第004話:山菜と影法師
朝露に濡れた幌の留め紐を解き、ラースは荷台の奥へ木箱を押し込んだ。
谷底から吹き上がってくる風には、かすかに昨夜の硫黄の匂いが残っている。
車軸の点検を終えたマルタが、木槌を腰の帯に差しながら油布で手を拭いた。
「油も差しましたし、留め金も締め直しました。山道でも軋みません」
荷台の縁に腰掛けたイルゼが、だぶだぶの袖口を引いて小さく欠伸をした。
「あ、おはようございます、ラース」
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか」
「ええ、湯が温かくて……わたし、まだ少し頭がぼんやりしています」
「俺もです。温泉のあとって、身体が軽くなる分、眠気が残りますよね」
御者台の脇で、ブルーノが昨夜仕上げたばかりの現場図を広げて手招きした。
「おい、集まれ。今日の道順を伝えるぞ」
作業の手を止め、全員が現場図の周りに寄ってくる。
ブルーノが太い指先で、羊皮紙に描かれた温泉の波線から北へと延びる線をなぞった。
「あの湖へ真っすぐ進みたいところだが、北の谷は深すぎて馬車が通れねえ。だから西へ回って、鉱山の運搬路を迂回する」
「迂回、ですか」
「ああ。遠回りにはなるが、荷車が通る道だから踏み固められてる。俺たちの馬車でも安全だ。鉱山町を経由して、食料と道具を補給してから湖を目指すぞ」
荷台のロープを引き絞っていたヴァルターが、短く口を開いた。
「運搬路なら、道幅は足ります」
ブルーノは現場図を丸めて道具箱へ放り込む。
「そういうこった。荷車隊の往来もある。さっさと出るぞ」
*
温泉の谷を抜け、馬車は山肌を削って作られた広い運搬路へと合流した。
道幅はおよそ4メートル。
土と砕石が幾度も踏み固められ、重い荷車が通る深い轍が二筋刻まれている。
勾配は5度ほどの緩やかな上り坂で、馬の足取りも安定していた。
正午前、前方から車輪の軋む重い音が響いてきた。
頑丈な荷馬に引かれた荷車が2台、砂煙を上げて坂を下ってくる。
荷台には麻布で固く覆われた重そうな木箱が積まれ、腰に剣を佩いた護衛が数人、街道の先や斜面を警戒していた。
道幅が狭まる岩壁の脇で、互いに馬を寄せて足を緩める。
御者台の端にいたラースへ、すれ違いざまに向こうの御者が煙管をくわえたまま声をかけてきた。
「見ねえ幌馬車だな。行商人かい?」
「いえ、王立の測量隊です。街道を測りながら、鉱山町を目指しています」
「測量隊? へえ、王都の役人さんかい。こんな山奥まで物好きなこった。こっちは鉱山から魔石の原石を運ぶ帰り道だ」
「街道の地図を作っているんです」
「地図ねえ。ご苦労なこった。だが町へ行くなら、気をつけな。鉱山町は最近、魔物のせいでピリピリしてるぞ」
「魔物、ですか。町の中まで出るんですか?」
「いや、町の中にまでは入ってこねえがね。近頃、北の奥から山を下りてくる奴が増えてな。坑道の近くまで嗅ぎ回る始末だ。山越えの護衛も倍に増やしたところよ」
「俺たちも注意しないとですね」
ラースの言葉に、御者は深く頷いてみせた。
御者台のブルーノが片手を軽く上げる。
「情報ありがとよ。気をつけて下りな」
「へいよ。あんたらもな」
荷車隊は乾いた車輪の音を残し、坂の下へと去っていった。
*
午後になり、運搬路の傾斜が少しずつ急になってきた。
日差しが西の稜線へと傾き、岩壁の影が道の上に長く伸び始める。
荷台にいたホルストが、突然御者台の仕切り布を跳ね上げた。
「ちょっと隊長! 馬車を止めて!」
手綱を握るブルーノが眉を寄せた。
「ああん? なんだ急に。車輪の故障か?」
「いいから止めてって! ほら、あそこ! 日当たりのいい斜面を見てちょうだい!」
ホルストが指さす先には、道路脇の切り立った崖下が崩れ、砂利と赤土が広がっていた。
その日当たりのいい斜面一面に、鮮やかな緑の群生が広がっている。
先端をくるんと丸めた若芽が、岩肌を覆うように密集して顔を出していた。
「あれ、極上の山菜よ! 今夜の飯にぴったりじゃないの! アタシ、採ってくるわ!」
「待て待て、馬鹿野郎。ここは山道だぞ。日が暮れる前に峠の平場まで行かねえと、野営地がねえんだ」
ブルーノが手綱を引いて首を横に振るが、ホルストは幌の布を押し広げて身を乗り出した。
「あらやだ、何言ってるのよ。あの群生を見逃すなんて料理人の恥だわ。30分……いえ、15分でいいから!」
「ダメだ。山の夕暮れは早い。さっきの荷車隊の話を聞いただろうが。魔物が出るかもしれねえ道端で、呑気に草むしりなんかしてられるか」
「呑気とは何よ! 毎日干し肉と麦粥ばかりで、アンタたちの胃袋が悲鳴を上げてるのが分からないの? 緑のものを食べなきゃ、肌も荒れるし力も出ないのよ!」
馬車が軋んで停まった脇で、ヴァルターが素早く地面へ降り立った。
腰の剣の柄に親指を添え、谷の向こうの尾根や林の境へ一度だけ顔を向ける。
荷台の奥からマルタが顔を出し、口を挟んだ。
「あたしはどっちでもいいけど、登り坂で馬も息が上がってる。少し休ませるにはちょうどいいだろ」
「わたしも、どんな味か気になります。茹でて食べるのでしょうか」
イルゼまでが身を乗り出して緑の斜面を眺めた。
ブルーノが両手で頭を抱える。
「お前らまで味方するんじゃねえ! 峠を越えるのが遅れたらどうするんだ!」
「遅れないわよ! アタシの足と手の早さを舐めないでちょうだい!」
ラースは手綱を握るブルーノと荷台の顔ぶれを交互に見やり、小さく息を漏らして肩をすくめた。
*
ブルーノが無精ひげを手のひらでじゃりじゃりと擦り、西の尾根を睨みつけた。
「……チッ、分かったよ。だが時間はきっちり区切るぞ」
「本当? 話が分かって嬉しいわ」
「あの突き出た大岩を見ろ。あそこの影が、斜面の白い樺の木に届くまでだ」
ブルーノが太い顎で示した先には、斜面の上にそびえる高さ5メートルほどの岩があった。
西日に照らされた岩の長い影が、東へ向けて伸びている。
目標とされた樺の木までは、影の先端からおよそ3メートル。
ラースが太陽の角度と影の伸びる速さを頭の中で計算した。
あそこの影が3メートル進むなら、およそ20分ほどの時間だ。
「影が木の根元に触れた瞬間に出発する。1秒でも遅れたら置いてくぞ」
「上等よ! ラース、籠を持って手伝いなさい!」
「俺も行きます! すぐ戻りましょう!」
ラースは荷台から竹籠を掴み、ホルストのあとに続いて斜面へ駆け下りた。
斜面の上では、ヴァルターが馬車の脇の岩の上に立ち、風に外套を揺らしながら周囲を油断なく見張っている。
足元の砂利が崩れる中、ホルストは器用に腰を落とし、素早い手つきで若芽を摘み始めた。
「茎の根元は硬いから残すのよ。この先の、くるんと丸まった柔らかいところだけを爪で折るの。ほら、手早くね!」
「こうですか? 爪を立てると、ぷちっと簡単に折れますね」
「そうそう、筋がいいわよ! その調子でどんどん摘んで!」
摘まれた山菜が、次々と籠に放り込まれていく。
斜面の上で砂利を踏む重い足音が近づき、ブルーノが大股で降りてきていた。
「隊長も手伝ってくれるんですか?」
「見てるだけじゃ日が暮れるからな」
ブルーノはぶっきらぼうに言い放つと、大きな手で無造作に山菜を摘み始めた。
ホルストが重くなった竹籠を片腕で抱え直し、摘んだばかりの若芽を指先で軽く弾いた。
「あら隊長、何だかんだ言って手伝ってくれるんじゃない」
「うるせえ。影が届くまでに終わらせるためだ。ほら、そっちの株も取れ!」
岩の影の先端が、樺の木の根元の白い樹皮に触れた。
その瞬間、ホルストの抱える籠は、溢れんばかりの鮮やかな緑で満たされていた。
「時間だ! 全員、馬車に戻れ!」
「ちょっと待って、あと一握り!」
「戻れっつってんだろ、置いてくぞ!」
ブルーノの怒鳴り声が谷間に響き、一行は急いで馬車へと駆け戻った。
*
峠の頂上を越えたすぐ先に、切り立った岩壁が風を遮る手頃な平場があった。
馬車を停めて野営の準備が整うと、清潔な白い布のエプロンを着けたホルストが、手際よく鉄鍋を焚き火にかけた。
湯を沸かして山菜をさっと潜らせ、水筒の冷たい清水で晒してアクを抜く。
干し肉の細切れを刻み、鉄板の上で脂をじっくりと引き出すと、山菜を一気に投入した。
ジュウ、と景気のいい音が立ち、青々とした若草の香りと香ばしい肉の匂いが空き地に広がっていく。
塩と挽いた香辛料でさっと炒め合わされ、配られた木椀の麦飯の上に山盛りに盛られた。
「はい、お待たせ! 冷めないうちにどうぞ!」
見張りの合間に戻ってきたヴァルターへも椀が手渡され、小さく頭を下げて木匙を取った。
続けて自分の分を受け取ったラースは、湯気の立つ椀から木匙で山菜と肉を口に運んだ。
噛むと、小気味よい繊維の歯触りとともに、独特の青いほろ苦さが舌の上に広がる。
噛みしめるほどに干し肉から熱い脂と凝縮された塩気が染み出し、若草の苦味と混ざり合って麦飯を誘った。
「うまいな。油とよく合う」
「青い山の匂いがしますね」
マルタとイルゼが並んで木匙を動かしている。
ホルストが得意げに胸を張り、大鍋の横で腕を組んだ。
「そうでしょ? アタシの言った通りにして正解だったじゃない」
ブルーノは木椀を左手で抱え、木匙を休めることなく動かして豪快に飯をかき込んだ。
最後の一粒まで平らげると、木匙を置いて息を吐いた。
「……悪くねえな。寄り道した甲斐はあった」
「素直でよろしいわ。おかわりもあるからね」
「俺もおかわりいいですか!」
「はいはい、山盛りにしてあげるわよ」
食後、ラースは温まった身体を風に晒そうと、平場の端の岩棚へと歩み出た。
夜の冷気が火照った頬を撫でていく。
見上げれば、黒々と連なる山の稜線が、星明かりの中に鋭い輪郭を描いていた。
その遥か西の深い谷底に、寄り添うような小さな光の粒が集まっている。
風が吹き抜けるたび、遠い焚き火やランプの灯りが、暗がりの中で小さく明滅を繰り返していた。
背後で、ヴァルターの声がした。
「……灯りが、少ないですね。鉱山町にしては」
「え?」
「坑夫の夜勤の灯りが、ほとんど見えません」




