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処刑を免れた悪役領主は目立ちたくない ~前世は土木の現場監督。黙って道と橋を直していたら、俺を捨てた王国軍が頭を下げてきた~  作者: 夜凪 蒼


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第16話「初市の音が消えた朝」

仮橋が通ったのは初市の前日の昼だ。


床板の最後の一枚を張って、俺は自分で端から端まで歩いた。歩いて、真ん中で足を止め、板の上で二度跳ねる。


音は素直だった。撓みも見込みどおりだ。


「棟梁が跳ねてる」


ヨナスが下から言った。笑い声が2つ3つ上がる。人が笑うのは現場が終わりに近いときだけだ。


*


その日のうちに、試しの荷を1台通した。


麦を6石だけ積んだ組合の車で、曳いたのはヤンだった。少年は橋の手前で一度止まり、こちらを見て、それから馬の首を叩いて進んだ。


渡り終えて、振り返る。


「棟梁。真ん中、少し柔らかいですね」


「柔らかい。仮橋だからだ」


「本橋にするときは、脚を足すんですか」


「足す。春の水が引いたらな」


「じゃあ、それまではおれが数えます」


「何をだ」


「渡った車の数です。渡した数が分かってれば、どこが草臥れてるか分かるでしょう」


*


その晩、俺は橋詰に立て札を打った。


板に炭で書いた。車1台は麦8石まで。前の車が向こうへ上がりきるまで次を橋に乗せない。


書いてから、しばらくその板を見た。


目立たないでいるつもりだった。その男が橋詰にいちばんよく見える大きさで自分の字を立てている。


書いてあるだけの決まりが、明日の朝に効くかどうかは分からない。効かせるためには、誰かが橋詰に立って止める必要がある。


俺は橋詰に立つ人間を決めなかった。


決めなかった理由を、いま思い出そうとすると出てこない。人手が足りなかった。俺は本流の橋のほうにも顔を出す必要があった。理由なら並べられる。並べられるがどれも決めなかったことの言い訳にしかならない。


*


初市の朝は暗いうちから始まる。


東の3つの村から、荷が動き出す。冬のあいだに編んだ籠。干した沼魚と燻した肉。余った種籾。それを載せた車と背負い籠が、支流の岸に集まってくる。


俺が現場に着いたとき、橋詰にはもう14台が並んでいた。


「1台ずつだ」


俺は声を張った。


張ったが朝の市の前の岸は、俺の声よりずっとうるさい。


*


橋詰の立て札の脇に、カスパーが立っていた。


流民の男は誰にも頼まれずにそこにいた。腕を横に伸ばして、2台目の馬の鼻先を押さえている。


「1台だ」


低い声だった。声を張らない男だから、荷主には届かない。


「どけよ」


2台目の男が言った。


「あんた、村の者じゃねえだろう」


カスパーは腕を下ろさない。下ろさないまま押され、荷主は馬の首を回して腕の下をすり抜けた。


俺はそれを橋の上から見ていた。見ていたのに、間に合う場所にいない。


札に書いてあるのは俺の字だ。書いた俺が橋詰に立っていない札を、誰が守る道理もない。


*


市の朝の人間は急ぐ。


急ぐ理由は正しい。朝いちばんに並べた荷から売れる。日が高くなるころには買い手の銭が尽きる。半日遅れれば、値は半分になる。


先頭の車が橋に乗った。乗って、真ん中に差しかかったとき、2台目が橋詰から動き出した。


「止まれ」


俺は走った。


走りながら、3台目がもう車輪を回しているのが見えた。3台目の男は俺を見ていない。前の車の背中しか見ていない。


*


音が変わったのは、2台目が真ん中に近づいたときだ。


床板の鳴りではない。もっと下から来る、鈍い音だった。


脚だ。


上流側から2本目の脚が砂に沈んだ。沈んだといっても、目に見えるほどではない。指の幅ほどだ。


指の幅で足りる。


桁の端が脚の受けから外れ、そこから先は、押さえるものが何もなくなった。


*


橋が折れた。


真ん中から下流側へ、紙を畳むように落ちた。


2台の車と、馬が2頭と人が5人。落ちた先は膝ほどの水でその下が砂だ。落ちるだけなら死なない深さだった。


死ぬのは上から物が来るときだ。


*


俺は岸を駆け下りて、水に入った。


冷たさは分からなかった。感じている暇がなかったのだと思う。


先に上がってきたのは村の男が2人。次に馬が1頭。自分で立ち上がって、岸へ向かって水を蹴った。もう1頭は腹を横にしたまま動かない。


車が2台、折り重なっていた。


その下から、掛矢の柄が出ていた。


*


「持ち上げるな」


俺は叫んだ。


「上げると下がずれる。横だ。横に引け。縄をかけろ」


誰かが縄を投げてよこした。俺は水に潜って、車の轅の下へ腕を差し込んだ。指の先が布に当たる。布の下に肩がある。


肩の位置を確かめて、俺は自分の手を止めた。


肩から下が車の下敷きになっている。


「もう1本だ。轅の下に、板を噛ませろ。てこにして、水平に」


板が来るまでのあいだ、俺は少年の顔を水の上に出しておいた。


*


出したときにはもう息をしていない。


俺は口の中の砂を掻き出して、胸を押した。押しながら数を数える。押す回数を数えるのは体が覚えている手順で、そのときの俺は自分がそれをやっていることに気づいていない。


30。60。100。


水は流れ続けていた。人の声が遠くで動いていた。俺の膝の下で砂が逃げていく。


誰かが俺の肩を掴んだ。


「棟梁」


俺は手を止めなかった。


「棟梁。もういい」


*


引き上げられたとき、ヤンの右手はまだ掛矢の柄を握っていた。


指を開かせるのに、大人が二人がかりだ。


俺はその作業を見ていた。見ながら、自分の指の腹に、少年の肩の布の感触が残っているのに気づく。濡れた麻の目の粗さ。それだけがいつまでも消えない。


雨は降っていなかった。


降っていないのに、耳の奥で雨の音がしていた。


*


体は戸板に乗せて、村へ運んだ。


担いだのは馬借の若い衆が2人とヨナスだ。ヨナスが前を持ち、村の入口まで一度も足を止めずに歩いた。


戸板を下ろしてから、ヨナスは俺のほうを向く。


向いて、何も言わずにまた下を向いた。


「言いたいことがあるなら言え」


「ないです」


「あるだろう」


「あります。けど、いま言うと、おれが楽になるだけなんで」


若い男は自分の手の甲を見ていた。轅の縄で、掌の付け根が裂けている。


「言え」


「……札、おれが立ってればよかったんです。棟梁が本流に行くって言ったとき、おれが橋詰に残りますって言えばよかった」


「それは俺が決めることだ」


「決めなかったのは棟梁でしょう」


言ってから、ヨナスは口を押さえた。押さえた指のあいだから息が漏れている。


俺はその言葉を、正しいものとして受け取った。受け取るほかにやることがない。


*


市は開いた。


開かないという選択肢がこの土地にはない。冬に作った物を売らなければ、春の種籾が買えない。


だが荷の半分は支流の向こうに残った。


沼を回った荷が着いたのは昼過ぎで、そのころには買い手の銭が尽きている。籠は値の3分の1で売れ、沼魚は売れずに持ち帰りになった。持ち帰った魚はその日のうちに食うしかない。


市の広場は泥だ。人の足で捏ねられた泥が、店の敷き布の端まで上がっている。


誰も俺に何も言わなかった。


言われないことがこれほど重いというのを、俺はこの日まで知らずにいた。


*


ブルーノは市の端の杭に腰かけていた。


老人は泥掻きを持っていない。手ぶらの膝の上で、指だけが柄の形に丸まっている。


俺は3歩手前で止まった。何を言いに来たのかを、自分でも決めていない。


「言うと思っとるのか」


老人が先に口を開いた。


「言われても仕方がない」


「言わん」


ブルーノは杭の上で膝を組み替えた。


「わしがいま『だから言うたろう』と言えば、あんたは楽になる。叱られた人間は、叱られたぶんだけ荷を下ろす。下ろさせるわけにいかん」


「厳しいな」


「厳しくない。わしは、あの子の家に行かにゃならん。行って、郷長として頭を下げる。頭を下げる役の人間が、あんたを叱ってやる筋合いはない」


老人は立ち上がった。立ち上がってから、初めてこちらを正面から見た。


「1つだけ言う。あんたは、あの札を誰かに守らせる算段をせんかった。次に何か決めるときは、そこまで決めろ」


*


イルザは橋のところにいた。


彼女は落ちた桁に縄をかける算段をしていた。組合の馬を4頭連れてきて、若い衆に引き上げの手順を指図している。


俺が近づくと指図を止めた。


止めて、こちらを見た。


「すまない」


言ったのは俺だ。


彼女は縄を持ったまま、少しのあいだ黙っていた。


「それを言うのは、あたしにじゃない」


*


「怒っていい」


「怒るよ。あとでね」


イルザは縄の端を若い衆に投げた。


「今日は荷を動かす。明日は桁を上げる。あの子の家に行くのは、その次だ。順番を間違えると、あたしが動けなくなる」


「順番を決めているのか」


「決めるよ。決めないと、こういう日は立ってられない」


彼女は馬の腹帯を締め直した。締めた手を、そこに置いたまま動かさなかった。


*


桁を引き上げたのは翌日の夕方だ。


馬4頭と人が11人。カスパーが轅の下に板を噛ませる役をやった。昨日、俺が水の中でやったのと同じ手順を、この男は誰にも教わらずにやっている。


「どこで覚えた」


「堤の普請でやった」


「あんたの村の堤か」


「そうだ」


男は板の位置を直しながら答えた。


「あの堤も、急がされとった」


俺は縄を握る手を止めた。


「聞いていいか」


「よくない」


カスパーは板を噛ませ終えて、立ち上がった。


「聞かんでいい。あんたは、もう分かっとる」


*


俺は河原に一人で残った。残る必要はない。誰も残れとは言わなかったし、飯場では誰も俺の顔を見なかった。


引き上げた桁が河原に横たえてある。


俺はその上に手を置いた。濡れた木の匂いと砂の匂いがする。


*


脚から外れた側の端に、脚の受けの跡が残っていた。


跡は浅い。石に載っていた時間が短いと、受けの跡はこうなる。


俺は木槌を取ってきて、脚の石を叩いた。


引き上げられて河原に転がっている、その石だ。


音がした。


低い音ではない。乾いた、砂の混ざった音だった。


俺はもう一度叩いた。石を四半寸だけずらして、また叩く。音は変わらない。


冬の河で教わったとおりの手順だ。教わったとおりにやれば、教わったとおりの答えが返ってくる。


座っていない音だ。


4日前の俺の耳には、その音が聞こえていなかった。

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