第10話「潜って耐えるという流儀」
開通は33日目の朝と決めてあった。
決めた側の都合を水は聞かない。
32日目の夕方、橋詰の量水標が動き始めた。朝の読みは5だ。日暮れに見にいくと7になっている。2尺上がるのに半日かかっていない。
俺は杭の前にしゃがんで、目盛りの縁に指を当てた。木肌が濡れている。濡れた跡の上端と、いまの水面の高さが合っていない。
上がって、少し下がって、また上がろうとしている。
「棟梁、雪はまだ降っとらんですよ」
ヨナスが後ろから言った。手には鍬ではなく、記録用の板を提げている。
「雪じゃない。山で雨が降ってる」
「山で降ったら、ここまで来るんですか」
「来る。それと、暖かい」
俺は掌を上に向けた。風がぬるい。この時季の風にしては明らかにぬるい。山の残雪がこの風で緩めば、雨と一緒に落ちてくる。
*
「これは雪解けか」
オッタが河原に降りてきて、俺の隣に立った。
「違う。雪解けはまだ先だ。まだ山の上が全部凍ってる」
「じゃあ何だ」
「冬のうちの、いっとき出る水だ。3日か4日で引く。俺の見立てでは、ここまでは来ない」
俺は杭の目盛りを指で押さえた。20のあたりだ。
「来ないというのは、どこまでだ」
「20は超えん」
オッタは黙って杭の上のほうを見た。目盛りは40まで刻んである。橋の桁の天端が8。つまり刻みの上の32ぶんは、桁より上の水を読むためにある。
「なんで40まで刻んだ」
「百年前の橋の脚に、水の跡が残ってた。いちばん上の跡が、ここでいう40だ」
「そこまで来るのか」
「来た年がある。だから刻んだ」
*
夜のうちに水が桁を越えた。
朝、河原に立つと橋がない。
昨日まで河を横切っていた黒い線が、まるごと消えている。水面には泥色の渦と、上流から流れてきた枝の束が浮いているだけだ。
村の連中が畦に並んでそれを見ていた。
誰も何も言わない。言わないというより、言うことがない。ひと冬かけて架けた物が、一晩で見えなくなっている。
「言うたろうが」
ブルーノの声が後ろから飛んだ。老人は泥掻きを担いだまま、こちらを見ずに水面を見ている。
「言うた。低い橋なら水に負けると」
「負けてない」
「見えんぞ」
「見えないだけだ」
*
俺は量水標の読みを板に書いた。
11。桁の天端が8だから、桁の上に3尺の水が乗っている。俺の見立ての20には遠い。
「見えんもんを、どうやって見えてると言い張るんだ」
ブルーノが振り向いた。
「橋は水を受けてない。水は橋の上を通ってる。受けてないものは壊れない」
「屁理屈だ」
「屁理屈だが、屁理屈が正しければ橋は残る」
老人は言い返さなかった。畦の枯れ草の上に腰を下ろして、それきり口をきかない。帰る気はないらしい。
畦にはヨナスの母もいた。ピムもいる。ピムは板に数字を書きつけては、俺の顔を見上げてくる。
「棟梁。おいら、これ、何回書けばいいの」
「四半刻に一度だ。日が暮れるまで」
「暗くなったら」
「暗くなったら書かなくていい。杭に近づくな」
*
その日、俺は畦に座って河を見ていた。
やることがない。というより、やってはいけないことしかない。増水中に橋を見に行きたくなるのは普請をやった人間の病だ。その病で流された男が何人いたか、指のほうが先に数え始める。
見ないで済ますために俺は台帳を開いた。
炭で罫を引いて、上から順に構造物の名を書く。悪水路三筋。仮桟橋と荷揚げ道。沈み橋。それぞれの脇に、工期と、通す前と通したあとの日数を書く欄を作った。
沈み橋の欄はまだ後ろが空いている。
「何を書いとる」
ブルーノが覗き込んだ。
「何をいつ直して、それで何がどう変わったかを書く帳面だ」
「そんなもん書いてどうする」
「10年後にここが緩んだとき、どこから緩んだかを考える人間が要る。そいつが読む」
「あんたじゃないのか」
「俺が死んでたら困る」
老人が枯れ草を一本抜いた。抜いてから口に咥えるまでがやけに長い。
「縁起でもないことを、平気な顔で言う男だな」
*
日が傾くころ、カスパーが畦に来た。
流民の男は俺の三間ほど手前で足を止めて、河を見た。手には何も持っていない。仕事の刻限ではないので、ここへ来る用はないはずだ。
「水が横へ逃げとる」
低い声だった。
「どこだ」
「南の端。堤の切れとるところから、堀のほうへ」
俺は立ち上がって、指された方角を見た。畦の向こうで水が薄く広がり、葦の間へ入っていくのが分かる。あそこは設計のときから抜くつもりのなかった低地で、つまりブルーノの堀の一部だ。
「あれでいい。抜けきらん水は、堀に持っていってもらう」
カスパーは頷きも否定もせず、そのまま踵を返した。
3歩ほど行ってから、背中で付け足した。
「あの村も、堤の南から切れた」
俺は返す言葉を探した。探しているうちに、男は畦を下りていった。
*
ブルーノは枯れ草の上から動かない。
「聞いたか」
「聞いた」
「あいつは4年、あの話を人にせんかった」
老人は咥えていた草を吐いた。
「わしは堀を残せと言い続ける。あんたが三筋しか抜かんかったから、今日の水は逃げ場を持っとる。次に抜きたくなったときは、わしのところへ来い」
「来る」
「来ると言うやつは来ん。だから毎回、わしのほうから言う」
*
水が引き始めたのは翌日の昼過ぎだ。
引き際は上がるときより速い。夕方には量水標が9になり、日が落ちるころに8を切った。桁の天端が水の上に出る。
出たところがまず黒く見えた。泥をかぶっているからだ。
朝になって、俺とオッタは橋の上を端から端まで歩いた。
床板は泥で滑る。滑るが板は1枚も飛んでいない。継ぎ目の楔を1つずつ叩いて回り、音を聞いた。浮いた音が3か所。締め直せば済む。
脚の根元も潜って見た。冬の水は相変わらず痛い。上流側の根固め石が2つ動いていたのでそれは並べ直した。
「思ったより動いてねえな」
オッタが水から上がって言った。唇が紫だ。
「動いたのは、去年据えた石じゃない。百年前の石だ」
「古いのが先に動く。理屈に合っとる」
「合ってる。合ってるのに、俺は去年の石が動くと思ってた」
*
村の連中が橋の泥を掃きに来たのは、その日の午後だった。
誰が呼んだわけでもない。箒と板と、藁束を持った女たちが十人ばかり来て、床板の泥を河へ落としていく。落とすと木の色が出る。
出たところから、村の子どもが走って渡り始めた。
止めようとして、俺はやめた。子どもの目方なら床板は鳴りもしない。
ヨナスの母が箒の手を止めて、床板を長靴の底で二度踏んだ。踏んで、何も言わずにまた掃き始める。
俺はそれを見ていた。何かを言われたわけではないので、こちらも何も言わない。
言わなかったがひとつ思い違いに気づいた。あの人たちが掃いているのは、橋が使えるようにするためではない。橋がまだあることを、自分の足の裏で確かめている。
*
イルザの荷が来たのは、泥を掃き終えた翌朝だ。
駄馬が22頭。荷車が3台。渡し場の側にはもう舟がなく、荷は列を作って橋詰で止まっていた。
「通していいのかい」
「通せる。ただし、車は1台ずつだ」
「なんでさ」
「並べて乗せると、床板の同じところに荷が集まる。1台通って、次が橋詰まで来てから、次を出せ」
イルザは列のほうを見た。それから、俺のほうへ首を戻した。
「その決まりは、誰が決めたんだい」
「いま俺が決めた」
「明日には忘れてるやつだね」
「忘れないように書く」
*
先頭の荷車が橋に乗った。
車輪が床板を踏むと、低い音が河の上を渡っていく。橋の真ん中で音が変わった。板が撓んでいる。撓むように作ってあるのでそれでいい。
そのあとに駄馬が続いた。列は途切れずに動き、渡り終えた馬が対岸の取付道を上がっていく。
俺は橋詰に立って、通る数を板に書いた。
書きながら、時のほうも見ていた。先頭が橋に乗ってから最後の馬が対岸に上がるまで、日の傾きで四半刻と少し。
渡しの時代なら、この荷は3日待ちだ。舟は一艘しかなく、増水と舟の傷みで秋と冬は月に10日は動かない。
「三日待ちが、半日だね」
イルザが横に並んで言った。
「半日もかかってない」
「そこは半日って言っときな。そのほうが、聞いた相手が覚える」
*
その晩、イルザは館に上がってきた。
上がるなり、板の間に組合の帳面を置いた。俺の台帳の横に並べる。並べてから、彼女は座らずに立ったままだった。
「そろそろ、こっちの帳面と合わせようか」
「合わせるものがあるか」
「あるよ。あんた、自分がいくら使ったか言えるかい」
俺は言えた。橋の分なら言える。材と手間で銀21タレル。だから残りは8タレルだ。
「その8タレルで、三筋を掘った25人には何を払ったんだい」
口を開いて、閉じた。
「日当6クロイツ。41日。25人。うち銭を取らないのが1人」
「言ってごらん」
「……196タレルと、少し」
「麦と塩がその上に乗る。飯場の麦は北の村から回した。51斗ぶん。塩はうちの蔵の残り。合わせて22タレル」
イルザは帳面を指で押さえた。
「締めて218タレル。全部、うちが立て替えてる」
*
俺は台帳の一行目の上に、罫をもう一本引いた。
引いた欄に借入と書いた。
「利はどうする」
「年に1割5分。組合の掟の並みだよ。あんただからって負けない」
「1年で32タレルと少しか」
「そう。返しは2年。初年度の麦を納めたあと、まず半分」
「担保は」
「二つ。初年度の220石の運びは全部うちがやる。それと、旧街道が通ったら、通行はうちの荷を先にする」
*
俺は炭を持ったまま、少し考えた。
考える材料はあった。並べれば3つは出る。3つ並べたところで、ほかに銭の出どころがないのは変わらない。
「呑む」
「即答だね」
「呑まないと工事が止まる。止まると、この冬に麦の運びの目処が立たない」
「あんた、そういうところが気味悪いんだよ」
イルザは帳面を閉じて、腕の下に挟んだ。
「言っとくけど、これは商売だからね。あんたが潰れたら、うちは218タレル取りはぐれる。だからうちは、あんたを潰さないように動く。恩じゃないよ」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
彼女は梯子に足をかけて、そこで一度だけ振り返った。
「返せなかったら、あの橋はうちのものだ。橋ごと、道ごと」
*
俺は台帳に借りの額を書いた。
銀218タレル。一行目に借金が来て、二行目にその日渡った荷の数が来る。
館の壁には沙汰書が貼ってある。3年で麦800石。その隣に、いま書いた紙を並べて掛けた。
どちらも俺が手を動かさなければ減らない紙だ。
床下で水が鳴っている。引いたはずの水が、まだどこかを流れている音がする。




