第23話「札のない橋は渡らない」
寄合の日、俺は東支流にいた。
二代目の橋の脚を、朝から1本ずつ叩いて回っている。叩く必要はない。カスパーが朝の見回りで叩いて、量水標も読んで、紙に書いて置いていった。
その紙は俺の手元にある。同じことを2度やっているだけだ。
やることがあるふりをするのに、いちばん手近な仕事だった。
*
オッタが橋の下から顔を出した。
「棟梁。それ、朝に済んどるぞ」
「知ってる」
「知っとって叩くのは、耳を疑っとるからか、手を持て余しとるからか、どっちだ」
「手のほうだ」
「なら、こっちを持て」
親方は水切りの石を1つ、俺の足元へ転がした。据え直す位置を炭で描いてある。
「持て余した手は、重いものに使え。軽いものに使うと、余計に余る」
*
昼過ぎにヨナスが来た。
「棟梁。組合の小屋、まだやってます」
「見に行ったのか」
「通りがかっただけです」
「通りがかるような道じゃないだろう」
「……見に行きました」
若い男は自分の靴の先へ目を落とした。
「中は聞こえないです。声が高くなったり低くなったりするだけで」
「戻れ」
「はい」
「ヨナス」
「はい」
「もう通りがかるな」
*
ブルーノが堤の上に立っていたのはその少しあとだ。
老人は寄合の小屋のある方角を見ていた。距離があって、屋根しか見えない。
「郷長は呼ばれとらん」
「呼ばれる筋じゃないだろう」
「筋ではない。だが、あそこで決まることは、うちの村4つにかかってくる」
老人は堤の土を長靴の底でならした。
「断れば、次に来るのは郷のほうだ。組合の荷を止められんなら、荷の出るところを止めればよい」
「畑か」
「畑と、人足だ。あんたの現場から人を抜けば、それで足りる」
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「止めるか」
「止めん」
老人はこちらを見ずに答えた。
「わしが止めても、あの娘は聞かん。聞かん相手に言うのは、言うたという証文を自分に立てるだけじゃ」
「郷長らしくないな」
「郷長らしいわい。わしは、断ったあとの支度を考えとる」
*
日が傾いてから、俺は馬借宿へ行った。
行く理由はある。初年度の納付に使う麦の運びの日取りを決めなければならない。220石を組合が請ける約束になっていて、それは俺の借りの担保でもある。
理由はあるがこの日に行く理由ではない。
*
帳場には誰もいなかった。
土間の火は落ちていて、灰の上に鉄瓶が置いたままになっている。奥の厩を覗くと、馬が12頭全部いた。1頭も出ていない。
半日ぶんの荷が動いていない。組合が半日、商売を止めたということだ。
卓の上に、組合の帳面が開いてあった。
*
最後の頁だ。
父の代からの短い文が9つ並んでいて、その下に炭で書いた10個目がある。
『札のない橋は渡らない』
その下に、新しい字が増えていた。
*
日付が1行。
その下に名前が並んでいる。かぞえると22。
若い衆が18人と年寄りが4人。昨日、彼女の言った頭数と同じだ。
22のうち、1つだけ、上から線が引いてある。
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線は太い。1本ではなく2本引いてあって、下の字が読めないように潰してある。潰し方に迷いがない。
俺はその名前を読もうとして、やめた。
読んでも俺にできることがない。できることのない事情を知ると、次に顔を合わせたときに態度が変わる。
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卓の端にもう1枚あった。
軍務府の紙だ。俺の持っているのと同じもので、こちらは折り直して封がしてある。表に宛名が書いてあった。
『軍務府輜重方 レナート・フォス殿』
封の上に、細く一行が足してある。
『返上いたし候』
*
俺はその紙を裏返さなかった。
裏返さなくても書いてあることは知っている。前の日に、自分の手元の写しで読んだ。
一度返上したる株は、再び請うことを得ず。
その一行がどこに置いてあったかまで覚えている。文の終わり、いちばん目に入りにくいところだ。
*
外で足音がした。
入ってきたのは組合の若い衆が3人。俺を見て、3人とも足を止めた。
「棟梁」
「勝手に入って悪い。荷の日取りの話で来た」
「姐さんは、まだ小屋です」
いちばん年上の男が言った。20代の半ばくらいで顔に見覚えがある。冬に橇を曳いていた男だ。
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「決まったのか」
「決まりました」
「そうか」
「棟梁。ミヒェルが抜けました」
俺はその名前を知らない。知らないが卓の上の潰れた字のことだと分かる。
「あいつは馬を2頭持ってます。親父さんの代からの馬で、去年の徴発で1頭やられて、残りが2頭です」
男は帳面のほうを見ないようにして話した。
「株が戻れば、3年は取られない。3年あれば、2頭が4頭になります」
*
「そうだな」
「あいつは、姐さんに何も言わずに出ていきました。言えば、姐さんが自分の名前を消すからです」
俺は何も言わなかった。
言うことがあるとすれば、その男に向かって言うべきで、その男はもうここにいない。
「あんたはどう思う」
「おれは残りました」
「訊いたのはそこじゃない」
*
男は少し黙った。
「……あいつが正しいと思います。うちは商売です。商売で3年の徴発を免れるってのは、大きい」
「なのに残ったのか」
「ヤンの車を曳いてたのが、おれです」
男は自分の手のひらへ目を落とした。
「初市の朝、3台目にいました。おれは前の車の背中しか見てなかった」
*
後ろの2人のうち、若いほうが口を挟んだ。
「おれは違います」
「違うとは」
「おれは、あの日は沼にいました。何も見てません。恩も借りもないです」
まだ十代に見える。声だけが大人の音をしていた。
「けど、姐さんが名前を書くのを見ました。書くとき、手が止まらなかった」
「それで決めたのか」
「決めました。理屈は、あとから足せばいいと思って」
年上の男が舌打ちをした。
「そういうのが、いちばん先に音を上げるんだ」
「上げませんよ」
「上げたら、おれが厩の掃除を代わってやる」
3人はそこで少し笑った。笑ってから、笑ったことを気まずそうにやめた。
*
イルザが戻ってきたのは、それから半刻ほど後だ。
土間に入ってきて、俺を見て、驚かなかった。
「来ると思ってた」
「来るなと言われた」
「言ったのは寄合の話だよ。荷の日取りなら、いつ来たっていい」
彼女は火の落ちた囲炉裏に薪を足した。足してから、帳面のほうを見る。
「読んだね」
「読んだ」
「感想は」
「ない」
*
「そこは嘘でもいいから、何か言うところだよ」
「言うと、あんたの決めたことが俺のせいになる」
イルザは薪を1本、火に落とした。
「ありがとうって言われるより、そっちのほうが腹が立たない」
彼女は卓の封をした紙を取り上げて、懐に入れた。
「明日、駅使に持たせる」
「代償は分かってるのか」
「株は永久に戻らない。徴発も来る。次の冬に馬を取られたら、うちは10頭を切る」
*
「それでも渡らないのか」
「渡らないよ」
彼女は俺のほうを見ずに答えた。
「うちの掟の10番目には、あたしの字が入ってる。書いた本人が最初に破ったら、上の9つも全部ただの紙だ」
「9つは父親のだったな」
「そうだよ」
*
俺は卓の上の帳面を閉じた。
閉じてから、こちらの用件を出す。
「220石の運びだ。日取りを決めたい」
「そこは変わらないよ。うちが請ける」
「馬が減ったら請けられん」
「減る前に運ぶ。あんたの納めは秋だろ。徴発が来るのは冬だ」
彼女は指を折らずに答えた。この女は数の話になると考える前に口が動く。
*
「借りのほうはどうする」
「254だ。今年の秋に220石を納めたら、半分返してもらう約束だよ」
「株を蹴った組合が、その半分を待てるのか」
「待てないよ」
イルザは薪の位置を直した。
「待てないから、あんたには稼いでもらう。うちの荷が通る道が生きてないと、あたしの貸しは石ころになる」
「そういう理屈で残ったのか」
「そういう理屈も混ぜたよ。混ぜないと、若い衆に説明がつかない」
*
日が落ちてから宿を出た。
彼女は途中まで送ると言った。断る理由がない。
沼の道は暗い。足元は見えないが、歩き慣れた道は靴の裏のほうが覚えている。
「あんた、うちの親父の馬の話を聞きたいって顔を、前からしてたね」
「してない」
「してたよ。冬に一度、訊きかけて自分でやめた」
*
「10年前だ」
イルザは前を向いたまま話した。
「戦じゃなかった。北の国境の砦を直すのに荷が要るってんで、うちの馬が40頭のうち32頭持っていかれた」
「32」
「うん。冬の60日って触れだった。返ってきたのは5ヶ月後で、17頭」
「15頭は」
「砦の下だとさ。どこに埋めたかも聞いてない」
イルザは帳面の縁を親指で押さえたまま、声の高さを変えずに続けた。
「死んだのは向こうだけじゃないよ。帰ってきた17頭のうち、自分の脚で歩けたのが12頭。あとの5頭は、返ってきてから死んだ」
「取られなかった8頭は、株がなくなった年に売った。うちの数は、そこから増えてない」
*
彼女は歩きながら手を上げて、自分の腰のあたりで止めた。
「馬ってのはね、無理をさせられても、そのときは動くんだ。動いて、荷を下ろす。厩に入って、飼葉を食う。それから死ぬ。3日か、10日か、ひと月してから」
「親父は17頭を厩に入れて、毎晩、順番に見て回った。どれが死ぬかを見て回ってたんだよ。あたしは12だったから、ついて回った」
「毎晩か」
「毎晩。5頭目が死んだ晩にね、親父が厩で座り込んでた」
*
イルザはそこで足を止めた。
「泣いてはいなかった。番号を言ってたんだ。7番、11番、23番って。全部の番号を、順番に」
「対価は」
「馬1頭につき銀2タレル。翌年払い。翌年、半分しか来なかった」
彼女はまた歩き出した。
「あの紙にね、徴発の除外って書いてあった。3年だけ」
「3年だ」
「3年経ったら、また同じことができる紙だよ。あれは」
「そう読んだのか」
「読んだんじゃない。うちは一度それをやられてる。同じ書き方の紙を、親父が畳んで持って帰ってきた」
彼女の足が泥を踏む音が、少しのあいだ続いた。
「あたしはね、あの紙の文句が正しいかどうかは分からない。分からないけど、紙の折り方は覚えてる」
*
村の灯りが見えるところで彼女は足を止めた。
「あんた、あたしに礼を言うんじゃないよ」
「言わない」
「言わないって顔で、もう言ってる」
イルザは帳場のほうへ向き直った。
「あの子が死んで生まれた掟のせいで、うちが飯を食えなくなる日が来たら、あたしはたぶん、あんたを恨む」
「恨め」
「恨むよ。恨んでも、掟は変えない。そこだけは間違えないでおくれ」




