一度も開かなかった扉
公証人は応接間の椅子を勧められても座らず、鞄を膝の高さで抱えたまま立っていた。
「立ち会いは正午までに済ませたく存じます。神殿の受付が午後は閉まりますので」
「かしこまりました」
夫は暖炉のそばにいて、まだ写しを手放していない。日付のところを親指で押さえている。押さえたところで、数字は動かない。
私は窓辺に立っていた。この応接間で契約を結んだのは五年前の春で、椅子の位置も敷物の縁の擦れ方も、あのときとほとんど変わらない。
あの日、父は私の右に座っていた。左に夫の代理人。中央の卓に紙が二枚、並べて置かれていた。
父は借財の額を口に出さなかった。屋敷ではその話ばかりしていたのに、この部屋では一度も言わなかった。
その冬、ヴェスタールの領地は西の畑を二区画手放している。手放しても足りず、母は嫁入りのときの銀器を売る算段をしていた。私はその算段の帳面を、母の肩越しに見たことがある。数字は素直で、足りないものは足りないと書いてある。
代わりに、私の袖を軽く引いて、こう言った。
「いい話だ」
私は返事をしなかった。
条文が読み上げられる。五年のうちに子が生まれざるときは、いずれかの申し出により、この婚姻を解くものとする。読み上げた声は低く、句読点のところで律儀に切れた。
父が私の手を叩く。夫は署名した。私も署名する。
断る余地があったかどうかを、私は五年のあいだ何度も考えて、考えるのをやめた。
署名のあと、夫の代理人が父に何か言い、父が笑った。何を言われたのかは聞こえない。私は卓の上の紙が乾くのを見ていた。墨は端から乾く。真ん中が最後まで濡れている。
「奥様。お部屋の鍵を、こちらでお預かりいたしますか」
戸口からハンナの声がした。私は首を横に振って、応接間を出た。
自分の部屋へ戻る廊下は、東から西へ長い。その途中に、夫の書斎の扉がある。
五年、私はこの廊下を毎晩通ってきた。
嫁いだ夜、私は寝台の端に腰かけて、廊下の足音を待っていた。足音は書斎の前で止まり、扉が閉まる音がして、それきりだった。翌日も同じで、翌月も同じである。
半年が過ぎたころ、私は待つのをやめた。やめても廊下は通る。部屋がその先にあるからだ。
二年目の冬に一度だけ、書斎の扉を叩こうとしたことがある。手を上げて、上げた高さでそのままにして、下ろした。叩いてから何を言うのかを、決めていなかった。
三年目からは、扉の前で歩調を変えるのもやめている。
一年前の秋、私は針箱から麻糸を一本出した。
刺繍に使う糸ではない。荷を縛るための太い麻で、切り口が毛羽立っている。
その夜、書斎の前を通ってから部屋に入り、糸に結び目を一つ作った。
数えるものが欲しかったのだと思う。
結び目は指で作る。糸の端を輪にして、輪の中へ通して、引く。灯りは要らない。手だけでできる。
最初のうちは、翌朝ほどく気でいた。ほどかないまま冬になり、春になり、糸は針箱の底で丸くなった。
今、指の腹で撫でると、目で見なくても数が分かる。二百に近い。
糸を鞄の内側に入れた。着替えの下、母の櫛の隣に。
書き物机に戻り、席次の札の束を取り上げた。
今年の分は十九枚。二十枚目には、まだ何も書いていない。
二十枚目に来るのはハウレル家の当主で、その隣にベルリエ家を置いてはいけない。十年前の相続でこじれた二家で、間には最低でも二家を挟む。挟めるのは去年まではドラン家とセール家だったが、ドラン家は今年から順が上がるので使えない。
代わりに誰を置くかは、去年の冬に決めてあった。決めてあったが、書かない。
こういうことは紙に残さない。残せば必ず誰かの目に触れ、触れた者が「あの家は隣にされない家だ」と知る。知られた時点で、席次はもう席次として働かない。
だから頭に置く。三十二家分の距離を、毎年組み直して頭に置く。
十九枚には、家の名と当主の名と、席の番号を書いてある。字は小さくしない。離れた席からでも読める大きさで書く。
去年、大伯母様の札だけは二度書き直した。一度目は名の下の敬称を落としたからで、二度目は紙の縁が波打っていたからである。あの方は札の紙を指で確かめる。
札を伏せて、机の隅に戻す。
二十枚目の札は白いままで、白いままだと、それが誰の席かは誰にも分からない。
私は今日、それを持って出ていく。
正午の少し前に、応接間へ戻った。
公証人は卓に三枚の紙を並べていた。婚姻契約書の写し、神殿の控えの写し、それから離縁の申し出の書式である。
「正本と控えを照合いたしました。条項の文言に相違はございません。日付も同様です」
夫は卓に近づき、三枚を順に見た。神殿の控えのところで指が止まる。
「これも同じ文か」
「同じ文でございます。婚姻の日に、両家と神殿の三方で保管する取り決めでしたので」
夫が控えの写しを持ち上げ、それから下ろした。もう一度持ち上げて、日付を読み返した。二度目のほうが長い。
「これは私の署名か」
「はい。閣下のご署名でございます」
夫は答えなかった。答えの代わりに、写しを卓の元の位置に戻した。位置が少しずれていて、公証人がそれを直す。
公証人は三枚の紙の角を揃え、鞄から印を出し、卓の端に置いた。手順のどこにも迷いがない。この人は今日、この屋敷で起きることを、書式の名前でしか呼ばない。
私はその手つきを見ていた。
「では、申し出をなさるのはどちらのお立場でございますか」
「私でございます」
私は答えて、卓の前に立った。
「条項に定めのとおり、五年の期日をもって、この婚姻を解く申し出をいたします」
公証人が書式に私の名を書き、印のところを示す。
私は署名した。五年前と同じ卓の、同じ側で。
夫は署名の順が回ってきても、すぐには筆を取らなかった。
「日を改めたい」
「期日が本日でございます」
「それは分かっている」
「分かっておいででしたら、なおのこと」
夫は筆を取る。取ってから、しばらく紙を見ていた。
書かれた文字は、五年前と同じ形をしている。
公証人が印を押し、書式を二つに折った。それだけで、五年が終わった。
「本日をもって成立でございます。写しは後日、神殿より双方へ」
夫は暖炉のほうへ二歩戻り、そこで止まる。行き先を決めて歩いたのではない歩き方だった。
私は鞄を取りに部屋へ戻り、廊下でハンナに会った。
ハンナは両手に何も持っていなかった。指が前掛けの端を探している。
「奥様」
「はい」
「来月の弔いの支度がございます。ローレン家のご隠居様の」
「三日後が二年目の忌日です」
「はい。それで、あの」
ハンナは言葉を探して、探すのをやめた。
五年、この人は私に何も聞かなかった。
「帳面はどちらに。奥様、控えはどちらにございますか」
私は少しのあいだ、その問いを頭の中で正しい形に置き直した。
帳面。控え。ハンナが求めているのは、この五年で私が作らなかったものだった。
「控えはありません。必要なときに、私が思い出しておりました」
ハンナの手が前掛けから離れた。
「では、あの、額は」
「ローレン家には、三年前の弔いで銀貨十二枚を包んでおります。二年目は同額か、少し軽くします」
「少しとは」
「一枚か、二枚」
「どちらでございましょう」
その差を決めるのに要るのは、金額ではない。ローレン家が去年ハウレル家に返した礼の重さと、その二家が今どういう距離にいるかである。二家の話は、三十二家の話につながっている。
「書き出すには、たぶん半年かかります」
ハンナは何も言わなかった。
「今日は無理です」
私は鞄を持ち上げた。持ち手が手のひらに食い込む。中身は少ないのに、重い。
「奥様」
「はい」
「わたくしは、五年、何も伺いませんでした」
それは謝罪ではなく、事実の報告だった。
「存じております」
廊下を東から西へ歩く。
書斎の扉の前で、私は一度だけ足を止めた。
今夜からこの廊下を通らないので、通らない最初の夜を、扉の側で確かめておきたかった。
扉は閉まっている。内側に人がいるのかどうかは、外からは分からない。五年、それも分からないままだった。
玄関の広間は昼でも暗い。天窓の下だけが明るく、そこに埃が見える。
五年前、私はこの広間で外套を脱いだ。脱いだ外套を受け取ったのがハンナで、そのときは名前を知らなかった。
玄関の脇の棚に、礼状の束を置いた籠がある。集いのあとに届いた礼状を、私は年ごとに束ねて取ってあった。三十二家分の束が五つ。
そのうち一束から、五通だけを抜いた。宛名が私になっているものである。
残りは籠に戻した。あれは侯爵家あての紙で、私のものではない。
外套を着て、五通を懐に入れた。
ハンナが扉を開けた。開けてから、開けた手をそのままにしている。
「奥様。どちらへ」
「まだ決めておりません」
決めていないことを、口に出すのは初めてだった。この五年、私の予定は前の年の暮れに全部決まっていた。決まっていないというのは、思っていたより悪くない。
門までは石畳が四十歩ある。歩数は数えない。ここから先、数えるものは自分で選ぶ。
五年のあいだ一度も開かなかった扉は、最後まで開かなかった。




