第007話:子爵家の次男
午後の日差しが、鉱山町の急な石畳を白く照らし出していた。
谷底に淀んでいた朝の冷気は抜け、荷車が巻き上げる鉱石の粉塵が、微かに鼻を突く。
ラースは書類を収めた革鞄を肩に掛け、坂道を上っていた。
鉱山町は、谷の斜面を削って階段状に家々が張りついている。
下層には鍛冶屋や精錬所が連なり、槌を振るう音や荷車の軋みが絶えない。
だが、中層を過ぎるにつれて道幅は広がり、石造りの屋敷が並ぶ人通りの少ない通りへと変わっていった。
道幅はおよそ4メートル、勾配は12度ほど。
一段ごとに15センチメートルほどの石段が刻まれている。
前を行くブルーノは、普段の作業着ではなく、仕立てのいい濃茶の外套を着込んでいた。
だが、首元の留め金を一番上まできっちり留めているせいで、分厚い肩が窮屈そうに固まっている。
ブルーノの後ろには、無駄のない足取りでヴァルターが続いていた。
上層の貴族街へ続く石の門の手前で、ブルーノが足を止めた。
眉間に深い皺を刻んだまま、振り返って2人を見下ろす。
「いいか。これから行くのは、この町と鉱山を治めるアルブレヒト伯爵の館だ。俺の実家より格上の家だ」
「はい」
「俺は今から、丁寧語で話す。お前たちは、頼まれるまで一言も喋るな。余計な口を利いたら、後で骨を折るぞ」
ブルーノの口から出た言葉を、ラースは頭の中で反芻した。
「隊長が、丁寧語……ですか?」
「なんだその顔は。文句があるのか」
「いえ、想像がつかなくて」
「うるせえ。俺だって子爵家の生まれだ。子どもの頃は家庭教師に頭を叩かれながら叩き込まれたんだよ」
「子どもの頃って……何年前ですか」
「余計な計算をするな。笑うなよ、礼儀ってのはそういうもんだ。……行くぞ」
ブルーノは喉の奥で息を吐き出すと、踵を返して門をくぐった。
ラースの隣で、ヴァルターが短く応じた。
「心得ています」
「ヴァルターさんは、平気なんですか」
「慣れています。貴族の護衛も務めましたので」
ヴァルターは歩調を乱さず、石段を上っていった。
*
坂の頂に据えられた領主の館は、頑丈な灰色の花崗岩で組み上げられていた。
鉄格子の門をくぐると、外の喧騒が遮られ、石造りの冷えた空気だけが漂っている。
銀の鎖を首に提げた老齢の執事に案内され、執務室へと通された。
壁一面の本棚には分厚い台帳が並び、高い窓からは谷の斜面に連なる鉱山町が一望できた。
部屋の中には、パイプ煙草の引き締まった香りと、磨かれた木材の匂いが染みついている。
奥の扉が開き、50代ほどの落ち着いた風貌の男が現れた。
白髪の混じった髪をきれいに撫でつけ、上等な濃紺の胴着を身にまとっている。
この地を治めるアルブレヒト伯爵だった。
重厚な机の向こうに伯爵が腰を下ろすと、ブルーノが一歩前に進み出た。
直立不動の姿勢のまま、深く頭を下げる。
「ご無沙汰しております、アルブレヒト閣下。王立地図局測量室の、ブルーノ・フォン・リンデンタールで……あります。本日は、管轄地域の測量開始に伴うご挨拶と、調査へのご協力を要請に参りました」
金属を擦り合わせたような、不自然に硬い声だった。
ラースは背筋を伸ばしたまま、肩を震わせそうになるのを必死に堪えた。
あの粗野で声の大きい隊長が、まるで新兵のようにぎこちなく言葉を並べている。
アルブレヒト伯爵は革張りの椅子の背に身を預け、片眉を持ち上げた。
「おいおい、誰かと思えばブルーノか。なんだその、喉に小石でも詰まったような挨拶は」
「……公務ゆえ、礼儀を尽くしている所存です」
「リンデンタール子爵家の暴れん坊次男が、そんな行儀の良い口を利くとは驚いたな。王都の夜会から逃げ出して山野をほっつき歩き、親父殿を真っ青にさせた男が、よもや王立の隊長殿として挨拶に来るとは」
伯爵の口調には、悪意のないからかいが滲んでいた。
机の上に置かれた眼鏡をつまみ上げ、小さく息を漏らしている。
「兄のユリアン殿は王都の財務省で立派に役目を務めているというのに、次男のお前は家を飛び出して泥まみれで野山を歩き回っていると聞いていたが……まさか本当にその格好で現れるとはな」
「……兄とは、道が異なりますゆえ。昔のことは、関係ございま……いえ、関係ありません。王命による測量隊として、参内いたしました」
ブルーノのこめかみが、ひくりと動いた。
丁寧語を維持しようとするあまり、語尾が奇妙に跳ねている。
ラースは必死に唇を噛み締め、喉の奥に込み上げてくる笑いを押し殺した。
横に立つヴァルターは、直立した姿勢のまま、呼吸の乱れひとつ見せない。
*
伯爵は机の上に置かれた書類挟みに手を伸ばし、真鍮のペーパーナイフを指先で弄んだ。
「王命の測量、か。北の奥に地図のない土地があるのは知っているが、我が領の町まで測り直す必要があるのかね」
「北部全域の現場図を統合する方針です。街道と地形の正確な記録は、有事の防衛や物資輸送にも資するもので……あります」
「ふむ。地上の道なら、好きに歩くがいい。だが、鉱山の中は別だ」
伯爵はペーパーナイフを机に置き、腕を組んだ。
「坑道の測量は、協力できん」
ブルーノが硬い姿勢のまま問い返した。
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
「簡単なことだ。今、この山は北から下りてきた魔物の件で手一杯なのだよ。それに……古い坑道には、いつ崩落が起きてもおかしくないところもある。そんな危険な場所へ、役所の調査隊を招き入れる余裕はない」
「護衛の者を同行させておりますし、測量自体は坑道の安全確認にも寄与すると考えま……す」
「駄目だ。現場を知らん役人の理屈だ。何か事故でも起これば、全責任を負うのはこの私なのだからな」
伯爵の指が、机の縁を2度叩いた。
ブルーノが言葉に詰まり、奥歯を噛み締める音が微かに響いた。
その時だった。
ブルーノの後ろに控えていたラースが、思わず一歩を踏み出していた。
「あの、失礼します! 坑道の正確な地図があれば、岩盤の厚みや、どこが崩れやすいかも事前に分かるようになります。測ることは、危険を避けるための作業です!」
伯爵の手が、茶器へ伸びかけた姿勢のまま、ぴたりと止まった。
手を止めたまま、首だけをわずかに動かして、ラースの顔を見た。
ラースは何が起きたのか分からず、ただ自分の言った正論の手応えを待っていた。
だが次の瞬間、左足の先に鈍い重みがのしかかった。
ブルーノの重い革靴の踵が、ラースの爪先を容赦なく踏みつけていた。
ラースの喉から、声にならない悲鳴が漏れかけた。
ブルーノは前を向いたまま、顔の筋肉を硬直させて頭を下げた。
「……部下が、差し出がましい口を利き、大変失礼いたしました」
ラースの肩に、ヴァルターの大きな手が置かれた。
ヴァルターが半歩前に出て、頭を下げる。
「見習いゆえの若輩です。ご無礼をお許しください」
伯爵は止まっていた手をゆっくりと下ろし、深く息を吐き出した。
「……威勢のいい新人を連れているな。だが、駄目なものは駄目だ。坑道への立ち入りは許可せん。地上の尾根を歩く程度なら止めはせんがな」
伯爵はそれ以上、何も言わなかった。
*
領主館の重い鉄門が、背後で重々しい音を立てて閉ざされた。
衛兵の姿が見えなくなる坂道の角を曲がった瞬間、ブルーノが猛然と振り返った。
濃茶の外套をばさりと翻し、ラースの胸ぐらに迫る。
「ラース! てめえ、誰の前で勝手に口を開いてんだ!」
怒号が、石畳の小道に響き渡った。
丁寧語の欠片もない、いつもの荒々しい親分口調だった。
ラースは痛む左足を引きずりながら、両手を上げて後ずさった。
「い、痛いです隊長! 足の骨が折れたかと思いました!」
「折れりゃよかったんだ! 伯爵の執務室で見習いが割って入る馬鹿がどこにいる! 俺が踏み潰さなかったら、不敬で地下牢に叩き込まれてたところだぞ!」
「すみません……つい、地図があれば安全だって分かってもらえると思って……」
「相手は一国の領主だ! 平民の小僧が正論ぶつけて通るような甘い相手じゃねえんだよ!」
ブルーノは頭を抱え、荒い息を吐き出した。
脇に立っていたヴァルターが、口を挟んだ。
「隊長の踏み込みは、手加減されていました。骨には異常ありません」
「当たり前だ、本当に折ったら明日から荷物持ちがいなくなるだろうが!」
ブルーノは怒鳴り返したが、そこで足を止め、坂の上にある灰色の館を見上げた。
太い腕を組んだまま、しばらく動かなかった。
「……だが、あいつ、お前の一言で完全に手が止まったな」
「え?」
「魔物が危険だの落盤だのと言ってたが、本当の理由はそれだけじゃねえ。図面を引かれちゃ困る何かが、あの穴の中にある」
「俺の一言が、役に立ったんですか」
「立ってねえ。たまたまだ。次に勝手に喋ったら、今度は両足だぞ」
*
町外れの広場に戻ると、荷馬車の周りには夕方の風が吹き始めていた。
ブルーノは馬車の荷台から現場図の控えを取り出し、板張りの荷台に広げた。
「坑道の中は駄目でも、地上の山と谷は王命の範囲内だ。文句は言わせねえ」
「はい」
「明日は朝から、町の周りの尾根を測るぞ。足を冷やして寝ろ、ラース」
「大丈夫です。もう走れます」
「走るな。歩幅が狂う」




