第25話「空振りの夜」
士官の置いていった4文字は、台帳の後ろに挟んである。
〈損耗待ち〉。
規定に合わない渡りは、道方の帳面にそう記される。記されたものが20年で7つ落ちている。
うちの橋はいま、その帳面に載っている。
だから網を張る。
*
桁を外し終えた晩にイルザへ話した。
「見張るのかい」
「見張らない。見るだけだ」
「同じだろ」
「違う。見張ると、止めることになる。止めれば、こっちが手を出したことになる」
彼女は指で卓を叩いた。
「向こうが鋸を入れるのを、黙って見てろってことかい」
「入れさせる」
「あんた、正気かい」
*
「正気だ」
「分かるように言いな」
「言わない」
「言わないのかい」
「言うと、あんたが誰かに言う。誰にも言わないつもりで言っても、顔が言う」
イルザは口を開けて、閉じた。
「……あんた、それ、あたしを買ってるのか馬鹿にしてるのか、どっちだい」
「買ってる」
「そういうことにしとくよ」
*
網は人を並べただけだ。
沼の民が水路の分かれ目に。馬借の若い衆が旧街道の坂と、関から下りてくる道に。合わせて31人。
決まりは3つ。声を出さない。追わない。人の数と、顔と通った刻を覚える。
覚えたことは朝に1人ずつ俺のところへ持ってくる。
*
ブルーノはこの決まりを最後まで承知しなかった。
老人は郷の若い者を出すことには頷いた。頷いたうえで1つだけ譲らない。
「見て、放すのか」
「放す」
「わしらの郷で、悪さをした人間を放したためしがない」
「捕まえると、こっちが罪を作る」
「理屈は分かる。分かるが、放したという話は郷に残る」
老人は柄を握り直した。
「あんたが勝てば、それは知恵になる。負ければ、あんたは沼の者に鋸を挽かせて見物させた領主になる」
「そうなるな」
「なると分かってやれ。分かっとらん顔でやられるのが、いちばん腹が立つ」
*
ピムの割り当ては、沼の分かれ目のいちばん奥だった。
そこは水路が3本に割れる場所で、夜に通れる人間が郷に4人しかいない。
「おいらが行く」
少年が言った。
「危ないぞ」
「危なくない。おいらは水に入らない。葦の島の上にいる」
「母親に言ったか」
「これから言う」
「言ってから来い」
*
少年は日暮れ前に戻ってきて、俺の前に立った。
「言いました。母ちゃんが、量水標を読んでから行けって」
「読んだか」
「読んだ。9です」
「上がってるな」
「うん。朝より1つ」
*
俺は蔵の陰にいた。
橋詰から20間。石垣の裏で、橋の袂と取付道の上がり口が見える。オッタが隣に座って、道具袋を膝に置いていた。
「棟梁。手が出そうになったら言え」
「どうする」
「押さえる」
「あんたが押さえるのか」
「俺が押さえる。俺は22年、自分を押さえてきた。人のを押さえるのは初めてだが、要領は同じだろう」
*
来たのは夜半を回ってからだ。
舟が2艘。沼の側から、櫂を使わずに竿で寄ってきた。竿は音を立てない。慣れている。
上がってきたのは4人。1人が提灯を持ち、それを地面すれすれに下げていた。灯りを高くしないのは、見られないための工夫だ。
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4人は橋詰から橋へ入った。
入って、10歩ほど進んで止まる。
先頭が提灯を下げた。灯りの輪が床板の縁を舐めて、その先に何もない。
真ん中の3径間が無い。
*
俺は息を詰めていた。詰めているのに気づいて、緩める。
4人はそこで相談を始めた。声は届かない。届かないが手の動きが見える。1人が下を指し、1人が首を振り、1人が橋詰のほうを向く。
灯りが橋の上を戻り始めた。
*
戻って、橋詰の脇へ回った。
そこには袖桁がある。車を取付道へ真っ直ぐ入れるための仮の材で荷は載らない。橋の桁とは太さも据え方も違う。違うが暗いなかで水際に寝ている長い材はそれしかない。
1人が水に入った。
*
鋸の音は思ったより長く続いた。
引く音が20回。止まって、5回。また止まって、10回。深く入れるつもりはないらしい。
刃を入れ終えると、男は水から上がって、袖桁の上を長靴で1度踏んだ。踏んで、動かないのを確かめて、舟へ戻る。
舟は来たときと同じ方角へ抜けていった。
*
俺は動かなかった。
隣でオッタが道具袋の紐を握っている。握った手の甲が白い。
「押さえるのは、あんたのほうだったな」
「言うな」
*
朝、報告が集まった。
舟が2艘。人が4。うち1人は外套の下に軍務府の襟の印。3人は人足の身なり。
通った刻は沼の分かれ目で3つの目が一致した。ピムの見た数と、上の水路にいた男2人の数が合っている。
顔を覚えた者が2人。1人は冬に関で荷を止めた役人だと言った。
俺はそれを全部、紙に書き取る。書き取った紙に、見た者の名を並べて書かせた。字の書けない者は指の印を押した。
*
カスパーは網に入っていない。
男は夜通し、東支流を歩いていた。誰にも言わずに出て、二代目の橋とその先の堤を、朝まで往復していたという。
「勝手にやったのか」
「検査方の道筋だ。夜にやっただけだ」
「網はこっちに敷いた」
「知っとる。だから、あっちが空いた」
男は履いていた長靴を脱いで逆さにした。水が出てくる。
「敷けるだけ敷いた網は、敷いてない場所を作る。棟梁が悪いんじゃない。31人しかおらんかった」
*
「何かあったか」
「何もない。夜が明けるまで、誰も来んかった」
「無駄足だな」
「無駄足だ」
カスパーは長靴を履き直した。
「無駄足を踏んだ晩は、寝覚めがいい」
「寝ていないだろう」
「寝とらん。だから、これから寝る」
男は飯場のほうへ歩き出して、3歩で止まった。
「棟梁。今夜も歩く。査閲が終わるまで歩く」
「日当は出す」
「出さんでいい。出すと、断れんようになる」
*
日が出てから、袖桁の鋸目を検めた。
水面から1尺5寸の高さ。深さは2寸と少し。材の幅の3分の1まで入っている。
俺は縁を指でなぞった。
木が裂けた口ではない。縁が真っ直ぐで、底に一定の面がある。
ここまでは冬に見た。
*
「同じだな」
「同じだ」
オッタが言った。
「棟梁。似とる、じゃねえぞ」
「同じだと言うには、まだ足りん」
「何が足りん」
「寸法だ」
*
俺は蔵から材を出させた。
冬にミュラー瀬から運んだ桁が1本と、春に11年前の橋から挽いてきた木口が1つ。2つを橋詰の河原へ並べる。
袖桁は鋸目のところから1尺で挽き落とした。挽いたのはオッタだ。
3つが河原に並んだ。
*
刃の入る角は炭で写して型を取ってある。冬に描いた線が台帳の後ろに挟んである。
型紙を切り口へ当てた。ミュラー瀬の桁に当てて、隙がない。11年前の木口に当てて、隙がない。
昨夜の袖桁に当てる。
隙がない。
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深さを測った。細い棒を切り口の底へ差して、濡れた線を読む。
2寸3分。
ミュラー瀬の桁が2寸3分。11年前のが2寸3分。
「同じ寸法だ」
俺は言った。
*
高さも合っている。
水面から1尺5寸。落ちた橋の2本は河原に上がっているので、いま測れる水面がない。だが脚に載っていたときの位置から起こして測り直すと、同じところに線が来る。
3つの切り口を俺は重ねてみた。
重ねると面が合う。
*
「20年だ」
オッタは河原に座って、3つを見ていた。
「20年、同じ手で、同じ深さに入れとる。人が替わっとらんのか、教えとるのか、どっちかだ」
「教えている」
「なぜ分かる」
「同じ人間なら、20年で手が変わる。年を取れば、刃を寝かせる角は浅くなる。3つとも変わっていない」
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「手順を書いたものがあるってことか」
「あるんだろう。書いた紙は、たぶんもう無い」
オッタは膝の泥を払って立ち上がった。
「棟梁。これで何人だ」
「何人とは」
「20年で7つ。橋の下で死んだ数だ」
「知らん」
「俺も知らん。知らんまま、20年、知らんふりをした」
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袖桁は昼までに取り替えた。
予備の材は飯場の裏に積んである。橋を作るときには、必ず1本ぶん余分に挽いておく。挽いておくと、こういう日が半日で済む。
材と、4人の半日と、網に出た31人への飯と手当。合わせて銀8タレル。俺の借りは254から262になった。
*
昼にイルザが河原へ来た。
3つの切り口を見て、彼女は何も言わなかった。言わずに、いちばん新しい材を指した。
「これ、あんたの橋のどこにあった」
「橋詰の脇だ。車を曲げるための材で、荷は載らない」
「載らないのかい」
「載らない」
*
彼女は少し黙った。
「じゃあ、あいつらは、無駄なことをして帰ったのかい」
「そうだ」
「……真ん中を外してあったからだね」
「増水の支度だ」
「もう1回それを言ったら、あたしは笑うよ」
イルザは笑わなかった。笑うかわりに、河原の石を1つ蹴って川へ落とした。
「あたしはね、あんたが正気かって訊いた自分に腹を立ててるんだ」
*
レナート・フォス士官が着いたのはその日の夕方だ。
宣誓は翌日で、随行記録の任にある者は前日に着け、と裁定文に書いてある。
男は馬を降りて、まず橋を見た。次に、河原に並んだ3つの木を見る。
「これは」
「木だ」
「木の切り口が3つ、並んでおります」
「よく見えるな」
「私は、見えたものを見えたと書く役目ですので」
*
俺は説明した。冬のミュラー瀬。11年前の橋。昨夜の袖桁。角と深さと高さ。
レナートは帳面を開いた。開いて、書かない。
「昨夜、何がありましたか」
「舟が2艘来た。人が4人。うち1人は軍務府の襟の印をつけていた」
「捕らえましたか」
「捕らえていない。見ただけだ。見たのは、うちの人間が31人」
*
「なぜ、いまお出しにならないのですか」
「出すと、査閲が止まる」
「止まれば」
「止まった理由を、うちの橋のせいにできる。橋が危ないから止めたと書けばいい」
俺は3つの木を布に巻かせた。
「600石が営倉に入ってからだ。着いた荷は、あとから理由をつけて消せない」
「その日まで、これはどこに」
「蔵だ。傷の入った桁と、札の隣に置く」
「札、と申しますと」
「番号の1番だ。渡す相手は決まっている。渡す日がまだ来ていない」
士官はそれを書かなかった。書かずに、蔵のほうへ目をやる。
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男は帳面を閉じた。
閉じてから、また開いた。
「……本日の分は、まだ書いておりません」




