第14話「桁に残った古い傷」
ミュラー瀬の橋は、思っていたより残っていた。
落ちた橋というから、脚だけが河に立っているものを想像していた。うちの河の百年前の杭がそうだ。
そこにあったのは違う。
脚は4つとも立っていた。立ったまま、その上に載っていた桁が、河の下流側へ折り重なって沈んでいる。冬で水が痩せているので、黒い材の背が半分ほど水の上に出ていた。
*
「脚は生きとる」
オッタが最初に言ったのはそれだ。
「桁だけが落ちたのか」
「落ちたというより、外れた」
男は岸から水際へ下りて、いちばん手前の脚に手を当てた。石積みの目地を指でなぞり、途中で止めて、また撫でる。
「据えは悪くねえ。20年前に落ちた橋の脚が、これだけ立っとるなら、組んだやつは下手じゃねえ」
「なら、なぜ落ちた」
「それを見に来たんだろうが」
*
瀬のそばには村があった。
家が9軒。そのうち3軒は屋根が落ちて、梁だけが残っている。人の住んでいる家の前には薪が積んであり、積み方が古い。今年割った薪の色ではなかった。
犬が1匹出てきて、俺たちを見て、吠えずに戻っていった。
「よそ者が珍しくないのか」
「珍しすぎて、吠える気にもならんのだろう」
火のそばに老人が一人いたので、俺は橋のことを訊いた。
「20年前だ」
老人は答えた。
「秋の大水でな。夜のうちに、どんと音がした。朝には桁がなかった」
「渡しは」
「はじめの2年はやった。それで食えた。だが荷が来んようになった」
「なぜだ」
「上に関ができた。関を通る道のほうが確かだというんでな。うちの瀬まで下りてくる荷が、年ごとに減った」
老人は火に手をかざした。
「橋が落ちて村が死んだんじゃない。落ちた橋を、誰も架け直さんかったから死んだんだ」
*
俺たちは半日かけて、沈んだ桁を1本ずつ検めた。
長い材が7本。うち3本は水を吸って重く、引き上げるのは無理だった。残り4本は上に載っているだけで、縄をかけて岸へ寄せられる。
石は脚の周りと、下流の淵に転がっていた。オッタは1本ずつ叩いて回り、音の低いものだけを橇の脇へ寄せていく。
「12本は楽に出る」
「よかった」
「よくねえ」
男の声が変わっていた。
*
オッタは水に膝まで入って、桁の1本の端に手を伸ばしていた。
「棟梁。長靴を履け」
俺は履いて入った。冬の水はこの前より痛くない。慣れたのではなく、痛みの場所を体が覚えただけだ。
男の指が桁の根元を押さえていた。
材の端、脚に載っていたはずの部分だ。そこに切り込みがある。
木が裂けた口ではない。裂けた口は繊維がささくれて、縁が毛羽立つ。この切り込みは縁が真っ直ぐで、底に一定の面がある。
刃物の入った跡だ。
*
「古いな」
俺は言った。
切り口の面は黒くなっている。木は切られた面から色が変わる。落ちてから水に浸かった時間だけでは、この黒さにならない。
「落ちる前に入っとる」
オッタが言った。
「どのくらい前だ」
「分からん。季節ふたつか、1年か。ただ、落ちた日についた傷じゃねえ」
俺は指で面をなぞった。なぞってから、桁のもう一方の端へ回った。
反対側にもある。
*
俺は水から上がって、河原に座った。
座って、両方の端の形を炭で描いた。描くと分かることがある。頭の中だけで考えていると、二つの傷を「似ている」で済ませてしまう。
似ているのではない。同じだ。
同じ人間が同じ道具で、同じ手つきで入れている。
「これは水が作る形じゃない」
「作らん」
オッタは俺の隣に立ったまま、河を見ていた。
「川の流木が当たったなら、当たった側だけが傷む。両端に同じものが入るのは、当てたんじゃなくて、入れたんだ」
*
俺は橇の縄を解かせて、傷の入った桁を1本、石の上に積ませた。
「使うんですか、それ」
ヤンが訊いた。少年は掛矢を肩に担いだまま、濡れた材を胡散臭そうに見ている。
「使わない」
「使わないのに運ぶんですか」
「蔵の奥にしまう。誰にも見せるな」
「見せないのに、持って帰るんですか」
「見せる日が来る」
ヤンは首を捻った。捻ったまま縄をかけ直して、手を止めずに続ける。
「姐さんが、この橇は帰りに洗えって言ってました」
「泥か」
「いえ。運んだ物の分だそうです。何を運んだかは訊かないから、洗えって」
この年頃は納得しないまま手を動かすのが上手い。
使わない材を運ぶのは無駄だ。無駄でないものだけを運んでいると、証拠は全部河に残る。
*
俺は自分の炭の線を見た。
見ながら、順番を組んだ。
桁の根元に傷を入れる。すぐには落ちない。橋は使える。使えるうちは誰も見に来ない。そして、大水が出る。
出た日に、傷の入った桁が外れる。
橋が落ちる。落ちた橋を検分に来た役人は、脚が立っていて桁だけが外れているのを見て、こう書く。流木が当たった、と。あるいは古くなった、と。
「自然に落ちた橋、と呼ばれるわけだ」
俺は口に出した。
出してから、口に出したことを少し後悔した。言葉にすると、それが本当のことになった気がしてしまう。
*
オッタは長いこと黙っていた。
黙ったまま、橇に寄せた石を数え直している。数える手つきがいつもより速い。
「棟梁」
「なんだ」
「俺は昔、王都の営繕にいた」
男は石から手を離さずに続けた。
「石工の親方の下について、12年やった。宮も櫓も橋も手にかけとる。上手いほうだと自分で思っとってな。思っとったから、口を出した」
「何に」
「橋だ」
*
オッタは石を一つ持ち上げて、また置いた。
「詳しくは言わん。言うと、あんたが背負う」
「聞いた話は背負う」
「背負い方を選べる話と、選べん話がある。これは選べん」
男は袖で顔を拭った。水がついていたのだと思う。冬の河から上がった手で拭えば、余計に濡れるだけだ。
「口を出して、破門された。石工の看板を取り上げられて、王都から出た。それが22年前だ」
「それから」
「流れた。あちこちで石を積んで飯を食った。積みながら、橋を見た」
*
「見て、どうした」
「落ちると思った橋があった。2つ」
オッタは指を2本立てた。
「言った。誰にでもは言わん。橋を持っとる役所に、書いて出した。返事はない」
「落ちたのか」
「1つは3年後だ。もう1つは、7年待った」
男は立てた指を下ろした。
「7年待つと、人は忘れる。忘れたころに落ちる。落ちれば、あれは古かったからだ、で終わる」
「書いて出した相手は誰だ」
「橋を持っとる役所だ。それ以上は言わん」
「言えないのか」
「言わんと決めとる」
オッタは石の粉のついた手を膝でこすった。
「棟梁。俺が黙っとるのは、あんたを庇っとるからじゃねえ。俺が言うと、俺の恨みの話になる。恨みの話になると、その先が誰にも信じられんようになる」
俺は頷いた。理屈は分かる。分かるがこの男が20年その理屈で口を閉じてきたことのほうが重い。
*
俺は河の水面を見ていた。
見ていると、頭の中で数がひとりでに並び始める。
橋が落ちる。道が死ぬ。道が死ねば、その道を使っていた荷は別の道へ行く。別の道には関があり、関には料がある。
麦100石につき銀8タレル。うちの220石で17タレルと少し。それがこの国のどれだけの荷に掛かっているのかを俺は知らない。知らないが掛ける相手が増えれば増えるほど、掛けている側は豊かになる。
「金の話に見えるか」
オッタが訊いた。
「見える。だが、金だけならもっと下手にやる」
「どういう意味だ」
「金だけなら、落とさずに脅す。落とした橋からは、もう何も取れん」
*
橋を落として道を潰し、荷を一本の道へ寄せる。寄せた道を自分の手で握る。握ったものはいざというときに動かせる。
俺はそこまで考えて、自分の座っている場所のことを思い出した。
シュラム郷。水面より低い泥の飛び地。廃れた旧街道の、河で切れているところ。
その口に俺は置かれている。
*
置かれた理由を、俺は「厄介払い」だと思ってきた。
手抜きの堤で村を沈めた男を、殺す代わりに、いちばん役に立たない土地へ流す。誰も損をしない処分だ。そう読んで俺は納得していた。
納得していたのは、俺が自分を罪人だと思っていたからだ。
罪人の頭は自分に下される罰の理屈を疑わない。
杖の柄の刻みを、俺は指でなぞっていた。歩数と水の高さを測るための目盛りだ。なぞる指がいつのまにか同じ場所を三度往復している。
指を止めた。止めたところで、考えのほうは止まらない。
腑に落ちることがもう一つあった。
この土地の請負は3年で800石だ。畑の6割が水の下にある郷に、3年で800石を課す。届くと思って課した数字ではない。届かない数字を課しておけば、代官は3年ごとに入れ替わる。入れ替わり続ける代官は道を直さない。
だが口を塞ぐのに人を置くなら、置くべきは何もしない人間だ。何もしない人間を置いておけば、その道は10年でも20年でも死んだままでいる。
「なあ、オッタ」
「なんだ」
「俺がここへ流されたのは、何もしないと思われたからかもしれん」
*
オッタは何も言わなかった。
言わずに橇の上の石を並べ直し、並べ終えると、河原の平たい石に炭を置く。
「6つだ」
「何が」
「落ちたのを、あと6つ知っとる。ここのを入れて7つ」
男は炭で線を1本引いた。2本。3本。手が止まらない。6本目まで引いて、そこで炭を持ち替えた。
線は等間隔で、どれも同じ長さだった。
*
俺はその6本を見ていた。
20年で7つ。3年に1つだ。多いのか少ないのかを判断する材料を俺は持っていない。国中に橋がいくつあるのかも知らない。
知らないが7つのうち2つは、この男が落ちると言った橋だ。
3年に1つは遅い。金だけが欲しい人間は、その速さで我慢しない。待てるのは待つ理由が金より先にある人間だ。
「全部、同じ傷か」
「確かめたのは3つだ。あとは話で聞いた。話じゃ足りん」
「足りないなら、確かめに行くしかないな」
「春になったらな」
オッタは炭を持った手を、6本の線の外側へ動かした。
そこに、短い線を1本だけ引いた。ほかの6本より半分ほどの長さだ。
「これは落ちてねえ。落ちてねえだけだ」
*
石を積み終えたのは、日の落ちる直前だった。
12本のうち橇に載ったのが9本。残る3本は淵の底に沈んだままで、春の水が動かしてくれるのを待つほかない。
「3本足りんな」
オッタが言った。
「足りないまま作る。袂の石垣を、3本ぶん短くする」
「短くしたところは弱いぞ」
「弱い。だから台帳に書く。どこが弱いかを先に書いておけば、次に見る人間は最初にそこを見る」
帰りの橇は重い。雪の上に深い筋を2本残して、暗くなった道をゆっくり進む。
俺は最後尾を歩いた。
河原に引いた6本と、その外側の短い1本は炭だ。次の雨で消える。
消えても橇の上には材が載っている。




