期限の書いてある紙
王都の宿は三日目で、部屋代は前払いだった。
窓の下は荷馬車の通りで、朝の六時から音がする。音は苦にならない。屋敷の朝は静かすぎた。
卓の上に、実家からの返事を広げてある。
父の字ではない。書いたのは家令で、文面は丁寧で、要点は三行目にあった。ヴェスタールは今も返済の途中にあり、当主の判断を仰ぐには時期が悪い、と。
判断を仰ぐ、と書いてある。娘が戻るかどうかを、そう呼ぶらしい。
私は返事を畳んで、鞄の底に入れた。読み返す用事はない。
家令の字は角が丸い。五年前、婚礼の支度の一覧を書いてきたのもこの人で、そのときは紙を三枚使っていた。
残りの金で宿にいられるのは、あと五日か六日である。数えたので分かる。
この部屋には寝台と卓と椅子が一つずつある。窓の掛け金が固く、開けるのに両手が要る。壁の漆喰は水の跡で薄く色が変わっていて、その形が三日で覚えるほど目に入る。
女将は朝に一度、湯を持って上がってくる。持ってきて、置いて、私の顔を見ずに下りていく。宿の客に事情を聞かないのが、この宿の作法らしい。作法のある宿でよかったと思う。
寝台の上に、礼状を五通並べた。
一年目から五年目まで、集いのあとに届いたもの。宛名はどれも私になっている。差出人の名は同じで、字も同じで、五通のうち三通は、紙の端が同じ角度で切られていた。同じ裁ち板を使っている人の紙である。
文面は五通とも短い。席次の礼だけが書いてある。
三年目の一通には、一行だけ余分にあった。ハウレル家との間に二家が入っていたので、今年は話をせずに済みました、と。
この一行を読んで、私は席を立ち、もう一度その年の席次を思い出した。三年目、ハウレル家の隣に置いたのはセール家とレンヴィル家である。二家を挟んだのは別の理由で、この人のためではなかった。
ためではなかったのに、届いた礼はこの人からだけだった。
私は返事を書かなかった。侯爵夫人あての礼状に夫人が返事を書けば、次の年からは夫人が窓口になる。そうなると、夫の顔が立たない。
五通を懐に戻した。
階下から宿の女将の声がした。
「お客様に、お尋ねの方が」
「どなたでしょう」
「アシュフィールド子爵様と」
私は立ち上がった。名を聞いてから立ったのではない。名を聞く前に、もう字を思い出していた。
一階の帳場の脇に、その人は立っていた。背は高くない。外套は旅用で、肩に細かい埃が乗っている。
「ヴェスタール殿」
呼ばれ方が、五年ぶりに旧姓だった。
「アシュフィールド様」
「昨日、神殿で成立の届けを見ました。写しの受付に列んでおりましたので」
同情の言葉はなかった。事情を尋ねる言葉もない。この人は先に事実を置く。
「北の領に、面倒がひとつあります」
「面倒」
「私の家は分家で、周りに古い家が七つあります。母が生きていた頃は、母がその七家の付き合いを見ておりました。母が亡くなって四年になります」
「四年」
「はい」
七家。四年。数はすぐ頭に並んだ。並んでから、自分がもうその仕事をしない立場だと思い出した。
「四年でしたら、そろそろ順が狂います」
「狂っております」
その言い方に、こちらの言葉を引き取る速さがあった。
「去年の秋、隣の家の弔いで、うちだけ品を先に届けました。順を知らなかったからです。届けた品は良いものでしたが、順が違えば意味が変わります」
「変わります」
「それを直せる者が、うちにはおりません」
「ご自身では」
「順は覚えました。距離が読めません」
距離、という言い方をこの人はした。家と家の間にあるものを、そう呼ぶ人には五年で会ったことがない。夫は一度もその言葉を使わなかった。
私は帳場の板の木目を見ていた。
「席次と贈答の相談役をお願いしたい。名目は家政の相談役です」
外套の内側から、その人は紙を出す。折り目がついていない。帳場の板に置くと、紙は自分で平らになった。
上等な紙ではない。役所で使う厚手のもので、角が真四角に裁ってある。役所へ出す書き付けと同じ体裁で、飾りがない。
「読んでいただけますか」
文字は上から順に、報酬、期間、解約の条項の順に並んでいた。
報酬は年に銀貨で書かれ、支払いは季ごと。期間は一年。解約は双方どちらからでも、一月前の申し出で成る。
「順が逆です」
「逆でしょうか」
「普通は仕事の中身が先で、報酬と解約は後ろにございます」
「後ろにあると、読む前に決めることになります」
私は紙の上から二行目を読み、それから三行目に戻った。
期間、一年。
期限が書いてある。書いてあって、それが誰の逃げ道でもない場所に置いてある。
五年前の紙にも期限はあった。あの紙では、期限は私の知らないうちに決められ、私の名前だけがその下に並んだ。
この紙では、期限の欄が上から三行目にあって、読む前に目に入る。
「私が引き受けなかった場合、そちらはどうなさいますか」
「順を間違えたまま、あと何年か続けます。いずれ七家のうち二つは離れると思います」
「困ります」
「困ります。ですが、それはあなたが決めることではありません」
その人は紙を取り、折らずに手に持った。
「決めるのはあなたです。私は紙を持ってきただけです」
私は何も答えなかった。答えるべき言葉は浮かんでいて、浮かんだ速さが自分でも早すぎた。
「明日の朝、七時に北の停留所におります。乗合が出ますので」
「はい」
「来られない場合は、それで結構です。返事を書いていただく必要もありません」
その人は帳場に宿代を置こうとして、女将に断られ、置かずに出ていく。
置こうとしたことを、私は見ていた。
宿代を先に払われていたら、私は明日の朝、あの停留所へ行けなかったと思う。行けば、払われた分を返しに行くことになる。この人はそれを知っていて置こうとし、知らない顔で女将に断られた。
部屋に戻り、窓を開けた。
荷馬車の音が上がってくる。夕方の音は朝と違って、間が長い。
期限の欄を、頭の中でもう一度読んだ。一年。一年経てば、私はもう一度どうするかを決められる。
決めるという言葉が、こんなに短い時間の中に二度も出てきたのは久しぶりだった。
北の領のことは何も知らない。冬が長いということと、石灰を積んだ荷が王都まで下りてくることくらいしか、頭にない。
七家の名前も知らない。名前を覚えるところから始めれば、一年で三つは直せる。
針箱を開けた。麻糸の玉は、鞄の中で少しほどけている。
指の腹で撫でて、結び目の数を確かめる。二百に近い数は、昨日から一つも増えていない。
今夜は作らない。作る理由の場所が、もうこの街にない。
糸を針箱に戻し、蓋を閉めた。
朝の六時に宿を出た。
北の停留所は市場の裏で、荷を積む男たちの息が白い。乗合の馬は二頭で、片方が地面を掻いている。
客は私を入れて六人。行商が二人、修道女が一人、あとは親子連れである。荷は屋根の上に縄で留められ、御者がその縄を足で踏んで締め直していた。
その人は柱のそばに立っていた。昨日と同じ外套で、手には紙がある。
私の鞄を見て、それから手を出さなかった。持ちましょうか、とも言わない。鞄は軽いので、言われても断ったと思う。断る手間が省けた。
「おはようございます」
「おはようございます」
それだけで、しばらくどちらも話さなかった。馬の鈴が鳴り、御者が客の数を数える声がする。
「一年で、七家のうちいくつを直せますか」
「三つです」
私は答えた。数えて出した数ではない。四年狂った順を戻すのに要る回数を、体が知っていた。
「三つですか」
「四つ目からは、相手の家の代替わりを待つことになります」
「では、三つで」
その人が紙を差し出した。差し出したまま、こちらへ一歩も近づかない。
私は手を伸ばした。
期限の欄に日付が入っている紙を、初めて自分の意思で受け取った。




