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地図にない場所へ、のんびり馬車で行きます ~はみ出し者部隊の旅~  作者: 草むしり50年


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第019話:足跡と歩数

 大机に広げられた現場図の白い余白に、鍵の形をした小さな凹みが残っていた。

 厚手の羊皮紙の繊維が、硬い真鍮の角に押されてわずかに窪んでいる。

 ラースは机の端を押さえたまま、その窪みを見つめた。


「閣下。鍵は、地図局の紙の上に置くものではありません」


 ユリアンが白く細い2本の指で、真鍮の鍵をつまみ上げた。

 机の奥でパイプの皿を見つめていたアルブレヒト伯爵が、低く応じる。


「……すまん」


 壁際で帳簿を抱えていた立会人の肩が、わずかに下がった。

 伯爵は椅子の背に身を預け、机の下を指先で示した。


「机の下だ。開けてくれ」


 ブルーノが屈み込み、重そうな黒い鉄の箱を持ち上げて机の上に載せた。

 ユリアンが鍵を鍵穴に差し込み、回す。

 カチリと硬質な音が響き、蓋が開いた。


 中に収められていたのは、革表紙の帳簿が1冊と、四つ折りにされた紙が1枚だけだった。

 ユリアンが帳簿を取り出し、机の縁と平行になるよう置き直す。


 頁をめくり、指を滑らせていく。

 ある行のところで、その白い指先が止まった。


「純度の上がった月と、ここが一致します」


 ラースの立つ位置からは、帳簿の細かな文字までは見えない。

 だが、ユリアンの指が止まった場所が、問題の境目であることは分かった。

 伯爵が短く言葉を絞り出す。


「箱の数を変えずに、奥から掘り出した新しい石を混ぜた。記録の上では、例年通りの産出量に見せかけてな」

「直轄にすれば坑夫が入れ替わり、産出が落ちて国庫の損になります」


 ユリアンは眼鏡の奥の目を動かさずに言った。


「私は、損をする案は書きません」

「兄貴、お前……」


 横からブルーノが声を漏らすと、ユリアンは弟へ顔を向けずに言葉を返した。


「味方をしたのではない。数字だ」


 ユリアンは伯爵を見据えた。


「条件は2つです。帳簿は実数を記した1冊に統合すること。そして、王都へ納める割合は、箱の数ではなく、石の質に応じて決め直すこと」

「……それだけで、よいのか」

「書面は私がまとめます。決めるのは王都の上ですが、上は数字を読みます」


 ユリアンは鍵穴から鍵を抜き、伯爵の手元へ滑らせて返した。


「私は、見たことをそのまま書きます。他の者が来る前に、閣下が自ら鍵を出された、と」


 伯爵が薄く息を吐いた。


「リンデンタール家の者は、揃って嘘がつけんらしい」

「兄貴と一緒にすんな」


 ブルーノが顔を背けると、ユリアンが平然と応じた。


「同じ父の子だ。諦めなさい」


 ユリアンは鉄の箱から、四つ折りの紙を取り出した。

 半分だけ広げ、眉を寄せる。


「縮尺がない。これでは検算できません」

「坑夫たちの話を元に、私が手で写した略図だ。……測れる者がおらんのでな」


 伯爵が言うと、ユリアンはブルーノの方を一度だけ見た。

 ブルーノが肩を回す。


「奥は、領主が頼んだ時だ。今回は10メートルで終わりだ」

「頼むやもしれん。その時は、馬鹿正直に測ってくれ」


 伯爵の言葉に、ブルーノは答えず、大きく一度だけ頷いた。

 ユリアンが現場図の両端に手をかけ、巻き直そうとした。

 ラースは、思わず口を開いた。


「その凹みは、記録しますか」


 ユリアンの手が止まる。

 羊皮紙の白に、鍵の跡は残ったままだ。


「消せませんから」

「消せないものは、野帳の端に書き添えなさい。鍵の跡が付いた、と。日付も」

「そこまで書くのかよ」


 ブルーノが呻いたが、ユリアンは取り合わなかった。

 現場図を巻き直し、角をきっちりと揃えてラースへと差し出す。


「白は、白のまま地図局に出しなさい。測っていない場所を、測ったことにはしない」

「はい」

「それと、湖の足跡の記録。ギルドの支部に写しを回しなさい。危険の記録は、図が仕上がるまで抱えておくものではない」


 ラースは革筒を受け取り、背筋を伸ばして頷いた。


「行ってこい、ラース」


 ブルーノが言った。


「ここから先は、兄貴と数字の話だ」


   *


 領主館を出て、東側の斜面を下った。

 通りの途中で、補充師の工房の戸口が開いているのが見えた。

 薄暗い土間から、油と石の粉の匂いが流れてくる。


 作業台の前に、イルゼとマルタが立っていた。


 作業台の上で、イルゼが小指ほどの練習石に指先を当てている。

 指先から薄い橙色の光が移り、石が灯った。

 石は弾けることも割れることもなく、数秒間光を保ち、やがてゆっくりと暗くなった。


「割らんかったか」


 小柄な老職人が、腕を組んだまま低い声を出す。


「昨日までに、3つ割りました。今朝のは、割れていません」


 イルゼが短く答えた。

 老職人は引き出しを開け、一回り大きな石を取り出して作業台に置いた。


「ひとつ上だ。割っても構わん」


 イルゼは大きな石を両手で受け取り、短く頭を下げた。


「ありがとうございました」

「礼は、割らずに運べてから言え」


 後ろに控えていたマルタが、道具箱の隅から手のひらほどの小箱を取り出し、イルゼの胸元へ放った。


「割った分は、全部ここに入れとけ。ばらけたら馬が踏む」


 イルゼは小箱を受け止め、蓋を一度だけ開けて、閉めた。

 何も言わずに、大きな石と一緒に抱え込む。

 ラースは声をかけず、そのまま坂道を下りていった。


   *


 鉱山町のギルド支部の扉を押した。

 受付の奥にいた眼鏡の職員が、ラースの姿を見るなり、手元の記録帳を開いた。

 野帳を押しやられた最初の日とは、手の動きが違っていた。


「足跡の記録の提出ですね。どうぞ」

「湖の北岸で見つかった、大型の魔物の足跡です」


 ラースは野帳を開き、書き留めておいた数値を読み上げた。


「足跡の大きさは手の幅4つ分、およそ40センチメートル。鉤爪の痕が深く刻まれていました。向きは真北です。湖の北岸の湿った砂地で確認しました」


 職員が筆を走らせ、素早く控えを作成していく。


「写しを作成しますので、外でお待ちください。……北へ偵察隊を出す予定でして、この数字は助かります」


 ラースは一礼して外の広場へ出た。

 日当たりの良い木製のベンチに、見知った姿があった。


 右脚に白い包帯を巻き、足元に杖を立てかけたディルクだった。

 隣には大柄な盾持ちの男と、身軽な装いの男が腰を下ろしている。


「おい、ラース。……また写しか」

「湖の足跡の記録を渡しに来たんだ」

「湖?」


 ディルクが眉をひそめた。

 ラースは革筒から現場図の2枚目を引き出し、ベンチの上に広げた。


 風で端がめくれそうになると、ディルクが杖の先で左上を押さえた。

 軽装の男が革袋を右上に載せ、大柄な男が分厚い拳で右下を押さえる。


「おい、俺の手を文鎮にするなよ」


 男のぼやきに、ディルクが短く笑った。

 そして、紙面に描かれた輪郭を見つめた。


「……ちゃんと、図になってんな」


 黒い墨で引かれた輪郭線には、3つの岬と、細長く入り組んだ入り江が正確に描かれていた。


「ここまで、歩いたのか」

「町から徒歩で2日足らずだ。歩いて、縄で測って……1回間違えて、測り直した」

「間違えたのか」

「ああ。でも、二重線を引いて直した」


 ディルクの指が、湖の北岸に記された文字の上で止まった。

 大型の魔物の足跡、この先危険、とラースが書き入れた一筆だった。


「……こいつを、俺たちが先に欲しかったな」


 ディルクがぽつりと言った。

 そして、自分の負傷した右脚を見下ろす。


「坑道の出口の岩穴も、お前らが当てたんだろ。縄の長さと、等高線だっけか。そんなもんで、本当に穴の場所が分かるのかよ」

「分かる時もあるし、ずれる時もある。今回は、うまく合った」

「……ずれなくて、よかったよ」


 ディルクは杖の握りを持ち直し、それきり脚から目を上げなかった。


「次の図ができたら、また見せろよ。今度は、俺のほうが先に、その白い場所に立ってるかもしれねえけどな」

「それなら、教えてくれよ」


 ラースが言った。


「先に歩いたなら、何があったか教えてほしい。そしたら、俺たちが線に足すから」

「……考えとく」


 ディルクが顔を上げたところで、支部の扉が開き、職員が写しの束を持って現れた。

 ラースは現場図を巻き直して立ち上がった。


   *


 翌朝、冷え込みの残る預け所の車庫から、幌馬車を引き出した。

 車軸の油を確かめ、ブリッツとシュネッケを轅へと繋ぐ。

 ブリッツは急ぐ気配もなく、のんびりと蹄を鳴らして草を食んでいた。


「ブリッツちゃん、急ぐのは山道だけなのね」


 ホルストが馬の首筋を軽く叩いた。

 そこへ、右脚を庇いながら歩く初老の役人が、大きな編み籠を抱えて現れた。


「測量隊の皆様。伯爵様からです。道中の食料にと」


 籠の布をめくると、香ばしい匂いとともに、焼き立ての坑夫のパイが並んでいた。


「……縁は取っ手ですので、お捨てください、とのことです」

「あら、嬉しいわね」


 ホルストは籠から1つ取り、縁を割って、中身を一口かじった。

 肉の脂を麦の生地が余さず受け止めていて、噛むたびに塩気が追いかけてくる。


「……領主様のところの職人、やるじゃないの。アタシの再現より、縁が半分は厚いわ」


 ホルストが籠を受け取り直し、馬車の荷台へと積み込んだ。

 そこへ、革の書類鞄を提げたユリアンが、整った足取りで歩いてきた。

 濃紺の上着には塵一つついていない。


「兄貴、あんたの馬車はどうしたんだ」


 御者台の脇にいたブルーノが尋ねた。


「報告書を載せて、夜明け前に出立させた。王都の財務省に、私の見立てを先に読ませるためだ。他の者が来る前にな」

「で、あんたはどうやって帰るんだ」

「お前たちの馬車で帰る。道中の測量の記録を確かめるのも、監察官の職務だ」

「ふざけんな、狭えぞ!」

「荷台の幅と荷の容積は、昨日のうちに計算した。私が座る場所は、正確に確保してある」

「あたしの馬車を、勝手に測るな」


 マルタが鼻を鳴らしたが、ユリアンは意に介さず馬車へ近づいた。

 ヴァルターが進み出て、ユリアンの書類鞄を両手で受け取り、荷台の奥へ置いた。


 フロッケが小走りに駆け寄り、ユリアンの磨き抜かれた革靴の紐に鼻先を寄せる。

 ユリアンは靴を半歩だけ後ろへ引いた。


「出発するぞ」


 ブルーノが御者台に上がり、手綱を握った。

 馬車が車輪を軋ませて動き出し、預け所の門を抜けて街道へ出る。


「先輩! ちゃんと数えてます!」


 後ろから甲高い声が響いた。

 ラースが荷台から顔を出すと、テオが両手を振って馬車を追いかけてきていた。

 地面を蹴りながら、大きな声で歩数を叫んでいる。


「……98、99、100! 先輩! 100歩、数えました! 何メートルか、あとで教えてください!」


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