数え終えるまで
年始の集いの回状は、十一月のうちに出した。
三十二通ある。宛名は執事に書かせ、敬称は揃えた。去年それで角が立ったという話は聞いていない。
返事は十二月の半ばから届き始める。例年なら、暮れまでに二十通は来る。
その年は、三通だった。
十二月の末に一通。年の変わる日に二通。
セドリックは三通を卓に並べ、順に読み直した。読み直しても増えない。
三通のうち二通は、遠い領地の家である。冬に王都まで下りてこられない家で、例年は書面だけの挨拶で済ませている。残りの一通はセール家で、出席とも欠席とも書いていない。
去年までは、返事に必ず一行が添えてあった。席のことでも、道のことでも、去年の礼でもいい。今年の三通には、その一行が無い。
執事を呼んだ。
「返事の少ない年はあったか」
「近年はございません」
「近年でなければ」
「先代の頃に、雪で道が閉じた年がございました。その年も十を切ることはなかったかと」
「では雪だ」
「今年は道が空いております」
執事はそれ以上言わなかった。言わないまま、卓の三通を見ていた。
集いは月の三日と決めてある。支度は例年どおりに進めさせた。広間の敷物を替え、椅子を三十二脚出し、火を二か所に入れ、酒と菓子を用意する。
札は書かなかった。書く必要が出てから書けばいい、と自分に言った。
当日は晴れた。
風はあるが、道は乾いている。門から玄関まで、石畳を朝のうちに掃かせた。掃いた者は玄関の脇に立ち、馬車を待つ姿勢のまま昼まで動かない。
十時に誰も来なかった。
九時の鐘のあと、遠くで車輪の音がして、二度、玄関の者が背筋を伸ばした。音は門の前を通り過ぎる。近くの村へ行く荷馬車である。
十一時にも来なかった。
厨房から人が上がってきて、酒を温める頃合いを尋ねた。もう少し待て、と答える。答えてから、何を待つのかを言わなかったことに気づいた。
正午に、セドリックは広間へ入った。
椅子が三十二脚、二列に並んでいる。火は二か所とも入っていて、部屋は暖かい。酒の栓は抜いていない。菓子は布をかけたままである。
椅子の前に立って、端から数えた。三十二。数は合っている。
合っているのに、誰も座っていない。
火が薪を割る音がした。その音が、広間の端まで届いて返ってくる。この部屋がこんなに音を返す部屋だとは、五年のあいだ知らなかった。
椅子の座面に、日が細く差している。差した先が動いて、正午から一時のあいだに、三脚分ほど移った。
セドリックは上座の椅子には座らなかった。座ると、待っている形になる。
一時に、玄関の者が下がった。下がる前に、こちらを見て、何か言おうとしてやめる。
二時に、ハンナが来た。
「旦那様」
「まだ早い。道が悪いのだろう」
「使いを出しました」
「誰に」
「セール家へ。近うございますので」
セドリックは椅子の背に手を置いた。木が冷たい。火は入っているのに、椅子だけが冷たかった。
「何と言っていた」
ハンナは前掛けの端を握る。握って、それから離した。
「旦那様。今年の席は、こちらで立てるものではないそうです」
音が止まった。
火の音は続いている。続いているのに、聞こえなくなった。
「どこで立てる」
「マティルダ様のお宅で」
「大伯母上の」
「はい。十日ほど前に、三十二家へ知らせが回ったそうでございます」
「知らせは誰が書いた」
「そこまでは伺っておりません。ただ、席の並びが添えてあったと」
「並び」
「はい。当日は札も立つそうでございます」
セドリックは椅子の背から手を離す。
「うちには来ていない」
「はい」
ハンナが頭を下げる。下げたまま、しばらく上げなかった。
「酒はどういたしましょう」
「下げろ」
「菓子は」
「厨房で分けろ。三十二人分ある」
セドリックは広間を出た。
出るとき、椅子には触れなかった。触れずに通れる幅が、二列のあいだにちょうど空いている。誰かがその幅を測って並べたのだと、そのとき初めて考えた。
書斎の灯りを点けた。
冬の日は短い。二時を過ぎると、もう部屋の隅が暗い。
棚をもう一度見た。夏に一度、ひと月かけて探した棚である。増えたものは何もない。
家政室へ下りた。中段の綴じを全部出し、床に積んだ。八年分ある。
一枚ずつめくった。
薪、蝋、肉、麦、蝋燭の芯、馬の飼葉。買ったものは全部ある。贈答の項もある。日付と、家の名と、銀貨の枚数。
数字はある。理由は無い。
床に座り込んで、八年分を端から見た。
五年前より古い綴じには、贈答の項に短い書き込みがある。母の字だった。ベルリエの隣を避けること。ハウレルには花を出さないこと。
ハウレルとベルリエの名が並んで書かれているところが二か所あって、どちらも上から線が引いてある。
三年分ほど続いて、そこで途切れる。
途切れた年は、母が死んだ年である。
その次の年から、書き込みは一つもない。
一つも無いまま、五年、何も起きなかった。
母が死んだ年の冬に、婚姻の話が動いた。ヴェスタール家に借財があり、こちらには家政を回す者がいない。両方が同時に片づく話だと、あのとき代理人が言った。
片づいた、と自分も思った。思っただけで、何が片づいたのかを確かめていない。
セドリックは綴じを閉じ、床に置いた。
無いのではない。書かれなかったのだ。書かれなかったものを、五年、この家は使い続けていた。
廊下を東へ歩いた。
窓際の机のある部屋の扉を開けた。夏に一度入ったきりで、それから誰も入っていない。埃が薄く積もっていて、机の上に自分の指の跡が残っていた。
抽斗を開けた。書き損じの紙と、削りかすの残った小刀。
その奥に、針箱があった。
蓋を開けた。針が三本、糸巻きが二つ、鋏。それから、麻糸の切れ端が一本、底に残っている。
太い麻で、荷を縛るのに使うものである。切れ端には結び目がひとつ作ってあって、ほどきかけて途中でやめた形になっていた。
なぜ針箱に荷紐の切れ端があるのかは、分からなかった。
指で摘んで、しばらく持っていた。指の腹で撫でると、結び目のところだけ太い。
糸は途中で切られている。切り口が毛羽立っていて、鋏ではなく手で切ったのだと分かる。
持っていても分からないので、抽斗に戻した。戻すとき、針箱の底に細かい麻の繊維が散っているのが見えた。
書斎に戻り、紙を出した。
「何が足りないのかを、数えてみる」
声に出して言う。聞く者はいない。
紙の左に項目を書き、右に数を書く。手順は帳面と同じである。
弔い。三十二家。五年で十九件。すべて包みを出した。額は、一件も思い出せない。
祝い。子の誕生、家督の相続、婚礼。五年で二十四件。額は、やはり出てこない。
集い。年始が五回。夏の茶会が五回。合わせて十回。席の並びを決めたのは、十回とも自分ではない。
招待状。年始に三十二通、夏の茶会に十四通。五年で二百三十通。宛名と敬称は一通ずつ違うと、この夏に聞いた。書いた者は一人である。
席の札。書いた数は招待状と同じである。こちらも二百三十枚。
その下に、書き損じの数を足そうとして、やめた。書き損じは捨てられている。捨てられたものは数に残らない。
書きながら、右の欄が埋まらないことに気づいた。
セドリックは項目を足した。
何も起きなかった日。
その右に、何を書けばいいのかが分からなかった。
弔いで額を外さなかった日。席次で誰も立たなかった日。茶会で誰も途中で帰らなかった日。回状の返事が二十通来た日。
無事だった日である。
無事だった日は、翌日には何も残らない。残らないものを、五年ぶん受け取っていた。
何も起きなかった日の数を出すには、五年分の日数から、何かが起きた日を引けばいい。
引く前に、何かが起きた日を思い出そうとした。
思い出せたのは、去年の夏の茶会と、春の弔いの返礼だけだった。どちらも、アドリーナがいなくなってからの日である。
紙を一枚めくった。
二枚目に、名前を書いた。
アドリーナ。
書いてから、その下に何を書くのかを考えた。項目にするなら、右の欄に数が要る。
礼を言った回数。
書いて、右の欄に線を引いた。線を引くしかなかった。
灯りの油を足す。足すとき、手が少し滑って、卓に油が落ちた。拭かずにそのままにした。
抽斗から、去年までの書簡の束を出した。年ごとに紐で括ってある。括ったのは自分ではない。
ドラン家の束を抜いた。
季節の挨拶が五年分ある。春と秋に一通ずつ、型どおりの文面で、字は丁寧である。
一通目を読んだ。二通目を読んだ。
春の挨拶は雪解けのことから始まり、秋の挨拶は収穫のことから始まる。五年分、書き出しがほとんど同じである。
三通目で気づいた。差出人の署名は毎回同じだが、宛名がドラン家の名代の筆になっている年が二年ある。本人が書いていない年である。
五年目の秋の一通は、婚礼の知らせだった。他国の大公家へ嫁ぐという報せで、文面の終わりに、これまでの厚誼への礼が二行ある。
その二行を、三度読んだ。
礼は、ルーヴェン侯爵家に向けて書かれている。
こちらへ向けた行は、五年分のどこにも無い。問いも、待つという語も、返事を促す一行も無い。
束をもう一度括り直そうとして、紐の結び目がうまく作れなかった。二度やって、三度目でやめる。
セドリックは束を戻さずに、卓の端に置いた。
四年、机の上に紙を伏せていた。伏せた紙の宛名を、自分は毎日見ていた。見ていたのは自分だけである。
待っていたのは自分だった。
待たれていたことは、一度も無い。
その二つを並べると、五年のあいだ、この屋敷に確かにあったものが一つだけ残る。
厨房のほうで、火を熾す音がした。この家は、誰が数えていようといまいと、同じ時刻に動き出す。
紙は四枚になった。左の欄には項目が並び、右の欄は三枚が空いている。埋まっている一枚には、件数だけが書いてある。
二枚目の紙を、いちばん上に置き直した。名前の下に引いた線は、灯りの角度で見ると凹んでいる。強く引きすぎている。
窓の外が白くなり始めた。
五年分を数え終えるのに、朝までかかった。




