五年目の朝
鞄の留め金を下ろしたところで、扉の外の足音が止まった。
「五年のうちに子が生まれざるときは、いずれかの申し出により、この婚姻を解くものとする」
読み上げたのは私で、聞いている者はいない。
扉は開かない。誰かがそこで立ち止まったままでいる。
手の中の紙は婚姻契約書の写しだった。五年前に交わした正本と同じ文が、同じ順序で並んでいる。右下の封蝋は縁が欠けていて、押すたびにそこだけ薄く残る。婚姻の日に押されたものも同じだった。
鞄に入れたものは多くない。着替えが三枚。母の櫛。針箱。それから、この写しである。
嫁いできたときに持ってきたもののうち、持って帰れるのはこれだけだった。増えたものは、どれも私の名で買ったものではない。
今朝は誰も呼ばずに髪を結った。手が覚えている手順なので、鏡はほとんど見ない。五年前の朝も同じようにして、そのあとで公証の席に出た。
条文を読み上げたのは、夫の代理人だった。低い声で、句読点のところで律儀に息を切る。五年のうちに子が生まれざるときは、と読まれたとき、隣の父が咳をした。咳をしてから、私の手を軽く叩く。
私は顔色を変えなかった。父は帰りの馬車で、それを褒めた。
窓際の机は空になっている。五年のあいだ、私はそこで一族の招待状を書いてきた。三十二家。宛名も敬称も一通ずつ違い、書き損じは削り直しがきかないから紙ごと替える。今朝そこに残っているのは、去年の書き損じが一枚きりだった。
宛名の途中で手が止まっている。アシュフィールド子爵、まで。その先を書く前に、誰かに呼ばれて席を立ったのだろう。誰だったかは覚えていない。
席次の札の束は、隅に伏せて置いた。今年の分は十九枚まで書いてある。残りの十三枚は書いていない。
書かないまま置いていくのは、五年で初めてになる。
扉が開いた。
「入るぞ」
言いながら、夫はもう入っていた。
「朝から何をしている」
「片づけております」
夫は部屋をひと通り見渡した。鞄には目を留めない。窓際の机まで歩き、指で天板をなぞる。
「ここは埃を払わせろ。来年の分を書くのに要る」
「はい」
「集いの日取りだが、今年より三日早めたい。大伯母上が冬の道を嫌がる」
「三日早めますと、ベルリエ家の喪明けの前になります」
「ではベルリエは呼ばん」
「呼ばずに済ませますと、ベルリエ家は二年続けて外れます。前の年は火事で来られませんでした」
夫は少し黙り、それから片手を振った。
「そのあたりはお前が組め。いつもどおりでいい」
いつもどおり。五年で何度聞いたか、私は数えていない。数えていたのは別のものだ。
「贈答は、ドラン伯爵家には去年より重くしておけ」
「かしこまりました」
「花はいらん。冬に生花を出すと、あとの家が困る」
「はい」
「大伯母上の席は暖炉の側だ。去年もそうしただろう」
去年は暖炉の側ではなかった。大伯母様は火の粉を嫌う。去年は暖炉から二つ離した席で、背に衝立を立てた。衝立は私が納戸から出して、脚の緩みを紐で締めた。
私はそれを言わなかった。言えば、去年の席順の話が始まる。
「あとは去年と同じでいい。去年は何も起きなかったからな」
去年は何も起きなかった。そう言われるたびに、私は十九枚目の札を書き直した夜のことを思い出す。ベルリエ家とハウレル家を離すには、間に二家を挟まなければならない。挟める家は限られていて、その組み合わせは毎年変わる。誰が誰の名を出さないかは、紙に書けば漏れるので、書かずに覚える。
何も起きなかった日は、何も残らない。残らないものを、私は五年ぶん積んできた。
「招待状は先に書き始めておけ。あれは時間がかかる」
「はい」
「敬称は一律でいいだろう。同じ一族なのだから」
ハウレル家の当主は先代の従弟で、一律にすると格が上がる。上げれば、上げられなかった家が数える。数えた家は、翌年の贈答で返してくる。
「一通ずつ変えております」
「面倒なことをする」
夫はそう言って、それきりその話をやめた。面倒なことをしているのが誰かは、確かめなかった。
夫は机の縁に腰を預け、腕を組んだ。
「来年も同じように頼む」
戸口で布の擦れる音がした。ハンナが銀盆を胸の前に抱えて立っている。私を見て、それから夫を見て、盆を下ろす場所を探すように視線を落とした。
「旦那様。門に馬車が」
「客の予定はない」
「はい。ですが」
「後にしろ」
ハンナは下がらない。銀盆を抱えたまま、廊下の壁際に寄っただけだった。
私は契約書の写しを胸の高さで持ち直した。紙は薄く、朝の光を透かして裏の文字が見える。
「旦那様」
「なんだ」
「今日で五年になります。旦那様がお書きになった、そのとおりに」
夫の指が、腕組みの中でわずかに動いた。
「何の話だ」
「婚姻契約の話でございます」
「契約がどうした」
「五年のうちに子が生まれない場合、いずれかの申し出でこの婚姻を解く。そう入れさせたのは、旦那様の代理人でございました」
夫は私の顔を見た。見てから、私の後ろの鞄を見た。それからもう一度、私の顔に戻ってくる。
「ああ」
思い出したというより、言葉の形だけを拾い上げた声だった。
「あれは形だ」
「形でございますか」
「両家の体裁のために入れた。誰も履行するつもりで書く条文ではない」
「形でしたら、なおのこと期日は動きません」
夫の眉が寄った。私が言い返したからではなく、話が予定の外へ出たからだと思う。この人は予定の外に出た話を、一度で片づけようとする。
「アドリーナ。今朝は何かあったのか」
「五年目でございます」
「それは聞いた」
「それだけでございます」
私は書き損じの紙を取り、宛名のところで指を止めた。アシュフィールド子爵。この家は毎年、集いの後に礼状をくれる。宛名が私になっている礼状は、三十二家のうち一通だけだった。
五年で五通。文面は短く、毎年ほとんど同じで、席次の礼だけが書いてある。差出人に会ったことはない。
その一通のことを、私は誰にも言っていない。
書き損じの紙を机に戻した。指の腹に、去年の墨の粉がわずかに移る。この机で書いた宛名は、五年で二百三十通になる。数えたのではない。年始の三十二と、夏の十四を、五年ぶん足せば出る。
「お前は疲れているんだ」
夫はそう言って、机から腰を離した。
「休め。集いの支度は月が変わってからでいい」
「支度はいたしません」
「なぜだ」
「私が、この家の者でなくなりますので」
言い終えてから、部屋が静かになった。廊下でハンナが銀盆を持ち直す音がする。それだけだった。
窓の下で、庭師が石畳を掃いている。箒の音が同じ間隔で続いている。この屋敷は、私が何を言っても同じ速さで動く。五年かけて、そういう速さに整えたのは私だった。
夫は笑わない。怒りもしない。ただ、聞き取れなかった言葉をもう一度言わせるときの顔で、私を見ていた。
「冗談を言う女ではなかったはずだ」
「はい」
「では何の話をしている」
私は写しを卓の上に置いた。折り目を伸ばし、条文の側を上にして、夫の手が届く位置まで滑らせる。
夫は一度、卓の上の紙を見下ろしただけで手を出さなかった。私が黙っていると、指先で端を引き寄せた。
紙をめくる音が二度。
「これは」
「写しでございます。正本は神殿に」
「神殿」
「婚姻の日に、両家の署名と一緒に預けました。旦那様も立ち会っておいでです」
夫の指が条文の行をなぞり、その下の日付で止まった。数えるように、二度なぞる。
私は待った。
「今日なのか」
「今朝、神殿の控えも確かめてまいりました。日付に相違はございません」
「確かめに行ったのか。ひとりで」
「馬車は使っておりません」
夫は写しから顔を上げなかった。ひとりで、というところに引っかかったのだと思う。この五年、私がひとりでどこへ行き、何を確かめ、誰に頭を下げてきたかを、この人は一度も数えたことがない。
「私はそんなつもりで書かせたのではない」
書いたのは。
そこまで口の中で言って、私は続きを飲み込んだ。今日でなくても、その言葉はどこへも行かない。
「お茶を淹れさせましょうか」
「そういうことではない」
「はい」
夫は写しを持ったまま、二歩ほど歩いて止まった。行き先を決めてから歩いたのではないと分かる歩き方だった。
「話し合いをすればいい。子のことなら、医者を呼べば」
「五年のあいだ、私の部屋の扉は一度も開きませんでした」
夫は止まった。
私は声を大きくしない。責める調子にもしない。
「旦那様がお書きになった条文は、子が生まれなければ、と書いてあります。生まれないようにしたのは、条文ではございません」
廊下で銀盆が鳴った。ハンナが下がっていく足音は、途中で止まって、また戻ってきた。
「奥様」
戸口からの声は小さい。
「門のところに、公証人の方が」
夫が私を見た。この朝、初めてまっすぐに見た。
「呼んだのか」
「三日前に手紙を出しました。宛名は私の名で」
「アドリーナ」
名を呼ばれたのは、今朝で二度目になる。二度目の呼び方には、聞き覚えのない切実さがあった。
私は鞄の持ち手を握り、机の隅の札の束に一度だけ目をやった。十九枚。残りの十三枚は、この家の誰かが書くことになる。
「支度をしてまいります」
「待て。話は済んでいない」
「済んでおります。五年前に」
夫は写しを卓に戻そうとして、置く場所を決めかねたのか、そのまま手に残した。紙の角が、握られた分だけ丸くなっている。
「今日でなくてもいいだろう。日を改めればいい」
「日を改めますと、申し出の期日を過ぎます」
「過ぎたらどうなる」
「この条文が使えなくなります」
そう答えてから、私は自分の声が少し軽くなっているのに気づいた。五年で初めて、この条文が私の側にある。
私は扉のほうへ体を向けた。ハンナが道をあけ、それから、あけた分だけ私に近づいた。何か言いたそうにして、言わない。
夫はまだ写しを持っていた。持ったまま、日付のところをもう一度探している。
「公証人はもう、門のところまで来ています」




