第19話「敵陣の帳面は正直」
列が戻ってきたのは、60日目の夕方だった。
旧街道の北の坂を、人と馬が下りてくる。俺は橋詰に立って、頭数を数えた。
人が30。全員いる。
馬は18。
*
数えたのは俺だけではない。
橋詰にはイルザがいて、村の女たちがいて、ブルーノがいた。誰も声を上げない。上げないのは数が合っているかどうかを全員が数えているからだ。
先頭を歩いていた士官が馬を降りた。
若い男だ。28か29。背は高くないが姿勢が真っ直ぐで、外套の裾に泥が一つもついていない。60日の帰り道でこうなるのは、几帳面か乗り方が上手いか、その両方だ。
「軍務府輜重方付、レナート・フォスと申します」
「アルヴィン・ロートバッハだ」
「徴発の期を終え、人馬を返還いたします」
*
男は懐から帳面を出した。
出して、開いて、こちらへ向けた。見せる義務はないはずだ。
「使役六十日。人足三十、うち負傷一。馬二十、斃馬二」
読み上げる声に抑揚がない。数を読むときの声が、途中で高くも低くもならない。読み上げに情を乗せない訓練を受けた人間の声だ。
「負傷一というのは」
「掘削中の落石で、左足を挫いております。歩けます。走れません」
「斃馬二は」
「十四日目に一頭。四十一日目に一頭。いずれも過労と飼葉不足によるものと、私は書きました」
*
「私は書きました」という言い方に、俺は引っかかった。
引っかかったがその場では訊かないでおく。
イルザが前に出てきた。彼女は帳面を覗き込んで、それから馬の列を見た。
「番号を言って」
「組合の預かりは6頭。うち戻りは4頭。番号は3番と5番、それに8番と11番」
「12番は」
「四十一日目に斃れました」
*
イルザは何も言わなかった。
言わずに、戻ってきた4頭のところへ歩いていって、1頭ずつ脚を見た。前脚を持ち上げ、蹄の裏を見て、また下ろす。膝の腫れを掌で確かめる。
4頭目を見終わったところで、彼女は立ち上がった。
「4頭のうち、2頭はこの春もう荷を引けない」
「対価は定めのとおり支払われます」
「定めってのは、いくら」
「馬一頭につき、銀二タレル。支払いは翌年の払いとなります」
*
イルザの手が馬の首の上で止まった。
止まって、それから、ゆっくり離れた。
「翌年」
「はい」
「あんた、その紙を自分で書いたのかい」
「定めを写しました」
「写した人間に文句を言っても仕方がない。それは分かってる」
彼女は袖で自分の掌を拭った。馬の毛と土がついている。
「分かってるけど、言うよ。あたしはあんたのその落ち着いた顔を、この先ずっと覚えとく」
レナートは目を逸らさなかった。逸らさずに頭を下げた。
*
馬を厩に入れるのは、組合の若い衆の仕事だ。
俺は手伝いに回って、4頭を順に繋いだ。厩の奥から3つ目の仕切りが空いている。そこには12番がいた。
繋ぐ馬がいないので、俺は縄を柱に掛けた。掛けてから、しばらくそこを動かなかった。
飼葉桶に、古い葉が少し残っている。
出ていく朝に入れた分だ。誰も片づけていない。片づける役の少年がもういない。
俺はその桶を抱えて、外の水場で洗った。洗ってから、伏せて置いた。
やることが見つからないときに手を動かすのは、癖としてはいいほうだと思う。思うことにしている。
*
オッタは列のいちばん後ろにいた。
痩せている。頬の肉が落ちて、目の周りが窪んでいた。それでも道具袋は担いだままだ。
俺が近づくと、男は先に口を開いた。
「棟梁。落ちたか」
「落ちた」
「養生を削ったな」
「削った。8日を4日にした」
オッタは俺の顔を見た。長く見た。
「誰が死んだ」
「ヤンだ」
*
男は道具袋を下ろした。
下ろして、地面に膝をついた。膝をついたまま、袋の紐を結び直している。結び直す必要のない紐だ。
「あの掛矢の坊主か」
「そうだ」
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。
俺は男が立ち上がるのを待つ。待っているあいだ、何を言われるかを頭の中で並べていた。並べたどれも言われなかった。
*
オッタが行きたがったのは東支流だった。
日が落ちる前に、俺たちは二代目の橋まで歩く。男は橋の上を端から端まで歩き、途中で二度しゃがんで、床板の継ぎ目に指を入れた。
それから、袂の定礎を見た。
2文字の名前を指でなぞる。彫りの深さが揃っていないところで指が引っかかった。
「誰が彫った」
「カスパーだ」
「石屋じゃねえな」
「石屋じゃない」
「いい彫りだ」
男は膝を伸ばして、橋の全体を見渡した。
*
「脚を2本足したか」
「足した。あんたの打った杭の外側だ」
「杭は動かさんかったな」
「動かしていない」
オッタは頷いた。頷いてから、俺のほうへ首を回した。
「棟梁。橋は落ちる」
「知ってる」
「知っとらん。今日のあんたは、落ちた橋を架けた人間として知っとるだけだ。それは半分だ」
男は袂の石を長靴の先で軽く叩いた。
「橋は落ちる。どう架けても、いつかは落ちる。だから棟梁がいる。落ちる前に見に行く人間と、落ちたあとに次を架ける人間が要る。そのために名前を刻むんだ」
*
「あんたの名は刻んでいない」
「刻むな。まだ見てねえ」
「見ただろう」
「上を歩いただけだ。水の中を見とらん。渇水まで待て」
オッタは道具袋を担ぎ直した。担ぎ直して、それから飯場のほうへ歩き出す。
「棟梁」
「なんだ」
「北で60日、石を積んだ。営倉の壁だ。あそこの普請の話は、飯を食ってからする」
*
飯のあと、男は椀を置いて話し始めた。
「壁は3間半。長さで80間積んだ。人の数だけは山ほどおった」
「縄は」
「ねえ」
オッタは指を組んだ。組んだ手の甲に、新しい傷が2本走っている。
「足場から落ちたのが2人。石の下敷きが1人。凍え死んだのが1人。60日で4だ」
「言わなかったのか」
「言った。3日目に言った。縄を回せと。輜重の若い士官が聞きに来て、書いて帰った」
「それで」
「それきりだ。書いても、縄は来ん」
男は火を見た。
「あの士官な。書いたやつを俺に読ませた。読めるかと訊いてきた。読めると言うたら、間違いがあれば直せと言いよった」
「直したのか」
「1つ直した。俺が言うたのは腰縄で、あいつは命綱と書いとった。物が違う」
オッタは傷の走った手の甲で口元を拭った。
「あんな軍人がおるとはな。腹が立つやら、気味が悪いやら」
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「石はどうだった」
「脆い。あの土地の石は、目が寝とらん。あれで壁を積むと、10年で面が落ちる」
「言ったのか」
「言わん。言うても、あの壁は俺の壁じゃねえ」
男はそこで少し声を落とした。
「棟梁。営倉の蔵が、いつもの倍に建っとった。麦も、塩も、鉄も入れとる」
「戦の支度か」
「知らん。俺は石屋だ。だが、蔵ってのは要る前に建てるもんだ」
*
レナートが現場を見に来たのは翌朝だった。
出立の前に見ておきたい、と言う。断る理由がない。
俺は水路と、飯場と橋を順に見せた。士官は何も言わずに歩き、要所で足を止め、帳面に何かを書いた。
立ち止まった回数がいちばん多かったのは飯場だ。
「これは」
「飯場だ。人足が寝て、飯を食う」
「板の床が張ってあります」
「濡れた寝床で寝ると、翌日の手が動かない」
「日当は」
「6クロイツと朝晩の麦飯」
*
レナートは帳面から顔を上げた。
「六クロイツ」
「安いか」
「高くはありません。ただ、徴発では出ません」
「知ってる」
男は飯場の梁を見上げた。梁には縄が輪にして掛けてある。深いところに入る者が腰に結ぶ縄だ。
「あの縄は」
「立入縄と、腰縄だ。深いところに入る者は必ず結ぶ。結ぶのは自分ではなく隣の人間」
「六十日で、こちらの現場は何人亡くなりましたか」
*
俺は答えた。
「1人だ。俺の判断で死んだ」
レナートの手が止まった。
「六十日で一人」
「多い」
「……営倉の普請では、四人です」
男は帳面を閉じた。閉じてから、閉じたことを後悔したような顔をした。
「軍の普請では、人が死ぬのは当たり前です。凍った土を掘れば落石が出る。壁を積めば足場から落ちる。誰も、それを異常だとは書きません」
*
「あんたは書くのか」
「書きます」
「書いて、どうなる」
「どうにもなりません」
レナートは初めて、少しだけ言い淀んだ。
「私は、餓えた村の生まれです。子どものころ、村の麦が全部軍に取られた年がありました。取られたのに、その年は誰も死ななかった。総監閣下が、東の街道に兵糧の配りを回されたからです」
「兵站総監か」
「はい。閣下の兵站は、人を生かします。一本の道に全部を集めて、どこにいくつ配るかを一人が決める。だから届く。私は、それを見て育ちました」
*
男は帳面を懐に戻した。
「閣下は、迷い道が兵を殺すとおっしゃいます。私はそれを、正しいと思っています」
「正しいだろうな」
「意外です。否定なさると思っておりました」
「否定する材料がない。あんたの村では、それで人が死ななかった」
俺は橋の袂の定礎を見た。
「材料なら、こっちにも別のがある」
「どのような」
「一本しかない道が切れた日を、俺は現物で見てきた。落ちた橋の下で村が一つ死んでるのを、この目で見た」
レナートはその言葉に何も返さなかった。返さずに、帳面のことを考えている顔をした。
書かないのだな、と俺は思う。書かないことを選べる男が、書くと言うときだけ書く。厄介な相手だ。
*
出立は昼過ぎだった。
人と馬を残していく列は来たときより短い。士官は鞍に上がって、こちらへ一礼した。
「本日見たものは、そのまま書きます。飾りも、削りもいたしません」
「そうしてくれ」
「一つだけ、申し上げてよろしいですか」
「言え」
レナートは鞍の上から、東支流の橋を見下ろした。
「その橋は、軍の積載規定に合いません。桁が低く、幅が足りない。規定に合わない橋は、道方の帳面では〈損耗待ち〉と記されます」
「損耗を、待つのか」
「私は分類の名を申し上げただけです。意味は存じません」
*
男は敬礼をして、馬を返した。
列は旧街道を北へ上がり、坂の上で見えなくなる。
俺は橋詰に立ったまま、その4文字を頭の中で二度読み直した。




