第020話:三メートルの縄
幌馬車の車輪が土を噛み、小刻みな振動が荷台の床板から伝わってきた。
鉱山町エルツハイムの丸太の柵を抜け、馬車は運搬路を進む。
狭い荷台の中央で、ユリアンが背筋を伸ばして木箱の上に腰掛けていた。
「ヴァルター殿。あと3センチメートル、そちらへ詰めていただけるか」
「承知しました」
ヴァルターが短く応じ、上体を正確に3センチメートルだけ横へ寄せた。
向かい側で腕組みをしていたマルタが、鼻を鳴らす。
「あたしの馬車を、勝手に測るなよ」
マルタは道具箱から真鍮の基準尺を取り出すと、荷台の横幅と木箱の隙間に当てた。
目盛りを睨みつけ、それから短く舌打ちする。
ユリアンの計算通り、全員の座る場所は、寸分の狂いもなく確保されていた。
「この荷台は、道具箱と検定縄を積むための荷台だ。人間のぎゅうぎゅう詰めは、想定してない」
「容積の無駄を省けば、人間1人分の空間は十分に生み出せる。現に、木箱の隙間にはまだ余裕があるではないか」
「理屈で馬車が広がるか!」
マルタが基準尺を箱に戻すと、隣のイルゼが小さく身じろぎした。
以前のように大きな毛布の山を作る場所はなく、荷の隅に布を寄せ集め、その隙間にすっぽりと丸まっている。
「……前の山は、高さ40センチメートルありました」
「移動中の馬車で毛布を高く積むのは、荷の重心を狂わせる。今の20センチメートルが適正だ」
「……低いです」
イルゼの横で、フロッケが足元から這い出した。
ユリアンの革の書類鞄の上に頭を載せ、そのまま丸くなって目を閉じる。
ユリアンは鞄を引こうともせず、ただ膝の上で指を組んでいた。
御者台から、手綱を握るブルーノが振り返った。
「おい、兄貴。荷台で偉そうに指図すんな」
「背中が丸いぞ、ブルーノ。手綱を持つ姿勢を正しなさい」
「ほっとけ! これでも馬を御してんだ」
ブルーノが前を向き直すと、ユリアンが眼鏡の縁に指を添えた。
「ところで、王都までの旅程だが、何日と見積もっている」
「9日だ。帰りは下り坂が多いし、馬も道を覚えてるから早え」
「違うな。10日と半日だ。道幅の狭い区間と荷車の行き交い、天候の予備日を計算すれば、そうなる」
「賭けるか? 外れたほうが、王都に着いた時、地図局への最初の挨拶を引き受けるってのはどうだ」
「賭けではない。見込みの検証だ。……受けて立とう」
御者台の前方で、栗毛のブリッツがのんびりと蹄の音を響かせ、黒鹿毛のシュネッケが時折耳を伏せて先を急ごうとしていた。
往路と同じ、馬たちの足取りだった。
*
野帳の日付は、1行ずつ増えていった。
王都を出て24日目。
馬車は揺れを繰り返しながら、北部の山道を下っていく。
曲がりくねった坂道の途中で、ラースは幌の隙間から急斜面を見下ろした。
登りの時は見上げるばかりだった山道が、下りでは深い谷底まで一望できる。
「登りの時は、こんなに急な坂だとは思いませんでした」
「歩く方向で視界の角度が変わるからな。野帳の勾配記録を見直してみろ。数字は登りも下りも同じはずだ」
ブルーノが御者台から声を投げかけた。
やがて、切り立った谷の底に野天温泉の湯気が白く立ち上る分岐を通り過ぎた。
幌の隙間から見下ろしたホルストが、名残惜しそうに声をあげる。
「あら、懐かしい湯気だこと。寄りたいわねぇ」
「寄らねえぞ。今回は先を急ぐんだ。温泉は次の遠征の時だ」
ラースは小脇に抱えた革筒に手を触れた。
筒の中には、波線3本の温泉の記号を墨入れした1枚目も入っている。
「隊長、次の遠征って、また北へ来るんですか」
「当たり前だろ。湖の先が、丸ごと白いままだ」
やがて険しい岩山が背後へと退き、両側の山並みが低くなっていった。
30日目。
北部の入口を抜けると、街道の両脇に麦畑の広がる平野が現れた。
麦畑を眺めながら、ラースは足元の道を見つめた。
「道幅が広がりましたね。運搬路は4メートルほどでしたが、ここは8メートルはあります」
「測ってから言え。目測は、2割は盛る」
ブルーノが御者台から言った。
ラースが馬車を降りて検定縄を道に渡すと、結び目は7つで終わった。
「7メートルです」
「王都の街道は、軍用の荷馬車がすれ違えるよう、幅が定められているのだ」
ユリアンが答えた。
敷石の継ぎ目が整い、深い轍の溝も浅くなっている。
傾斜が緩やかになり、車輪の軋む音も低く落ち着いた響きへと変わっていった。
*
街道沿いの野営地で、焚き火の煙がまっすぐに立ち上っていた。
平鍋の上で、道中で仕留めた野ウサギの肉が香ばしく音を立てている。
塩と干しハーブの香りが、夜の冷気の中に広がった。
「はい、焼けたわよ。熱いから気をつけてね」
ホルストが木皿に肉を取り分け、全員へと配った。
ユリアンは皿を前にして、一度首を横に振った。
「私は、これほど多くの肉は普段食べないのだが」
「一口だけでいいのよ。それでダメなら、アタシが食べるわ」
「……本当に、これほどは」
「はい、一口」
ホルストに皿を持たされ、ユリアンは肉を口へと運んだ。
ゆっくりと噛み、飲み込む。
骨の周りまで綺麗に平らげて、空いた皿を膝の上で見つめた。
「……もう一切れだけ、いただこうか」
「はいはい、どうぞ」
二切れ目も骨だけになったところで、ユリアンは小さな手帳を取り出した。
頁の端に、丁寧な筆致で『食事、良好』と書き留める。
火の粉が爆ぜる音の中、ユリアンがラースの手元へ顔を向けた。
「新人。道中の野帳を見せなさい」
「はい」
ラースは鞄から野帳を取り出して差し出した。
ユリアンが指先で頁を繰っていく。
エルツハイムを出る前に書き入れた『鍵の跡が付いた』と日付。
湖畔で引いた二重線。
ユリアンは何も言わず、頁をゆっくりと戻した。
「隊長は、昔から白を残す人だったんですか」
ラースの問いに、ユリアンは野帳を閉じて返し、焚き火の炎を見つめた。
「昔から、無鉄砲な男だった。……実家の領地と、隣の領地の境に、深い谷があったのだ」
「谷ですか」
「境界の争いが起きた際、父が頼りにした古い図では、その谷の場所が空白になっていた。屋敷の書記は、それを平坦で何もない土地だと読んだ。書いた本人が現地を歩いていなかったからだ」
ユリアンは言葉を重ねた。
「弟はそれが納得できず、確かめるために1人で谷へ入った。足元は切り立った崖で、崖の縁から岩棚まで、およそ15メートルあった。弟は岩棚の上に取り残され、一晩動けなくなったのだ」
「一晩も……」
「夜が明けてから、私が縄を持って谷へ降りた。縄の長さは、前夜のうちに私が机の上で計算して用意したものだ」
ユリアンは膝の上で、両手の指を組み直した。
「だが、3メートル足りなかった」
「えっ」
「私の計算が狂っていたのだ。崖の高さを目測で見積もり、縄の伸びも見込まなかった。弟は、残りの3メートルを、岩肌に指をかけて自力で登ってきた」
焚き火の向こうで、外套を被って横たわっていたブルーノが、むくりと上体を起こした。
「兄貴は、あの時も縄を3回数え直してただろ」
「起きていたのか」
「3メートルなら、俺が自力で登れる高さだった。足りて、よかったんだよ」
「よくない。計算が狂ったことには変わりないのだ」
「へいへい。相変わらず堅いこった」
ブルーノは鼻を鳴らし、外套の端を引っ張り上げた。
「あの時、崖の上で青い顔して縄を握りしめてた兄貴の顔、今でも覚えてるぜ」
「余計なことを思い出すな」
ブルーノが再び外套を被って背を向けると、ユリアンは焚き火の燃えさしを見つめたまま、言葉を止めた。
ラースは足元に置いてあった検定縄の束を引き寄せた。
麻縄の結び目を、指先で1、2、3と送っていく。
端まで数えると、もう一度。
さらにもう一度。
ユリアンがその指の動きを見ていた。
*
王都を出て33日目の朝、馬車は舗装された広い本街道へと合流した。
行き交う荷車の数が増え、石造りの道標が等間隔で現れる。
正午過ぎ、馬車はミュールバッハ村の脇を通過した。
麦畑の畦道で、少女リーネが細い棒を高く掲げていた。
目盛りを刻んだ測量棒の真似らしい。
もう一方の手を、大きく振っている。
遠くの木陰では、村長のゲルトが頷いていた。
馬車は足を止めず、街道を走り抜けた。
やがて西日が傾き始めた頃、馬車は最後の緩やかな丘へと差し掛かった。
登り切った丘の向こうに、夕日を浴びて鈍く輝く王都の長大な灰色の城壁が姿を現した。
ユリアンが手帳を開いた。
最初の頁には、出発の朝に書いた『10日と半日』の文字がある。
空の明るさを確かめて、頷いた。
「出発から10日と半日。ちょうど夕方だ」
「まだ着いてねえ。門をくぐるまでが旅だろ」
「日没前に門に着く。計算してある」
御者台で、ブルーノが肩を落とした。
「……ちっ。地図局への最初の挨拶は、俺がやる羽目になったか」
「約束だ」
ユリアンが手帳を閉じると、ブルーノが荷台を振り返った。
「ラース。筒は手放すなよ。地図局の連中は、図の白を見ると、まず何かで埋めたがる」
「はい!」
ラースは小脇に抱えた革筒を、胸元へと強く引き寄せた。
夕暮れの光の中、王都の城門へと続くまっすぐな石畳の道を、馬車はのんびりと下っていった。




