第21話「泥に嵌まった貴人」
雪解けの前の10日ほど、この土地の道はいちばん質が悪い。
昼に緩んで夜に凍る。凍って持ち上がった土が翌日また緩む。踏むたびに深くなるので、轍は2日で膝の高さに育つ。
だからこの時期は、重い荷を朝のうちに通す。そう決めて触れを回した3日目の昼過ぎに、取付道で四頭立てが嵌まった。
*
ピムが飯場の戸口から転がり込んできた。
「棟梁。でかいのが刺さってる」
「でかいのとは」
「馬が4頭ついてる箱。車輪がこのへんまで」
少年は自分の腰を叩いた。
「箱には人が乗ってるのか」
「乗ってる。窓から手だけ出して、何か言ってる」
「何と」
「聞こえない。おいら、窓の高さに届かないから」
俺は杖を持って出た。
*
現場は取付道の下で、煉瓦の切れる手前だ。
路盤を煉瓦で固めたのは橋詰から30間まで。そこから先は版築で、雪解けの水を吸うと弱い。弱いのは分かっていたので、木の枝で仕切りを立て、重い車は朝のうちにと書いた札を出してある。
札は倒れていた。
倒れた札の向こうに、黒く塗った箱馬車が斜めに沈んでいる。後ろの車輪が軸まで入って、前の2頭が空回りに脚を掻いていた。
供は6人。全員が馬車を後ろから押していて、全員が押す場所を間違えている。
*
「押すな」
俺は言った。
「その押し方だと、輪が縦に食い込む。手を離せ」
いちばん前にいた男が振り返った。40くらいだ。旅装だが襟の仕立てが村では見ない代物になっている。
「貴様、何者だ」
「通りがかりだ」
「では下がっていろ」
「下がっていてもいいが、あと20回押したら車軸が折れる」
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男は俺を見た。それから、自分の押していた場所を見た。
見て、手を離す。
判断が早い。軍務府の若い士官にも、こういう手の離し方をするのがいた。
「馬を外せ。4頭とも」
「外したら動かんではないか」
「動かすのは馬じゃない。道だ」
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俺はピムを走らせた。
飯場の粗朶と板と鶴嘴。それから組合の馬を2頭。
「金は取るぞ」
「なんだと」
「馬を借りれば賃が要る。うちの馬じゃない」
供の男が何か言いかけたとき、箱の戸が開いた。
*
出てきたのは老人だった。
背が高い。痩せていて、外套の裾を持ち上げもせずに泥へ降りる。降りて、足元をぐずぐず言わせながら3歩歩き、俺の掘りかけた穴を覗き込んだ。
「掘るのか」
「掘る」
「上げるのではなく」
「上げる前に、上がる先を作る」
老人はしゃがんだ。しゃがむ動きが歳のわりに速い。
*
俺は輪の前の泥を鶴嘴で削り、そこへ粗朶を敷いて板を渡した。
轍の中には水が溜まっている。溜まった水を先に抜かないと何を敷いても沈む。道の脇へ手鍬で溝を1本切った。
水が動く。
老人はその溝を見ていた。
「そちらが低いと、なぜ分かる」
「歩いてきた」
「歩いただけで分かるか」
「分かる。あんたも歩けば分かる」
供の男が息を呑んだ。老人は何も言わない。
*
粗朶は3層に敷く。上に板。板の上へ輪を乗せるために、輪の前だけを削って傾きをつけた。
組合の馬が2頭来た。曳いてきたのはイルザだ。
「泥に嵌まってるのは誰の車だい」
「知らん。通りがかりだそうだ」
「そっちが通りがかりって言ったんだろ」
彼女は馬をつないでから、供の男のほうへ手を出した。
「引き賃。馬2頭で30クロイツ。先にもらうよ」
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「先に、だと」
「上げてから払わない客がいるからね」
「無礼な」
「無礼で結構。上げたあとに無礼と言われるより、いま言われるほうが得だ」
老人が咳をした。
咳のふりをしたのだと思う。供の男は懐から銭を出し、数えてから渡した。
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支度をしているあいだに、オッタが飯場から下りてきた。
親方は馬車の脇に立って、輪と箱を順に見る。
「輪が細えな」
「王都の道なら足りるんだろう」
「足りん。王都の石畳でも、雨の日は轍が出る。作ったやつは都から出たことがねえ」
供の男が振り向いた。
「それは王室御用の車大工の仕事だ」
「なら、御用のまま都におればよかった」
オッタは板の端を踏んで、動かないのを確かめてから離れた。
*
引き上げは半刻もかからなかった。
馬2頭と人が7人。俺の合図で板の上へ輪を乗せる。乗った瞬間に音が変わり、そこから先は馬のほうが勝手に上げてくれた。
板は1枚割れた。
真ん中の1枚が輪の縁の当たったところで縦に裂けている。3層のうち下の粗朶が薄かった。俺の敷き方が悪い。
「割れたぞ」
「割れる勘定で敷いた」
嘘だ。1枚も割らずに上げるつもりでいた。
*
ピムが板を回収しに走っていく。少年は老人の脚のあいだを平気ですり抜けて、割れた板を2つに分けて抱えた。
「おじいさん、そこ立ってると邪魔」
「……そうか」
老人は素直に一歩どいた。供の男の顔から色が抜けている。それを見ているのは俺だけだ。
*
老人は上がった馬車を見ずに、俺の道具のほうを見ていた。
「手入れがいいな」
「道具は手入れするものだ」
「鶴嘴の柄だ。木口に油が入っておる。それと、その杖」
「杖は道具だ」
「知っておる。刻んであるのを見た」
老人は俺の顔へ目を移した。
「この土地の代官は、何をしておる」
「たいしたことはしていない」
「そうだろうな。四頭立てが嵌まる道を放っておく」
「四頭立てで沼へ来るほうが悪い」
*
供の男が咽せた。
「貴様、口を」
「よせ」
老人が手を上げて止めた。
「男の言うとおりだ。わしは、来る道を選ばずに来た」
老人はそこで、泥のついた外套の裾を見下ろした。
「代官に会ったら伝えておけ。札を出すなら、倒れん立て方をせよ」
「伝えておく」
*
そこから先はこちらの都合だった。
俺は橋を見に行く用がある。老人は行き先が同じ方角だと言って、馬車を歩かせた。
沈み橋の袂で、老人は馬車を止めさせた。
止めさせて、また降りる。
「これか」
「これだ」
「低いな」
*
「低い」
「幅も足りん。2間半か」
「2間半だ」
「軍の車は並んで通れんではないか。1列でしか渡れん」
「渡れる」
「規定に合わんと言うておる」
老人は欄干を探した。探しても無い。
「手すりもない」
「つけると流木が引っかかる」
「落ちたらどうする」
「落ちる」
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老人は俺を見た。
「落ちる、と言ったか」
「落ちる。膝までの水だ。この時期なら冷たい」
供の男が一歩前へ出て、老人に手で止められた。
老人は橋の袂に立って、床板を長靴の先で押した。押してから、体重をかける。
かけたまま、1歩出た。
*
老人が渡り終わるまでには時間がかかった。
半分ほど行ったところで止まり、下を見る。水は桁の3尺下を流れている。老人はそこから動かなかった。
供が追いかけようとした。
「行くな」
俺は言った。
「2人並ぶと重い」
「しかし」
「板の上で止まる客は、たいてい自分で歩き出す」
*
老人は向こう岸へ上がった。
上がって、こちらを向いて、それから戻ってきた。戻りは早い。
「……渡れたぞ」
「渡れる橋です」
「規定には合わん」
「合いません」
「合わんのに、渡れた」
老人は自分の言ったことに納得のいかない顔をしている。
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橋詰の量水標のところに、ブルーノが立っていた。
老人はそちらへ歩いていって、いきなり訊いた。
「爺。この土地の代官を知っておるか」
「知っとる」
「どういう男だ」
ブルーノは杭の目盛りから目を離さない。
「余計なことをする男じゃ」
「ほう」
「言うても聞かん。水を抜くなと言えば三筋だけ抜く。橋は要らんと言えば、沈む橋を架けよる」
*
「沈む橋を架けたのか」
「架けた。村の者は皆で笑うたわ」
「いまは」
「いまは、笑うた者がその橋で市へ行っとる」
老人は少し黙った。
「では、良い代官か」
「良い代官かどうかは、10年経たんと分からん」
老人は頷いた。
「爺、いくつだ」
「58じゃ」
「わしは68だ。10年ぶん、わしのほうが待てん」
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ブルーノはそこで顔を上げた。
上げて、老人の外套の裾を見て、また目盛りへ戻す。
「なら、いま渡ってみることじゃ」
「渡った」
「知っとる。上から見とった」
老人は俺のほうを一度見た。俺は何も言わなかった。この土地の郷長が客に何を言うかは、郷長が決めることだ。
*
そのまま老人は袂の石に気づいた。
定礎だ。取付道の上がり口にあって、渡る人間はたいてい足元を見ずに通り過ぎる。老人は通り過ぎなかった。
「名が彫ってあるな」
「彫ってあります」
「棟梁の名か」
「違います」
「では、誰の名だ」
「死んだ子の、名です」
*
老人はしゃがんで指で字をなぞった。
彫りの深さが揃っていない。ノミが石工の道具ではないので、線の底が波を打っている。
老人はそれを長いことなぞっていた。
「石屋の仕事ではないな」
「石屋ではない者が彫りました」
「そうか」
老人は立ち上がって、外套の泥を払う。払っても落ちない。
「馬車を出せ」
*
馬車が坂を上っていったあと、イルザが馬の腹帯を締め直していた。
「あの爺さん、値切りが下手だね」
「値切ってないだろう」
「値切ろうとして、忘れたんだよ。橋の話を始めたときに」
彼女は鞍に上がって、帳場のほうへ向く。
「引き賃は30クロイツ。うち、あんたの取り分はないよ」
「馬はあんたのだからな」
「道はあんたのだろ。あんたは道の賃を取らない。取らないなら、あたしが取る」
「取っていい」
「言われなくても取るよ。あんたの分を取らないのは、そのぶんが借りの利息に消えるからだ」
彼女は馬の首を回した。
「254だったね」
「254だ」
「ひと月の利息で、人足が15日ぶん雇える。忘れないでおくれよ」
*
書状が来たのはそれから8日後の駅使だ。
月に1度の巡回が王都からの荷と一緒に、一通を置いていった。館の板の間で封を切る。
紙が厚い。折り目が正確で、蝋に紋が押してある。俺には読めない紋だ。
中身は3行しかなかった。
『過日、シュラムの渡りを検分せし者あり。あの普請、誰の手によるものか。書きて寄越されたし』
*
差出の署名を見る。
『元帥府侍従長 ハルトムート・ゼール 主の命により認む』
元帥府には道を見て歩く役人がいるらしい。
四頭立てで沼へ来るくらいだから、道にはさほど詳しくないほうの役人だろう。俺は硯を探して、返書の書き出しを考えた。
「あの渡りは、低くて、幅が足りません」
そう書けば、たぶんいちばん正確だ。




