねえと杭が抜けます!」


渡し守が叫び返した。


「抜ける前に、水の当たりを変える。上の杭列だ。あそこに粗朶を落として、流れを向こう岸へ振る」


「そんなことで」


「そんなことだ。30数える間、綱を持ってろ」


俺は言い切った。言い切ってから、なぜ言い切れたのかを自分で不思議に思った。


*


粗朶の束を抱えて、俺は水に入った。


冷たい。というより、痛い。腿の裏を水が押していく力が思ったより強く、一歩ごとに足の裏で川底の砂が逃げる。


そこで、小さいのが横に並んだ。


10そこそこの少年だ。泥だらけの脛を出して、水の中を平気で歩いてくる。


「そこ、深いよ」


「どこなら浅い」


「杭の並びの、こっち側。腰までしかない。おいらたちはそこを歩いて向こうへ行くよ」


少年は左手で水面の何もない一点を指した。指の先には確かに水の色の違う筋がある。俺の目には見分けがつきにくいが、この子には道に見えているらしい。


「案内しろ。粗朶は俺が持つ」


「ふうん」


少年は先に立って歩き出した。振り返りもしない。


その後ろを、御者と渡し守と、いつの間にか増えていた村の男が3人ついてくる。誰も俺の身分を知らないから、素直に運んでくれる。ありがたいことだ。


杭列に着いて、俺は粗朶の束を上流側に寝かせ、畚の土を上に載せていった。一本置くごとに水の音が変わる。3本目で、渡し場のほうから声が上がった。


「綱が緩んだ!」


悲鳴ではなく、報告の声だった。


流れの当たりが左へ振れて、舟を押していた力が抜けたのだ。渡し守が綱を手繰り、舟が岸に寄る。乗っていた4人が転げるように陸へ上がった。年寄りが一人、若い女が2人、それに背負い籠の男。誰も俺を見ていない。見られていないのは、こちらとしても都合がいい。


俺は残りの粗朶を3本足して、それでやめた。全部塞げば、こんどは対岸が削れる。水は止めるものではない。行き先を決めてやるものだ。


*


対岸で、女の声が飛んでいた。


「馬から先だ! 荷は後でいい!」


若い声でよく通る。指図の順番が正しい。命のあるものから上げて、次に荷だ。あの声の主はこの手のことを何度もやっている。


「綱の男は前へ出るな。足を取られる」


続けて飛んだ一言で、対岸の男たちの動きが揃った。声の主の姿は見えない。馬の背と背の隙間に、赤茶の頭巾が一度だけ覗いて、また沈んだ。


俺はその声を聞きながら、腰まで水に浸かったまま、少しだけ笑いそうになった。


味は最悪だった。跳ねた水が口に入って、砂が奥歯で鳴る。


*


雨が上がったのはその日の夕方だ。


水が引いた地面は、歩けば足首まで沈む。俺は服も髪も泥で固めたまま、渡し場の小屋の前に座り込んでいた。護送の兵は馬車を失ったことを王都へどう報告するかの相談を始めていて、俺のことはもう見ていない。


そこへ老人が一人立った。


背は低い。肩幅がある。歳のわりに首が太く、手の甲に古い傷が何本も走っている。杖の代わりに柄の長い泥掻きを持っていた。


「余計なことを」


それがこの土地の顔役から俺への最初の言葉だった。


「舟の4人は助かった」


「助かった。それで、来年うちの若い者が何人来ると思う」


「来る、とは」


「道が通ると聞けば来る。人が来れば、後から上が来るのさ」


老人は泥掻きの柄で地面を叩いた。柄の先がずぶりと入る。


「ブルーノ・ケルテ。シュラム郷の郷長をやっとる」


「アルヴィン・ロートバッハだ」


名乗った瞬間、ブルーノの目の奥が変わった。何かを見て、それを飲み込んで、顔の表に出さないことに決めた目だ。


「知っておる」


それ以上は言わない。老人は背を向けて歩き出し、5歩ほどで振り返った。


「明るいうちに、あんたの領を見ておくがいい。日が落ちてからだと、どこまでが陸か分からんようになる」


*


言われたとおり、俺は畦道を上って、いちばん高い塚に立った。


そこから見えたものを、俺は多分、死ぬまで忘れない。


村が4つ。家はどれも高い床の上に載っている。柱が長く、床下は空だ。その周りに畑らしき区画が広がっていて、区画のほとんどが水を張ったままになっている。田ではない。麦の畑に水が入っている。


つまり、この土地は水面より低い。


低いから水が抜けない。抜けないから麦が腐る。腐るから飯がない。単純な話だ。単純な話ほど、直すには順番が要る。


塚の東に、草に埋もれた一本の筋があった。両側に浅い溝の跡がある。あれは道だ。人が踏んだだけの道ではなく、土を盛って作った道の残骸だった。その先が河で切れていて、河の中に、さっき見た黒い杭の列が並んでいる。


道と落ちた橋。


見ているだけで、頭の中で勝手に工程が組まれ始める。俺は目を逸らした。


*


領主館は高床の掘っ立てだった。


梯子を上がって板の間に立つと床が鳴る。囲炉裏の灰は冷えていて、鍋の底に去年の焦げが残っていた。前任の代官が置いていったものらしい。壁に一枚だけ、押し付けるように貼られた紙がある。


沙汰書だ。


俺は膝をついて、蝋燭の火を近づけて読んだ。


『王命により、ロートバッハ家のアルヴィンをシュラム郷ならびに周辺の王領預かり地に転封し、請負代官の任に充てる。開墾請負として、3年のうちに麦800石を納むべし。初年度の納付は220石とする。期に達せざるときは爵位を剥奪し、流刑に処す』


3度読んだ。3度読んでも同じことが書いてある。


俺は懐から巾着を出して、中身を板の間に空けた。銀貨が30枚。賠償を払ったあとに残った全財産だ。それと、道中ずっと握っていた樫の杖が一本。柄に細かい刻みが入っている。この刻みが何のためのものか、俺は今日、水の中で思い出したばかりだった。


歩数と、水の高さを測るための目盛りだ。


800石。3年。銀30タレル。人足は雇えて何人か。種籾はどこから買うのか。畑の6割が水の下にあるなら、まず抜くのは水だ。


そこまで考えて、俺は自分の口が笑っているのに気づいた。


笑うところではない。俺は流刑地に立っている罪人で、この体が犯した罪は本物だ。手を抜いた堤が切れて、村がひとつ沈んで人が死んだ。その責めを負って、殺される代わりにここへ置かれた。


だから、決めておく。


目立たない。手柄を立てない。誰の目にも留まらないように水を抜き、道を均す。年貢を納めて、3年を凌ぐ。目立てば潰される。潰されたら、次はない。


「聞こえたか」


俺は誰にともなく言った。囲炉裏の灰が答えるはずもない。


そのとき、床下で音がした。


土を踏む音だ。ひとつではない。梯子の下に、松明が3つ4つ揺れている。上がってくる気配はなく、ただこちらを見上げている。泥の乾いた顔が火に照らされて並んでいた。


「あの連中はな」


いつの間にか梯子の脇にブルーノが立っていた。声を落としてもいない。


「あんたが沈めた村の、生き残りだ」


火の粉が湿った風にひとつ流れた。

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