第023話:職人の棚
詰所の勝手口の外で、井戸の滑車が乾いた音を立てて水を汲み上げた。
木桶の水を鉄の盥に注ぎ、冷たい水で顔を洗う。
手ぬぐいで水気を拭いながら土間へ戻ると、奥の部屋から木箱を動かす音が響いていた。
現場図の提出を終えた翌朝で、測量室には急ぐ用事がなかった。
ブルーノは詰所の机に腰掛け、古い台帳と羊皮紙の束を仕分けている。
机の上の埃を払って、こちらを振り返った。
「局からの正式な呼び出しは、早くても明日以降だ。今日は各々、好きに過ごせ」
「隊長、部屋の片付けですか」
「ああ。33日分の埃が机に積もってやがる。……それにしても、あの製図のエレナって人、話がわかる奴で助かったぜ」
「隊長、最初の挨拶は途中でいつもの口調に戻ってましたよ」
「うるせえ。通じたんだから結果オーライだ」
厩のほうでは、ヴァルターがブラシを手にシュネッケの背を丁寧に撫でていた。
そこへ、道具箱を両手で抱えたマルタが階段を降りてきた。
髪を高く結び直し、作業用の前掛けを腰に巻いている。
「おい、ラース、イルゼ。ついてこい」
「どこへ行くんですか」
「実家の工房だ。基準尺と検定縄の点検に行く。次の遠征までに狂いを正しとかねえと、図の線が歪むだろ」
イルゼが袖の余るローブの裾を払いながら頷いた。
「行きます。器具のことで、聞きたいことがあります」
「フロッケも連れて行きますか」
「ああ。置いていくとシュネッケの脚を噛むからな。抱えてこい」
勝手口を出るところで、大鍋を洗っていたホルストが顔を上げた。
「アタシは市場へ行ってくるわね。王都の新鮮な野菜と肉を仕入れておくから、お昼には合流するわよ」
「おう、腹にたまるもんを買ってきてくれ。場所は職人街の奥の、測量具の工房だ。看板が出てる」
*
官庁街の舗装道路を抜け、水路沿いの緩やかな石畳の道を下っていった。
王都の大通りは朝から行き交う荷馬車で賑わっている。
大通りから折れて狭い路地に入ると、石畳の隙間から乾いた鉄の匂いと、炭を焼く煙が漂ってきた。
金槌が金属を打つ甲高い音、鋸が硬い木を挽く規則正しい音が四方から重なり合って届いてくる。
王都の職人街だった。
フロッケはラースの腕の中で耳をぴくぴくと動かし、通りを行き交う荷車や職人たちの足元を珍しそうに眺めている。
隣を歩くイルゼが、無意識に指先から小さな水の玉を出して浮かばせていた。
マルタが横目で見て声を尖らせた。
「イルゼ、往来で水玉を弄ぶな。人に飛んだらどうすんだ」
「すぐ消せますので、大丈夫です」
「そういう問題じゃねえだろ。道具屋街は鉄の粉だらけだ。水滴が落ちたら錆びちまう」
「……あ、そうですね」
イルゼが納得して指先をローブの中に引っ込めた。
路地の奥の軒先に、小さな木製の看板が掲げられていた。
『ヨハン測量具工房』。
格子戸を引いて中へ入ると、真鍮の削り粉と、油、砥石の混ざり合った濃い匂いが立ち込めていた。
壁一面の棚には、無数の平定規、コンパス、水準器の木枠、真鍮の角棒が整然と並んでいる。
奥の作業台で、1人の男が背を丸めてヤスリを動かしていた。
60代に見える。
白髪の混じった短い髪に、細い金属枠の眼鏡をかけ、厚手の革前掛けを着けている。
指先は真鍮の削り粉と油で黒ずんでいた。
マルタが抱えていた木箱を作業台の端に置き、袖をまくった。
「父さん、戻りました」
普段の粗い口調が消え、落ち着いた丁寧な言葉遣いになっていた。
ラースは隣のイルゼと顔を見合わせた。
男がヤスリを止め、眼鏡の奥から顔を上げた。
「……帰ったか。北部の現場図は通ったのか」
「ええ。昨日、地図局のエレナ殿に納めました。基準尺と検定縄の点検をお願いできますか」
「台の上に置け」
男の手が、木箱から出された基準尺の真鍮棒へと伸びた。
*
親方ヨハンは、工房の奥の棚から木箱に入った『親基準尺』を取り出してきた。
地図局の原本と同じ規格で作られた、一切の傷のない真鍮の角棒である。
マルタが持ち帰った隊の基準尺を並べ、2本の隙間に窓からの明かりを透かして確かめた。
「……反りはないな。角の丸みも許容範囲内だ」
「遠征中も、衝撃を与えないよう木箱に布を詰めて保管していました」
「それでいい。真鍮の角が丸くなると、目盛りの読みがわずかにずれるからな」
次に検定縄が作業台の上に広げられた。
1メートルごとに結び目のある麻縄を、台に刻まれた金属の目盛りに当てていく。
ヨハンが指の腹で結び目をひとつずつ押さえた。
「10メートルで、伸びは2ミリメートルか。よく手入れされている。泥水を吸わせた後、陰干しして油を揉んだな」
「はい。遠征中、日課にしていましたので」
マルタが淀みなく答えた。
ヨハンは頷き、縄の端を丁寧に巻き取った。
「測量棒はどうだ」
「全部持ち帰りました。歪みはありません」
ヨハンは測量棒の目盛りを親指でなぞり、ラースを見た。
「磨いたのはお前か」
「はい。毎朝、出発の前に」
「毎朝は多い。目盛りが浅くなる」
「……はい」
一通りの点検が終わったところで、イルゼが一歩前へ進み出た。
「あの、職人さんに伺いたいことがあります」
「なんだ」
ヨハンが眼鏡の縁を直しながらイルゼを見た。
「測量魔法で見通し線と距離を取ったとき、器具で測った値と、どうしても数メートルのずれが生じるのです。日によっても、体調によっても変わります。なぜ真鍮の角棒のように、一定にならないのでしょうか」
イルゼが一気に早口で尋ねた。
ヨハンは手元の真鍮棒を持ち上げ、光にかざした。
「魔法のことは知らん。ただ、使う奴の調子で値が変わると聞く。遠くへ飛ばすほど、ずれも増える。だが、こいつは調子を崩さない」
ヨハンが真鍮棒を指先で弾いた。
澄んだ金属音が工房の中に響き渡る。
「真鍮は、風が吹こうが、腹が減ろうが、1メートルは1メートルだ。人間が引っぱられるからこそ、引っぱられない基準が必要になる」
「……引っぱられない基準」
イルゼは真鍮棒を受け取り、そっと指先で弾いた。
澄んだ音が、もう一度鳴った。
格子戸が勢いよく開き、大柄な影が滑り込んできた。
「お邪魔するわよ! 看板が出てたから、すぐ分かったわ」
ホルストが布を被せた大きな籠を抱えて入ってきた。
「あら、あなたがマルタちゃんのお父さんね。初めまして。隊の食事係のホルストよ」
「……おう」
ヨハンが眉を上げた。
「裏庭、使わせてもらうわね。市場で焼きたての腸詰めと、豆とベーコンの温かい煮込みを仕入れてきたのよ」
「あ、あたしも手伝う」
マルタが慌てて立ち上がった。
裏庭の木製ベンチに、温かい鍋と、ちぎった黒パンが並べられた。
湯気とともに、燻製肉とハーブの香りが工房の裏手に広がる。
ラース、マルタ、イルゼ、ホルスト、そしてヨハンも並んで腰を下ろした。
木匙でスープを啜ると、濃い豆の甘みと、塩気の効いたベーコンの脂が広がっていく。
ラースは煮込みの肉を小皿に取って冷まし、足元のフロッケの前に置いた。
フロッケは鼻先を動かし、夢中で平らげると、ラースの膝に頭を乗せて丸くなった。
ヨハンがスープを飲み干し、器を置いた。
「……いい飯を食わせてもらってるな」
「ええ、それだけは自慢できます」
マルタが胸を張った。
*
昼食を終え、ヨハンが縄の端を固く縛り直して手渡してくれた。
「基準尺も縄も、これで次の遠征に使える。大事に扱えよ」
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
マルタが木箱を受け取り、深く一礼した。
ヨハンが奥の作業台へ戻ろうとしたとき、マルタが上着のポケットから小さな木箱を取り出した。
手のひらに収まるほどの、簡素な白木の小箱である。
鉱山町でマルタがイルゼに放り、割れた練習石の入れ物にしていた箱だった。
出がけに、イルゼが黙ってマルタに預けたものだ。
蓋を開けると、中には白く粉を吹いてひび割れた、3つの小石が転がっていた。
マルタは蓋をそっと閉め直した。
作業台の脇にある、完成した器具が並ぶ木製の棚へ歩み寄る。
測量棒の端材や、使い古された砥石が置かれた棚の片隅に、その小箱を置いた。
ヨハンがヤスリを手にしたまま、棚の上の小箱を見た。
「……なんだ、それは」
「割れた石です。うちの魔法使いが、練習で割った分」
「割れた石を、なぜ棚に」
「数えておくと、割る数が減っていくのが分かるので」
「……そうか」
ヨハンはそれ以上何も聞かず、次の定規を台に固定してヤスリを当てた。
シャリ、シャリ、と金属を削る規則正しい音が、狭い工房の中に響き始めた。
マルタは袖をまくり直し、道具箱を両手で抱え上げた。




