第003話:最初の記号
馬車が軋んだ音を立てて止まった。
ラースが岩棚の端から切り立った谷を見下ろすと、底の方から白い湯気が幾筋も立ち上っていた。
谷底を縫うように走る川の水音が、さらさらと涼やかに響いてくる。
風が谷を吹き上がってくるたび、微かな硫黄の匂いが鼻先をかすめた。
北部の火山群の山麓。
連なる山並みの裾野に刻まれた深い谷の底に、岩に囲まれた自然の窪みがあり、青みがかった白濁の湯が満ちている。
街道からも外れた、人の手の入っていない無人の野天温泉だった。
御者台から飛び降りたブルーノが、谷底を指さした。
「ほら、着いたぞ。北の測量のご褒美だ」
荷台の幌から顔を出したホルストが、両手を叩いて声を弾ませた。
「あらやだ、本当に温泉じゃない! アタシ、10日分の埃をぜんぶ落とすわよ」
「ラース、アンタも落としなさいよ。10日分、結構臭うわよ」
「えっ」
ラースは、思わず自分の袖を嗅いだ。
谷底までの高低差はおよそ15メートル。
斜面に刻まれた獣道のような踏み分け道を見下ろしながら、ラースは荷台の荷を固定するロープを解いた。
*
馬車を岩棚に残し、必要な道具だけを抱えて河原へ降り立つと、硫黄の香気が一段と濃くなった。
湯だまりのすぐ脇を流れる谷川は、大人の腰ほどの深さがあり、白波を立てて激しく流れている。
ブルーノが対岸の岩肌を手で示した。
「あの突き出た灰色の角岩を基準点にする。あそこまでの距離を測るぞ」
荷を下ろしたイルゼが歩み出て、袖の余る右手を掲げ、人差し指を対岸の角岩へ向けた。
「サイト」
指先から細い光の筋が放たれ、水面を飛び越えて対岸の角岩の角に当たった。
「対岸の角岩まで、60メートルですね」
「川幅が広くて縄を渡せねえ。俺たちで基線を引いて、両端から角度を測るぞ。三角測量だ」
「縄を、向こうへ投げられませんか」
「投げて届く川なら、三角測量はいらねえ」
ブルーノの指示に従い、ラースは河原の平坦な砂利の上に麻縄を伸ばした。
川筋と平行に20メートルの基線を取り、木槌で両端にそれぞれ木杭を打ち込む。
「隊長。基線って、20メートルが決まりなんですか」
「決まりじゃねえ。測りたい距離の、半分から三分の一だ」
「それより短いと?」
「角度が甘くなる。誤差が膨らむ」
杭の上に据えた方位盤の蓋を開け、磁針が静止するのを待って、ブルーノが両端から対岸の角岩への方位を測定した。
手元の野帳に数字を書き留め、鉛筆を走らせて計算を行う。
「出たぞ。角岩までの距離は52メートルだ」
「おかしいですね。わたしのサイトでは60メートルと出ました」
イルゼが小首を傾げ、地面に張られた麻縄を見下ろした。
「その縄、湿気で伸びているのではありませんか。川の近くだと麻が湿気を吸って伸び、基線が狂うことがあります」
荷台の陰で道具箱の手入れをしていたマルタが、油布を握りしめて立ち上がった。
「何言ってるんだ! その縄は昨夜、あたしが乾かして、結び目を一つ残らず測りました。伸びてはいません」
ラースは野帳を抱えたまま、2人の顔を交互に見た。
岩棚の上から、ホルストの声が降ってくる。
「ちょっと、まだなの? お湯が冷めるわよ」
「冷めねえ。源泉だ」
「そういう問題じゃないのよ」
*
ブルーノが無精ひげを撫で、2人の間に割って入った。
「まあ待て。測ってから言え」
道具箱から、細長い木箱が取り出された。
真鍮の金具を外し、蓋を開けると、中から真鍮の角棒が現れる。
王立地図局から支給されている、正確に1メートルの長さを持つ基準尺だった。
「マルタ、縄の端を持て。検定する」
砂利の上に伸ばされた麻縄へ、ブルーノが基準尺を端から丁寧に当てていった。
1メートル、2メートルと順に送っていく。
真鍮の角棒の端を結び目に合わせ、位置の狂いがないかを確かめる。
20メートルの端まで突き合わせても、結び目の位置に狂いはなかった。
ブルーノは真鍮の角棒を掲げ、低い声で言った。
「縄の結び目に狂いはねえ。20メートルの基線は正確だ。基線が狂ってねえ以上、方位盤の三角測量で出した52メートルが正しい値だ」
ブルーノは基準尺を肩に担いだ。
「イルゼ、俺たちの道具じゃねえ、お前の魔法が8メートルずれてるんだよ」
イルゼは謝ることもなく、指先を顎に当てて宙を仰いだ。
「魔法の値は、日で変わるのか……? 前回の森では誤差は2メートルほどで、今日は8メートルで、距離のせいなのか日のせいなのか、調べたいです」
マルタは短く息を吐き出すと、道具箱の前へ戻り、油布で無言のまま基準尺を拭き始めた。
*
周囲の測量が一段落すると、湯に入る順が決まった。
岩壁に囲まれた湯だまりは、上の岩棚からも、川の向こう岸からも、見通せない。
まずは女性陣から入ることになり、イルゼとマルタが手拭いを持って岩の向こうへ姿を消した。
ラースとヴァルターは、馬車の近くの岩棚で見張りについた。
谷底から届く湯の流れる音と、温かな硫黄の匂いが風に乗って漂ってくる。
ラースは岩棚の縁に腰を下ろし、足元の小石を爪先で転がした。
王都を出てから10日。
馬車の上ではマルタに道具を壊すなと怒られ、北の森では測量棒を杖代わりにして叱られた。
怒られた回数を、指折り数えかけて、ラースは小さく首を振ってやめた。
「俺、怒られてばかりですね」
傍らに直立していたヴァルターが、谷の向こうを向いたまま口を開いた。
「私も、入隊して最初の月は、毎日でした」
「ヴァルターさんも、怒られたんですか」
「測量棒を、1本折りましたので」
ラースが顔を上げると、ヴァルターは谷を向いたまま、立つ位置を半歩だけ、ラースの側へ寄せた。
冷たい風が吹き抜ける岩棚の上で、2人はそれきり何も言わなかった。
やがて岩の向こうから声がかかり、交代となった。
戻ってきたイルゼとマルタは、まだ湯気の残る髪を手拭いで押さえながら、荷台の脇に置かれた同じ道具箱の上に並んで腰を下ろしていた。
「……サイト、誰かに教わったのか」
「独学です。測ってみないと、分からないので」
「ふうん」
男たちの番になった。
白濁した湯は思ったより熱く、足の指先から沈めていくと、肩まで来る頃には、ふくらはぎの張りがほどけていた。
湯気が夕空へ昇り、硫黄の匂いが、鼻の奥まで染みた。
湯だまりの向こう側の岩陰から、ホルストの調子外れの歌が響いてくる。
「わーたしのー、びーはだをー、みーせつけーたいー」
ヴァルターは、手の届く岩の上に剣を置いたまま、肩まで浸かっていた。
ブルーノは湯の縁に頭を預け、長い息を吐いている。
「ラース、お湯加減はどう?」
「あ、熱いです!」
「それがいいのよ!」
「うるせえ、ゆっくり浸かれ」
湯から上がり、肌を撫でる冷たい風を受けながら服を着ると、ホルストが谷川で冷やした清水を木椀に注いで手渡してくれた。
「ほら、冷たい水よ。熱い湯のあとは、これに限るわ」
「ありがとうございます。……うまいです」
*
湯上がり、岩棚の平らな大石の上に厚手の羊皮紙が広げられた。
四隅を平らな川原の小石で押さえ、風で飛ばないように固定する。
ブルーノが定規と鉛筆を握り、測量した値をもとに下書きの線を引いていく。
切り立つ谷の縁、蛇行する川の流れ、対岸の角岩の印を描き込んでいった。
「ラース、墨入れをしろ」
「はい」
ラースは真鍮の軸の細いペンを取り、黒い油煙の墨液を浸した。
ブルーノが引いた鉛筆の線を、息を潜めて正確になぞっていく。
線がブレないよう、机代わりの大石に手首をしっかりと固定した。
「隊長。この線、少し太くないですか」
「太い方がいい。清書する時に、局が細くする」
「じゃあ、俺の線は」
「下書きだ。気にするな。ただし、曲げるな」
温泉の場所へ差し掛かった時、ブルーノが角の擦り切れた図を取り出し、石の上に広げた。
昔、ブルーノが1人でこの地を歩いた時の、暫定版だった。
温泉の位置に、線の太さがまちまちな小さな波線が、3本並んでいる。
「隊長、この記号は?」
「温泉の記号だ。昔、俺が1人でここへ来た時に描いた」
ブルーノは、波線の上に指を置いたまま、しばらく動かなかった。
「……そのまま写せ」
ラースはペンの先を慎重に運び、白濁した湯の湧く位置に、3本の波線を墨で書き加えた。
北部の地図の、最初の1枚だった。
*
暫定版の図の端、温泉の北側に、丸い空白が残されていた。
その空白の中央に、鉛筆の走り書きがある。
殴り書きのような筆跡で、「湖?」と記されていた。
ラースはその丸い余白を覗き込んだ。
「名もなき湖、ですか」
「正式な名前は、まだない。遠くの尾根から一目見ただけだからな」
北へ、30キロはあるだろうか。
遠くへ目をやると、霞む山並みの切れ間に、青い照り返しが見えた。
「隊長。あの湖、近くまで行けますか」
「行けるかは、行ってから決める」
「見積もりは?」
「行ってから、見積もる」
ブルーノの指が、丸い余白の輪郭をなぞって、止まった。
「ラース。墨を乾かしとけ。次の1枚は、あの湖から始める」
「はい」
「白いのは、形がねえからじゃねえ。まだ測ってねえだけだ」
「あの白いの、どんな形になるんでしょうね」
「測ってからのお楽しみだ」
ラースは、乾きかけた波線の上に、そっと布を被せた。




