第26話「一本道と迷い道」
宣誓の朝に、橋の真ん中を戻した。
外すのに3日かかったものを、戻すのは半日で済む。番号を振った楔がピムの籠に揃っていて、どの桁がどこに載っていたかを迷わずに置ける。
まだ暗いうちから轆轤を回して、3本を順に下ろした。楔を打ち込むと、床板の鳴りが元に戻る。
水は9まで来ている。桁の天端は8だ。戻した真ん中は置いたそばから水の下へ入っていった。
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「棟梁。沈んだぞ」
ヨナスが言った。
「沈む橋だ」
「知ってます。知ってるのに、毎回びっくりします」
「びっくりしなくなったら、見張りを外せ」
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オッタは戻すことに反対した。
「水が9で入れるのは早い。10まで待て」
「10まで待つと、宣誓に間に合わん」
「間に合わせるために早めるのは、あんたが1度やって、人を1人殺しとる」
俺は手を止めた。
止めて、この男の顔を見た。言ったほうも目を逸らさない。
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「違いはあるか」
親方が訊いた。
「ある」
「言え」
「養生じゃない。据える手順を縮めてはいない。桁は3日前まで載っていたものだ。載っていた場所へ、同じ楔で戻す」
「水は」
「水があると、下から見て確かめられない。そこは減る」
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「なら、確かめる手を増やせ」
オッタは轆轤の縄を握った。
「1本下ろすたびに、俺が潜る。あんたは上で見とれ」
「冷えるぞ」
「冷えるのは俺の都合だ。落ちるのはあんたの都合だ」
オッタは1本ごとに指を立てて数を言った。3本目を潜り終えて上がってきたときには、その立てた指が戻らなくなっている。
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日の出とともに最後の楔が入った。
読みは9のまま動いていない。それを台帳へ移してから、俺たちは川関へ発った。
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書院に着いたのは昼だ。シュラムから半日。関の建物は石造りで、うちの村のどの家より頑丈にできている。荷を止める場所がいちばん立派なのは、どこの国でも同じらしい。
俺は正装を持っていない。着ていったのは冬の外套と、目盛りの入った杖だ。
戸を抜けると匂いが変わった。石が抱えている冷えた匂いと、火を落とした炭の匂い。そこへ俺の外套から、乾きかけの泥が匂う。場違いなのは服装ではない。匂いのほうだ。
イルザは組合の差配として呼ばれていた。オッタは呼ばれていないが、俺の随行として入れた。
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書院の卓の向こうに、軍務府の人間が5人。
いちばん奥に座っている男が、立たずにこちらを見た。
痩せてはいない。背は俺より低い。髪が白く、顔の皮が厚く、目の下に深い皺が2本ある。軍装の襟が首に食い込んでいて、それを直そうとしない。
「兵站総監、メルヒオル・グラン」
名乗ったのは隣の役人だ。本人は名乗らなかった。
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俺は5人の顔を順に見た。
見ながら、朝に聞いた話を思い出している。頬に古い引き攣れ。左の眉の外側が薄い。網に立った男がそう言って自分の顔を指で示した。
卓の左から3番目にその顔がある。
俺は目を止めなかった。止めれば向こうが気づく。気づかれると、この席が終わったあとに、あの男は顔を隠すようになる。
イルザが俺の袖を引いた。引いて、何も言わずに離した。彼女も同じ顔を見ている。
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元帥府から来た立会いの役人が、裁定の文を読み上げた。
条件は4つ。俺の家の板の間に並べたのと同じものだ。読み上げが4つ目に来たとき、卓の向こうで誰かが紙を捲る音がした。
『判定は規定への適合をもって行わず。期の内に営倉へ着きたる石高をもって行う』
読み上げが終わって、役人が顔を上げた。
「雪解けの起点は、王都の川杭にて定む。本日の読みをもって、本日を第1日とする」
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署名は3つだ。
軍務府の差配として総監。旧街道の差配として俺。荷を運ぶ組合の差配としてイルザ。
彼女は筆を持って、一度手を止めた。
「あたしの名前でいいのかい。うちは組合で、あたしは若頭だ」
「差配の名でよい」
「なら書くよ。あとで、女の名だから無効だなんて言わないでおくれ」
役人は答えなかった。イルザは自分の名を、卓の紙に大きく書いた。
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席が解けたのは日が傾いてからだ。
俺が外套を取りに立ったとき、卓の向こうから声がかかった。
「代官」
総監だった。
「少し残れ」
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人が出ていくのを男は待った。
待って、全部出ていったところで、レナートだけを呼び戻した。
「フォス。書け」
「はい」
「余の言うことは全部書け。削るな」
士官は帳面を開いた。
*
「そなたをあの地へ置くよう具申したのは、余だ」
俺は返事をしなかった。
「驚かんな」
「冬に、そうだろうと思いました」
「なぜ分かった」
「あの土地に3年で800石を課すのは、届かせるための数字ではない。届かない数字を課すのは、人を入れ替え続けるためです」
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総監は椅子の背に体を預けた。
「そのとおりだ。あの旧街道は、口を塞いでおきたかった。塞ぐには何もせぬ男が要る。手抜きの堤で村を沈めた男なら、何もせぬだろうと余は読んだ」
「読み違えましたね」
「読み違えた」
男はあっさりと認める。
「余は、罪人は自分の罪の形で動くと思っておった。そなたは違った。そこは余の落度だ」
*
「1つ、訊いていいですか」
「申せ」
「20年で7つ、橋が落ちています。自然に落ちた橋、と呼ばれているものです」
「聞いておる」
「閣下の名で落ちたのですか」
*
総監は答えなかった。
答えないかわりに、卓の上で指を1度動かす。
「余は、統制されぬ路を減らすよう命じた。減らせと命じられた者が、何をどう減らしたかを、余はいちいち聞かぬ」
「聞かないのですか」
「聞けば、止めねばならん」
男は言った。
「止めれば、路は減らん」
*
俺はその答えを正直だと思った。
思ったことは口に出さない。この場で正直さを褒めるのは、褒める側が優位に立つ言い方になる。
「なぜ、そこまでして一本にするのですか」
*
「32年前だ」
総監はそこで、初めて椅子から背を離した。
「東方戦役。余は22で、中隊を1つ預かっておった。冬の峠で、糧が止まった」
「囲まれたのですか」
「囲まれてはおらん。道は3本、開いておった」
男は指を3本立てた。
「3本あったのだ。糧はそのどれかを来る。どれを来るかを、誰も知らぬ」
*
「北の道で待った隊がある。東で待った隊がある。余の隊は西で待った」
指が1本ずつ折れていった。
「糧は南から来た。南は、その年に開いたばかりの間道でな。誰も知らせを受けておらん」
「行き違ったのですか」
「行き違うた。糧を積んだ車は、空の陣地に3日置かれて、また引き返した」
*
「そのあとは」
「草を食った。木の皮も食った。馬は先に食い終えておったからな」
総監は自分の指の付け根を見ていた。
「連隊は2200。峠を下りたのが1100だ。半分は、敵に殺されておらん。誰にも殺されておらん。ただ、道が多かった」
*
「17年経って、南征で余は兵站を一本にした」
男は続けた。
「どこに何がいくつあり、いつどこへ届くかを、余ひとりが決めた。1人が決めれば、行き違いは起きぬ。あの戦で、余は1人も餓えさせておらん」
「知っています」
「知っておるか」
「あなたの兵站に村を救われたという男を、うちで預かりました」
総監はレナートのほうを見なかった。見ずに、俺のほうを見続けている。
「迷い道が、兵を殺すのだ。代官。余の道が1本なのは、意地ではない」
*
俺はその話を否定する材料を持っていない。
冬に若い士官へそう言った。いまも同じだ。閣下の言うことは正しい。3本の道が2200を1100にした。
正しさを認めてから返さないと、返した言葉は届かない。
「閣下の言われることは、正しいと思います」
「意外だな」
「否定する材料がありません」
*
「では、なぜ道を増やす」
俺は口を開こうとして、そこで止まった。
止まったのは頭が別のことを始めようとしたからだ。
冬に一度、同じことが起きている。あのときは頭のほうへ行かせた。行かせた先で、雨の音を聞いていた。
今日は行かせない。
*
「1つ、申し上げます」
「申せ」
「俺は、工期に負けたことがあります」
総監の眉が動く。
「秋の出水の前に、応急の補修を1か所、見送りました。理由は立派でした。銭と、日数と、その年の雨の少なさです」
俺は自分の声が平らに出ているのを聞いていた。
「その年の秋に、堤が切れました。人が死にました」
*
「それは、そなたの罪状に書いてある」
「書いてあるのとは、別の川です」
「別の川」
「別の川で、別の名前でした」
総監は口の端を動かした。
「なるほど。罪人はいくつも川を持つ」
「持ちます」
「そなたの川で死んだのは何人だ」
「6人です」
「余の峠では1100だ」
「数の話をしているのではありません」
「余もだ」
*
俺はそれ以上、訂正しなかった。
訂正できる言葉を俺は持っていない。持っていないので、いま口に出せる形で出した。
出すと決めたのは俺だ。
*
「材料なら、こちらにも別のがあります」
「申せ」
「一本道は、切れた日に全員を殺します」
書院が静かになった。レナートの筆の音だけが動いている。
「3本あって行き違えば、半分が死ぬ。1本しかなくて、その1本が落ちれば、全部が止まる。閣下は22年前から、その1本の下に何があるかをご存じのはずだ」
*
「あんたは、壊れたことを隠す」
俺は言った。
「俺は、壊れ方を先に決めておく」
*
総監は動かなかった。
動かずに、卓の上の裁定の紙を1枚だけ手前へ引いた。引いて、4行目のところに指を置く。
「余は、この4行目を書かせておらん」
「知っています」
「書かせておらんものに、余は従う。従わねば、余の軍令が紙になるからだ」
男は立ち上がった。
*
「10日だ、代官」
総監は襟に指をかけて、そこでようやく直した。
「10日のうちに、そなたの道は、そなたの手には余るものになる。勝ってもだ。負けてもだ」
「余ったら、どうなります」
「誰かが持つ。持つ者を、そなたは選べぬ」
男は書院を出ていきかけて、戸口で足を止めた。
「1本の下に何があるかを余が知っておる、とそなたは言うた」
「言いました」
「知っておるなら、なぜ余に何も送らん」
「送りました。冬に測った数と、やるべきことを3つ。営繕方宛てに出しています」
*
総監は戸の把手に手を掛けたまま、動かなかった。
背中は広くない。軍装の肩の線が思っていたより下がっている。
「余のところには、来ておらん」




