帳面はどこにもない
オルディスの先代が死んだのは去年の春で、今年が一周忌である。
その報せは春先に来ていた。書斎の卓に置かれた回状を、セドリックは一度読んで脇にどけた。日付と場所が書いてあるだけの紙である。
窓の外で庭師が石畳を掃いている。朝食は運ばれてくる。湯は沸いている。廊下の花は替わっている。何も変わっていない。
変わったことがあるとすれば、書き物机のある部屋が閉まっていることくらいだった。
その部屋には用がない。年に一度、集いの前に日取りを伝えに寄る。伝えれば済むので、長くはいない。
回状の紙は薄く、折り目のところが毛羽立っていた。オルディス家は昔から紙にかける金を惜しむ。
先月のローレン家の弔いは、何事もなく済んだ。アドリーナが出ていく日に、額まで口にしていったからである。三年前が銀貨で十二枚、二年目は同額か少し軽く。ハンナはそれを覚えていて、そのとおりに包んだ。
済んだので、そういうものだと思った。
戸口にハンナが立ったのは、一周忌の三日前である。
「旦那様。オルディス家の弔いのことでございますが」
「行く。馬車を出せ」
「はい。それで、お包みの額を」
「例年どおりでいい」
ハンナは動かなかった。前掛けの端を指で探している。この女はいつも何かを持っているのに、今日は手が空いていた。
「例年がいくらか、分かる者がおりません」
セドリックは匙を置いた。
「帳面を見ればいいだろう」
「帳面がございません」
「家政室にあるはずだ」
「探しました」
「では書斎だ」
「昨日、旦那様がお出になったあとに、棚を拝見いたしました」
セドリックは椅子の背に体を預けた。この家には三十二の分家があり、その一つ一つに弔いと祝いがあり、額が決まっている。決まっているのだから、どこかに書いてある。
「三年前にも同じ家で弔いがあった。そのときの額を出せ」
ハンナの返事が半拍遅れた。この家では、聞けば答えが返ってくる。それが五年続いていた。
「その控えが見当たらないのでございます」
「使用人の誰かが覚えているだろう」
ハンナは少しのあいだ黙り、それから顔を上げた。
「前回の額を、どなたも存じ上げないのです」
匙の柄が皿に当たって鳴った。
三十二家の弔いを、五年で何度出したか。数えたことはない。包みは用意され、馬車は出て、席には座り、帰ってくれば次の日が始まる。
厨房の女が廊下を通り、戸口の前で足を止めて、通り過ぎた。
「銀貨で十五枚にしろ」
「十五枚でございますか」
「多い分には角が立たん」
ハンナは下がらなかった。
「三年前は、たしか、もっと」
「たしか、では話にならん」
「はい」
「重くしておけば恥はかかん。適当でいい。うちが宗家だ」
ハンナは頭を下げて出ていく。
その日の午後、執事が来て、十五枚は重すぎると申しております、と言った。
「誰が申している」
「厨房と、厩の者が。オルディス家は分家の中でも古うございますが、格は中ほどでございます。宗家が重く出しますと、下の家がそれに合わせられなくなりますので」
「合わせる必要はない」
「ございます。下の家は、宗家より重く出せません。宗家が上げれば、皆が上げる話になります」
そういう理屈があることは知っていた。知っていたが、誰から聞いたのかは思い出せない。
「では十枚だ」
夕方、別の使用人が来て、十枚では三年前より軽くなる恐れがある、と告げた。
「誰がそう言った」
「厨房の年寄りが、そのように」
「その年寄りは額を覚えているのか」
「覚えてはおらぬそうでございますが、軽い気はする、と」
セドリックは書斎の窓を開けた。庭師はもういない。石畳の上に、掃き集められた砂の山が三つ残っている。
八枚にした。
理由は単純で、三度も額を変えたことを使用人に知られたくなかったからである。
弔いの日は曇っていた。
オルディス家の広間には四十人ほどが集まり、宗家の席は正面の右手にある。柱が二本、席の間に立っていて、その奥は見えにくい。
セドリックはその席に座り、隠居の甥から挨拶を受け、型どおりの言葉を返した。甥は三十を少し過ぎたくらいで、去年当主になったばかりである。名は出てこなかったが、顔は覚えていた。
供物は左から古い家の順に並んでいる。ルーヴェンの名の札は一番左にあり、その隣がハウレル、その次がベルリエだった。
並びを見ながら、悪くない、と思った。屋敷の者は自分が思っているより使える。八枚で足りていたということでもある。
式のあいだ、隣の席の老人が二度、こちらの袖を見た。二度目は見てから目をそらした。ルーヴェンの喪服は仕立てが古い。仕立て直しの話は去年に出て、話が出たきりになっている。
誰が出したのか、それも思い出せない。
返礼が配られたのは、式が終わってからである。
オルディス家の返礼は三段に分かれている。塩と香が入った箱で、上段は白い紐、中段は麻紐、下段は紐なしの包みだった。
セドリックの前に置かれたのは、麻紐の箱である。
その隣、セール子爵の前には白い紐の箱があった。
セールは分家の末で、去年まで馬車を二頭立てにもできなかった家である。
広間の話し声が、少しだけ形を変えた。誰も何も言わない。言わないまま、視線の動く順序が変わった。宗家の席から、セールの席へ。それからまた、宗家の席へ。
隠居の甥が正面から歩いてきて、途中で向きを変えた。向きを変えた先には誰もいなかった。
配り役の若い者が、手元の紙を二度見る。見てから、次の席へ移った。
セドリックは箱を持ち上げ、膝の上に置いた。麻紐は指の下でざらついている。
三年前、この家の弔いに来たとき、自分の前に置かれた箱は白い紐だった。それは覚えている。覚えているのに、そのとき包んだ額が出てこない。
隠居の甥が最後に頭を下げに来た。下げ方が浅い。
「本日はご足労を」
「よい式だった」
言ってから、言い方が場に合っていたかどうかを考えた。考える相手がいない。
帰りの馬車で、セドリックは窓の外を見ていた。
膝の上の箱は、置いてくるわけにいかない。
額を外したのは、控えが無かったからである。控えが無いのは、置いていった者が置いていかなかったからだ。
そのうち戻る。
アドリーナは五年、この家の外に一人も知り合いを作らなかった。実家は借財を抱えている。行く先は限られている。ひと月もすれば、荷を持って戻ってくる。
戻ってきたときに、こちらから何か言う必要はない。何も言わずに元の部屋を使わせればいい。詫び状は出さない。出せば、こちらに落ち度があったことになる。
屋敷に着くまでに、その考えは一度も揺らがなかった。
門を入ると、玄関の灯りがついていた。廊下の花は替わっている。誰かが替えている。替えている者の名は知っている。名は知っているが、その者に誰が替え方を教えたのかは知らない。
大伯母上の手紙が届いたのは、三日後の朝である。
封は薄く、中の紙は一枚だった。ルーヴェン家の年寄りは長く書かない。長く書く必要のあることは、呼びつけて言う。
紙には二行あった。字は大きく、筆の圧が強い。あの方は年を取ってから字が大きくなった。
オルディスの返礼を人に見られたそうだね。三年前は十四枚だ。
セドリックは紙を裏返した。裏には何もない。
十四枚。
その数字を見ても、記憶は動かなかった。三年前の自分がその額を決めたわけではない。決めた者がいて、包みが用意され、自分はそれを持って出かけた。
紙を卓に置き、書斎を出た。
家政室は北向きで、昼でも灯りが要る。棚は三段あって、上段に領地の書付、中段に屋敷の勘定、下段に古い証文が並んでいる。
セドリックは中段から順に抜いた。
屋敷の勘定は月ごとに綴じてある。薪、蝋、肉、麦。買ったものの記録はすべてある。弔いの包みも「贈答」の項に出ていた。日付と、銀貨の枚数。
三年前のオルディス家。十四枚。
数字はある。
だが、なぜ十四枚なのかは書いていない。
セドリックは次の綴じを開いた。ハウレル家の祝い、九枚。ベルリエ家の弔い、十五枚。セール家の祝い、六枚。
数字はどれも違う。違う理由が、どこにも書いていない。
綴じの余白を見た。余白に書き込みはない。指の跡もない。この綴じは、金を出した記録であって、額を決めた記録ではなかった。
決めた記録は、どこかに別にあるはずだった。
理由が分かれば、来年の額は出せる。
引き出しを開けた。次の引き出しも開けた。反故紙の束、糸の切れた綴じ紐、使い残しの封蝋。
灯りを近づけると、棚の板に細い線が二本ついていた。何かをいつも同じ位置に置いていた跡である。置かれていたものは無い。
書斎に戻り、卓の下の箱を出した。婚礼のときの祝儀帳、領地の測量図、古い地図。
窓際の机のある部屋にも入った。
机の上には何もない。抽斗には書き損じが一枚と、削りかすの残った小刀が入っていた。壁際の棚に、伏せられた札の束がある。
札を取り上げた。十九枚まで名が書いてあり、二十枚目は白い。
なぜ十九で止まっているのかは、分からなかった。
ハンナが戸口に立っている。灯りを持ってきたが、入ってこない。
「旦那様。他にお探しするところは」
セドリックは棚の奥に手を入れた。指が壁に当たる。
帳面は、どこを探しても無かった。




