第9話「石の目、水の癖」
冬の河に入るというのは、痛みを買いに行くことだ。
膝から下の感覚が、数えて30ほどで消える。消えたら上がる。上がって火に当たって、また入る。オッタはそれを「四半刻で交代」と決めて、砂時計代わりに縄の結び目を使った。
「棟梁。あんたは入らんでいい」
「入る」
「代官が凍え死んだら、俺らが吊るされる」
「凍える前に上がる」
*
3番目の脚の根元を掘ったのは入水4日目だった。
石の根が思ったより深く洗われていた。オッタが手で探って、俺が杖の刻みを当てて数える。上流側で2尺と少し。下流側は1尺。
「食われとる」
「上流だけ深いな」
「水が斜めに当たっとるからだ。この脚は、いま河の真ん中に立ってねえ。河のほうが動いた」
俺は水から上がって、河原に図を描いた。
百年前、この脚は流れの中心にあった。今は流れの筋が村寄りに20間ほど移っている。図面どおりに桁を載せれば、載せた瞬間から、いちばん食われている脚に最大の荷がかかる。
*
「使うな、というのが筋だ」
オッタが言った。
「新しく1本立てるか」
「立てるなら、渇水のうちだ。日数が要る。あんたの工程、何日で組む気だった」
「28日」
「なら足りん」
俺は炭の先で図の上を叩いた。頭の中で日数を組み替える。新しい脚を1本立てるとなれば、掘って据えるだけでは終わらない。養生を挟んで、それから桁を載せることになる。どう詰めても8日は増える。
38日目には水が上がり始める。
*
「脚を立てずに済む方法はあるか」
俺が訊くとオッタは河を見た。
長く見ていた。首を動かさず、水面の一点を見ている。何を見ているのかが分からなかったので、俺も同じところを見た。
見ているうちに分かった。
水の色がそこだけ違う。
「あの筋か」
「そうだ。あそこに古い根固めが残っとる。百年前の連中が沈めた石が、まだ効いとる。掘り出して、上流側に並べ直せば、水の当たりが変わる」
「変えられるのか」
「変わる。ただし、当てた先が削れる」
「削れるのは」
「河原だ。畑じゃねえ」
*
俺は河原にしゃがんで勘定をやり直した。
何度やり直しても、答えは同じところに出た。
「やろう。その代わり、橋詰に量水標をもう1本立てる。削れる側の袂だ。毎年、どれだけ削れたかを読む。読んで、10年で危なくなるようなら、そのときに脚を1本足す」
「10年先の話をするのか」
「する。俺がここにいなくても、読めば分かる」
オッタは俺の顔を見た。何か言いかけて、やめた。
やめて、河へ戻っていった。
*
石を据える作業は、俺が思っていたより遅く、思っていたより静かだった。
オッタは1つの石を据えるのに、何度も持ち上げては置き直す。
「まだ座らん」
「見た目には座ってる」
「見た目で座るのは誰でもできる。石は、座るときに音が変わる」
「音」
「叩いてみろ」
俺は木槌で石の頭を叩いた。乾いた音がする。オッタが石を四半寸だけずらして、もう一度叩かせた。
音が低くなった。
「これだ。これが座った音だ」
*
その日から、俺は石の音を聞くようになった。
聞くようになったが、聞き分けられるようにはならなかった。10回に3回は外す。オッタは外すたびに何も言わずに石を戻し、また叩かせた。
「これは座ったな」
「座っとらん」
「低い音がした」
「低いのは、下の砂が鳴っただけだ。砂は3年で逃げる」
俺は木槌を握ったまま、その言葉を頭の中に書き留めた。砂が鳴る音と石が座る音は違う。違うと言われれば違う気もするが、自分の耳では区別がついていない。
45年ぶんの記憶は、こういうところで役に立たない。あの一生で俺が触っていたのは、練った灰と鉄の棒でできた構造物だ。石を1つずつ座らせて橋を渡すという仕事を、あの体は一度もやったことがない。
「棟梁は、なんで自分でやりたがるんだ」
3日目の夕方にそう訊かれた。
「分からないものを人に任せると、後で判断ができなくなる」
「判断」
「10年後にこの橋が緩んだとき、どこから緩んだかを考えるのは俺だ。石の座る音を知らない人間が考えても、当たらない」
オッタは木槌を持ち替えて、柄の尻を掌で二度叩いた。笑ったのだと、3日目にして分かるようになった。
「あんた、変わった代官だな」
「よく言われる」
*
桁を架け始めたのは17日目だ。
材はヨシと粗朶では足りない。上流から流れ着いた材を集め、足りない分はイルザに買わせた。彼女は北の村から角材を運んできて、荷を下ろすなり言った。
「値切ってきたよ。売り手が、旧街道が通るなら次も買うって言ったから」
「言ったのか」
「言った。あんたが通す前提で言ったよ」
「通す」
「なら、あたしはあんたの橋を売り歩いてるってことになるね」
彼女は自分で言って、自分で顔をしかめた。
「気に入らないなら、売らなくていい」
「売るよ。売らなきゃ角材が高いままだ」
イルザは荷を下ろした馬の腹を叩いて、それから河のほうを見た。桁の半分が渡っているのが、河原からでも分かる。
「1つ聞くけどさ。あの橋、いくらかかった」
「材と手間で、銀21タレル」
「持ってきた金は30だったろ」
「29だ。一枚落とした」
「残り8タレルで冬を越す気かい」
「越す。春には麦が播ける」
「それはあんたの懐の話さ。うちが立て替えてるぶんを、その懐から出せると思ってるのかい」
橋に使った21は、俺が持ってきた金から出ている。だが41日ぶんの日当と飯は、一度も俺の手を通っていない。組合が先に払って、返すのは俺だ。
「締めは荷が動いてからだと言ったな」
「言った。荷はもう動く。締めるよ」
彼女は口を結んで、それから吐き捨てるように言った。
「あんたみたいな計算をする男が、いちばん早く潰れるんだよ」
*
桁が半分渡ったころ、ヤンが河の中で足を滑らせた。
腰の縄が効いて、水に落ちる前に止まった。止まって、ぶら下がったまま笑っていた。
「棟梁! 縄って、ほんとに止まるんですね!」
「笑ってないで上がれ」
「はい!」
上がってきた少年は、濡れた腕をさすりながら、まだ笑っていた。17という歳は死にかけたことを笑い話にできる歳だ。
俺はその笑い顔を見て、なぜか胸の奥が重くなった。
理由は考えなかった。考えると、雨の音の話になる気がしたからだ。
*
24日目に桁が渡り終わった。
28日で組むと言った工程は、根固めの石を並べ直したぶんだけ後ろへずれている。あとは床板と取付道と養生だ。
その日、ブルーノが河原に来た。老人は橋を渡らない。袂に立ったまま、水面から桁までの高さを目で測っている。
「低いな」
「低い」
「これなら、増水で沈むというのも本当らしいな」
「言ったことは守る」
「守るだろうな。あんたは、言わんほうの嘘をつく」
意味を訊こうとして、やめた。老人は答えを持っていて、それを今日言うつもりがないときの顔をしていた。
代わりに別のことを訊いた。
「郷の者は、この橋を何と呼んでる」
「沈み橋だとよ。誰が言い出したかは知らん」
「悪くない」
「褒めとらんぞ。低いから沈み橋だ。うちの連中は、みっともないもんにみっともない名をつける」
老人は泥掻きを担ぎ直して、河原を上がっていった。上がりながら、独り言のように付け足した。
「みっともないうちは、まだいい」
俺は工程表を見て、指で日数を数えた。数えてから、オッタのところへ行った。
「養生を、7日にできないか」
オッタの手が止まった。
「9日だと言った」
「知ってる。だが、38日目から水が上がる。7日なら、その前に荷を1度通せる。1度通せば、この冬のうちに麦の運びの目処が立つ」
「立たなかったら」
「春まで待つ」
「待てばいいだろう」
「待つと、郷の連中の飯が2ヶ月ぶん遅れる」
*
オッタは石の粉のついた手で桁の端を撫でた。
「棟梁。あんた、いい人だな」
「褒めてないだろう」
「褒めてねえ。いい人が工期を詰める。悪い奴は詰めねえ。悪い奴は、詰めたら自分の首が飛ぶと知っとるからだ」
男は顔を上げた。目が笑っていない。
「9日だ」
「7日で緩む理由を言ってくれ」
「言えん。何日で緩むかは誰にも分からん。分からんから9日にしとくんだ。分からんもんに勝てると思うな」
*
俺は口を開いて、閉じた。
反論の材料はあった。並べれば3つは出る。3つ並べたところで、この男の言っていることが正しいのは変わらない。
工期を詰めるときの理屈は、いつでも立派なものだ。人が困っている。飯が遅れる。冬が来る。理屈が立派であればあるほど、詰めた分の危うさは誰の口からも出なくなる。
俺はそれを、どこかで見て知っている。見て知っているのに、たった今、自分の口から出しかけた。
「9日にする」
「そうしろ」
「その代わり、床板を先に張る。養生の9日で床板を仕上げれば、明けた日に荷が通せる」
オッタは少し考えて、頷いた。
「それならいい。それが工程ってやつだ」
指で日を送ると、開通は33日目に落ちた。28日と言った口が、5日ぶん延びている。それでも水の上がる38日目までには間がある。間が残っているうちは、まだ工程と呼んでいい。
*
その晩、俺たちは橋の袂で火を焚いた。
養生に入った石を、寒さから守るために藁で包んである。藁の匂いと湿った石の匂い。人足たちは飯場へ帰り、河原に残ったのは俺とオッタだけだった。
上流の空がうっすら明るかった。
「あれは何だ」
俺は訊いた。河の上流、丘の向こうに、点々と灯りが並んでいる。この土地には何もないはずの方角だ。
「アルヴス大橋だ」
オッタが言った。
「軍の橋か」
「王都から北の国境へ行く道の、いちばんでかいやつだ。夜通し火を焚いとる。橋の上に番所があるからな」
*
俺は灯りの並びを数えた。
7つ。等間隔で、水面のはるか上に並んでいる。ここからは橋そのものは見えないが、灯りの高さで桁の高さが分かる。
「高いな」
「高い。石造りの立派なやつだ。22年前にできた」
「22年」
「新しい橋だ。橋としちゃな」
オッタは火に枝を足した。足してから、灯りのほうを見たまま、低い声で言った。
「あれは、俺が架けてない橋だ」
*
俺は男の横顔を見た。
火に照らされて、頬の皺の一本一本が見えた。この人が今、何を思い出しているのかは分からない。分からないが訊いてはいけないことだけは分かった。
「そうか」
俺はそう言うにとどめた。
オッタは頷きもしなかった。
風が河を渡って、藁の端をはためかせる。男は立ち上がってそちらへ行き、浮いた縁を長靴の先で踏み、縄を掛け直した。背を向けたまま、手を止めずに付け足す。
「あの橋の下に、俺の名前は刻まれてねえ。刻まれてなくてよかったと、22年ずっと思ってきた」
火の粉がひとつ、上流へ流れていった。
「けどな、棟梁。あの橋を渡るときはな、俺は真ん中を歩かねえ」
「なぜだ」
オッタは縄の端を歯で咥えて、力任せに締めた。答えは朝になっても返ってこなかった。




