第18話「落ちない道への回り道」
寄合に出たのは着任してから3度目だ。
村の小屋は狭い。土間に筵を敷いて、40人ばかりが座る。前の2回、俺は水路の話と橋の話をした。どちらも俺が説いて相手が渋る形になる。
今度は逆だった。
俺が入っていくと、東の村の年嵩の男が最初に口を開いた。
「架けてくださるので」
「架ける」
土間が少し緩んだ。緩んだところへ俺は続きを置いた。
「14日かかる。1日も削らない」
*
「前は10日でしたな」
誰かが言った。
「10日でやって、落とした」
俺は言った。
「もとの工程は14日だ。俺はそこから4日削った。削った理由は、この市に間に合わせるためだ。理由は立派だった。立派な理由で削ると、削ったことが見えなくなる」
土間は静かだった。
「次の市には間に合わない。次の次には間に合う。それでも架け直す」
年嵩の男が頭を下げた。
下げた頭に向かって、俺はもう一つ言った。
「その代わり、渡り方の決まりを作る。決まりが気に入らない人は、今日ここで言ってくれ」
*
決まりは3つだ。
1つ。車1台に載せるのは麦で8石まで。袋にして40袋。それを超えるなら、2台に割る。
2つ。前の車が向こうの取付道を上がりきるまで、次の車を橋に乗せない。目安は5歩。前の車の後ろから5歩は空ける。
3つ。橋を渡る車には札が要る。札のない車は渡さない。
「札」
土間の何人かが繰り返した。
「木の札だ。組合で出す。荷の目方を検めて、通していい車に渡す」
「余所の車は」
「余所の車も、橋詰で検めて出す。手間はかかる。かかるが、検めない車を通したのが、こないだの朝だ」
*
異論は出た。
出たほうがいい。出ない決まりは守られないところで死ぬ。
「市の朝に、いちいち検めとったら間に合いませんが」
「間に合わせる。橋詰に検める者を置く。夜明け前から立つ」
「誰が立つんです」
俺が答える前に、土間の後ろから声がした。
「おれが立つ」
カスパーだった。
*
土間が静まった。
流民が寄合で口をきくのはたぶん初めてだ。男は筵の端に膝をついたまま、誰の顔も見ていない。
「あんた、村の者じゃなかろう」
年嵩の男が言った。
「村の者じゃない」
「なら」
「村の者じゃないから立てる」
カスパーは顔を上げた。
「村の者が立つと、身内の車を通す。おれには身内がおらん。おれが通さんと言ったら、誰の顔も立たん」
*
俺はその言い分を、そのまま受け取った。
受け取ってから、一つだけ足した。
「検める者は、橋を止められる。俺が渡れと言っても、止められる」
「代官を止められるのか」
「止められないなら、置く意味がない」
土間がざわついた。ざわついたのはたぶん、そんな役を作った領主を誰も見たことがないからだ。
ブルーノは泥掻きを立てて、柄の上に両手を重ねた。
「わしは反対せん」
老人はそう言って、それから付け足した。
「反対せんが、条件を一つ出す。検める者は、堤も歩け。橋だけ見とると、堤が抜けたときに誰も気づかん」
*
こうして、その役の名前が決まった。
検査方。橋と堤を自分の足で踏んで検める者。
仕事は朝と夕の2度。橋詰から向こうの取付道まで歩いて、床板の楔を木槌で叩く。脚の根元の水当たりを見て、量水標を読む。読んだ数を紙に書いて、日暮れに俺の台帳へ移す。
日当は6クロイツ。
「要らん」
カスパーは言った。
「要る。役に銭がつかないと、次の代の者が引き受けない」
「なら、受け取って、飯場に置く」
「好きにしろ」
*
札を作ったのは組合だ。
イルザは楢の板を薄く割らせて、掌に載る大きさの札を100枚こしらえた。表に組合の焼き印。裏は空けてある。
「裏は何に使う」
「検めた者が刻みを入れる。月ごとに刻む場所を変えるんだ。先月の札で今月渡られちゃかなわない」
「よく思いつくな」
「うちは荷の預かりで似たことをやってる。新しくないよ」
彼女は札を一枚、俺のほうへ滑らせた。
「あんた、この決まりに名前をつける気はあるかい」
「ない」
「つけないなら、こっちがつけるよ」
*
イルザは組合の帳面の最後の頁を開いた。
そこには組合の掟が並んでいる。父の代からの、短い文が9つ。
彼女は炭を持って、9つ目の下に10個目を書いた。
『札のない橋は渡らない』
書いてから、炭を置いて、俺のほうを見ないまま言った。
「これはあんたのための掟じゃないからね。うちの若い衆が、二度と橋の下に入らないための掟だ」
「分かってる」
「分かってない顔をするなって言ってるんだよ、あたしは」
*
二代目の脚を据えたのはそれから4日後だ。
脚は6本に増やす。オッタの打った4本の杭のうち、真ん中の2本はそのまま使い、両側に1本ずつ足した。
石を据えるとき、俺は1つずつ木槌で叩いた。
10回に3回は外す。外したぶんは据え直す。据え直してもまた外す。
その繰り返しを見ていたヨナスが3日目に言った。
「棟梁。おれにも叩かせてください」
「聞き分けられないぞ」
「棟梁も聞き分けられてないじゃないですか」
「そうだな」
「二人で外したほうが、一人で外すより気づきます」
*
桁が渡ったのは6日目だ。
残りの8日はまるごと養生に充てた。据えた石の目地が締まるまで、荷は1台も通さない。
そのあいだ、現場は止まらない。床板を張り、取付道を均し、両岸の水切りを掘る。養生の8日で上物を仕上げておけば、明けた日の朝から荷が通る。
冬の河で教わった手だ。教わったときには、その手を使う前に4日を削った。
「棟梁。橋、もう渡れそうですけど」
ヨナスが床板の上から言った。
「渡れそうに見えるのが、いちばん危ない」
「見た目には座ってるってやつですか」
「そうだ。見た目で座るのは誰でもできる」
言ってから、その台詞が自分のものではないことに気づいた。石の粉のついた手が、冬の河で俺に言った言葉だ。
借り物でも正しいことは正しい。
*
定礎の石を据えたのは、桁が渡り終わった日だ。
橋の袂、取付道の上がり口。人の目につく場所ではない。渡る人間はたいてい足元を見ずに通り過ぎる。
石には名前を刻んだ。
一つだけだ。俺の名は刻んでいない。オッタの名も刻んでいない。あの男は自分で納得した橋にしか名を出さないと言ったし、この橋を見ていないのだから、出しようがない。
目立ちたくないから刻まないのではない。刻む資格のある名が、いまはこの一つしかないだけだ。
彫ったのはカスパーだ。
「字は書けるのか」
「書けん。写す」
男は俺の書いた紙を石の横に置いて、線をなぞりながらノミを入れた。ノミは石工の道具ではなく、飯場の鑿だ。
*
彫るのに半日かかった。
途中で一度、手が滑って線が1本外へ流れる。男はそれを直そうとして、やめた。
「直すと、消したところが残る」
「そのままでいい」
「そのままにする」
日が傾くころ、名前は石の上にあった。
2文字。深さも幅も揃っていない。短い名だ。短いぶん、遠くからでも読める大きさに彫ってある。
カスパーは道具を袋にしまって、立ち上がった。立ち上がって、石を見下ろして、それから何も言わずに飯場のほうへ歩いていった。
*
ピムが来たのはその夕方だ。
少年は定礎の石の前にしゃがんで指で字をなぞった。なぞってから、俺を見上げた。
「棟梁。検査方って、いくつからなれるの」
「いくつだと思う」
「おいら、13」
「早い」
「早いのは分かってる。けど、見習いなら」
俺は答えを持っていなかった。持っていないので、その足で少年の家へ行く。
母は土間で葦を編んでいた。俺の話を最後まで聞いて、それから手を止めた。
*
「橋の上ですか」
「橋の上だ。水の中には入れない。夕方の見回りのとき、量水標を読ませる」
「増水の日は」
「増水の日はあんたが読む。それは変えない」
女はしばらく葦を見ていた。
「あの子が、自分で言いましたか」
「言った」
「なら、行かせます」
女は葦を編み直しながら続けた。
「水路から引き上げてもらった日から、うちの子は自分を連れていかれる側だと思っとります。連れていかれる側の子は、大人になったときに何も選べません」
*
最初の札が出たのはその翌日だ。
受け取ったのは東の村の年嵩の男の車だ。麦ではなく種籾を7石。検めたのはカスパーで、裏に刻みを一つ入れて、無言で渡した。
男は札を受け取り、両手で持ったまま、長いこと見ていた。
「これがないと、渡れんのですな」
「渡れない」
「なら、失くさんようにします」
男は札を懐に入れて、それから帯の内側に入れ直した。落として拾えない場所には入れない、という入れ方だ。
「代官様。この札は、いつまで使えます」
「橋があるあいだだ」
「橋がなくなったら」
「札も要らなくなる。要らなくなった日には、あんたはその札を焼いていい」
その日、札は37枚出た。
*
断った車が1台あった。
日が高くなったころ、村の車が1台、橋詰で止められていた。
積んでいたのは薪だ。目方は麦に直して10石ある。曳いていたのは寄合で「いちいち検めとったら間に合わん」と言った男だった。
「割ってくれ」
カスパーが言った。
「割ったら2度運ばにゃならん」
「2度運べ」
「あんた、寄合で決まったばかりの決まりを、初日から振り回す気か」
「初日だから振り回す」
*
俺は橋詰の少し離れたところに立って、それを見ていた。
近づかなかった。近づけば、代官が来たから通った、という話になる。話は歩く、と老人は言った。歩いた先で、決まりは「代官次第」に変わる。
男が俺のほうを見た。
俺は目を合わせて、それから橋のほうへ顎を向けた。橋の袂には名前の刻んである石がある。
男は石を見た。見てから、舌打ちをして、薪を半分下ろした。
下ろした薪は村の若い衆が2度目に運んだ。運び賃は男が払った。
カスパーは1度目の車に札を出し、2度目に運んだ分へまた別の札を出す。1台につき1枚。数が合わないと、検めた意味がなくなる。
*
札には通し番号を振ってある。
その日に出た37枚は、2番から38番までだ。1番の札だけが俺の手元にある。
組合の焼き印は押してあるが、裏の刻みは入っていない。刻みを入れるのは検めた者の仕事で、この札の乗る車はまだどこにもない。
蔵の奥に、傷の入った桁が横たえてある。
俺はその隣にその1枚を置いた。
渡す相手は決まっている。渡す日がまだ来ていないだけだ。




