第30話「急所の譲り方」
切所の前から館まで、歩いて四半刻かかる。
水が引いたばかりの畦は歩きにくい。表が乾いて中が濡れているから、踏むたびに皮が剥けて足が横へ逃げる。去年の株が水に洗われて、根だけが白く並んでいた。
館の梯子の下に、見たことのない馬が2頭つないである。
鞍は軍のものではない。腹帯の締め方が街道の締め方で、これは王都の駅で借りる馬だ。俺は長靴の底の泥を落としてから梯子を上がった。
板の間に男が座っている。歳は40のなかばだろう。膝に文箱を載せて背を伸ばしている。
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「王領方の書役でございます」
男は文箱から一枚を出して、板の上を滑らせてよこした。
『シュラム郷を通る旧街道ならびに支流の橋を軍道に指定す。通行の統制と人馬の徴発は軍務府に委ぬ。指定の日より、道の差配は軍務府道方の指図による』
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判は2つある。
1つは軍務府のもので、冬から何度も見ている。触れにも令状にも押してあった判だ。
もう1つは知らない。四角の中に、鍵の形が2本組んである。
「これは」
「内府の判でございます。王領を管する役所の」
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「王領の役所が、なぜ軍の道の紙に判を押す」
「地は王領、道は軍務府。ここは王領預かり地でございますから、両方が要ります」
「元帥府は」
「副署は、追って」
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俺は紙を裏返した。
左下に署名の欄が一つ空いている。枠だけ引いてあって、中は白い。
順が逆だ。副署を取ってから来るのが筋で、この書役は先に地元の承諾を取りに来ている。承諾の付いた紙のほうが、上を通しやすいからだ。
指定されれば、通行の順は道方が決める。人足も馬も有事と言われれば名目の対価で持っていかれる。冬に人足30人と馬20頭を抜かれたときは、まだ断る余地があった。指定はその余地を紙で消す仕組みだ。
「返事はいつまでに」
「本日中にいただければ」
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梯子が鳴った。
上がってきたのはブルーノだ。泥掻きは下に置いてきたらしく、手が空いている。老人は空いた手のまま板の間に座り、書役の隣に並んだ。
「郷長のブルーノ・ケルテじゃ」
「王領方の——」
「聞いとった。下で」
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老人はこちらを向いた。
「わしは言いに来た。堀を残せ」
「聞いている」
「あんたが勝った日にいちばん先に言う、と決めとった。今日が勝った日じゃ」
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「沼はどうだ」
「葦が倒れた。鴨の巣は流れた。菱だけが浮いとる」
ブルーノは膝の上で指を組んだ。
「飲んだぶんを吐くのに、あそこはひと夏かかる。軍の道になれば、次に来る紙にはあの沼を埋めろと書いてある。フェルダウがそうじゃった」
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俺はヨナスを厩へ走らせた。
イルザが来たのは半刻後だ。土間で泥を落としもせずに上がってきて、書付を横から取り、立ったまま読み終えた。
「軍道になったら、うちの荷は軍の後ろだよ」
「ならない形にする」
「どうやって」
「道の差配を、俺が持たない形にする」
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彼女は書付を板の上に戻した。
「持たないって、誰が持つんだい」
「組合だ。馬借と石工と、沿道の村。三方で1つの寄合を作って、道と橋の差配をそこに移す」
「うちのものにするって話かい」
「組合のものだ。あんたのものじゃない」
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イルザは黙って俺の顔を見た。
見てから、腰の帳面を抜いて板に置いた。この女は数の話になると口より先に指が動く。
「262はどうなる」
「道の持ち分で返す。俺は差配を出す。あんたは貸しを消す」
「安く見たね」
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「橋の渡り賃と札の発行料で、年に幾ら残る」
「去年の通りが続けば、40タレルは残る」
「7年だ」
彼女は指を行の上で止めた。
「7年かけて、あんたはあたしに返す。返すのはあんたじゃない。道が返す」
*
「橋ごと、道ごと、と言ったな」
「言ったよ。あのときは取り立てる話だった」
「今は」
「今も取り立てる話さ。取り立てる先が、あんたから道に変わっただけだ」
イルザは帳面を閉じた。
「うちだけのものにしたら、次に来る書付はうちに来る。うちに元帥府の知り合いはいないよ。石工と村を入れときな。入れときゃ、紙を持ってきた人間は誰に渡すか迷う」
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道は持っただけでは持てない。
床板の楔は毎朝叩き直さないと緩む。脚の根は水当たりが変わるたびに石を足さないと洗われる。路盤の煉瓦は轍の下から抜けていく。差配を取り上げた側にその手間を負う人間はいないから、指定した道は3年で沼に戻る。
渡してしまえば、渡した先が毎朝の手間を負う。負う人間のいる道だけが残る。俺が手放すのは道ではなく、毎朝の手間を負う権利のほうだ。
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オッタは橋詰から呼んだ。
親方は板の間に上がらず、梯子の途中で用を聞いた。
「石工の枠に、俺の名を入れるのか」
「入れる」
「俺は流れもんだ。株もねえ」
「脚を据えた人間の名が要る。据えた奴が要ると書いておけば、次に架ける奴も据えた奴を呼ぶ」
*
オッタは梯子の桟を掌でこすった。
「俺は、落ちると思った橋には名前を出さねえと言うた」
「言われた」
「あれは落ちん」
親方は用が済むと梯子を降り、また橋詰へ戻っていった。
*
昼に、板の間へ人が集まった。
三方の顔ぶれで座ると、この館の板の間は狭い。馬借から2人、石工の側はオッタひとり、村からは郷長と東の3つの村の年寄りが来た。膝が触れる並びになって、誰かが囲炉裏に鍋を掛けた。
出たのは麦湯だ。碗の底に麦の殻が沈んでいて、飲むと舌に苦みが残る。去年の秋にはこの土地で麦の湯を出す家がなかった。
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条文はその場で読み上げながら書いた。
一、道と橋の差配は三方の寄合に属す。二、通行は札による。車1台は麦8石まで列間5歩。三、悪水路は三筋より増やさぬものとし、増やすときは郷の寄合の許しを要す。
三条目のところで、ブルーノは俺のほうを見なかった。
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「書いたものは、書き換えられる」
「書き換えるときも寄合が要る」
「わしが死んだあとの寄合を、わしは知らん」
「知らないものは、俺も知らない」
老人は笑わなかった。笑わずに、条文の紙の端を指で押さえて重石代わりにしている。
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沼の抜け道の図は、イルザの帳場に預けてある。
「あれも帳面に載せる」
「載せたら誰でも通るよ」
「通る。通るかわりに、通った者の名が残る」
「写しは作らないと言ったのは、あたしだよ」
「作る。3枚だ。寄合と郷と、俺の台帳に1枚」
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冬に、俺は石を運ぶ道を作ったつもりでいた。
作ったのは関の目の届かない道でもあった。届かないうちは便利で、届いた日には罪になる。届く前に、こちらから開けておく。
開けてしまえば、あれはただの道だ。
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「沼の道の差配は誰の役にする」
「うちの若い衆に預かってる子がいるよ」
イルザが言い終わる前に、土間でピムが立ち上がった。
「おいらです」
「賃が出る。日に6クロイツだ」
「母ちゃんには、賃が出るって先に言っときます」
「先に言え」
「言ってから来ました」
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ヴェントの男が来たのは夕方だ。
橇を止めて20クロイツを取った、あの年嵩の男だった。今日は誰も止めていない。男は梯子の下に立ったまま上がろうとしない。
「関の側から来る荷は、通してもらえるのか」
「札を取れば通す。荷主が誰でも同じだ」
「札は、いくらだ」
「発行に2クロイツ。検めは無料だ」
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男は懐で指を折った。
折り終えて、顔を上げないまま言った。
「橋が落ちてから、関に人が来ん。宿は戻らんぞ」
「戻らない」
「割り前をくれとは言わん。通れるかどうかを聞きに来ただけだ」
男は橇も引かずに、来た道を戻っていった。
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冬に、この男は俺に伝言を頼んでいる。
道を作った奴に会うことがあったら伝えてくれ、うちの村にも道があったんだ、と。頼まれた人間が本人だとは、いまも気づいていない。
俺はその伝言を、まだ誰にも伝えていない。
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もう1頭の馬の主が現れたのは日が傾いてからだ。
レナート・フォスは館の下で馬を降り、上がってこいと言われるまで梯子の脇に立っていた。北境営倉付きの新しい役に移る途中だという。
「札の決まりを、写させてください」
「規則に書くのか」
「書きます。書けるところまで」
*
「誰が作ったと書く」
「書きません。書けば、出所で潰されます」
俺は蔵から番号を振っていない楢札を1枚出して、この士官に渡した。裏の刻みは入っていない。刻みを入れるのは検めた者の仕事で、この札の乗る車はまだどこにもない。
レナートは札を帳面に挟んだ。
*
「閣下は王都を出られました」
「聞いた」
「私は、あの方の兵站で村を救われた男です。そこは今も変えません」
「変えなくていい」
「変えずに、札を書きます」
士官は一礼して、暗くなる前に北へ発った。
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書役は控えを作るために、口上を声に出して書き写していた。
「代官アルヴィン、南の堤を切り、水を逃がして道を保ちたる由——」
「そこは直してもらいたい」
「どこを」
「最後の一束を切ったのは、俺ではない」
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土間にカスパーがいる。堤の見回りから戻って、長靴を脱ぐ手を止めていた。
「書かんでいい」
男はそう言った。
「では、代官ひとりで切ったるにあらず、と」
書役は筆を止めて、それから書いた。カスパーは長靴を脱ぎ終えて、何も言わずに戸口から出ていった。
*
紙が揃うころには日が落ちている。
書役は移譲の書付と軍道指定の紙を並べ、両方を文箱に納めた。
「副署が付かなければ、この指定は」
「効きません」
「付くか」
「私は判をもらう役ではございません。運ぶ役です」
*
書役が発ったあと、俺は蔵の閂を外した。
奥の板の上に、桁を寝かせてあった跡が3つ残っている。木の重みで板が白く擦れた跡だ。中身は元帥府の役人が布に巻いて持っていった。
その板の隅に、札が1枚だけ載っている。
*
1番。
組合の焼き印はある。裏の刻みは入っていない。冬にここへ置いた日から、この札は一度も車に乗っていない。
俺はそれを懐に入れて、蔵を閉めた。
*
ヤンの墓は村の東の、麦畑の上の段にある。
土は乾いていた。削りたての楢の匂いがまだ残っている。杭は組合の若い衆が春に立て直したものだ。
イルザが先に立ち、母親の脇に寄る。俺はその一歩後ろで足を止めた。
*
母親は札を両手で受け取る。
受け取ってから指で表を撫で、裏を返して、また表へ戻した。
「これは、どこの車に乗るんです」
「乗りません」
「……そう」
*
女は札を胸の前で持ち直した。
「あの子の名は、橋に彫ってあります」
「彫ってある」
「橋は、あんたのものじゃなくなるんでしょう」
「なる」
「じゃあ、あの名前は、これから誰のものになるんです」




