第29話「堤を切るのは俺の仕事」
カスパーが戻ってきたのは、夜が明ける前だった。
上流から歩き通しで、長靴の中に水が入ったままだ。ピムを馬借の若い衆に預けて、自分だけ先に帰ってきたという。
「向こうの縄は」
「軍務府が引き受けた。落ちてしまえば、あっちも人を止めるようになる」
男は腰の木槌を確かめてから、堤のほうへ顔を向けた。
「橋だけ見とると、堤が抜けたときに誰も気づかん。郷長がそう言うた」
*
俺たちは並んで堤に上がった。
夜明けの水は色が違う。昼の濁りは茶色だが、夜明けは灰色に見える。灰色に見えるのは、上流から出た泥がまだ沈んでいないからだ。
匂いも変わっている。水の匂いではない。掘り返した畑の匂いが、川の上を流れてくる。
量水標の橋詰は13。村口は27。渡し場は20。
3本とも朝の一刻で1つずつ上がっている。
*
沈み橋は水の下だ。
真ん中の3径間の上を、水が段になって越えている。段ができるのは桁が生きている証拠だ。桁が流れていれば、水は平らに走る。
「渡れるか」
カスパーが訊いた。
「いまは渡れん。桁の天端が8で、読みが13だ。板の上に5尺乗ってる」
「いくつまでなら渡せる」
「11までだ。それを2つ越えてる」
*
問題は橋の向こうだ。
橋を渡って北へ上がる旧街道は、最初の1里半が低い。もとは沼で、そこを版築で埋めて、上に煉瓦を敷いた路盤にしてある。
その1里半を守っているのが南の築堤だ。
堤の天端まであと3尺。
*
「越えるか」
「越える」
「どこから」
「決めていない場所から越える」
俺はそう言った。
言ってから、自分の声が平らに出ていることに気づいた。
*
決めていない場所から越えると、越えたところが削れる。
削れれば、そこから堤が抜ける。抜けた水は勢いを持って低いほうへ走り、走った先に路盤がある。煉瓦は水に強い。強いが下の版築が抜かれれば、上の煉瓦は板のまま浮いて流れる。
路盤が抜ければ、北へ上がる道が1里半、無くなる。
橋詰にはまだ駄馬が60頭いる。72石だ。
*
俺は杭のところへ戻って、指を刻みの上へ滑らせた。
夜明けが13。一刻で1つ。日が落ちるまでに7つある。
20だ。
冬の出水のとき、俺はこの同じ杭を見て20は超えんと言った。言ったときの俺は、この土地の雪解けを1度も見ていない。
超える。今夜のうちに超える。超えてから決めることは、決めたことにならない。
*
イルザは厩の前で馬を組んでいた。
「出せるかい」
「橋は出せる。その先が分からん」
「分からんじゃ、出せないよ」
彼女は組みかけの背を解いた。
「あたしは馬を殺したくない。あんたは石高が欲しい。ここは喧嘩するところだよ」
「喧嘩はしない」
「じゃあ何をするんだい」
「堤を切る」
*
ブルーノは寄合の小屋の前にいた。
老人は俺が坂を上ってくるのを上から見ている。見ていて、俺が口を開く前に言った。
「南か」
「南だ」
「幅は」
「6間。設計のときに決めてある」
「水は、どこへ行く」
「あんたの沼だ」
*
老人は返事をしなかった。
かわりに、小屋の壁に貼ってある紙のほうを見た。人足の数を村ごとに書いた紙だ。
「あそこには、いま何がある」
「葦と、鴨の巣と、去年の菱だ」
「畑は」
「無い。あんたが三筋しか抜かせなかったから、あそこは畑になっていない」
*
ブルーノは杖代わりの柄を地面に立てた。
立てて、その上に両手を重ねる。
「わしは、ずっと堀を残せと言うてきた」
「言われた」
「今日みたいな日のためじゃ、と言うと嘘になる。わしはそこまで先を見ておらん。わしはただ、爺の代からあれを埋めるなと言われて育っただけじゃ」
老人は柄を持ち上げた。
「持っていけ」
*
「借りると言ったほうがいいか」
「借りるも何もあるか。あれはわしのもんじゃない」
ブルーノは俺の脇を通って、坂を下り始めた。
「ぬかるみは神様の堀だ。神様に断れ。わしは知らん」
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切所は南の端にある。
築堤の天端をそこだけ6間ぶん下げて、粗朶と杭で仮に閉めてある。設計したときからそうしてあって、堤の帳面には別の行で書いてある。
弱い場所は自分で決めておく。決めておけば、決めたところで壊れる。
俺は鋸と鶴嘴と、太い縄を持っていった。
*
オッタは堤の下で待っていた。
親方は道具袋を持っていない。持たずに、切所の閉めてある6間を見ている。
「棟梁。ほかに手はねえのか」
「ない」
「土嚢を積んで、天端を上げる手がある」
「上げると、越える場所が別のところになる」
「別のところがどこかは、やってみんと分からん」
「分からんものに、いま人を出せない」
*
オッタは6間の縁を長靴の先でならした。
「俺は、架ける側だ。壊す普請には手を貸さん」
「貸さなくていい」
「貸さんが、見る」
男は堤の下から動かなかった。
「あんたが切ったあとで、橋がどうなったかを俺が見る。切るのはあんたの仕事だ。見るのは俺の仕事だ」
*
カスパーは先に立っていた。
誰も呼んでいない。男は縄を掛ける杭の位置を測って、地面に線を引き終えていた。
「上流から切る」
「上流からだ」
「下流から切ると、切った人間が水の下だ」
「知っとる」
*
俺たちは粗朶の束の縄を、上流側から順に切った。
束は8つ。1つ切るごとに、束が水を吸って下へずれる。ずれた隙間から水が糸のように抜けて、抜けた糸が土をひと掻きする。
濡れた縄は手のひらで滑る。鋸の刃は水を吸った縄の芯で止まって、引くたびに押し戻された。3つ目を終えて握り直したときに、掌の皮が剥けているのが分かる。
4つ目で足の下が動いた。土が沈むのではない。長靴の底の下で、砂が横へ逃げていく。
俺は縄を引いて、後ろへ下がった。カスパーは下がらない。
「まだ持つ」
「持たん」
「持つ」
*
男は5つ目の束の縄に鋸を入れた。
入れて、半分まで挽いたところで手を止め、縄の残りを蹴る。
そこで抜けた。
*
水は思っていたより静かに出る。
堤が破れるときの音を、俺は勝手に想像していた。想像は当たらない。天端を越えた水は音を立てずに幅いっぱいへ広がって、粗朶の束を1つずつ持ち上げて運んでいく。
6間の幅で川が1本増えた。
その川は畦を越え、葦の原へ入り、そこで消えた。
消えたのではない。沼が飲んだ。
*
俺は堤の上に立って、量水標を見ていた。
橋詰の読みが14で止まる。村口は28、渡し場は21。3本ともそこで止まった。
止まって、それから落ち始めた。半刻で橋詰が11。もう半刻で9になり、村口が23、渡し場が16で並んだ。落ちた幅は3本とも5つだ。
9。桁の天端が8だから、板の上に乗っているのは1尺になる。
20には届かない。届く前にこちらで止めた。見立てが当たったわけではない。
カスパーは切った場所の縁に膝をついて、崩れ方を見ている。崩れているのは俺たちが縄を切った6間だけだ。その両脇の土は削れていない。
男はそこから動かなかった。
*
「行けるか」
イルザが堤の下から叫んだ。
「行ける」
「路盤は」
「持った。煉瓦の上を水が走ったが、下は抜けてない」
彼女は返事をしなかった。返事のかわりに、若い衆へ手を回した。
*
その日の昼に、駄馬60頭が橋を渡った。
列間をいつもの5歩から10歩に空けて、1頭ずつ水の上を歩かせる。水は人の膝までだ。馬なら脚の半ばを越して、跳ねた水で腹まで濡れる。向こう岸へ上がったところで1頭ずつ拭いて、それから北へ上げた。
渡り終わるのに二刻かかった。
向こう岸に着いた頭数をカスパーが指で押さえて読み、俺は橋詰の側で同じものを紙に書いた。
2枚を並べる。どちらも60だ。
*
営倉から報せが来たのはそれから5日後だ。
早馬で来た元帥府の役人が、館の板の間で読み上げた。
『第十日、朝。北境営倉、糧六百石を収む。旧街道路、期の内に全量を納めたり。軍務府指定路、収むるところ二百四十石。期を過ぐ』
読み上げが終わって、板の間は静かだった。
外で人の声がしない。誰も集まっていない。集まる理由を、この土地の人間は持っていない。麦は北へ行ったきりで、村には1粒も残っていないからだ。
*
役人はもう1つ用があると言った。
「査閲の妨げに関わる訴えが、元帥府に上がっております。差し出すものがあれば、いま受け取ります」
俺は蔵の閂を外した。
*
奥から3つ、布に巻いたものを出す。
冬にミュラー瀬から運んだ桁。春に11年前の橋から挽いた木口。査閲の前の晩に、うちの橋詰から挽き落とした袖桁。
布を解いて、河原でやったのと同じに並べた。角と、深さと水面からの高さ。型紙を当てて、隙のないところを見せる。
役人は3つを重ねた。重ねて、それから手を離した。
*
「これは、いつ誰が入れたと」
「入れた人間の名は分かりません」
「では、何が分かります」
「入れ方が同じだということです。20年ぶん」
俺は31人の名の並んだ紙を出した。字の書けない者の指の印が、名の代わりに押してある。
「あの晩に橋へ来た人間を見た者の名です。顔を覚えた者が2人。1人は、川関の役人の顔だと言っています」
*
「書付は」
「ありません」
俺は言った。
「関の帳面には何も残っていません。あそこの書役は、麻紐の長さを紙に書かずに爪で覚える男です。紙に書けば残る、爪の跡なら残らない、と本人が言っていました」
役人は筆を止めた。
「残っているのは、桁の切り口と、見た人間の目だけです」
*
「それで足りますか」
「足ります。もう1つ、こちらに届いております」
役人は自分の荷から帳面を1冊出した。表に軍務府の印がある。
「旧街道路の行軍日誌です。書いた者が写しを取らずに、原本のまま元帥府へ上げました」
「あの男が」
「規則では、写しを取って原本は所属へ返します。返せば、閣下の手が入る。書いた者はそう申しております」
俺はその帳面を開かなかった。開かなくてもどんな字が並んでいるかは想像がつく。
飾りも削りもない字だ。
*
「彼は、どうなります」
「軍に残ります。処分は出ておりません」
「出ないのか」
「出せません。書いてあることが全部正しいので」
役人は3つの木を布に巻き直した。
「元帥閣下は、書付では動かれません。物を見て、人に会って、そのうえで決められます」
「聞いています」
「聞いておられたのなら、なぜ書付を先に出さなかったのですか」
「出しました。冬に。営繕方へ」
役人はそれを書いた。
*
総監の処分が決まったのは、それから半月ののちだと聞いた。
査閲の妨げと、20年ぶんの監督の責。役職を解かれ、領地の一部を返し、王都から出た。
裁きの席に、俺は呼ばれていない。呼ばれる理由がない。俺は道の差配で、裁きは軍の中の話だ。
聞いたときに、俺は何も思わなかった。
思わなかったことのほうが、あとで少し気になった。
*
堤の切所はまだ開けたままにしてある。
水が引いてから、粗朶と杭で閉め直す。閉め直すのは水が引いてからで、引くのは春が終わってからだ。
その6間の前に立っていると、後ろから足音がした。
*
ヨナスだ。
「棟梁。館に、人が来てます」
「誰だ」
「軍務府じゃないです。王都の使いだって」
若い男は自分の首の後ろを掻いた。
「持ってきた紙に、判が2つ押してあるって、姐さんが」
「2つか」
「はい。1つは軍務府ので、もう1つは、姐さんも見たことがないって言ってました」




