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処刑を免れた悪役領主は目立ちたくない ~前世は土木の現場監督。黙って道と橋を直していたら、俺を捨てた王国軍が頭を下げてきた~  作者: 夜凪 蒼


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第30話「急所の譲り方」

切所の前から館まで、歩いて四半刻かかる。


水が引いたばかりの畦は歩きにくい。表が乾いて中が濡れているから、踏むたびに皮が剥けて足が横へ逃げる。去年の株が水に洗われて、根だけが白く並んでいた。


館の梯子の下に、見たことのない馬が2頭つないである。


鞍は軍のものではない。腹帯の締め方が街道の締め方で、これは王都の駅で借りる馬だ。俺は長靴の底の泥を落としてから梯子を上がった。


板の間に男が座っている。歳は40のなかばだろう。膝に文箱を載せて背を伸ばしている。


*


「王領方の書役でございます」


男は文箱から一枚を出して、板の上を滑らせてよこした。


『シュラム郷を通る旧街道ならびに支流の橋を軍道に指定す。通行の統制と人馬の徴発は軍務府に委ぬ。指定の日より、道の差配は軍務府道方の指図による』


*


判は2つある。


1つは軍務府のもので、冬から何度も見ている。触れにも令状にも押してあった判だ。


もう1つは知らない。四角の中に、鍵の形が2本組んである。


「これは」


「内府の判でございます。王領を管する役所の」


*


「王領の役所が、なぜ軍の道の紙に判を押す」


「地は王領、道は軍務府。ここは王領預かり地でございますから、両方が要ります」


「元帥府は」


「副署は、追って」


*


俺は紙を裏返した。


左下に署名の欄が一つ空いている。枠だけ引いてあって、中は白い。


順が逆だ。副署を取ってから来るのが筋で、この書役は先に地元の承諾を取りに来ている。承諾の付いた紙のほうが、上を通しやすいからだ。


指定されれば、通行の順は道方が決める。人足も馬も有事と言われれば名目の対価で持っていかれる。冬に人足30人と馬20頭を抜かれたときは、まだ断る余地があった。指定はその余地を紙で消す仕組みだ。


「返事はいつまでに」


「本日中にいただければ」


*


梯子が鳴った。


上がってきたのはブルーノだ。泥掻きは下に置いてきたらしく、手が空いている。老人は空いた手のまま板の間に座り、書役の隣に並んだ。


「郷長のブルーノ・ケルテじゃ」


「王領方の——」


「聞いとった。下で」


*


老人はこちらを向いた。


「わしは言いに来た。堀を残せ」


「聞いている」


「あんたが勝った日にいちばん先に言う、と決めとった。今日が勝った日じゃ」


*


「沼はどうだ」


「葦が倒れた。鴨の巣は流れた。菱だけが浮いとる」


ブルーノは膝の上で指を組んだ。


「飲んだぶんを吐くのに、あそこはひと夏かかる。軍の道になれば、次に来る紙にはあの沼を埋めろと書いてある。フェルダウがそうじゃった」


*


俺はヨナスを厩へ走らせた。


イルザが来たのは半刻後だ。土間で泥を落としもせずに上がってきて、書付を横から取り、立ったまま読み終えた。


「軍道になったら、うちの荷は軍の後ろだよ」


「ならない形にする」


「どうやって」


「道の差配を、俺が持たない形にする」


*


彼女は書付を板の上に戻した。


「持たないって、誰が持つんだい」


「組合だ。馬借と石工と、沿道の村。三方で1つの寄合を作って、道と橋の差配をそこに移す」


「うちのものにするって話かい」


「組合のものだ。あんたのものじゃない」


*


イルザは黙って俺の顔を見た。


見てから、腰の帳面を抜いて板に置いた。この女は数の話になると口より先に指が動く。


「262はどうなる」


「道の持ち分で返す。俺は差配を出す。あんたは貸しを消す」


「安く見たね」


*


「橋の渡り賃と札の発行料で、年に幾ら残る」


「去年の通りが続けば、40タレルは残る」


「7年だ」


彼女は指を行の上で止めた。


「7年かけて、あんたはあたしに返す。返すのはあんたじゃない。道が返す」


*


「橋ごと、道ごと、と言ったな」


「言ったよ。あのときは取り立てる話だった」


「今は」


「今も取り立てる話さ。取り立てる先が、あんたから道に変わっただけだ」


イルザは帳面を閉じた。


「うちだけのものにしたら、次に来る書付はうちに来る。うちに元帥府の知り合いはいないよ。石工と村を入れときな。入れときゃ、紙を持ってきた人間は誰に渡すか迷う」


*


道は持っただけでは持てない。


床板の楔は毎朝叩き直さないと緩む。脚の根は水当たりが変わるたびに石を足さないと洗われる。路盤の煉瓦は轍の下から抜けていく。差配を取り上げた側にその手間を負う人間はいないから、指定した道は3年で沼に戻る。


渡してしまえば、渡した先が毎朝の手間を負う。負う人間のいる道だけが残る。俺が手放すのは道ではなく、毎朝の手間を負う権利のほうだ。


*


オッタは橋詰から呼んだ。


親方は板の間に上がらず、梯子の途中で用を聞いた。


「石工の枠に、俺の名を入れるのか」


「入れる」


「俺は流れもんだ。株もねえ」


「脚を据えた人間の名が要る。据えた奴が要ると書いておけば、次に架ける奴も据えた奴を呼ぶ」


*


オッタは梯子の桟を掌でこすった。


「俺は、落ちると思った橋には名前を出さねえと言うた」


「言われた」


「あれは落ちん」


親方は用が済むと梯子を降り、また橋詰へ戻っていった。


*


昼に、板の間へ人が集まった。


三方の顔ぶれで座ると、この館の板の間は狭い。馬借から2人、石工の側はオッタひとり、村からは郷長と東の3つの村の年寄りが来た。膝が触れる並びになって、誰かが囲炉裏に鍋を掛けた。


出たのは麦湯だ。碗の底に麦の殻が沈んでいて、飲むと舌に苦みが残る。去年の秋にはこの土地で麦の湯を出す家がなかった。


*


条文はその場で読み上げながら書いた。


一、道と橋の差配は三方の寄合に属す。二、通行は札による。車1台は麦8石まで列間5歩。三、悪水路は三筋より増やさぬものとし、増やすときは郷の寄合の許しを要す。


三条目のところで、ブルーノは俺のほうを見なかった。


*


「書いたものは、書き換えられる」


「書き換えるときも寄合が要る」


「わしが死んだあとの寄合を、わしは知らん」


「知らないものは、俺も知らない」


老人は笑わなかった。笑わずに、条文の紙の端を指で押さえて重石代わりにしている。


*


沼の抜け道の図は、イルザの帳場に預けてある。


「あれも帳面に載せる」


「載せたら誰でも通るよ」


「通る。通るかわりに、通った者の名が残る」


「写しは作らないと言ったのは、あたしだよ」


「作る。3枚だ。寄合と郷と、俺の台帳に1枚」


*


冬に、俺は石を運ぶ道を作ったつもりでいた。


作ったのは関の目の届かない道でもあった。届かないうちは便利で、届いた日には罪になる。届く前に、こちらから開けておく。


開けてしまえば、あれはただの道だ。


*


「沼の道の差配は誰の役にする」


「うちの若い衆に預かってる子がいるよ」


イルザが言い終わる前に、土間でピムが立ち上がった。


「おいらです」


「賃が出る。日に6クロイツだ」


「母ちゃんには、賃が出るって先に言っときます」


「先に言え」


「言ってから来ました」


*


ヴェントの男が来たのは夕方だ。


橇を止めて20クロイツを取った、あの年嵩の男だった。今日は誰も止めていない。男は梯子の下に立ったまま上がろうとしない。


「関の側から来る荷は、通してもらえるのか」


「札を取れば通す。荷主が誰でも同じだ」


「札は、いくらだ」


「発行に2クロイツ。検めは無料だ」


*


男は懐で指を折った。


折り終えて、顔を上げないまま言った。


「橋が落ちてから、関に人が来ん。宿は戻らんぞ」


「戻らない」


「割り前をくれとは言わん。通れるかどうかを聞きに来ただけだ」


男は橇も引かずに、来た道を戻っていった。


*


冬に、この男は俺に伝言を頼んでいる。


道を作った奴に会うことがあったら伝えてくれ、うちの村にも道があったんだ、と。頼まれた人間が本人だとは、いまも気づいていない。


俺はその伝言を、まだ誰にも伝えていない。


*


もう1頭の馬の主が現れたのは日が傾いてからだ。


レナート・フォスは館の下で馬を降り、上がってこいと言われるまで梯子の脇に立っていた。北境営倉付きの新しい役に移る途中だという。


「札の決まりを、写させてください」


「規則に書くのか」


「書きます。書けるところまで」


*


「誰が作ったと書く」


「書きません。書けば、出所で潰されます」


俺は蔵から番号を振っていない楢札を1枚出して、この士官に渡した。裏の刻みは入っていない。刻みを入れるのは検めた者の仕事で、この札の乗る車はまだどこにもない。


レナートは札を帳面に挟んだ。


*


「閣下は王都を出られました」


「聞いた」


「私は、あの方の兵站で村を救われた男です。そこは今も変えません」


「変えなくていい」


「変えずに、札を書きます」


士官は一礼して、暗くなる前に北へ発った。


*


書役は控えを作るために、口上を声に出して書き写していた。


「代官アルヴィン、南の堤を切り、水を逃がして道を保ちたる由——」


「そこは直してもらいたい」


「どこを」


「最後の一束を切ったのは、俺ではない」


*


土間にカスパーがいる。堤の見回りから戻って、長靴を脱ぐ手を止めていた。


「書かんでいい」


男はそう言った。


「では、代官ひとりで切ったるにあらず、と」


書役は筆を止めて、それから書いた。カスパーは長靴を脱ぎ終えて、何も言わずに戸口から出ていった。


*


紙が揃うころには日が落ちている。


書役は移譲の書付と軍道指定の紙を並べ、両方を文箱に納めた。


「副署が付かなければ、この指定は」


「効きません」


「付くか」


「私は判をもらう役ではございません。運ぶ役です」


*


書役が発ったあと、俺は蔵の閂を外した。


奥の板の上に、桁を寝かせてあった跡が3つ残っている。木の重みで板が白く擦れた跡だ。中身は元帥府の役人が布に巻いて持っていった。


その板の隅に、札が1枚だけ載っている。


*


1番。


組合の焼き印はある。裏の刻みは入っていない。冬にここへ置いた日から、この札は一度も車に乗っていない。


俺はそれを懐に入れて、蔵を閉めた。


*


ヤンの墓は村の東の、麦畑の上の段にある。


土は乾いていた。削りたての楢の匂いがまだ残っている。杭は組合の若い衆が春に立て直したものだ。


イルザが先に立ち、母親の脇に寄る。俺はその一歩後ろで足を止めた。


*


母親は札を両手で受け取る。


受け取ってから指で表を撫で、裏を返して、また表へ戻した。


「これは、どこの車に乗るんです」


「乗りません」


「……そう」


*


女は札を胸の前で持ち直した。


「あの子の名は、橋に彫ってあります」


「彫ってある」


「橋は、あんたのものじゃなくなるんでしょう」


「なる」


「じゃあ、あの名前は、これから誰のものになるんです」

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