第008話:雪の欠片
鉱山町の谷底から、早朝の荷馬車が軋んだ音を立てて坂を上り始めた。
荷台には、赤白の測量棒、真鍮の金具で補強された三脚、幾重にも巻かれた麻縄の束が積み込まれている。
車輪が石畳を踏むたびに、道具箱の中で鎖や木杭が小さく鳴った。
御者台の脇で荷締め紐を引いていたブルーノが、短く息を吐き出した。
「坑道に入れないからって腐ってる暇はねえ。地上の尾根と谷の起伏を、今日一日で叩き出すぞ」
「隊長、どこまで進める予定ですか」
「東の峠の鞍部から北の稜線までだ。往復で15キロ。日が暮れる前に町へ戻る」
「へいへい、行程は把握したわよ。アタシの馬車に任せてちょうだい」
手綱を握るホルストが、朝の風に向かって、でたらめな歌を歌い出した。
「にんじんひとーつ、じゃがいもふたーつ、たまねぎ落ちたら拾って食べよう、らんらん」
荷台の木箱に腰掛けたマルタが、小言を飛ばした。
「陽気に歌うのは勝手だが、手綱を緩めるなよ。車輪が溝に落ちたら、水準器の気泡管が狂っちまうだろ」
隣で膝の上に方位盤を乗せていたイルゼが、だぶだぶの袖をたくし上げながら口を挟む。
「揺れくらいで測量器具の精度は落ちませんよ。測定する時は三脚を地面にしっかり固定しますから」
「固定する前の衝撃で軸が歪むって言ってんだ。器具のネジを締め直すのはあたしの仕事なんだよ」
「でも、最新の真鍮製は多少の衝撃にも耐えられる設計に……」
「屁理屈をこねるな。道具を大事にしない魔法使いには、新しい三脚は貸さない」
「ひどい……!」
賑やかな掛け合いを聞きながら、ラースは馬車の後方へ目をやった。
登るにつれて、谷底に密集していた灰色の石造りの長屋が小さくなっていく。
見上げる先には、広大な山の稜線が青空へ伸びていた。
*
馬車は町を抜け、見通しの開けた尾根の平場へとたどり着いた。
草の薄い赤土の地面に、ブルーノが太い樫の木杭を打ち込む。
「ここを第1基点にする。ラース、測量棒を立てろ。イルゼ、サイトで前方の岩峰まで見通せ」
「了解です!」
ラースは鉄の石突のついた測量棒を地面へ突き刺し、垂直を確かめた。
イルゼが人差し指を伸ばし、小声で魔法の名を口にする。
「サイト」
指先から細い光の筋がすっと伸び、尾根の先の岩峰へ光の輪を結んだ。
「見通し線、良好です。遮る枝はありません。距離はおよそ50メートルですね」
「魔法の数字は目安だ。縄の結び目をきっちり数えろ、ラース」
マルタが検定済みの測量縄の端を伸ばして渡してきた。
「はい!」
ラースは縄を張りながら、1メートルごとに刻まれた結び目を指先で数えて進んだ。
46、47、48。
足元の傾斜はおよそ8度だった。
縄の感触が、正確な数値を指先に刻んでいく。
「隊長、48メートルでした。サイトの見積もりより、2メートル短いです!」
「よし、野帳に墨を入れろ。次はあの尖り岩の鞍部だ」
昼前には、手短な休息が取られた。
ホルストが布巾から取り出したのは、厚切りの黒パンに、細かく刻んだ塩漬け肉と干し根菜を挟んだ弁当だった。
「はい、お昼よ。山の上は風が冷たいんだから、しっかり噛んでお腹に入れてちょうだい」
「ホルストさん、これ、中に何か塗ってあります?」
「塩漬け肉と干し根菜を、山菜の酢漬けと一緒に和えたのよ。酸味が効いてて、疲れた身体に効くでしょ。ほら、まだおかわりもあるわよ」
「おいしいです。肉の噛みごたえがあって」
20歩ほど離れた高台の岩場では、ヴァルターが周囲の尾根筋へ気を配っていた。
ラースは包みを手に立ち上がった。
「ヴァルターさんも、どうぞ」
「ありがとうございます。……風向きが変わりましたね」
「風向きですか?」
「北からの風です。谷の冷気と混ざっています。天候は崩れませんが、北の山肌の匂いがします」
遥か上空では、2羽の鷹が大きな円を描いて舞っていた。
ラースは野帳を開き、図の北の端へ目を落とした。
墨の線は、そこでぷつりと途切れている。
顔を上げると、北の稜線の向こうに、霞んだ山並みが幾重にも重なっていた。
あの先のどこかに、図が丸く空いたままの湖がある。
*
昼食を終え、針葉樹の林が途切れる境目へと基線を伸ばしていた時だった。
木々の茂る窪地の奥から、甲高い吠え声と唸り声が響いてきた。
「……犬の声?」
「魔物だな」
「ヴァルター、行けるか」
「問題ありません」
ヴァルターはすでに岩場を駆け下り、木立の隙間へと滑り込んでいた。
ラースも測量棒を握り直してあとに続いた。
古い松の根元、薄暗い藪の開けた場所で、灰褐色の毛並みを持つ4頭の狼が輪を作っていた。
フォレストウルフだ。
鋭い牙を剥き出しにし、低く唸りながら中心の岩場へじりじりと詰め寄っている。
その輪の中心に、岩を背にして追い詰められている小さな影があった。
小型犬ほどの大きさの、小さな獣の子だった。
だが、その毛色は灰色でも茶色でもなかった。
生まれたての雪のように、混じりけのない純白だった。
ヴァルターが、藪の陰から群れを数えた。
「フォレストウルフ……4頭です」
「仲間を囲んでいるんでしょうか」
「違います。あの白い子を攻撃しています。……毛色が、違うからでしょう」
1頭の狼の牙が、白い子の後ろ足に深く突き刺さった。
鋭い悲鳴が木立に木霊した。
考えるより先に、ラースの足が地面を蹴っていた。
「やめろ!」
ラースは藪を突き破って飛び込み、両手を伸ばして白い身体を抱え込んだ。
全身の毛を逆立てた子が、ラースの革の手甲と腕の肉へ激しく噛みついてくる。
鋭い痛みが走ったが、ラースは腕を解かず、背中を丸めて子を腹の下へ覆い隠した。
別の狼がラースの無防備な肩を狙って跳びかかった。
だが、その鼻先に剣の腹が叩き込まれた。
ヴァルターが割り込み、剣の平で狼の体を横へと弾き飛ばす。
間髪を入れず、馬車の輪止め棒を構えたホルストが、地響きを立てて突進してきた。
「すっこんでなさい、駄犬ども!」
凄まじい風切り音とともに棒が岩を砕き、破片が弾け飛んだ。
狼の群れは腰を抜かしたように後ずさり、尻尾を巻いて林の奥へと逃げ去っていった。
「まったく、昼下がりの仕事の邪魔をして……あら、いいお肉……って、ちょっとラース、何抱えてんのよ!」
言いかけたホルストの声が、ラースの腕の中を見て跳ね上がった。
*
木立の奥に、風の音だけが戻ってきた。
ラースの腕に食い込んでいた白い子の牙が、ゆっくりと緩んだ。
革の手甲には血が滲んでいたが、ラースは抱く力を緩めなかった。
白い子は全身を激しく震わせ、怪我をした右の後ろ足を丸めていた。
大股で歩み寄ってきたブルーノが、ラースと白い子を見下ろした。
「ラース! 素手で野生の魔物に飛びつく奴があるか! 魔物は魔物だ。そいつを置いて、群れに戻せ」
「返したら、死にます! あいつら、この子を噛み殺そうとしてました」
「それが群れの決めたことだ。人間が手を出す筋じゃねえ」
「でも、目の前で見捨てたら、俺は後悔します!」
ラースは地面に膝をついたまま、一歩も引かずにブルーノを見上げた。
馬車から救急箱を抱えて駆けつけてきたマルタが、ラースの隣へ膝をつく。
「頑固な小僧だな。……ちょっと見せろ」
「マルタさん……」
「右の後ろ足、肉が裂けてるが骨は無事だ。放っておきゃ化膿して野垂れ死にだろうよ」
「手当て、できますか」
「道具屋の包帯巻きを舐めるなよ。添え木を当てるから、頭を押さえてろ」
「はい」
「大人しくしてろ。噛んだら承知しないぞ」
職人の確かな手つきで傷口を縛ると、子は痛みに小さく鼻を鳴らしたが、それ以上は噛みつこうとしなかった。
ブルーノは腕を組み、長い息を吐き出した。
「おいラース。聞け」
「はい」
「テイム前の魔物の同行は、本来は王立測量隊の規定で認められねえ。隊の安全にも関わる問題だ」
「俺が面倒を見ます。自分の飯を半分分けます!」
「飯の問題じゃねえ。……王都に帰ったら、お前が正式にテイマーの資格を取れ。それまでは、俺の責任で預かる。それが条件だ」
ラースは顔を上げた。
「覚えます! 必ず資格を取ります!」
「返事だけは威勢がいいな。……おいホルスト、水と布を持ってこい。ラースの腕も手当てだ」
ホルストはすでに、温めた湯で細かくふやかした干し肉を小皿に盛って持参していた。
「はいはい、お説教はおしまい。身体が冷え切ってるじゃないの。ほら、口元に持っていくわよ」
「ホルストさん、それ……」
「干し肉を細かく刻んで、ぬるま湯でふやかしたのよ。子犬でも食べられるわ」
肉の香りが鼻先に届くと、白い子の耳がぴくりと動いた。
ラースの手のひらから、小さな桃色の舌で、恐る恐る肉の小片を舐め取り始めた。
「……あ、食べた」
「ふふ、食欲があるなら大丈夫ね」
*
西の尾根に日が落ち、山肌が茜色から藍色へと移り変わるころ、荷馬車は帰路についていた。
荷台の毛布の上で、白い子はラースの膝に丸まり、温かな寝息を立てていた。
道具箱に腰掛けたイルゼが、その寝顔を覗き込む。
「真っ白ですね。まるで雪の欠片みたい……『フロッケ』、ですね」
「フロッケ……」
「昔の言葉で、雪のひとかけら、という意味です。北部の山にぴったりだと思いませんか?」
御者台で手綱を握るブルーノが、前を向いたまま唸るように言った。
「名前なんざ付けるな。情が移る」
「でも隊長、呼び名がないと不便ですよ」
「『白いの』で十分だ」
ラースは膝の上の柔らかな白い毛を、指先で優しく撫でた。
「フロッケ……いい名前です」
膝の上で、白い三角の耳がかすかに揺れた。
馬車の下方、深い谷底の薄闇の中に、鉱山町の街灯の橙色の光が、ひとつ、またひとつと灯り始めていた。




