第017話:監察官
ラースは灰色の花崗岩で組まれた門をくぐり、領主館の前庭へと足を踏み入れた。
敷石の端に備え付けられた鉄の泥落としに、靴底の頑固な土を擦りつける。
小脇に抱えた現場図の革筒が滑り落ちないよう、腕に力を込めて引き寄せた。
「皆様、こちらへどうぞ。ユリアン様が、隊の皆様もご一緒にとのことです」
銀の鎖を首から下げた老齢の執事が、背筋を伸ばして一礼した。
前に館を訪れた時と同じ、慇懃な身のこなしだった。
廊下を先導しながら、執事が小声で言葉を添える。
「領主のアルブレヒト伯爵様は、本日体調を崩されておりましてな。皆様とのお目通りは明日に、とのことです」
「……そうかい。まあ、急な話だしな」
ブルーノが短く応じた。
フロッケは町の預け所の馬小屋で、ブリッツやシュネッケと一緒に留守番だ。
ホルストが新鮮な水と干し草を手配し、小皿に水でふやかした干し肉を置いてきていた。
重厚な扉を抜けて通されたのは、落ち着いた絨毯の敷かれた広い控えの間だった。
高い天井には鉄細工の燭台が吊るされ、磨かれた黒い腰板が壁を巡っている。
執事が一礼して扉を閉めるなり、ブルーノは小脇に抱えていた荷袋を解いた。
底から引っ張り出したのは、仕立ての良さそうな黒い上着だった。
だが、荷馬の荷の底に長らく押し込められていたため、布地全体に深い皺が刻まれている。
「あらやだ、隊長。これじゃ荷馬に踏まれた雑巾よ」
ホルストが清潔な布巾を取り出し、控えの間の水差しで軽く湿らせた。
頑丈な木の椅子の背に上着を広げ、手のひらで強く叩いて皺を伸ばし始める。
「背中を丸めないの。襟が折れ曲がってるじゃないの」
「おいおい、そんなに引っ張るな。破けたらどうすんだ」
「破れるような安物じゃないでしょ。いつ以来着たのよ、この上着」
「……5年前の、王都の夜会以来だ」
ブルーノが窮屈そうに首を竦めると、後ろで腕組みをしていたマルタが鼻を鳴らした。
「よく虫に食われずに残ってたもんだ。柄にもない服を着るから、顔が強張ってるよ」
「うるせえ。兄貴の前でみすぼらしい格好をしてると、説教が長引くんだよ」
ブルーノが肩を回して上着に腕を通した。
心なしか身頃のあたりが窮屈そうで、ボタンを留める指先がぎこちない。
マルタが吹き出す。
「背中の布が突っ張って、息をするたびに悲鳴を上げてるじゃないか」
「ほっとけ! これでも昔は誂え通りに着こなせてたんだよ」
ブルーノが小声で唸る横で、ヴァルターがラースの隣へ寄り、言葉をかけた。
「ラース、外套は畳んで、左腕にかけてください。背負い荷は、足元の邪魔にならない位置へ」
「は、はい。ありがとうございます、ヴァルターさん」
「主人が座るまで、腰は下ろさないこと。相手の胸元あたりを見ていれば、失礼にはなりません」
ラースは外套を畳み直し、左腕にかけた。
ブルーノが襟元のボタンを、もう一度、留め直している。
控えの間の奥の扉が、ゆっくりと開いた。
*
応接室の中央には、黒檀の立派な執務机が据えられていた。
机の上には、定規で測ったかのように四角く揃えられた帳簿の束と、書類の山が整然と積まれている。
羽根ペンとインク壺の並びまで、寸分の狂いもなく直角に配置されていた。
ラースの測量士としての目が、その並びの几帳面さを捉えた。
紙の端も文具の角も、机の縁に対して完璧に平行だった。
その机の向こう側に、背筋を真っ直ぐに伸ばした男が座っている。
仕立てのいい濃紺の官吏服に身を包み、銀縁の眼鏡をかけた40代後半の男だ。
顔立ちの輪郭や高い鼻梁はブルーノとよく似ているが、頬に日焼けも傷もなく、ペンを握る指まで白かった。
「久しいな、ブルーノ」
男が書類から顔を上げ、低く通る声で言った。
ブルーノの背筋が、びくりと伸びた。
ぎこちなく頭を下げる。
「兄上、ご無沙汰しております」
「相変わらず姿勢が悪い。背中が丸いぞ。肩甲骨を寄せて胸を張りなさい」
「……胸なんか張って歩いてたら、山の木立に引っかかるんだよ」
「屁理屈を言うな。靴の泥を落としきれていない。床に粉が落ちているぞ。それに、そのひげは何だ。人に会う前に剃るのが身だしなみだろう」
「山から下りてきたばかりなんだ、仕方ねえだろ」
「言い訳をするな。測量士だろうと王国の官吏の端くれだ。……それに、その上着は父上が仕立ててくださったものだな。お前が太ったのか、肩が詰まって袖丈が足りていない」
立て続けに浴びせられる小言に、ブルーノの肩がみるみる縮こまっていく。
とうとう耐えかねたように、食ってかかった。
「おい、兄貴! 人前でそこまで言うことねえだろ!」
隊長が、怒られている。
いつも隊の先頭に立ち、豪快に命令を下すあのブルーノが、まるで悪戯を見つかった子どものように縮んでいる。
ラースは手元の現場図の筒を抱え直しながら、思わず息を殺した。
ユリアンは眼鏡の奥の目を巡らせ、部屋に並ぶ隊員たちへと向き直った。
「さて。王立測量隊の隊員諸君だな。財務省監察官のユリアン・フォン・リンデンタールだ。職務上、幾つか確認させてもらう」
ユリアンが手元の書類をめくった。
まずマルタへと向く。
「道具番だな。測量器具の検定記録はどうなっている」
マルタが背筋を伸ばして答えた。
「あ、あります。基準尺を使って縄の狂いを確かめて、野帳の端に……書き留めてあります」
「道具の狂いを放置する職人は不要だ。測量器具は王立地図局の財産である。記録を正確に残しているなら、よろしい」
次に、イルゼのほうを向いた。
「魔法使いだな。測量魔法『サイト』の誤差の幅はどれほどだ」
「毎回違います。日によっても、距離によっても。記録は全部、野帳に取っています」
イルゼが迷いなく答えると、ユリアンは手元の紙に小さく筆を走らせた。
「魔法に頼り切らず、実測値のずれを認識しているのは誠実だ。数字を誤魔化さない態度は評価する」
続いて、ヴァルターの前へと進む。
「護衛の剣士か。腰の剣に無駄な装飾がないな。元最上位冒険者と聞いているが、荒くれ者の気風を持ち込んではいないだろうな。隊の規律は保たれているか」
「隊の規律を乱すのは、主に隊長です」
「おい」
ブルーノの抗議には取り合わず、ユリアンは短く「……結構」と応じた。
そして、ホルストの前に進み出た。
「食事担当だな」
ホルストはユリアンの端正な顔立ちをまじまじと見つめ、ふっと胸の前で両手を組んだ。
「あら、いい男じゃない。眼鏡がよく似合うわ」
応接室に、短い間が落ちた。
ユリアンが固まり、咳払いを一つ落とした。
手元の帳簿を慌ただしく持ち直し、書類の端を無意味に揃え直す。
「コ、コホン……! ……食事担当か。隊員の健康管理は遠征の要だ。栄養を欠かさぬよう、精進しなさい」
「ええ、任せてちょうだいな。次はもっとお肉をつけて差し上げたいわね」
堅物な官吏が一瞬だけ狼狽えた様子に、ラースは危うく吹き出しそうになった。
最後に、ユリアンがラースの前で立ち止まった。
「新人の測量手か。……弟は、無茶な指示を出して迷惑をかけていないか」
「えっ……いえ! 怒られてばかりですが、間違えた数字は消さずに残せと教わりました。二重線を引いて、横に正しい値を書くんです」
「ほう。……誤りを消さずに残す、か」
ユリアンが小さく呟き、後ろで腕組みをしている弟を一瞥した。
「帳簿も、本来はそうあるべきだ。弟にしては、まともなことを教えたようだな」
「おい兄貴、一言余計だ」
ブルーノが顔を背けた。
*
ユリアンは執務机の奥の革張りの椅子へと腰を下ろした。
咳払いの余韻は、もう顔に残っていない。
「さて、本題に入ろう」
ユリアンが机の上に広げられた厚い帳簿の紙面を指先で示した。
「鉱山町エルツハイムから領主を通じて王都へ提出された、魔石の産出量帳簿だ。数字の上では、去年の納入量と寸分違わず一致している。月ごとの箱数も、坑夫の人数に対する産出の割合も、計算上は完璧だ。完璧すぎるほどにな」
「帳簿が合ってるなら、何の問題もねえはずだろ」
ブルーノが口を挟むと、ユリアンは厳しい調子で首を横に振った。
「紙の上の数字は合っている。だが、王都の財務省へ納められた現物の魔石の純度が、ここ2か月、不自然に跳ね上がっているのだ」
「……純度だと?」
「そうだ。同じ坑道から出る石の質は、年を追って少しずつ落ちるのが常だ。落ちるどころか、この2か月に納められた魔石は、過去10年の記録と比べて純度が高すぎる。同じ坑道の石の質が、ある日を境に突然変わるはずがないのだ」
ユリアンの低く澄んだ声が室内に響いた。
ブルーノは口を閉ざし、腕を組んだまま返答をしなかった。
ラースは抱えた革筒を握る手に力を込めた。
筒の中には、坑口から10メートルまでの線と、その先の白がある。
「ギルドの支部長からも報告書を受け取った。北の山から下りてきた大型の魔物の気配と、第3坑道の崩落事故についてな」
ユリアンが机の上の帳簿を閉じ、真っ直ぐにブルーノを見据えた。
「お前たちは、その第3坑道の坑口周辺の測量を行ったそうだな」
ユリアンが机の端を、とんと叩く。
「ブルーノ。……お前たちが測った現場図を、見せなさい」




