第006話:白い余白
夜明けの冷気が、鉱山町の谷底に淀んでいた。
急な石畳の坂道には、角灯を手にした坑夫たちの足音が低く響いている。
町外れの広場で、ラースは荷馬車の幌を留める麻縄を引いて、結び目を確かめていた。
御者台から下りたブルーノが、外套の留め金を締め直しながら、革の書類挟みを小脇に抱えた。
「ラース、ヴァルターを連れて、ギルドの支部へ行ってこい。写しを受け取るだけだ。俺は役場へ行って、領主への取り次ぎを頼む」
「了解です。数字も照合してきます」
ブルーノは短く頷くと、大股で坂道を上っていった。
ラースは革鞄を肩に掛け、馬車の脇に立っていたヴァルターへ声をかけた。
「行きましょう、ヴァルターさん」
「ええ」
2人は並んで、斜面に張りつく長屋の間を下り始めた。
道幅は2メートルほどで、荷車が通るたびに壁際へ寄らなければならない。
背筋を伸ばして歩くヴァルターの横顔を見上げ、ラースは昨日の出来事を口にした。
「ヴァルターさん。昨日、ギルドを出る時、奥の席の冒険者に見られていたんです」
「武器に手をかけていましたか」
「いえ。ただ、俺から目を離さなくて」
「でしたら、私が前に立ちます。相手が誰か、見ておきます」
前方を下る荷車の動きを追いながら、ヴァルターは短く答えた。
*
ギルド支部の重い樫の扉を押すと、冷えた空気とともに、ランプの油と古い紙の匂いが漂ってきた。
朝の広間には、夜通しの探索を終えた冒険者が数人、長机で酒の残りを飲んでいる程度だった。
高い仕切りの奥には、昨日の受付職員が座っていた。
ラースとヴァルターの姿を認めるなり、職員は羽ペンを置き、姿勢を正して立ち上がった。
「お待ちしていました。王立測量隊の方ですね」
「はい。昨日の記録の写しを受け取りに来ました」
職員は手元の棚から、乾いたばかりの墨の匂いが残る羊皮紙を3枚、木製の台の上へ並べた。
「昨日の野帳、昨晩のうちに支部長が直接確認いたしました。北の坑道周辺で出没していた影の報告と、爪痕の高さや幅が一致しているとのことです。正式な記録として受理されました。こちらが照合済みの写しです」
ラースは紙の上に身を寄せ、並んだ文字と数字を指で追った。
爪痕の高さも、筋の数も、見積もりの外れの注記も、ブルーノが野帳に記したとおりに書き写されていた。
数字は、1つも違っていない。
「ありがとうございます。数字も全て合っています」
ラースが写しに手を伸ばした時、背後で板敷きがきしむ音がした。
「やっぱり、お前か。ラース」
低く張りのある声だった。
振り返ると、擦り切れた革鎧を着け、腰に剣を佩いた青年が3歩手前で足を止めていた。
短く刈り込んだ茶髪に、角張った顎。
養成施設で同じ班にいたディルクだった。
後ろには、鉄の盾を抱えた男と、軽装の男が控えている。
「ディルク……」
「昨日、奥の席から見てたんだ。見覚えのある跳ねっ毛がいると思ってな。本当にこんな北の端まで来てたとはよ」
ディルクは肩を揺らして鼻を鳴らした。
だがその時、ディルクの後ろに立っていた盾持ちの男が、ヴァルターの立ち姿に気づいて息を呑んだ。
男はディルクの肩を小突くようにして、声を潜めた。
「おい、ディルク……あの人、王都の……」
「なんだよ、人の話の邪魔すんな」
「違う、あそこに立ってる人……最上位冒険者の、ヴァルターさんじゃないか? 王都のギルド本部で見たことがある。あの構えと顔立ち……間違いない」
「は? 最上位って……養成施設で、手本に名前が出てた、あのヴァルターさんかよ」
ディルクの言葉が途切れた。
ヴァルターは騒ぐ風もなく、ディルクたちへ向き直って答えた。
「元、です」
「元って……本当なのか……?」
ディルクと2人の仲間は、その場で足を止めたまま固まった。
*
ディルクは喉を鳴らし、ヴァルターの腰の剣へ目を落とした。
「元って……あの最上位が、なんでお前と一緒にいるんだよ」
「王立測量隊の護衛として、一緒に旅をしてるんだ」
「私が、こちらを選びました」
ディルクの眉が寄った。
ラースの簡素な隊服と、肩に掛けた革鞄を上から下まで見下ろす。
「測量隊? ……おい、お前、本当に地図屋になったのか?」
「ああ。王立測量隊の見習いだ」
「冗談だろ。お前、養成施設じゃ上位グループにいただろ。剣も魔法も両方使えて、教官からも推薦が出てたはずだ。なんでそんな地味な役所の仕事やってんだよ。冒険者になれば、いくらでも稼げただろうに」
「金のためにやってるわけじゃないからな」
「金にならねえ仕事なんて、ただの骨折り損だろうが」
ラースはディルクの顔を見た。
目の下には黒い隈が濃く落ち、革の手甲は岩肌で擦れて白く毛羽立っている。
腰に下げた剣の握り革も、汗と坑道の埃で黒く変色していた。
「ディルクたちは、ここで何をしてるんだ?」
「北の山で魔物が動いてるってんで、坑道の警備に呼び出されたんだよ。毎日地下へ潜って、いつ崩れるか分からない穴の中で、松明の煙に巻かれながら見張りだ。骨が折れるなんてもんじゃねえ」
「坑道の奥まで入ってるのか」
「ああ。第3坑道の分岐あたりまでな。いつ奥から這い出してくるか分からねえから、夜もろくに眠れねえよ」
ディルクは手甲の指先で首の後ろを乱暴に擦った。
ラースはその疲れた肩の落ち方を見て、すぐに言葉を返すことができなかった。
*
養成施設の広間は、卒業の日の熱気でざわついていた。
高い石造りの天井の下、長机には封蝋の押された分厚い封書が山積みにされていた。
南の街道を行く商隊の護衛、近郊の丘に巣食う魔物の討伐、上位クランからの勧誘状。
教官から名前を呼ばれた同期たちは、封書を受け取るたびに歓声を上げた。
前金や報酬の額を仲間同士で見せ合い、肩を叩き合っている。
ディルクも大商会の専属護衛の依頼書を手に、分厚い羊皮紙を手のひらに打ちつけていた。
ラースの名前が呼ばれた時、手渡されたのは薄い公文書だった。
封筒にも入っていない、ただの紙が1枚きりだった。
一番上には、黒い墨で『王立地図局測量室 配属通知』と印刷されていた。
書面を渡した教官の手が、すぐには離れなかった。
「本当に、これでいいんだな。お前なら、指名は選び放題だぞ」
「はい。これでお願いします」
教官はラースの顔を見て、ようやく手を離した。
横から、ディルクが書面を覗き込んだ。
「地図屋? なんだそれ」
ディルクは書面の文字を指で弾いた。
「お前、上位グループだろ。指名依頼だって引けたはずなのに、役所の机仕事か?」
「机仕事じゃないよ。現場を歩く仕事だ」
「山歩きかよ。そんなの冒険でも何でもねえだろ」
周囲の同期たちからも、乾いた笑いが起きた。
だが、その配属はラース自身が選んだものだった。
養成施設の渡り廊下の壁には、何十年も前に作られた王国の大きな地図が貼られていた。
南の平野や東の港町は、幾筋もの街道や河川、町の名を示す記号で黒々と埋め尽くされていた。
しかし、北の山脈を越えた先だけは、墨の線がぷつりと途切れていた。
山脈の向こうには、ただ広大な、白い羊皮紙の地肌が広がっていた。
町も、道も、山の高さを示す線も、何ひとつ描かれていなかった。
夜、寄宿舎の明かりが消えたあと、ラースは冷たい廊下を裸足で歩いた。
高い窓から差し込む月明かりの下、地図の前に立った。
墨の線が途切れている場所へ、人差し指を伸ばした。
北の白い余白を、指の腹でなぞった。
指先に、乾いた羊皮紙のざらつきが触れた。
誰も歩いていないその白い場所を、自分の足で確かめたかった。
*
床板を擦る革靴の音が、ラースの意識を現在の広間へと引き戻した。
ディルクは腰の剣帯に親指を引っかけ、ラースの返答を待っていた。
ラースはディルクの正面に立ち、言葉を返した。
「依頼書に書いてある場所には、お前たちが行くだろう」
「あ?」
「依頼書には、どこへ行って何を倒すかが全部書いてある。だけど俺は、紙にまだ書かれてない場所を見たいんだ」
「紙に書かれてない場所だと?」
「そうだ。道のない山を歩いて、崖の高さを測って、白紙のところに線を引く。俺は、そのためにここへ来た」
ディルクは何か言いかけて、喉を動かした。
「そんなもの、誰かが後から勝手に書けばいいじゃねえか」
「誰かが書くのを待ってたら、俺は一生そこへ行けない」
ラースの横で、ヴァルターが半歩前に出た。
低く、よく通る声だった。
「彼の野帳は、正確です」
ディルクと2人の仲間は、何も言い返さなかった。
ディルクは舌打ちをして、入口の方へと背を向けた。
「……わけ分かんねえよ。わざわざそんな、泥臭い仕事を選ぶなんてな」
ディルクは踵を返し、仲間を引き連れて重い樫の扉へと向かった。
だが、鉄の掛け金に手をかけたところで、立ち止まった。
背を向けたまま、ディルクが言った。
「……おい、ラース」
「ん?」
「……地図ができたら、見せろよ」
「ああ。できたらな」
返事を聞くと、ディルクは扉を押し開けて出ていった。
2人の仲間が、慌ててそのあとに続いた。
*
扉が閉まり、広間には朝の埃が薄く舞っていた。
ラースは台の上の羊皮紙を3枚、両手でまとめた。
机の縁に紙の端を2度当てて、角をきれいに揃えた。
革鞄の口を広げ、折り目をつけないよう奥へと収める。
真鍮の留め金を、ぱちりと締めた。
ヴァルターが先に入口へ進み、分厚い樫の扉を押し開けた。
鉱山町の冷たい朝の光が、足元へ差し込んでくる。
坂の上では、役場から戻ったブルーノが、書類挟みを高く掲げていた。
ラースは鞄の肩紐を掛け直して、あとに続いた。




