第20話「自然損耗、七件」
橇を借りに行くと、イルザは帳場の土間で馬の脚絆を繕っていた。
「6日ほど借りたい。橇1台と馬を2頭」
「どこへ」
「南だ。落ちた橋を見に行く」
彼女は針を止めない。
「見に行って、何が変わる」
「何も変わらん。変わらないが、見ないと次が組めない」
「うちの馬は、変わらないものには貸さない決まりでね」
「決まりか」
「いま作った」
*
結局、馬は3頭出た。
貸し賃は6日で銀2タレル。人足は4人で、現場を離れる日の日当は4クロイツにしてある。かわりに道中の飯はこちらが持つ。橇に積む麦と塩のぶんを足して、締めて6タレル。
俺の借りは248から254へ上がる。
館の壁には沙汰書と組合の証文が並べて掛けてある。どちらも数字が書いてあって、どちらも俺の首に掛かっている。数字の大きいほうは、いまは沙汰書ではない。
「洗って返しな」
出がけにイルザが言った。
「泥か」
「運んだ物の分だよ」
言い方まで冬と同じだ。同じ言い方を選ぶ人間は、たぶん忘れていない。
*
昼にはミュラー瀬へ着いた。
冬に来たときより水が高い。山の雪はまだ落ちきっていないが、日の当たる斜面のぶんだけが先に出ている。河の色はまだ澄んでいる。
淵を覗くと、沈めておいた石が見えた。
「動いとるな」
オッタが言った。
「動いたぶんだけ浅いところへ来ている」
3本のうち、2本は縄が掛かった。馬2頭で引いて河原へ上げるのに、昼から日暮れまでかかる。
残る1本は見つからない。
*
「流れたか」
「流れたか、砂を被ったかだ」
オッタは腰を伸ばして下流を見た。
「春の水は、置いたものを勝手に並べ直す。並べ直した先を人間が当てられると思うのが間違いだ」
「袂の石垣は、1本ぶん短いままだな」
「短いままだ」
俺は台帳を出して、袂の石垣の行に線を足した。3本のうち2本は埋まる。1本は埋まらない。埋まらないところが、あの橋のいちばん弱い場所として残る。
弱い場所を知っている橋と知らない橋がある。俺は知っているほうを選んで、選んだからには書いておく。
*
村では火のそばの老人が俺たちを覚えていた。
「また来たか」
「石を拾いに来た」
「拾っていけ。文句を言う人間が9軒しか残っとらん」
老人は薪の山を顎で指した。冬に来たときより高くなっている。
「割ったのは誰だ」
「北の郷の若い衆が置いていった。橇で通るついでにな」
「通るのか」
「通る。この冬から、上の道が使えるようになったと」
老人は俺の顔を見ないまま、薪を一本くべた。
「誰が直したかは知らん。知らんが、荷が下りてくるようになった。渡しをまた出そうかと、いま話しとる」
*
俺は返事をしなかった。
返事のかわりに、橇に載せる石の数を確かめ直した。
確かめ直す必要はない。手が空いているのが落ち着かないだけだ。
*
そこから4日で、俺たちは3つの橋を回った。
1つ目は桁が全部引き上げられていた。村の者が薪と垂木に割って使っている。落ちて8年になるという。切り口のあったはずの端は、鋸で落として竈にくべられたあとだ。
「終いだ」
オッタは一言だけ言って、村の男に礼をして戻ってきた。
2つ目は河のほうが変わっていた。
橋のあった場所から流れが50間ばかり北へ寄り、脚の立っていたところが河原になっている。桁は土に埋まっていて、掘り出すには人手が要る。こちらは6人しかいない。
「掘るか」
「掘らん。掘って出なかったときに、4日が消える」
3つ目で当たった。
*
その橋は落ちて11年になる。
脚は3つとも立っている。桁は下流の岸に寄って、半分が水に浸かっていた。ミュラー瀬と同じ倒れ方だ。
オッタが水に入り、俺は長靴を履いて続く。
男の指が桁の根元を押さえるまで、20を数えるほどもかからなかった。
「あった」
「両端か」
「両端だ」
俺は炭を出して、河原の平たい石に形を写した。冬に写した線は台帳の後ろに挟んである。並べると、刃の寝かせ方が同じ角度をしていた。
*
「持って帰る」
「1本は重いぞ」
「木口だけでいい。1尺で挽いて落とす」
オッタは鋸を出して、桁の端に刃を当てた。挽いているあいだ、男は口をきかない。
挽き終えた木口を布に巻いて、俺は橇の底へ入れた。
これで蔵の奥に2つ並ぶ。
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7つのうち、証しの立つものは2つになった。
2つだ。薪に割られたものと、河が場所を変えて土に埋まったものはもう出てこない。あとの3つはまだ見ていない。見に行くころには、たぶん同じことになっている。
20年という時間はそういうふうに使われている。3年に1つずつ落として、忘れられたころにまた1つ落とす。証しは待っているあいだに勝手に消えていく。
消え残ったものだけが、いま橇に載っている。
2つではたまたまだと言われて終わる。もう1つ要る。どこから出てくるのかは、いまの俺には見当がつかない。
*
帰りはヴェントを通った。
川関の下にある村だ。家は40戸ほどで、関で荷を待つ人足と、待つ荷主を泊める宿で食っている。
村の入口で橇が止められた。
「どこの荷だ」
「石だ。空に近い」
「石でも、通るなら金は要る」
「ここは関の外だろう」
「関の外だから、村が取る」
道の脇に男が5人立っていた。手には何も持っていない。持っていないが退く気配もない。
*
「いくらだ」
「橇1台で20クロイツ」
俺は払った。この20クロイツは254に足さない。普請の払いではなく、村への払いだ。
払ってから、いちばん年嵩の男に訊いた。
「去年もこれを取っていたのか」
「去年は取らんでよかった」
男は橇の脇をついてきた。
「関の荷が減った。関で待つ人間が減れば、宿の飯が余る。余った飯で冬は越せん」
「荷はどこへ行った」
「北の、沼の道だとよ」
男は俺の顔を見ずに言った。俺が誰かを知らないのだ、と分かる。分かったところで、こちらから名乗る筋合いもない。
「その道を作った奴に会うことがあったら、伝えといてくれ」
「なんと」
「うちの村にも、道があったんだ」
*
橇が村を出たところで、オッタが口を開いた。
「棟梁。あれは、あんたに言うとった」
「知っていて言ったのか」
「知らんだろうな。知らんまま、当たるところへ当てとる」
男は橇の縄を締め直した。
「道が戻ると、戻ったぶんだけどこかが痩せる。誰の得にもならん普請なんぞ、この世にはない」
「うちの郷はどうだ」
「あんたの郷は、痩せる側から起き上がる側へ回った。回ったぶんを、どこかが引き受けとる」
俺は言い返さなかった。言い返す材料がいまの俺の手の中にない。
*
その晩、焚き火のそばでヨナスが黙っていた。
橇の人足に選んだ4人のうち、いちばん若い。腕は足りないが道中で誰より先に起きて湯を沸かす。
「言いたいことがあるなら言え」
「あの村の人、うちの郷を恨んでますよね」
「恨むだろうな」
「おれ、去年の冬まで、腐り麦の株を抜いてたんです。抜いても抜いても食う分が出なくて」
若い男は膝を抱えた。
「いま、うちの郷には麦が56袋あります。あの村の人が言った道のおかげです。それが分かってるのに、なんで、飯がまずいんですかね」
「まずいままでいい」
「そういうもんですか」
「そういうものだ。うまくなったら、あの村の名前を忘れる」
*
アルヴス大橋を見たのはその翌日だ。
旧街道から東へ半日外れる。外れる理由をオッタには言わなかった。言わなくても馬の向きが変わったところでこの男は察したはずだ。
橋は上流の狭まったところに架かっている。長さは60間に届かない。そのかわり高い。石の脚が4つ、水面から真っ直ぐ立ち上がって、その上に太い木の桁と厚い床板が載っている。
近くで見るのは初めてだ。
*
立派だ、と素直に思う。
目地が細い。積み方が揃っていて、水を受ける側の面が丸めてある。22年前にこれを組んだ連中は下手ではない。
「上は文句のつけようがねえ」
オッタが言った。
「上は」
「見に来たのは下だろうが」
*
俺たちは下流の河原へ下りた。
橋番の小屋は上の道にある。河原へ下りる人間を止める決まりはない。石を拾いに来た流れ者に見えるなら、それでいい。
水は膝までしか来ない。来ないぶん、流れが速かった。
上流側の脚から取りかかる。オッタが水に手を突っ込んで探り、俺が杖の刻みを当てる。冬の河でうちの3番目の脚を見たときと、道具も順番も同じだ。
「石の根が出とる」
「どのくらいだ」
「あんたが読め」
*
俺は杖を水の中へ立てて、石の底へ当てた。
柄の刻みは歩数と水の高さを測るためのものだが、こういうときにも使える。当てて、指を滑らせて、水の上に残った刻みを読む。
三尺。指2本ぶん多い。
一度抜いて当て直し、同じ数を読んだ。
根入れが三尺食われている。石が土に噛んでいるはずの深さの、半分に近い。
*
「下流は」
「1尺と少しだ」
「上流だけ深いな」
「同じことを冬にも言うたな」
オッタは水から手を出した。指の色が変わっている。
「うちの橋は2尺と少しだった。あんたは百年前の根固めを掘り出して、並べ直して止めた」
「止めた」
「ここは」
「止められん」
*
止められない理由は3つある。
1つ。この橋は俺のものではない。他人の橋の水の中に石を入れる仕事は、普請ではなく細工と呼ばれる。
2つ。要る石の数が違う。根を三尺食われた脚を止めるには、うちの橋に沈めた根固めの倍では足りない。
3つ。ここは軍務府の橋だ。俺が水の中で石を並べているところを橋番に見られれば、その日のうちに俺の名で書状が上がる。
俺は水から上がって、河原に座った。
*
台帳を出して、日付と脚の番号を書いた。その下に、上流三尺、下流一尺。
書いてから、その頁の余白を見る。
うちの橋の頁には、測った数のあとに必ず続きがある。掘り出した、並べ直した、締め直した。手を入れた記録が数の下にぶら下がっている。
この頁にはその続きが書けない。
測れる。直せない。この2つが同じ日に手の中にあるというのを、俺はいまの体で味わうのが2度目だ。1度目は東支流の河原で、木槌を持って座っていた。
*
日が傾くころ、俺たちは上の道へ戻った。
橋の袂に材木が積んである。来るときにはなかったものだ。
杉の角材と真新しい足場丸太。数は多い。人足が10人ばかりで荷を下ろし、番付を書き付けている。
「普請か」
俺は近くの男に訊いた。
「改修だとよ。総監閣下のご下命でな」
「どこを直す」
男は上を指した。
俺は指の先を目で追う。足場は水の上ではなく、欄干の高さから組み始められていた。




