封を切らずに返す
北の秋は短い。九月の半ばで薪の値が上がり、十月には道が凍る日が出る。
石灰の荷は週に二度、丘を下りていく。帰りの荷車が郵便を運んでくるので、王都からの便りは荷の音のあとに届く。
音を聞いてから戸口までは、だいたい半刻ある。その半刻のあいだに、私は誰から何が来るかを考える癖がついた。冬の贈答の返事、取引先の受取、七家の当主からの短い問い合わせ。
その日、届いたのは三通だった。
一通は石灰の取引先から。一通はマティルダ様から。もう一通の宛名を見て、私は手を止めた。
宛名はアドリーナ・ヴェスタール。旧姓で書いてある。
字は覚えのある字だった。署名でしか見たことのない字で、五年のあいだに増えも減りもしていない。
婚姻契約書の写しの下にも、離縁の書式の下にも、同じ形の名前が並んでいる。私はその形を二度見ている。三度目がこれになる。
宛名の敬称は付いていなかった。旧姓に敬称を付けないのは、他人あてではないという意味になる。
封蝋の右下が薄い。ルーヴェン家の印は縁が少し欠けていて、押すと右下だけ蝋が乗らない。婚姻契約書の写しにも、五年前と同じ形の欠けがある。
蝋は少し熱すぎたらしく、縁のところに小さな気泡が三つ並んでいた。急いで押したのだと分かる。
三通を持って仕事場に入り、卓に並べた。取引先の封を切り、マティルダ様の封を切った。
三通目は切らなかった。
切るための刃は卓の上にある。柄の短い小刀で、朝から三度使っている。
夕方まで、その一通は卓の右端に置いてあった。
石灰の取引先の返事を書き、七家の冬の贈答の順を決め、ドゥニ家への祝いの品を選んだ。
祝いの品は麻の布に決めた。子が生まれてから一年近く空いているので、品を重くすると遅れた分を金で埋めた形になる。軽くして、添える一行を丁寧に書く。
選びながら、右端の紙が視界の隅に入る。入るたびに、次の仕事へ移った。
読まずに置いておくのと、読まずに返すのは違う。置いておけば、いつか読む日が来る。
待つのは、もうやめた。
日が落ちてから、アシュフィールド様が仕事場の戸口に来た。
「書付を三枚、明日の便に載せます。ほかにありますか」
「一通、お願いします」
私は卓の右端の封筒を取り、そのまま差し出す。
その人は封筒を見た。宛名を見て、封蝋を見て、それから私の手元を見る。切れていない封を、見て分かる位置まで確かめてから、受け取らずに待った。
「読まずにお返しします。読んでしまうと、返事を考えてしまいますから」
「承知しました」
その人は封筒を受け取り、宛先の欄に「差出人へ返送」と書き足す。書き足す字は小さく、封蝋には触れなかった。
触れないように書くには、封筒の端を持ち上げて、上から回り込むように手を動かすことになる。
書き終えて、封筒を上着の内側ではなく、外の袋に入れた。預かるものと運ぶものを、この人は分けている。
マティルダ様の便りは一枚だった。
あの方は長く書かない。書いてあったのは、冬の集いを今年からこちらで立てるということと、七十一の年寄りが階段を上らずに済むから都合がいいということ。
その下に、一行あった。
仲介を頼まれたが断った。
私はその一行を二度読んで、便りを畳んだ。
頼んだのが誰かは、考えれば分かる。分かるので、考えるところで止めた。
大伯母様は断ったことだけを書いて、頼まれた中身は書かなかった。中身を書けば、私がそれを知ることになる。知れば、返事の形が変わる。
返事は書いた。冬の集いの席の並びについて、去年と変えるべき二箇所を書き添えた。ハウレル家とベルリエ家の間には、今年もセール家とレンヴィル家を入れること。ドラン家は順が上がっているので、上座から数えて位置が変わること。
書きながら、これはもう私の仕事ではないと思った。思ったが、書いた。
書けば大伯母様が使う。使えば冬の集いが無事に済む。宗家の広間ではない場所で済むというだけで、済むことに変わりはない。
無事に済んだ日は、誰にも数えられない。私はそれをよく知っている。知っていても、書く。
十月の初めに、王都の公証人から封書が届いた。
ヴェスタール家の借財の件である。
婚姻のとき、私の持参金の代わりに立てられた勘定があった。それが五年でどう動いたかを、公証人が改めて計算したという。婚姻が解けたので、宙に浮いた分を整理する必要が出たらしい。
紙は二枚で、二枚目に数字が並んでいる。
一枚目は経緯である。婚姻の際の取り決め、立て替えの年月、返済の予定。
侯爵家がヴェスタール家に立て替えた額。五年のあいだに家政の職として計上されるべきだった額。差引。
差引の欄は、こちら側に残っていた。
私は二枚目を三度読んだ。
五年分の家政の対価を正しく置けば、借財はとうに払い終わっている。払い終わったうえで、なお残っている。
父はこれを知らない。家令も知らない。誰も計算しなかったからである。
計算する理由が、あの家にはなかった。娘は嫁いだ。嫁いだ先で何をしていようと、それは向こうの家の内側の話になる。
つけたのは公証人だった。婚姻が解けたので、つけるほかなくなった。
窓の外で、荷車が丘を上がってくる音がする。
私は紙を伏せた。伏せてから、また開く。
負い目という言葉を、私は五年間、自分の一番下の引き出しに入れていた。開ける必要のない引き出しで、開けなくても中身は分かっていた。
嫁いだ日から、私はその引き出しの上に立って暮らしていた。立っている場所なので、動かない。
その中身が、今日、無くなった。
その夜、アシュフィールド様が薪を運んできた。
仕事場の暖炉は小さく、薪は細いものしか入らない。この人はそれを知っていて、細く割ったものだけを抱えてくる。
袖に木屑が付いている。自分で割ったのだと分かる。使用人に割らせれば太いものが混ざるので、この部屋の分だけは自分でやっているらしい。
「今年の初雪は、例年より早いそうです」
「村の方が仰っていましたか」
「井戸の水の匂いで分かると言われました。私には分かりません」
分からないと言うときの声が、この人はいちばん普通である。
「北の冬は、王都より一月早く来ます」
「聞きました」
「一月早い分、話す時間が長くなります」
暖炉の前にしゃがんで、薪を三本くべた。火の粉が上がり、すぐ消える。
「返送の便は、明朝に出ます」
「はい」
「宛名の字を、久しぶりに見ました」
私は手を止めた。
「侯爵閣下の字ですか」
「そうです。集いの回状で、毎年見ておりました」
その人は火かき棒を戻して、立ち上がる。立ってから、卓の端に手を置いた。
「私の抽斗にも、宛名だけ書いた紙があります」
「宛名だけ」
「毎年、宛名だけ書いて出せなかった年もあります」
火の音が二度する。
私は五通の礼状を思い出した。宿の寝台に並べた五通で、今は仕事場の抽斗にある。あの五通には、宛名も文面もそろっていた。
「五通、届いております」
「席次の礼です。あれなら出せます」
「別のものがあるのですか」
「宛名だけ書いた紙が、抽斗に二枚あります。四年目と五年目のものです」
四年目。五年目。
その二年に何があったかを、私はよく覚えている。四年目の秋には、机の上の紙がまだあった。五年目の秋にあの方が嫁ぎ、その秋から私は結び目を作り始めた。この人はそのどちらも知らない。知らないまま、二枚を抽斗に入れていた。
「なぜ出さなかったのですか」
「席次のことなら書けます。それ以外を書くと、あなたの立場が悪くなります」
その人はこちらを見ていない。暖炉の火を見ている。
「立場の話をすると、いつまでも出せません」
「そうです」
「二枚は、何年書いてあるのですか」
「四年目のものが一枚、五年目のものが一枚です。同じ年に二枚書いた年はありません」
数え方が正確だった。この人は自分の分も、ちゃんと数えている。
私は封蝋の欠けた紙を思い出した。あの蝋には気泡が三つあった。
五通の礼状の封には、気泡がない。どれも同じ温度で、同じ深さで押してある。
急いで押した人と、二年出せなかった人が、同じ日に私の卓の上にいる。
「明朝ですね」
「はい。石灰の荷と一緒に下ります」
「アシュフィールド様」
「はい」
「二枚のほうは、いま出さなくてよろしいのですか」
その人は少し考えた。考えている時間が、こちらに見えるくらい長い。
「出しません。四年目の紙も、五年目の紙も、書いたときのあなたに宛てたものです」
「今の私には」
「別のものを書きます。書けたら出します」
「はい」
返事が短くなった。短くしないと、声が普通でなくなる。
火が細くなって、薪が一本、灰の側へ落ちた。その人はそれを直さずに、戸口へ向かう。
翌朝は霜が降りた。
荷車は丘の道を下り、途中で一度止まって、また動き出した。私は仕事場の窓からそれを見ていた。
袋の中に、切られていない封が一つ入っている。
封蝋は欠けたまま、王都へ戻っていった。




