第17話「図面を焼くには、雨が要る」
雨は3日降った。
春の雨は冬の雨と音が違う。冬の雨は屋根を叩いて跳ねるが、春の雨は葦の屋根に吸われて、低いところで鳴る。
俺は館の板の間から動かなかった。
動かない理由はいくつも作れた。雨だから現場は止まる。止まっている現場に代官が顔を出すと、人足は気を使って濡れながら働く。それは無駄だ。
無駄だという理屈は正しい。
動かずにいる理由の作り方だけが上手い人間の顔が、いくつか浮かんで消えた。
*
ピムが来たのは2日目の朝だ。
少年は油紙に包んだ紙を持ってきて、板の間に置いた。量水標の読みだ。
村口が21。渡し場が14。橋詰が7。
字は少年のものではなかった。線が細く、はねのない字だ。母が書いている。
「増水の日は、うちが読みますって」
「そう約束した」
「増水じゃないよ。まだ7だもん」
「7でも上がってる」
ピムは板の間の隅を見た。俺の敷いた寝床が、昨日から敷いたままになっているのを見ている。
「棟梁、飯食った」
「食った」
「嘘だ」
*
少年は帰らなかった。
囲炉裏の灰を掻いて火を熾し、鍋に水を張って麦を入れた。手つきが確かなのは、家でやっているからだろう。
俺はそれを見ていた。見ながら、13の子どもに飯を炊かせている代官というものの図を、頭のどこかで嗤っていた。
嗤っている自分はまだ手が動かない。
「棟梁」
「なんだ」
「橋、また架けるの」
「分からない」
「分からないの」
少年は火吹き竹を口から離した。
「おいら、架けると思う」
「なぜだ」
「棟梁は、水が抜けたところを見ると顔が変わるから」
*
その日の午後、東の村から3人来た。
年嵩の男が1人と若いのが2人。3人とも足まで泥だらけで、沼を回ってきたことが見て取れる。
年嵩の男が口を開いた。
「橋を、もう一度」
「今は答えられない」
「答えられんのは分かっとります。分かっとりますが、頼まんと帰れんのです」
男が膝をつく。
「うちの村は、市に間に合わんかった。籠が3分の1で売れて、魚は捨てました。次の市までに橋がないと、うちは種籾が買えん」
「あの橋で人が死んだ」
「死にました」
男は顔を上げなかった。
「うちの村の者じゃないから言えるんだと、思われても構いません。けど、うちは沼を回るあいだに毎年二人か三人、老人を死なせとります。半日余計にかかる道ってのは、そういう道です」
俺は返事をしなかった。
3人は待った。待って、それから帰っていく。若いほうが一度だけ振り返り、何か言いかけて、口を閉じた。
*
飯場へ行ったのはその足でだ。
雨は小止みになっている。それでも誰も外に出ていない。板の間に13人が座って、道具の手入れをしていた。手入れの要らない道具まで拭いている。
隅の棚に麻布の包みがある。
オッタが置いていった道具だ。鑿の入っていない袋と、石の粉のついた前掛け。誰も触っていない。
木槌だけがそこにない。
河原で石を叩いたあと、俺が持ち帰って、館の道具箱の上に置いたままにしている。返しに来る気にならなかった。
俺は包みの前に立って、結び目を解かなかった。解いたところで、中の道具は俺の手には合わない。合わないものを握って、握った気になるのがいちばん悪い。
「棟梁」
ヨナスが言った。
「二代目、材は寄せときますか」
「まだ決めていない」
「決まってからだと、遅くなります」
「遅くなる」
「じゃあ、寄せときます。使わなかったら、薪にすればいい」
誰も俺の顔を見ていなかった。見ずに、全員が手を動かし始める。
俺は板の間の端に腰を下ろした。
腰を下ろして、13人が布で道具を拭く音を聞いていた。金気の音と砥石の音。誰かが鼻をすする音。
この場所は飯と乾いた寝床で人を集めた場所だ。集めるときには理屈があった。人が居着けば工程が縮む、と俺は計算して、計算どおりになった。
いま、その13人が、要らない手入れをして俺を待っている。
計算に入っていなかったのはこれだ。人は工程が止まっても居る。居て、こちらが立つのを待つ。待たれているあいだ、こちらは立たないでいることもできる。
できるがそのぶんの日当は、俺の借りに乗り続ける。
*
3日目の夜、俺は図面を出した。
道具箱の底に、東支流の仮橋の図が入っている。脚の位置と桁の長さ。床の張り方と養生の日数。すべて俺の字で書いてある。
養生の欄だけが二重になっている。8の上に4が重なって、消しきれなかった丸みが下から透けていた。
俺はその紙を囲炉裏の縁まで持っていった。
火はまだ熾っている。ピムが熾していったやつだ。
*
紙は湿っていた。
3日の雨で、この家の中のものはすべて湿っている。板も藁も紙も。
俺は端を火に近づけた。近づけたところで、紙が焦げるより先に湯気が上がった。
湯気は焦げ臭くない。ただの水の匂いだ。
俺はもう少し近づけた。
火の粉が一つ跳ねて、紙の上で消えた。消えた跡に、小さな黒い点が残る。
*
そこで手が止まった。
止めたのではない。止まった。
指が動かない。焼くという判断は頭の中で出ているのに、腕から先がその判断に従わない。
俺は膝の上に紙を戻した。
戻した手の甲に、囲炉裏の熱が残っていた。熱は残っているのに指の先は冷たい。
屋根の上で雨が鳴っていた。
*
雨の音を聞いていると体のどこかが縮む。
縮む場所は毎回同じだ。喉の下の、鎖骨のあいだのあたり。そこが冷えて、息が浅くなる。
理由を考えようとして、やめた。
考えた先に何かがあるのは分かっている。分かっているのに、そこへ行こうとすると、頭が別のことを始める。工程表。材の数。台帳の欄。数えるものを勝手に探しにいく。
俺は膝の紙を握った。握って、皺になったのを掌で伸ばした。
*
イルザが来たのは、雨の上がった翌日だ。
彼女は梯子を上がってきて、板の間に組合の帳面を置いた。置いて、俺の顔を見るなり言った。
「ひどい顔だね」
「そうか」
「そうだよ。で、話は3つある」
「怒るのは、そのうちのどれだ」
「今日は入ってない」
イルザは帳面を開いた。
「1つ。桁は上げた。使える材は7本。組み直せば、二代目に回せる。2つ。市の後の荷は、沼を回って全部運んだ。うちの若い衆が2日徹夜した」
「銭は」
「あんたの借りに足した。242から248」
*
「3つ目は」
「返しの話だよ」
彼女は指で帳面の欄を叩いた。
「初年度の納めが220石。納めたあと、半分返す約束だ。あんたが橋を架けるのをやめると、道が死ぬ。道が死ぬと、うちは248を取りはぐれる」
「脅しか」
「催促だよ。脅しはもっと安い言い方をする」
イルザは帳面を閉じた。閉じてから、初めて声の高さが変わる。
「あの子の家には、あたしが行った。母親は泣かなかったよ。泣かないで、あの子が貯めた4タレルを返しに来た。組合から預かった金だからって」
「受け取ったのか」
「受け取ってない。押し問答して、置いてきた」
彼女は立ち上がった。
「あんたが橋を架け直すのは、あの子のためじゃない。あたしの248のためだ。そう思っておけば、当分は動ける」
*
ブルーノが来たのはその晩だった。
老人は梯子の下から声をかけて、上がってこなかった。俺が降りると、返事も待たずに歩き出す。歩くのが速い。ついてこいということらしい。
連れていかれたのは村の南の端だ。
抜かなかった低地。葦の原。ブルーノの言うところの堀。
「わしの堀の話には、続きがある」
老人は泥掻きの先を水に浸けた。
「話してくれ」
「話す。あんたが聞ける状態かどうかは、知らん」
*
「わしが16のとき、大水が出た」
老人の声はいつもと同じ高さだった。
「沼の民は堀を信じとる。水が出ても、堀が受ける。受けとるあいだに高いところへ上がればいい。わしもそう教わって、そう信じとった」
「その年は」
「受けた。ちゃんと受けた。堀は仕事をした」
そこで一拍、間があいた。老人の息が一度だけ深くなる。
「だが、上の村には堀がない。あそこは平らな土地でな。わしは、堀が受けとるから大丈夫だと思って、走らんかった」
「走れば」
「間に合った。半刻で行ける距離だ」
「知らせに行かなかったのか」
「行かんかった。行かんかった理由も、ちゃんとあった」
老人は水面を見たまま言った。
「その日、うちの村も水が来とった。年寄りを高いところへ上げにゃならん。手が要る。わしは、目の前の手を優先した。それは間違いじゃない」
「間違いじゃない」
「間違いじゃないことをして、8人死んだ。そういうことが、この世にはある」
*
老人は水から先を引き上げた。
落ちた雫が葦の根元で音を立てる。
「8人だ。うちの2つ下の妹も、そこに嫁に行っとった」
俺は何も言えなかった。
言葉を探す癖がこういうときにいちばん役に立たない。探しているあいだに時間が過ぎて、過ぎた時間そのものが返事になってしまう。
「わしが堀を残せと言うのはな」
老人は続けた。
「堀を信じとるからじゃない。信じた日のことを忘れんためだ。残しておけば、毎日目に入る。目に入れば、あの日のわしの顔を思い出す」
*
「思い出して、どうなる」
俺はやっと口を開いた。
「どうにもならん。8人は戻らん」
ブルーノは水際から一歩下がった。
「どうにもならんが、わしは50年、郷長をやっとる。やっとるあいだ、寄合で誰かが『大丈夫だ』と言うたびに、わしは必ず一度は反対する。反対するのは癖だ。癖にしとかんと、また信じる」
老人は歩き出した。
歩きながら、こちらを振り返らずに言った。
「あんたが今日、何かを決めるとは思っとらん。決めんでいい。ただ、あんたが持っとるものを捨てるのだけはやめておけ。捨てたら、思い出す道具がなくなる」
*
館に戻って、俺は図面を広げた。
囲炉裏の火は落ちている。落ちた灰の上に紙を置いた。
焼かなかった。
焼く理由も焼かない理由も今日は出てこない。
俺は紙を丸めて、道具箱の底へ押し込んだ。
蓋を閉める。閉めた蓋の上に、オッタが置いていった木槌が載っている。
柄は俺の手には太すぎる。太いままでも握れないわけではない。




