第005話:石の町と野帳
朝の冷気が残る運搬路を、馬車は車輪を軋ませながら下っていった。
踏み固められた砕石が車輪の下で擦れ合い、乾いた音を谷間に響かせる。
急な尾根の影を回り込むと、深く切れ込んだ谷底に、灰色の家々が張りついた町が見えてきた。
「見えましたね。昨夜、遠くに見えていた灯りの場所ですか」
「ああ。あの谷底に押し込められた石の塊が、魔石の鉱山町だ」
御者台で手綱を握るブルーノが、片手を離して谷底を示した。
ラースは身を乗り出し、斜面にへばりつく町の構造を見渡した。
谷の傾斜はおよそ20度。
岩肌を階段状に削った狭い段丘に、黒ずんだ石造りの長屋が何段にも重なり合っている。
山肌のあちこちには、太い角材で補強された四角い坑道の口が、黒々と口を開けていた。
坑口の高さはおよそ3メートル。
谷底へ向けて、鉄の車輪を軋ませる荷車の列が続き、白い煙が幾筋も立ち上っている。
谷底の街路には朝の光がまだ届かず、魔導具の街灯が橙色の灯りを投げかけていた。
坑道から出てきた荷車の麻布の継ぎ目から、拳ほどの石が覗いていた。
灰色の岩肌の割れ目から、街灯と同じ橙色の光がにじんでいる。
町の入口には、丸太を組んだ頑丈な柵と門番小屋が置かれていた。
槍を手にした衛兵が2人、往来する坑夫や荷車を厳しい目つきで改めている。
御者台のブルーノが手綱を引き、門の前で馬車を止めた。
「王立の測量隊だ。街道を測りながら北へ抜ける。町で補給をしたい」
衛兵の1人が馬車の幌と積荷に目を向け、鼻を鳴らした。
「測量隊? ああ、王都の地図屋か。商売の邪魔だけはしてくれるなよ」
「何かあったのか」
「北の山から魔物が下りてきてるって噂で、坑道も街道もぴりぴりしてんだよ。うろちょろして巻き込まれるなよ」
「忠告ありがとよ。邪魔はしねえさ」
ブルーノは短く答えると、促すように手綱を軽く振った。
ラースは門をくぐる前に、谷の北の稜線を振り返った。
あの向こうに、図が丸く空いたままの湖がある。
馬車は軋んだ音を立てて門をくぐり、谷底の荷車だまりへと入っていった。
*
町外れの荷車だまりに馬車を停めると、ブルーノが全員を見回した。
「俺は役場へ行って、次の行程の路銀を受け取ってくる。道具の手入れと食料の補給を済ませたら、昼過ぎに市場の広場に集合だ」
「馬車番は私が引き受けます。荷から目を離しません」
ヴァルターが馬の背に掛け布を掛けながら、短く応じた。
ラース、ホルスト、マルタ、イルゼの4人は、手分けして町の市場へと向かった。
斜面に作られた町は坂と石段ばかりで、道幅も2メートルほどしかない。
ラースは空の竹籠を背負い、ホルストの巨体のあとに続いて細い路地を歩いた。
市場の広場には粗末な木組みの屋台が並び、塩漬けの豚肉や乾燥豆、根菜が山積みにされている。
「ちょっとアンタ、このキャベツ、外側の葉がすっかり黄色くなってるじゃないの!」
ホルストが太い腕を腰に当て、屋台の店主に鋭い声を飛ばした。
「ええ? 山越えで運んできたんだから、これくらい普通だろ」
「何言ってるのよ。芯のところも少し緩んでるわ。この乾燥豆も袋ごとまとめて持っていくから、2割はまけなさい!」
「に、2割は勘弁してくれよ……」
「なら、そっちの干し肉の端切れを掴み取りでオマケにつけなさい! それで手打ちにしてあげるわ!」
「ま、待ってくれ。あんたのデカい手で掴み取りなんかしたら、全部持ってかれちまう」
ホルストの迫力に押され、店主は額の汗を拭いながら手早く包みを作った。
背負い籠に次々と食材が詰め込まれていく。
「さすがですね……」
「あたしは金物屋を見てくる。運搬路の振動で、車輪の留め金がだいぶ擦り減ってた」
マルタが腰の道具袋を揺らし、通りの向かいにある金物屋の店先へと歩いていった。
並べられた金具を手にとって確かめるなり、マルタの声が店先から響いてくる。
「これ、鍛造の焼きが甘くありませんか。馬車の車軸に使うので、もっと粘りのある鉄の留め具をお願いします」
道具の話になった途端、丁寧な職人の口調に切り替わっていた。
市場の片隅で、イルゼが立ち止まり、石壁に固定された街灯を見上げていた。
「どうしました、イルゼ」
「……この街灯の魔石、かなり輝きが鈍っていますね」
「魔石の光って、だんだん薄くなるんですか」
「はい。使うほどに内包魔力が減りますから。補充すれば戻りますが、そのたびに少しずつ劣化します」
イルゼはだぶだぶの袖から指先を出し、真鍮の枠の構造を熱心に見つめていた。
すれ違う坑夫たちは、背負い籠を抱えたラースたちを一瞥するだけで、足早に通り過ぎていく。
そこへホルストが、屋台で買った黒パンを2つ提げて戻ってきた。
肉と刻んだ根菜を挟んだ、坑夫向けの弁当だという。
「硬いけど、味は悪くないわよ。立ったまま食べちゃって」
ラースが齧りつくと、黒パンは歯が立たないほど硬く、噛むたびに塩漬け肉の塩気と、根菜の酸味が滲み出た。
イルゼは片手にパンを持ったまま、街灯から目を離さない。
*
正午を過ぎたころ、役場での用事を終えたブルーノが、重い革袋を懐に入れて合流した。
ヴァルターを馬車番に残し、ブルーノとラースの2人で冒険者ギルドの支部へと向かった。
支部は、谷の斜面を大きく切り拓いた平場に建つ、頑丈な石造りの建物だった。
厚い樫の木の扉を押し開けると、鉄と油と汗の匂いが混ざり合った熱気が押し寄せてくる。
酒場を兼ねた広い広間には、重装備の護衛や坑道警備の冒険者たちが腰を下ろし、低い声で話し合っていた。
正面の受付カウンターへ歩み寄り、ブルーノが懐から使い古した野帳を取り出した。
「街道沿いで仕留めた魔物の記録を持ってきた。北部の記録帳に反映してくれ」
カウンターの奥で羊皮紙の束を揃えていた受付の職員が、眼鏡越しに顔を上げた。
「討伐の報告ですか? ギルドの登録票を……おや、王立地図局? 地図屋さんですか」
職員は手元の野帳を見下ろし、眉根を寄せた。
「地図屋さんの記録ですね。分かりました、手が空いたら後で目を通しておきますので、そこに置いておいてください」
職員は野帳を開こうともせず、カウンターの隅へと押しやった。
ブルーノがカウンターに分厚い掌を叩きつけた。
「後じゃ困るんだよ。街道の安全確認と、あんたらの危険度等級に関わる記録だ。今すぐ見ろ」
硬い音に、周囲の冒険者たちがちらりと顔を向けた。
職員は溜息を落とし、カウンターの隅から野帳を引き寄せてページをめくった。
「危険度等級と言われましてもね。地図屋さんの目測なんて……ん? ジャイアントベア? 馬鹿な。あの森の縄張りは中位以下のはずですよ。過去数年の記録でも、大型の熊種なんて報告は……」
「爪痕は、街道から10メートルも離れていない木の幹に残っていました」
ラースが一歩前に進み出て、はっきりとした声で言葉を継いだ。
「高さは地面からおよそ2メートル。人間の手の幅より広い、5本の深い筋でした」
職員の手が止まった。
「現れた個体は、立ち上がれば3メートルを超える巨体でした。ギルドの見積もりは中位以下でしたが、実際は上位の個体です。隊長が剣の一撃で倒しました」
ラースは野帳に目を落とさないまま、数字を口にしていた。
職員は背筋を伸ばし、野帳に刻まれたブルーノの簡潔な筆跡と数字を指先でなぞった。
ラースは、いつの間にか握りしめていた拳を、そこで緩めた。
「地面から2メートル……それほどの高さに……」
「街道のすぐ脇です。隊長は、北の奥から縄張りを移してきた個体だろう、と話していました」
職員は野帳から顔を上げ、ラースとブルーノの顔を交互に見つめた。
「……失礼しました。確かに、ただの当て推量ではありませんね。実はこの数日、北の坑道の周辺で、坑夫たちから『大きな黒い影を見た』という報告が相次いでいたんです。方角も時期も、この記録と完全に一致します」
「森の縄張り争いに負けた個体か、餌を追って山を下りてきた奴だな」
「ええ、その可能性が極めて高いです。この記録は、支部長にも直接確認してもらう必要があります。写しを取らせてください。精査した上で正式な記録として受理しますので……恐れ入りますが、明日、もう一度窓口へ来ていただけますか」
「分かった。明日の朝、また来る」
ブルーノは短く頷くと、踵を返して出口へと歩き出した。
ラースがあとに続くと、広間の奥の席で、椅子を引く音がした。
振り返ると、若い冒険者の一団のうち1人だけが、こちらに顔を向けたまま動かなかった。
*
夕暮れ時、町外れの荷車だまりには、山から吹き下ろす冷たい風が通り抜けていた。
馬車の脇では、白いエプロンを着けたホルストが焚き火の上に鉄鍋を据え、湯気を立ち上らせていた。
市場で仕入れた塩漬け肉の細切れと、たっぷりの乾燥豆、根菜を煮込んだ簡素なスープだ。
器に注がれた熱い汁からは、香辛料の引き締まった香りが漂っていた。
「はいはい、できたわよ。坂道を歩き回って冷えた身体には、熱いスープが一番なんだから」
湯気の立つ椀を受け取り、ラースは木匙で熱い豆とスープを口に運んだ。
豆は芯までほくほくと崩れ、塩漬け肉の脂が汁に溶けている。
馬車の車輪の点検を終えたマルタが、木匙を動かしながら笑った。
「ざまあみろだな。お役所の図面引きだと侮るからそうなるんだ」
「受付の人、野帳の数字を指でなぞってました。地面から2メートルのところを、何度も」
「あら、数字を並べてやったら、あの受付、途端に姿勢を正したんでしょ? 見てやりたかったわ」
ホルストも木椀を抱え、大きく頷いた。
ラースは手元の椀を見つめ、隣の木箱に腰掛けているブルーノを見上げた。
「隊長。やっぱり、どこへ行っても最初は『地図屋』って言われるんですね」
ブルーノは木匙を椀の縁に置き、斜面に連なる橙色の街灯を眺めた。
「言わせておけばいい。あいつらがどう呼ぼうが、縄で測った1メートルも、野帳に書いた数字も、減りゃしねえ」
「……はい。明日、写しの数字が1つでも違ってたら、読み上げて直してもらいます」




