第022話:未測の記号
白亜の敷石を踏んで、本館の通用口へと向かう小道を歩いた。
裏手の測量室を出たときは、まだ詰所の井戸端でマルタが道具箱を拭いていた。
通用口の重い鉄扉を押し開けると、冷えた石灰の匂いが立ち込めていた。
磨き上げられた大理石の床が、中央の吹き抜け階段へと続いている。
朝の早い時間帯、3階建ての高い天井の下を、書類の束を抱えた職員が行き交っていた。
ブルーノが歩きながら、口の中でぶつぶつと呟いている。
「『お疲れ様です。北部の現場図を持って帰還いたしました』……よし、『帰還いたしました』だな」
「隊長、声が漏れてます」
「うるせえ。練習だ、練習」
ラースは小脇に抱えた革筒の重みを確かめながら、その横を並んで歩いた。
すれ違う職員たちが、泥の乾いた長靴を履いた2人に目をやり、すぐに前へと戻して足早に通り過ぎていく。
声をかけてくる者は1人もいなかった。
廊下の突き当たり、製図室の樫の木の扉の前に、1人の女性が立っていた。
40歳前後に見える。
藍色の簡素な上着をまとい、前掛けの端には黒いインクの染みが点々と残っている。
ブルーノが立ち止まり、背筋を伸ばして居住まいを正した。
「ええと……お疲れ様で……おう、待たせたな! 北部の現場図を持って帰還いたし……ました、だ!」
不自然な大声が、廊下に反響した。
女性は笑うこともなく、扉の取っ手に手をかけた。
「どちらの言葉でも結構です。廊下の端までよく通る声でしたので」
「……聞こえてたか」
「扉の隙間に紙を挟んだのは私です。中へどうぞ。お待ちしていました」
*
製図室の中央には、大人4人が囲めるほどの巨大な傾斜作業台が据えられていた。
壁際の棚には何十本もの平定規、コンパス、インク壺が整然と並び、乾燥した羊皮紙の匂いが満ちている。
女性が作業台の脇に立ち、一礼した。
「エレナです。地図局で北部の製図を担当しています」
「測量室のブルーノだ。こっちの新人がラース」
「現場図の原本を出してください」
ラースは革筒の蓋を外し、大切に収めてあった羊皮紙を1枚ずつ取り出して、台の上に並べた。
温泉の1枚目、湖の2枚目、坑口周辺の図。
それぞれの4隅に、真鍮の重しが置かれる。
台の傍らには、端の擦り切れた1枚の地図がすでに広げられていた。
ブルーノがかつて1人で歩いて測った、あの暫定版の写しだった。
「ずいぶん擦り切れてるな、その写し」
「毎日、使っていましたから」
エレナはそれだけ言って、棚へ向かった。
取り出したのは、薄く漉かれた半透明の薄紙だった。
それを1枚目の現場図の上に重ねて、基準点をなぞり始めた。
墨の染みた細い指先が、定規を滑らせる。
「温泉の位置、東へ伸びる運搬路、尾根の稜線までの距離……写し取りますね」
「ああ、好きにしてくれ」
エレナは基準点を写し取った薄紙を持ち上げ、暫定版の写しの上へと正確に重ね合わせた。
2枚の紙越しに、墨の濃い線と薄い線が重なり合っていく。
継ぎ目のあたりでは、2本の線が1本に見えるほど寄り添っていた。
エレナが真鍮の定規を当て、目盛りを読んだ。
「温泉の位置のずれは、8メートルですね」
「8メートル……」
ラースが思わず呟いた。
王都から馬車で10日も離れた山奥の地点が、ほとんど狂いなく重なっている。
「運搬路の勾配も、稜線までの距離も、およそ12キロの行程に対して、差は40メートルほどです。ほぼ一致しています」
エレナが真鍮の定規を置いた。
「昔、あなたが1人で歩いて測った線と、今回6人の隊で器具を使って検証した線が、重なっています」
「……運が良かっただけだ」
ブルーノは鼻先を指で擦り、作業台に背を向けた。
「湖のほうを見ろよ。丸い余白と全然違う形をしてるじゃねえか」
2枚目の現場図には、湖畔を一周して測った湖の姿が描かれている。
岬が3つ突き出し、西側に深い入り江を持つ複雑な形だった。
暫定版に描かれていた、大まかな丸い円とはまるで似ていない。
「俺の目も、当てにならねえもんだ」
「いいえ。湖の周囲以外は、合っています」
エレナは首を横に振った。
「暫定版は、正しかったのですよ。ただ、これまで誰も検証できなかった」
「……検証できなきゃ、ただの落書きだ」
「ええ。ですが、検証されました。これで、ここまでの範囲は、公式の図に起こせます」
ブルーノは答えなかった。
暫定版の擦り切れた角に、指を一度だけ這わせる。
エレナがラースを見た。
「野帳の原本はありますか」
「はい、ここにあります」
ラースは鞄から革表紙の野帳を取り出し、両手で差し出した。
エレナが指先で頁をめくっていく。
湖畔で角度を測り間違え、二重線を引いて横に正しい数値を書き直した頁で、エレナの指が止まった。
「誤りを消さずに二重線を引き、横に書き直してありますね」
「はい。間違えた記録も消すなと教わりました」
「ええ、正しい扱いです」
エレナはさらに頁をめくり、鉱山町でユリアンに指示されて書き添えた頁の端に目を留めた。
鍵の跡が付いた日付と状況が書き添えられている。
「消さずに残してある。公式の図にするのに必要なのは、これです」
「数値だけでは、足りませんか」
「間違いの跡が残っている記録は、後から確かめられます。残っていない記録は、信じるしかありません」
*
エレナの指先が、坑口周辺の図へと滑っていった。
第3坑道の入口の先で、その指がぴたりと止まる。
そこには、何も描かれていない四角い空白が残されていた。
「……ここですね」
「ああ。そいつだ」
ブルーノが腕を組んだ。
エレナは定規を持ち直した。
「公式の地図に、白を載せることはできません」
「なんでだ。測ってねえんだから白で当たり前だろ」
「地図局の公式図は、王国の土地を示すものです。空白のままでは、基礎資料として受け取れません。古い基礎図の山体の推定線や、等高線を補完して埋めるのが、これまでの慣例です」
「測ってねえ場所に、勝手な線を引けるか」
ブルーノの声が低くなった。
「山がどう続いてるかも分からねえのに、適当な等高線で埋めちまったら、それが正しい形だと思われちまう。嘘の線を描くくらいなら、白いほうがましだ」
「ですが、地図に穴があいていては、上の許可が下りません」
しばらく、誰も口を開かなかった。
ラースは手元の野帳を見つめ、思わず口を開いた。
「あの……」
2人の顔がラースに向いた。
「古い図の空白が、『平坦』と読まれて、人が谷に迷い込んだ話を聞きました」
ブルーノがラースの肩を小突いた。
「おい、余計なことを言うな」
「でも、空白を適当に埋めるのも、同じくらい危ないんじゃないでしょうか」
エレナは何も言わず、現場図の白を見つめた。
そこへ、部屋の扉がノックされた。
乾いた音が2回響き、ゆっくりと扉が開く。
黒い書類鞄を手にしたユリアンが入ってきた。
「失礼。財務省のユリアンだ」
「監察官殿。報告書は拝見しました」
エレナが一礼した。
ユリアンは作業台の脇まで歩み寄り、現場図の白を見下ろした。
「鉱脈の位置と規模は、財務省の管理台帳にのみ記録される。公刊される地図局の図に載せることは認められない」
「台帳には書かれ、地図には載せない、と」
「その通りだ。領主、財務省、そして測量隊。三者の合意として、坑口の先は白のままで一致している。地図局の基準は、私の管轄ではない。そちらで解決してもらいたい」
「承知しています。公式図の基準を満たさなければ、私が上に突き返されます」
エレナは腕を組み、作業台の上の白を見つめた。
ブルーノは何も言わず、ユリアンは書類鞄の留め金を指で押さえていた。
やがて、エレナが顔を上げた。
「ラースさんの言う通りです。埋めるのも、放っておくのも危ない。……図のほうに言わせましょう」
エレナは棚から反古紙を取り、羽ペンで素早く線を引いて見せた。
「薄い斜線の網掛けを施して、その中央に小さく記号を入れます」
「記号?」
ブルーノが覗き込んだ。
紙の上には、細い平行線で囲まれた四角の中に、小さな2文字が刻まれていた。
「『未測』……ですか」
「ええ。何もないのではなく、測っていない場所がある、という印です」
エレナが羽ペンを置いた。
「これならば、勝手な推定線で埋めずに済みます。空白を放置したことにもなりません」
「『未測』か……」
ブルーノが頭を掻きながら、紙片を見つめた。
「測ってねえってことが一目で分かりゃ、文句はねえな」
「私が新しい公式記号として図例に起こします。上には、私から説明を通しましょう」
「埋めたがる連中だと思ってたが」
「埋めたいですよ、今でも。測ってあるものなら」
*
エレナは作業台の上の原本を1枚ずつ丁寧に重ね、真鍮の留め具で束ねて、机の引き出しに収めた。
「原本は製図の基礎資料として局でお預かりします。隊の写しには、受領の印を押してお返ししますね」
「頼む」
ラースが差し出した写しの余白に、地図局の朱印が捺された。
インクの乾く匂いが鼻先をかすめる。
「それから、北の湖ですが……『フラーゲ湖(仮)』と書かれていますね」
「はい。隊長が昔、暫定版に書き殴った文字から取った仮の名前です」
ラースが答えると、エレナは微かに頷いた。
「公式な名称は、局が後日決定します。それまでは、この仮称のまま預かります」
「分かりました」
エレナが作業台帳を閉じ、背筋を伸ばしてブルーノに向き直った。
その指先には、新しい黒いインクが薄く滲んでいる。
「次の1枚は、いつ持ってきますか」
「湖の先だ。馬車と道具の支度ができ次第、すぐに出る」
「お待ちしています」




