第002話:森の目盛り
木立の合間に張られた麻縄のたるみを、ブルーノが屈み込んで確かめた。
地面に打ち込まれた木杭の脇に、ラースが抱えていた測量棒を垂直に立てる。
黒い顔料で刻まれた目盛りに顔を寄せ、息を止めて直立した。
「よし、そのまま動かすなよ」
ブルーノが縄の結び目を数え、手元の野帳に数字を走らせる。
北部の入口を越えた翌日から、街道の脇に針葉樹が混じり始め、木々の間から差す日は王都で浴びたものより冷たい。
ミュールバッハ村での街道の測量は翌朝のうちに終わった。
村を発つ朝、井戸の脇でリーネが小さく手を振っていた。
測り歩きは今も、北へ続いている。
少し離れた馬車の脇では、だぶだぶのローブを着たイルゼが、眠そうに木々の隙間へ指をかざしていた。
「サイト」
イルゼが短く呟くと、指先から淡い光の筋が木立を縫うように伸び、前方の岩肌に小さな光の輪を結んだ。
「次の屈曲点まで、およそ40メートル……いえ、わたしが見たところ、43メートルほどですね」
「魔法の値は目安だ。俺たちが公式な地図にするのは器具の値だ。縄を引け、ラース」
ブルーノは方位盤の真鍮の蓋をパチンと鳴らした。
ラースは「はい」と短く応じ、杭から縄を手繰り寄せる。
結び目を数え終えたブルーノが、野帳に数字を書きつけた。
41メートル。
イルゼの指先が、ほんの少しだけ丸まった。
「わたしの43メートルは、悪くない値だと思います」
「悪くない値は、公式には載らん」
「……厳しいですね」
「測量だ」
ラースは縄を巻き取りながら、つい口に出した。
「1メートルくらい、違っても……」
「1メートルの違いで、隣の村が畑ごと消えることがある」
ブルーノは、振り返らずに言った。
「俺は、見たことがある」
ラースは、口を閉じた。
少し間を置いてから、別のことを口にした。
「そのサイトって、俺にも使えますか」
「練習すれば。でも、最初は誰でも外れます」
「イルゼさんも、外れるんですか」
「外れます。さっきも」
*
次の測定点へ歩みを進めていた時、街道からわずかに外れた下生えの中に、不自然にへし折られた若木が目に入った。
青々とした枝が地面に垂れ下がり、裂けた樹皮の下から白い木肌が露出している。
ラースは足を止め、その木に近づいた。
地上からおよそ2メートルの高さに、鋭く抉られた溝が走っている。
人間の手の幅を優に超える、太い5本の筋だった。
削り取られた木屑が根元に散らばり、透明な樹液が今も微かに滲み出ている。
新しかった。
ここ1、2日の間につけられた傷だ。
街道からは、10メートルも離れていない。
このくらいなら、とラースは自分に言い聞かせた。
「俺、ちょっと見てきます」
ラースは返事も待たずに踏み分け道へ足を踏み入れ、手にした測量棒の先で鬱陶しいシダの茂みを払った。
棒の先端で下草を掻き分けると、土の上に大きな足跡が押し固められている。
爪の跡が深く刻まれた、丸く巨大な窪みだった。
背後で、カサリと下草を踏む乾いた音がした。
振り返ると、無精ひげを撫でながらブルーノが立っていた。
ラースの手から、測量棒がひょいと持ち上げられる。
「あ、隊長」
ブルーノは取り上げた測量棒を片手に、声を落として言った。
「ラース。測量棒は、藪を払うための杖じゃねえ。この目盛りが1度傾きゃ、10キロ先で175メートルずれる。それを茂みに突っ込んで、草を掻き分けやがって……おい、傷がついてるじゃねえか」
ブルーノは測量棒を顔の前に掲げ、指先で木肌の目盛りをコツコツと叩いた。
ラースは肩をすくめ、小さく頭を下げた。
「あ、本当だ。すみません」
「本当だ、じゃねえ」
ブルーノは無精ひげの下の口元を結んだまま、測量棒をラースに返そうとはしなかった。
棒を右手に握ったまま、木立の奥を見回している。
そこへ、足音もなくヴァルターが姿を現した。
木立の奥へ一度だけ顔を向けてから、ラースのすぐ脇に立つ。
「離れないでください。私の間合いの外では守れません」
低い声だった。
ラースは「でも、痕跡を確かめようと……」と言い返しかけたが、喉の奥でその言葉を押し留めた。
棒を取られた右手を、腰の横で握り直す。
ラースは頷いた。
*
その時、森の空気が不意に重く沈んだ。
鳥の声が一斉に途絶え、風の抜ける音だけが木々を揺らす。
ズシン、と足元の土を震わせる鈍い振動が伝わってきた。
下生えの奥から、木々をなぎ倒しながら巨大な影が這い出してきた。
灰褐色の毛並みを持つ、異様な巨躯の獣だった。
立ち上がれば3メートルを優に超えるであろう、筋骨の塊のような身体だ。
ジャイアントベアだった。
上位に位置づけられる、凶暴な大型の魔物だ。
獣は赤黒い両目でラースの姿を捉えると、地を揺るがすような咆哮を轟かせた。
太い四肢で地面を蹴り、猛烈な速度で突進してくる。
前方の若木がへし折れ、土煙が巻き上がった。
迫ってくる獣の影が、ラースの足元に届いた。
足が地面に貼りつき、動かない。
その瞬間、目の前に影が割り込んだ。
ヴァルターだった。
抜き放った剣の背に左手を添え、重心を低く落として身構える。
突進してきた獣が、ヴァルターの構えの真芯へと激突した。
ガンッ!
剣と爪がぶつかる、腹に響く重い音が森を震わせた。
大地を削るようにしてヴァルターの両足が半歩後退したが、その切っ先は寸分もブレていなかった。
体当たりを受け止められたジャイアントベアが、勢いを殺されてわずかに体勢を崩す。
その隙を逃さず、横からブルーノが飛び出した。
右手に握られていたのは、さっき取り上げたばかりの測量棒だった。
「説教の途中で出てきやがって……!」
両手で測量棒を大上段に振りかぶり、熊の眉間へ向けて叩き下ろそうとした。
街道の馬車の陰から、甲高い怒声が飛んだ。
「おい! あたしの道具を壊すなよ!」
マルタの叫び声に、ブルーノの腕がピタリと空中で止まった。
測量棒を左手に持ち替え、右手で剣を抜く。
半歩踏み込んだだけだった。
刃が、熊の喉元の毛を割って、一直線に走る。
ドスン、と地響きを立てて、巨体が前のめりに崩れ落ちた。
喉から溢れた血が、足元の土を黒く濡らしていく。
*
静まり返った森に、荒い呼吸の音だけが残された。
ラースは立ち尽くしたまま、横たわる熊を見ていた。
足はまだ、地面に貼りついている。
ブルーノは剣の刃を布で拭い、カチリと音を立てて鞘に納めた。
持ったままだった測量棒を、無言でラースの胸に押し当てる。
棒の木肌には、泥と、細い擦り傷が1本ついていた。
「え? ……え? 今、一撃で……?」
ブルーノは返事もせず、荷台へ歩み寄り、道具箱から野帳を取り出した。
「ジャイアントベアの縄張り。討伐済み、と。……ギルドの見積もりは中位以下だったが、実際は上位だな」
ブルーノの鉛筆が止まり、肩越しに声が飛んできた。
「ラース。爪痕の高さは測ったか」
「あ、はい。地面から2メートルほどです」
「幅は」
「5本で、手の幅よりずっと広かったです」
「よし」
ブルーノは、それだけ言って、鉛筆を走らせた。
その背中に、ラースは恐る恐る声をかけた。
「隊長、あの、昔はここ、いなかったんですか。こんなの」
ブルーノは野帳を閉じ、振り返った。
「昔、俺が測った時は中位の魔物しか出なかったんだがな。近頃、北の奥から縄張りを移してきた個体だろう。まあ、これで道は通れる」
ラースは、鞘に納まったブルーノの剣を見た。
「隊長、剣は、どこで習ったんですか」
「習ってねえ。1人で歩いてりゃ、覚える」
「え?」
「覚えねえと、死ぬからな」
ホルストが湯気の立つ木椀を持って、駆けてきた。
「あらやだ、ラース。顔が真っ白よ。これ、飲みなさい」
ラースは測量棒を脇に挟み、木椀を受け取った。
「あ、ありがとうございます」
続いてマルタが近づいてきて、ラースの手から測量棒を取り上げた。
「測量棒を、見せてください」
「あ、はい」
「……傷は浅いです。磨けば消えます。次から、茂みを払うなら、枝を使ってください」
「はい。すみません」
「謝るなら、磨いてください」
*
夕暮れ時、森の少し開けた草地に馬車を寄せ、野営の火が焚かれた。
白いエプロンを身につけたホルストが、鉄鍋と肉切り包丁を手に手際よく立ち回っている。
ジャイアントベアの巨体を前に、ホルストが袖をまくった。
関節に包丁を入れる手際は、驚くほど軽い。
「あらやだ、いい肉質じゃない」
「ラース、ここ押さえてて。関節を外すから」
「は、はい……あの、熊の、ですよね」
「他に何があるのよ」
熊が、見る間に、肉の塊に分かれていった。
深い赤身で、筋が強い肉だった。
ホルストは肉の繊維を叩いて柔らかくし、森で摘んだ香草と果実酒に漬け込んでから、平らな鉄板でじっくりと焼き始めた。
「ほら、焼けたわよ。森の肉は筋が強いけれど、しっかり叩いて漬け込めば、アタシの腕なら極上になるのよ。冷めないうちに、アンタたちから取りなさい」
「ねえ隊長、温泉まで、あと何日かしら」
「6日だ。急かすな」
「急かしてないわ。確認よ」
「それを急かすって言うんだ」
脂の爆ぜる音とともに、香ばしい肉の匂いが立ち上る。
配られた木皿の上には、こんがりと焼き色のついた分厚い肉が盛られていた。
ラースがナイフで切り分けて口へ運ぶと、噛むほどに、香草の青い香りと、果実酒の甘酸っぱさが、肉の脂に溶けていった。
「ラース、どう? アタシの腕は」
「……すごく、おいしいです」
「でしょう? もっと言っていいのよ」
「くやしいけど、おいしいです」
イルゼが木皿の肉を持ち上げ、しげしげと眺めていた。
「この肉、サイトで測ったら、何キロですか」
「測らなくていいのよ。食べなさい」
「隊長、熊の肝はどうする?」
「食うな。腹を壊す」
「あら、残念」
マルタが肉を頬張りながら、ブルーノを横目で見た。
「隊長。先ほど、測量棒を熊に叩きつけようとなさいましたね」
「叩きつけてねえ」
「叩きつけようとなさいました」
「……止まっただろうが」
ホルストが、焚き火の向こうのヴァルターへ身を乗り出した。
「ヴァルター、アンタはどう?」
「……悪くありません」
「それ、ほめ言葉よね?」
「はい」
焚き火の向こうで、スープを啜っていたヴァルターが顔を上げた。
ラースと目が合うと、ヴァルターは木椀を置き、ぽつりと口を開いた。
「私にも、確かめたかった気持ちは分かります」
それだけ言うと、ヴァルターは小さく頷き、再び椀に口をつけた。
ラースは手元の皿を見下ろし、肉を噛み締めた。
「……ヴァルターさん」
「はい」
「さっきは、ありがとうございました」
「仕事ですので」
「……『仕事ですので』。便利な言葉ですね」
イルゼがぽつりと言い、ヴァルターは、ほんの少しだけ目を伏せた。
*
翌朝、木々の間を白い朝靄がゆっくりと流れていた。
出発の準備が進む馬車の脇で、ラースは腰を下ろし、乾いた布を手にしていた。
マルタが通りがかりに、足を止めた。
「磨いたら、油を薄く塗っておいてください。目盛りが錆びますので」
「はい」
膝の上には、昨日の泥と傷を残した測量棒が置かれている。
先端の金具の泥を丁寧に拭い去り、刻まれた黒い目盛りを、布で一つずつ磨いていった。
「ラース、出るぞ。温泉まで、あと5日だ」
「確認よ! 急かしてないわ、確認よ!」
馬車の中から、ホルストの声が返ってきた。
出発の列の後ろで、ヴァルターが一度だけ、熊の来た北の木立を振り返った。




