第018話:白の検分
ラースは革筒の真鍮の留め金を外し、中から巻き癖のついた現場図を引き抜いた。
指先で羊皮紙の端を押さえながら、領主館の執務室の窓辺に立つ。
部屋の中には、パイプ煙草の匂いと、蜜蝋で磨かれた楢材の香りが漂っていた。
壁には、以前訪れた時と同じ大きな領地の全図が掲げられている。
だが、今のラースの目には、その図に描かれた山々の線がひどく大雑把なものに見えた。
山肌を歩き、杭を打ち、検定縄を引いた手触りが、手のひらの皮の内側に残っているからだ。
「昨日は出迎えもできず、すまなかったね」
執務室の奥の扉が開き、アルブレヒト伯爵が姿を現した。
上等の毛織の部屋着を羽織っているが、その目の下には濃い青紫の隈が落ちている。
前に会った時は、撫でつけた白髪の一筋も乱れていなかった。
今は、前髪が額に落ちている。
「とんでもございません、閣下。……お加減は、もうよろしいのですか」
ブルーノが、ぎこちなく背筋を伸ばして応じた。
昨日ホルストに皺を伸ばしてもらった黒い上着は、相変わらず身頃がきつそうだ。
伯爵は執務机へ歩み寄る途中で足を止め、ブルーノの腕のあたりへ顔を向けた。
「相変わらず、袖が短いな。子爵が仕立てた昔の上着だろう。腕を曲げると手首が丸出しだぞ」
「……着慣れねえもんで、勘弁してください」
ブルーノが小声で呟くと、伯爵の薄い唇に微かな笑みが浮かび、すぐに消えた。
部屋の隅の壁際に、背の低い初老の役人が立っていた。
かつて坑口の測量に立ち会った男だ。
革張りの帳簿を両手で抱え、右脚に体重をかけないよう、不自然に重心を左へ逃がしている。
ホルストやヴァルター、マルタ、イルゼの4人は、預け所の馬小屋に残してきた。
フロッケの世話と、荷馬2頭の手入れがある。
この場に呼ばれたのは、隊長のブルーノと、現場図の記録手であるラースの2人だけだった。
「ユリアン監察官。お待たせした」
伯爵が椅子を引いて腰を下ろした。
机の向かい側には、昨夜と同じ濃紺の官吏服を着たユリアンが、微動だにせず腰掛けていた。
銀縁の眼鏡の奥から、伯爵を正面に見ている。
「いえ、閣下。お身体が戻られたようで何よりです。……では、早速始めましょう」
ユリアンが卓上を指先で軽く示した。
「ラース。現場図を机の上に広げなさい」
「はい」
ラースは大机の前に進み出た。
磨き抜かれた机の上には、真鍮の文鎮が四隅に置かれている。
現場図を広げ、四隅を真鍮の重みで押さえると、紙がぴんと張った。
描かれているのは、鉱山町エルツハイムの中腹、第3坑道の周辺図だ。
斜面の傾斜を示す等高の線、崩落した岩の集積、そして頑丈な木枠で組まれた坑口の枠組み。
坑口の内側へ向かって、太い墨の線がまっすぐに10メートルだけ延びていた。
ユリアンが胸元から、目盛りの刻まれた真鍮の平定規を取り出した。
身を乗り出し、現場図の縮尺の棒線に定規の端を正確に合わせる。
「縮尺は100分の1か。……基準線の取り方は手堅い」
「当たり前だ。地図局の基準尺と検定縄で合わせたんだからな」
横からブルーノが口を挟むと、ユリアンは眼鏡の奥の目を動かさずに返した。
「私が見ているのはお前の腕ではない。数字だ」
「……へいへい」
ユリアンは定規を滑らせ、坑口の横幅、梁の高さ、前庭の広さを次々に検算していった。
机の上でカチリ、カチリと真鍮が紙の縁を叩く乾いた音が規則正しく刻まれる。
「……誤差はないな。角度の交点も綺麗に閉じている。北の斜面に開いた岩穴の位置も、地表面の傾斜角と整合している」
ユリアンが定規を机に置き、背筋を伸ばした。
そして、部屋の隅に控えていた初老の役人へ顔を向けた。
「立会人。あなたは、測量の現場に終始同行していましたね」
「はっ。間違いございません」
「測量隊は、閣下の指示された手順を違えなかったか」
「はい。入口の内側10メートルまで。それより奥へは、一歩も足を踏み入れておりません。私がこの帳簿に、測量杭の位置と縄を引いた順をすべて記録しております」
役人が帳簿を抱え直した。
ユリアンは帳簿を一瞥しただけで、再び机の上の現場図を見下ろした。
白く細い人差し指が持ち上がり、紙面のある一点を指し示す。
坑口の内側10メートルで途切れた墨の線の、その先。
何も描かれていない、純白の紙面だった。
「なぜ、ここが白い」
ユリアンの低く澄んだ声が、張り詰めた室内に落ちた。
ブルーノが腕を組み、横から短く答える。
「測ってねえからだ」
「なぜ、測っていない」
ユリアンの問いが重ねられた。
弟のほうへ顔を向けたまま、眉一つ動かさない。
ブルーノが口を開きかけた時、ユリアンは片手をわずかに上げてそれを制した。
「ブルーノ、お前ではない」
ユリアンの顔が、現場図の端を押さえているラースへと向けられた。
眼鏡の奥の目が、ラースの顔に移った。
「新人。白とは何だ。現場で実際に野帳と縄を扱った、お前の言葉で答えなさい」
ラースの喉が小さく鳴った。
掌に冷たい汗が滲む。
壁際で控える役人が身じろぎし、机の奥で伯爵がパイプを固く握りしめたのが分かった。
取り繕う理屈はなかった。
山野を歩き、ブルーノに叱られながら教え込まれたことだけが、頭にあった。
「測っていないものは、白です」
ラースは言葉を区切り、ユリアンの眼鏡の奥を見返した。
「歩いて確かめていない場所は、頭の中で埋められません。……嘘は書けません」
ユリアンは微動だにせず、ラースの顔を見ていた。
やがて、頷きもせずに言った。
「結構。弟の教えは、基礎だけは生きているようだ」
だが、ユリアンは追及の手を緩めなかった。
指先で、再び現場図の白い余白をとんと突く。
「では、なぜ測っていない。測量隊の任務は、地形と構造の全容を明らかにすることのはずだ。目の前に坑道が続いているにもかかわらず、なぜ10メートルで測量を打ち切った」
ラースは返答に詰まり、隣のブルーノを見上げた。
ブルーノが一歩、前に出た。
肩を怒らせ、兄とラースの間にその広い背中を割り込ませる。
「俺が答える」
ブルーノの声は、いつもの太い響きを取り戻していた。
「奥は、測るなと言われた。だから測ってねえ」
「何だと」
「領主様から、10メートルより先には立ち入るなと命じられたんだ。それ以上は、俺の口からは言わねえ」
ユリアンが眼鏡の縁に指を添えた。
「ブルーノ。お前は王立測量隊の隊長だ。職務の怠慢ではないのか」
「嘘はつかねえが、領主の腹の中は領主のもんだ。……俺が言えるのは、そこまでだ」
ユリアンは弟の言葉を遮らず、最後まで聞いた後、椅子の上で向き直った。
その顔は、もはや弟を向いてはいなかった。
机の奥のアルブレヒト伯爵を、真っ直ぐに見ていた。
「閣下」
ユリアンの声は、丁寧な礼を保ったまま、一段低くなった。
「白は、嘘ではありません。測っていない空白をそのまま残すことは、測量士として誠実な態度です」
伯爵の指先が、ぴくりと跳ねた。
「ですが、白の陰に隠れるのは、嘘です」
壁際の役人が、青ざめた顔で頭を垂れた。
伯爵はパイプを灰皿の縁に置いた。
「……ユリアン殿。言葉が過ぎるのではないかね」
「数字が語っております、閣下」
ユリアンは机の上に置いた自らの書類鞄から、昨夜の帳簿の写しを取り出して広げた。
「提出された採掘記録と坑夫の延べ人数には、何の変動もありません。それにもかかわらず、王都へ納められた魔石の純度だけが極端に跳ね上がっている。これは、既存の坑道から掘り出されたものではありません。純度の高い新たな鉱脈に突き当たったか、あるいは、封鎖されたはずの深部から掘り出しているか。そのどちらかしかあり得ないのです」
伯爵は椅子の背に身を預け、天井の梁を見上げた。
乾いた声が、低く絞り出される。
「……知れたことだ。町と、坑夫たちを守るためだよ」
「守る、ですか」
「そうだ。王都の財務省に新鉱脈の存在を知られればどうなる。即座に直轄鉱山に指定され、王都から派遣された監督官が坑道を仕切る。鉱山町で生まれ育った坑夫たちは、過酷な割り当てを課されるただの雇われ人夫に成り下がるのだ。これまで町が築いてきた生活も、自前の掟も、すべて王都の国庫へと吸い上げられる。私は、この町の領主だ。民の暮らしを守る義務がある」
伯爵の言葉には、この北の山で町を治めてきた領主としての自負が滲んでいた。
ラースは、窓の外へ目をやった。
谷の斜面に、坑夫たちの長屋が段々に連なっている。
だが、対するユリアンの表情には、一片の揺らぎもなかった。
「そのお気持ちは理解いたします、閣下。……ですが、それは浅慮というものです」
「浅慮だと?」
「隠した鉱脈は、いずれ別の者が嗅ぎつけます。現に、提出された魔石の純度の跳ね上がりに気づいたのは、私が最初ではありません」
伯爵の表情が強張った。
「何だと……」
「王都でも、エルツハイムの納入記録に疑義が囁かれ始めています。もし私でなく、強硬な役人が派遣されていたなら、どうなっていたとお思いですか。鉱山は問答無用で接収され、閣下ご自身も、王都で取り調べを受けていたはずです」
「取り調べだと」
「そうです。隠蔽は、事態を悪化させるだけです。帳簿の綻びは、隠そうとすればするほど、別の場所を裂いて露わになるのですから」
窓の外から、遠く町を行き交う荷車の車輪の軋みと、鉱夫たちの掛け声がかすかに届いてくる。
パイプの皿の上の火は、とっくに立ち消えていた。
灰色の灰だけが、真鍮の皿の上に小さく盛り上がっている。
「……おい、兄貴」
沈黙に耐えかねたように、ブルーノが低い声で割って入った。
兄と伯爵の間に立ち塞がり、ユリアンを見据える。
「言い方ってもんがあるだろ。閣下は町を思ってやったことだ。正論を振りかざして追い詰めりゃいいってもんじゃねえぞ」
「私は役人だ」
ユリアンは姿勢を崩さずに言った。
「事実と数字を突きつけるのが私の職務だ。情実で数値を隠すことこそが、最も愚かな過ちだ。……他の者が来る前に、私が来た。それだけのことだ」
2人が正面から向き合う。
その間を割るように、伯爵が肩の力を抜いた。
「……よい、ブルーノ。監察官の言う通りだ」
伯爵は机の上に両肘をつき、額に手を当てた。
やがて顔を上げると、部屋着の内懐へと手を差し入れた。
引き出されたのは、指先ほどの大きさの、古い真鍮の鍵だった。
精巧な溝が彫り込まれたその鍵を、伯爵は机の上の現場図の、白い余白の真ん中へと滑らせた。
カラン、と。
乾いた金属の音が、一つだけ、室内に響いた。




