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処刑を免れた悪役領主は目立ちたくない ~前世は土木の現場監督。黙って道と橋を直していたら、俺を捨てた王国軍が頭を下げてきた~  作者: 夜凪 蒼


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エピローグ「呼び名だけが目立っていく」

秋の長雨の6日目に、俺は量水標を読みに行った。


読みに行って、読まずに帰った。


雨は着任の年と同じ降り方をしている。空が低くて、風がない。屋根から落ちた雫が高床の柱の根を掘って、家ごとに同じ形の穴が並ぶ。去年はその穴に足を取られる者がいたが、今年は誰かが粗朶を敷いてある。


橋詰の杭には刻みの上に炭で線が引いてある。今朝の読みのところに1本。昨日の分がその下に1本。朝と夕で読みが違う日は高いほうだけを残す決めで、線は日付の順に並んでいて、いちばん下の1本は5日前のものだ。


線を引いたのは検査方だ。朝と夕の2度、4人が交代で3本の杭を回る。日当は組合の帳面から出る。


俺が読みに行く用は、去年の秋になくなっていた。それでも足が行く。行って、線の並びを確かめて帰る。


*


坂の途中でピムに会った。


背が伸びて、去年の袖が肘まで来ている。手に持っているのは俺のとは別の、短いほうの物差し棒だ。


「橋詰は9です。村口が23、渡し場が16」


「桁の上は」


「1尺。渡れます。ただ、荷は今日は止めてます」


「なぜ」


「明日も降るからです」


*


村口の畦では男が7人で杭を打っていた。


打っているのは水防の杭だ。低いところに二列で入れて、間に粗朶を挟む。挟み方は冬に飯場で教えた挟み方で、教えたときより手が速い。


誰も指図をしていない。ヨナスがいるがあの男も自分の杭を打っている。


俺が畦に立つと、いちばん端の年寄りが顔を上げた。


「棟梁。ここは足りとる」


*


俺は南の堤へ回った。


切所は閉まっている。


6間の口が粗朶の束で塞がれて、上から杭を打ち、天端の高さまで土が戻してある。閉めたのは春の終わりだ。俺は北の道の普請に出ていて、その日は現場にいなかった。


*


土の締まりを見るために、俺は天端をゆっくり踏んで歩いた。


踏んだ足の下で土が沈まない。突き固めが足りていれば沈まない。足りていなければ、雨の3日目に沈む。ここは6日目だ。


堤の下でカスパーが縄を張り替えていた。


「見に来たのか」


「見に来た」


「持っとる」


*


男は張り終えた縄の端を杭に巻きつけて、それから言った。


「閉めたのは、村の連中と検査方だ。おれは杭の位置を出しただけだ」


「誰が言い出した」


「言い出した奴はおらん。春に水が引いたら、みんな道具を持ってここへ来た」


カスパーは縄を引いて張りを確かめた。


「切ったところは、閉めるまでが仕事じゃ。切った日にそう思っただけだ」


*


堤の内側は葦の原だ。


春に水を入れた分は、ブルーノの言ったとおり夏いっぱいかかって抜けた。葦は倒れたところから新しいのが出て、丈は去年より低い。菱は水面の三分の一を覆っている。


鴨は戻った。数が戻ったかどうかは、あの老人にしか分からない。


*


低地の三筋では泥浚いが始まっていた。


夏のあいだに沈んだ泥を上げて、法面を切り直す。人足は12人。差配はピムだ。


少年は畦の上に立って、上げた泥を積む場所を指で示している。積む場所を先に決めておくのは俺のやり方だが、位置は俺なら選ばない位置だ。風下で、次に運ぶ道から遠い。


遠いぶん、畑に入れるときの手間が減る。ここの畑がどこから水を引くかを知っている人間の選び方だった。


俺が畦に立つと、12人のうち9人がこちらを見た。


*


「棟梁」


ピムが畦を走ってきた。


「来ないでください」


「見に来ただけだ」


「見に来ても、みんな棟梁を見ます。おいらが言ったことより、棟梁が黙って立ってるほうが強いんです」


俺は畦を降りた。降りながら、それを教えた覚えがないことに気づく。


*


橋詰の蔵の脇では、オッタが石を割っていた。


来春の橋に使う石の下ごしらえだ。親方の脇に村の若い者が2人ついていて、割った面の当たりを手で撫でて確かめている。


「弟子か」


「見習わせとるだけだ」


「名は」


「まだ出さん。1人前になったら、こいつらの名で出させる」


*


割った石は東支流へ回す。


俺は石を積んだ車の脇について、二代橋まで歩いた。


橋詰で腕が出た。伸ばしているのは検査方の若いのだ。顔は知っているが、今年から入った者だから名前が出てこない。


「札を」


*


車を曳いていた若い衆が札を出した。


番号は74。裏の刻みは今月の位置で入っている。検査方は札を裏返して刻みを見て、それから積みの高さを目で追った。


「8石は越えとらんな」


「越えとらん」


「通れ。列間5歩」


*


俺は車の後ろについて橋を渡った。


渡りながら、若いのに訊いた。


「代官も止められると、誰に教わった」


「カスパーさんです。掟の10条目にも書いてあります」


若いのは俺のほうを見ていない。次の車の轅を見ている。


*


館へ戻ると、蔵の前に組合の車が3台着いている。


今年の220石だ。麦は蔵に入り、初雪の前に王都の納所へ出す。運ぶのは組合で、これは冬に交わした担保の履行になる。


蔵の中は新しい麦の匂いがした。俺は袋の口から一掴み取って、粒を1つ噛んだ。堅い。今年のはよく乾いている。


請負は3年で800石。納めるのはこれが最初で、あと2年で580石が残る。


*


イルザは車の轅に腰を掛けて、帳面を膝に載せていた。


「40と2タレル」


「何がだ」


「去年の渡り賃と札の発行料の残りさ。読み違えて言っといたより2タレル多い」


「7年が縮むな」


「縮まないよ。橋板を替える年が3年目に来る」


*


彼女は帳面を閉じて、車の脇へ降りた。


「来春の橋は、どこだって」


「北の渡しだ。王都から4日」


「馬は出すよ。賃は取る」


「取ってくれ」


「取るったら取るんだよ」


*


その晩、雨脚が強くなった。


俺は蓑を着て堤へ出た。出て、天端の途中で足を止める。


先に灯りがある。提灯が2つ、南の切所のほうから村口へ向かって動いていた。ひとつは高く、ひとつは低い。低いほうは子どもの背丈だ。


*


俺は坂の下で待って、通り過ぎるのを見送った。


声を掛けなかった。掛ければ、代官が見に来たから見回ったという話になる。ここから先は俺の持ち場ではない。


雨の中で、灯りは村口の量水標のところで一度止まり、それからまた動き出した。


読んでから帰る手順だ。


*


大公の依頼状が来たのは、その車が発ったあとの駅使でだった。


俺は畑の見回りから戻ったばかりで手を洗っていない。封を切ったところで、指の跡が紙の端についた。


『北の渡しに橋を1つ架けよ。渡り初めには余が自分の足で渡る』


*


署名は前と同じ、元帥府侍従長ハルトムート・ゼールの名だ。


主の名は書いていない。書いていないが渡り初めに自分の足で渡ると書く人間を、俺はひとりしか知らない。


春先に泥へ嵌まった四頭立てを引き上げたとき、あの老人は俺の道具の手入れだけを褒めた。橋のほうは規格の言葉でこき下ろして、そのあと自分の足で渡っていった。橋への褒め言葉は最後まで出ていない。


*


紙の下にもう一枚あった。


北の渡しの川幅と、平水の深さと、両岸の地質が書き出してある。書いたのは役人ではない。字が現場の字だ。渡りやすい季節まで添えてある。


先に測ってから寄越す相手と仕事をするのは、ずいぶん久しぶりだ。


*


俺は紙を畳んで懐に入れた。


「工期は、来春からだ」


*


指に土が残っている。


捏ねれば紐になる土だ。着任の日に、俺は濁流の中でこれを嗅いで、悪くない土だと思った。


いまは匂いより先に、この土が今年どこから来てどこへ抜けたかを追っている。畦の土は上の三筋から来て、堀へ落ちて、また上がってくる。悪いも良いもない。動いている土だ。


*


駅使は月に一度、館の板の間で話をして帰る。


北の営倉で、車の積みに上限をつけ始めたという。1台に幾らまでと決めて、越えた車は列から外して積み替えさせる。決まりを書いたのは若い輜重の士官で、名は聞いていないと駅使は言った。


「上限は幾らだと」


「8石だそうで」


*


その駅使と一緒に、南の領から男がひとり来ていた。


自分の領の川に橋を架けたいという。図を持ってきていて、脚の数と径間の割りまで書いてある。悪い図ではない。


俺は図を返した。


「寄合に出してくれ。俺は寄合の一人だ」


「あなたに聞きに来たのですが」


「俺に聞くと、俺の橋になる。あんたの領に架ける橋だろう」


*


男は納得しない顔で帰り、3日後にまた来た。


こういうのが去年の秋から月に1人か2人来る。断り方は一向に上手くならない。


*


軍道の書付はあれきり戻ってこない。


副署の欄は白いままだと、駅使の口ぶりで分かる。北の小競り合いも終わっていない。次に紙が来るときは、また知らない役所の判が押してあるのだろう。


道は1本増えただけだ。この国の荷はまだ川と関に首を押さえられている。


橋詰の札は今日も出ている。出す先は寄合で俺は寄合の一人だ。


*


夕方、橋詰の道で子どもが3人すれ違った。


いちばん小さいのが、走りながら仲間へ向かって叫んだ。


「アルヴィン橋のとこで待ってろ!」


*


「沈み橋だ」


俺は言った。


子どもは足を止めない。止めずに、片手だけ上げて走っていった。


*


橋詰では組合の若い衆が荷を送り出していた。


「アルヴィン橋、渡り。北へ2台」


呼ばわる声は雨の中でよく通る。荷主が復唱して、車が動き出した。


俺は訂正しなかった。訂正する相手が多すぎる。


*


ブルーノは橋詰の杭に腰を掛けていた。


老人はもう泥掻きを持ち歩かない。膝の上で、指だけが柄の形に丸まっている。


「話が歩く、と言うたな」


「言われた」


「次に歩くのはあんたの名前じゃ、とも言うた」


「歩いた」


*


「あれは外れじゃ」


ブルーノは杭から降りた。


「歩いたのは名前じゃない。呼び名じゃ。名前は書いたところに残る。呼び名は書かんでも歩く」


老人は坂を下りていった。下りながら、こちらを見ずに片手を上げる。子どもと同じ上げ方だった。


*


二代橋の定礎には、彫った名がそのまま残っている。


雨に洗われて、字の底に苔が入り始めた。掃除をする者はいる。声に出して呼ぶ者はいない。


その母親はいまも村の東に住んでいる。会えば会釈をする。1番の札をどこへ置いたかを俺は訊いていない。


呼ばれるほうの名は、どこにも彫っていない。彫っていない名のほうが、毎日100回は口に出される。


*


水は今日も桁の上を1尺で流れている。


沈み橋だ、と俺は言う。


言った先から、呼び名のほうが先に畦を歩いていく。

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