↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
処刑を免れた悪役領主は目立ちたくない ~前世は土木の現場監督。黙って道と橋を直していたら、俺を捨てた王国軍が頭を下げてきた~  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/32

第17話「図面を焼くには、雨が要る」

雨は3日降った。


春の雨は冬の雨と音が違う。冬の雨は屋根を叩いて跳ねるが、春の雨は葦の屋根に吸われて、低いところで鳴る。


俺は館の板の間から動かなかった。


動かない理由はいくつも作れた。雨だから現場は止まる。止まっている現場に代官が顔を出すと、人足は気を使って濡れながら働く。それは無駄だ。


無駄だという理屈は正しい。


動かずにいる理由の作り方だけが上手い人間の顔が、いくつか浮かんで消えた。


*


ピムが来たのは2日目の朝だ。


少年は油紙に包んだ紙を持ってきて、板の間に置いた。量水標の読みだ。


村口が21。渡し場が14。橋詰が7。


字は少年のものではなかった。線が細く、はねのない字だ。母が書いている。


「増水の日は、うちが読みますって」


「そう約束した」


「増水じゃないよ。まだ7だもん」


「7でも上がってる」


ピムは板の間の隅を見た。俺の敷いた寝床が、昨日から敷いたままになっているのを見ている。


「棟梁、飯食った」


「食った」


「嘘だ」


*


少年は帰らなかった。


囲炉裏の灰を掻いて火を熾し、鍋に水を張って麦を入れた。手つきが確かなのは、家でやっているからだろう。


俺はそれを見ていた。見ながら、13の子どもに飯を炊かせている代官というものの図を、頭のどこかで嗤っていた。


嗤っている自分はまだ手が動かない。


「棟梁」


「なんだ」


「橋、また架けるの」


「分からない」


「分からないの」


少年は火吹き竹を口から離した。


「おいら、架けると思う」


「なぜだ」


「棟梁は、水が抜けたところを見ると顔が変わるから」


*


その日の午後、東の村から3人来た。


年嵩の男が1人と若いのが2人。3人とも足まで泥だらけで、沼を回ってきたことが見て取れる。


年嵩の男が口を開いた。


「橋を、もう一度」


「今は答えられない」


「答えられんのは分かっとります。分かっとりますが、頼まんと帰れんのです」


男が膝をつく。


「うちの村は、市に間に合わんかった。籠が3分の1で売れて、魚は捨てました。次の市までに橋がないと、うちは種籾が買えん」


「あの橋で人が死んだ」


「死にました」


男は顔を上げなかった。


「うちの村の者じゃないから言えるんだと、思われても構いません。けど、うちは沼を回るあいだに毎年二人か三人、老人を死なせとります。半日余計にかかる道ってのは、そういう道です」


俺は返事をしなかった。


3人は待った。待って、それから帰っていく。若いほうが一度だけ振り返り、何か言いかけて、口を閉じた。


*


飯場へ行ったのはその足でだ。


雨は小止みになっている。それでも誰も外に出ていない。板の間に13人が座って、道具の手入れをしていた。手入れの要らない道具まで拭いている。


隅の棚に麻布の包みがある。


オッタが置いていった道具だ。鑿の入っていない袋と、石の粉のついた前掛け。誰も触っていない。


木槌だけがそこにない。


河原で石を叩いたあと、俺が持ち帰って、館の道具箱の上に置いたままにしている。返しに来る気にならなかった。


俺は包みの前に立って、結び目を解かなかった。解いたところで、中の道具は俺の手には合わない。合わないものを握って、握った気になるのがいちばん悪い。


「棟梁」


ヨナスが言った。


「二代目、材は寄せときますか」


「まだ決めていない」


「決まってからだと、遅くなります」


「遅くなる」


「じゃあ、寄せときます。使わなかったら、薪にすればいい」


誰も俺の顔を見ていなかった。見ずに、全員が手を動かし始める。


俺は板の間の端に腰を下ろした。


腰を下ろして、13人が布で道具を拭く音を聞いていた。金気の音と砥石の音。誰かが鼻をすする音。


この場所は飯と乾いた寝床で人を集めた場所だ。集めるときには理屈があった。人が居着けば工程が縮む、と俺は計算して、計算どおりになった。


いま、その13人が、要らない手入れをして俺を待っている。


計算に入っていなかったのはこれだ。人は工程が止まっても居る。居て、こちらが立つのを待つ。待たれているあいだ、こちらは立たないでいることもできる。


できるがそのぶんの日当は、俺の借りに乗り続ける。


*


3日目の夜、俺は図面を出した。


道具箱の底に、東支流の仮橋の図が入っている。脚の位置と桁の長さ。床の張り方と養生の日数。すべて俺の字で書いてある。


養生の欄だけが二重になっている。8の上に4が重なって、消しきれなかった丸みが下から透けていた。


俺はその紙を囲炉裏の縁まで持っていった。


火はまだ熾っている。ピムが熾していったやつだ。


*


紙は湿っていた。


3日の雨で、この家の中のものはすべて湿っている。板も藁も紙も。


俺は端を火に近づけた。近づけたところで、紙が焦げるより先に湯気が上がった。


湯気は焦げ臭くない。ただの水の匂いだ。


俺はもう少し近づけた。


火の粉が一つ跳ねて、紙の上で消えた。消えた跡に、小さな黒い点が残る。


*


そこで手が止まった。


止めたのではない。止まった。


指が動かない。焼くという判断は頭の中で出ているのに、腕から先がその判断に従わない。


俺は膝の上に紙を戻した。


戻した手の甲に、囲炉裏の熱が残っていた。熱は残っているのに指の先は冷たい。


屋根の上で雨が鳴っていた。


*


雨の音を聞いていると体のどこかが縮む。


縮む場所は毎回同じだ。喉の下の、鎖骨のあいだのあたり。そこが冷えて、息が浅くなる。


理由を考えようとして、やめた。


考えた先に何かがあるのは分かっている。分かっているのに、そこへ行こうとすると、頭が別のことを始める。工程表。材の数。台帳の欄。数えるものを勝手に探しにいく。


俺は膝の紙を握った。握って、皺になったのを掌で伸ばした。


*


イルザが来たのは、雨の上がった翌日だ。


彼女は梯子を上がってきて、板の間に組合の帳面を置いた。置いて、俺の顔を見るなり言った。


「ひどい顔だね」


「そうか」


「そうだよ。で、話は3つある」


「怒るのは、そのうちのどれだ」


「今日は入ってない」


イルザは帳面を開いた。


「1つ。桁は上げた。使える材は7本。組み直せば、二代目に回せる。2つ。市の後の荷は、沼を回って全部運んだ。うちの若い衆が2日徹夜した」


「銭は」


「あんたの借りに足した。242から248」


*


「3つ目は」


「返しの話だよ」


彼女は指で帳面の欄を叩いた。


「初年度の納めが220石。納めたあと、半分返す約束だ。あんたが橋を架けるのをやめると、道が死ぬ。道が死ぬと、うちは248を取りはぐれる」


「脅しか」


「催促だよ。脅しはもっと安い言い方をする」


イルザは帳面を閉じた。閉じてから、初めて声の高さが変わる。


「あの子の家には、あたしが行った。母親は泣かなかったよ。泣かないで、あの子が貯めた4タレルを返しに来た。組合から預かった金だからって」


「受け取ったのか」


「受け取ってない。押し問答して、置いてきた」


彼女は立ち上がった。


「あんたが橋を架け直すのは、あの子のためじゃない。あたしの248のためだ。そう思っておけば、当分は動ける」


*


ブルーノが来たのはその晩だった。


老人は梯子の下から声をかけて、上がってこなかった。俺が降りると、返事も待たずに歩き出す。歩くのが速い。ついてこいということらしい。


連れていかれたのは村の南の端だ。


抜かなかった低地。葦の原。ブルーノの言うところの堀。


「わしの堀の話には、続きがある」


老人は泥掻きの先を水に浸けた。


「話してくれ」


「話す。あんたが聞ける状態かどうかは、知らん」


*


「わしが16のとき、大水が出た」


老人の声はいつもと同じ高さだった。


「沼の民は堀を信じとる。水が出ても、堀が受ける。受けとるあいだに高いところへ上がればいい。わしもそう教わって、そう信じとった」


「その年は」


「受けた。ちゃんと受けた。堀は仕事をした」


そこで一拍、間があいた。老人の息が一度だけ深くなる。


「だが、上の村には堀がない。あそこは平らな土地でな。わしは、堀が受けとるから大丈夫だと思って、走らんかった」


「走れば」


「間に合った。半刻で行ける距離だ」


「知らせに行かなかったのか」


「行かんかった。行かんかった理由も、ちゃんとあった」


老人は水面を見たまま言った。


「その日、うちの村も水が来とった。年寄りを高いところへ上げにゃならん。手が要る。わしは、目の前の手を優先した。それは間違いじゃない」


「間違いじゃない」


「間違いじゃないことをして、8人死んだ。そういうことが、この世にはある」


*


老人は水から先を引き上げた。


落ちた雫が葦の根元で音を立てる。


「8人だ。うちの2つ下の妹も、そこに嫁に行っとった」


俺は何も言えなかった。


言葉を探す癖がこういうときにいちばん役に立たない。探しているあいだに時間が過ぎて、過ぎた時間そのものが返事になってしまう。


「わしが堀を残せと言うのはな」


老人は続けた。


「堀を信じとるからじゃない。信じた日のことを忘れんためだ。残しておけば、毎日目に入る。目に入れば、あの日のわしの顔を思い出す」


*


「思い出して、どうなる」


俺はやっと口を開いた。


「どうにもならん。8人は戻らん」


ブルーノは水際から一歩下がった。


「どうにもならんが、わしは50年、郷長をやっとる。やっとるあいだ、寄合で誰かが『大丈夫だ』と言うたびに、わしは必ず一度は反対する。反対するのは癖だ。癖にしとかんと、また信じる」


老人は歩き出した。


歩きながら、こちらを振り返らずに言った。


「あんたが今日、何かを決めるとは思っとらん。決めんでいい。ただ、あんたが持っとるものを捨てるのだけはやめておけ。捨てたら、思い出す道具がなくなる」


*


館に戻って、俺は図面を広げた。


囲炉裏の火は落ちている。落ちた灰の上に紙を置いた。


焼かなかった。


焼く理由も焼かない理由も今日は出てこない。


俺は紙を丸めて、道具箱の底へ押し込んだ。


蓋を閉める。閉めた蓋の上に、オッタが置いていった木槌が載っている。


柄は俺の手には太すぎる。太いままでも握れないわけではない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。