第016話:点と点の間
ラースは麻縄を強く引き締め、ブリッツの鞍の両脇に振り分けた荷袋を揺すって重さを確かめた。
左右の傾きがないのを見届け、余った縄の端を結び目に通す。
指先を離すと、荷袋はしっかりと馬の背に固定されていた。
「よし、荷崩れの心配はありません」
「あら、ブリッツちゃんったら。行き道ではあんなにのんびりだったのに、帰り道だと早いのねえ」
手綱を引いていたホルストが笑い声を上げた。
大柄な栗毛のブリッツは、早く歩き出そうと前脚で砂利を掻いている。
行き道では道草ばかり食っていたのに、今は鼻を鳴らして先を急ぎたがっていた。
「馬小屋の干し草の匂いを思い出したんだろうよ。食い気のある奴ほど帰りは速いもんだ」
マルタがシュネッケの手綱を引いた。
いつもなら先を争って駆け出すはずの小柄な黒鹿毛は、道具箱の重みが気に食わないのか、耳を伏せて動こうとしない。
「ほらシュネッケ、機嫌直せよ。町に戻りゃ荷が軽くなるんだ」
出発の号令を待つ間、ラースは足を止めて振り返った。
朝の薄い霧の向こうに、フラーゲ湖の水面が青く広がっている。
水辺から突き出た3つの岬と、深く切れ込んだ入り江。
革筒に収めた現場図に描いた通りの姿が、そこにあった。
その隣で、ヴァルターが立ち止まり、北の山並みへと一度だけ顔を向けた。
深い原生林の奥を見つめてから、前を向く。
「よし、出発するぞ。足元に気をつけろ」
ブルーノの掛け声とともに、隊は湖岸を離れて原生林の盆地へと足を踏み入れた。
*
道なき原生林の帰路は、行き道でヴァルターが木の幹に刻んだ目印を辿ることになった。
先頭に立つのはラースだ。
樹皮を削って露出した白い木肌を探しながら、下草を踏み分けて進む。
1本目の目印はすぐに見つかった。
太い幹の高さ1メートルほどの位置に、剣の刃先で削られた跡が残っている。
「1本目、確認しました」
「よし、そのまま2本目を探せ」
ブルーノの声に頷き、ラースは次の目印を探して歩幅を刻んだ。
だが、立ちこめる朝霧が木々の間を白く覆い隠していた。
進むにつれて傾斜がきつくなり、足元の土が湿り気を帯びてくる。
探しているはずの2本目の削り跡が、どこにも見当たらない。
額に汗が滲み、歩幅がわずかに乱れた。
そのとき、靴底の下の地面が音を立てて崩れた。
小石と黒い土が斜面を滑り落ち、遥か下の谷底へと転がっていく。
足元が切れ落ちていた。
ラースの身体が前へ傾きかける。
背後から伸びた手が、ラースの肩を力強く掴んだ。
引き戻された足が、固い岩盤を踏み締める。
「足元が崩れています。止まってください」
ヴァルターの低い声だった。
ラースの背中に冷たい汗が伝う。
呼吸を整え、頭を下げた。
「すみません……目印を見失って、谷の斜面へ逸れてしまいました」
歩み寄ってきたブルーノが、水筒を腰に戻しながら言った。
「謝る暇があるなら野帳を開け」
「えっ」
「木に刻んだ目印なんざ、ただの点だ。霧が出りゃ、点と点の間で簡単に道を見失う。……行きの記録はどうなってる」
ブルーノの言葉に、ラースは慌てて腰の野帳を取り出した。
ページをめくると、2日前にこの森へ入ったときの記録が並んでいる。
2本目の目印から、北北西340度へ120歩。
そこで1本目の幹に突き当たる。
行きの方位と歩数が、鉛筆の字で細かく書き留められていた。
「行きの方位の、反対……」
「そうだ。戻るなら、磁針の指す方角を逆にして歩数を巻き戻せばいい。測りながら歩いたんだろうが」
「はい! 北北西340度の反対だから……1本目から、南南東の160度に120歩です」
ラースは斜面を数十歩登り返し、1本目の幹に手を置いた。
そこで方位盤を手のひらに載せ、水平を確かめる。
磁針が揺れを止め、南南東の160度を指した。
その方角へ向けて、歩幅を揃えて120歩を数える。
霧の切れ間に、太い幹の白い木肌が浮かび上がった。
探していた2本目の削り跡だった。
「ありました! 目印の木です!」
「よし、元の線に戻ったな。行きに測って書いた分が、そのまま帰りの道になる」
後ろから追いついてきたマルタが、肩の道具箱を揺すって声を上げる。
「道具箱の横に、野帳の特等席でも作ってやろうか」
「いえ、野帳は肌身離さず持っていますから」
「言うようになったじゃないか」
ラースは野帳を腰に戻し、2本目の幹の脇を抜けて先へ進んだ。
*
昼前、隊はせせらぎの音が響く谷川のほとりに辿り着いた。
水辺の平らな大岩に腰を下ろし、短い休息を取る。
ホルストが小鍋を取り出し、川原の石を組んで熾火の上に据えた。
鍋の中には、昨日作ったマスの燻製の骨と端肉が煮込まれている。
干し豆と塩をひとつまみ加え、木匙でゆっくりとかき混ぜた。
「はい、お昼よ! 燻製の骨からいい出汁が出たわよ」
湯気の立つ木椀が手渡された。
琥珀色に透き通った汁を啜ると、芳醇な煙の香りと魚の脂の旨味が口いっぱいに広がる。
湯気とともに喉を通った温かい汁が、冷えた腹の底をじんわりと温めた。
「おいしいです……! 骨からこんなに味が出るんですね」
「骨が一番いい仕事をするのよ。捨てる場所なんて一つもないわ」
「干し豆にも出汁が染みてて、噛むほどに旨味が出ます」
「たくさんおあがり。鍋の底にもまだまだあるわよ」
ホルストが得意げに胸を張った。
足元では、フロッケが小皿に盛られたほぐし身を夢中で食べている。
骨を丁寧に抜いた柔らかい白身を、小さな舌で器用に平らげていた。
*
午後の光が傾き始めた頃、隊は北の稜線へと登りつめた。
風が吹き抜ける尾根の岩陰で、ブルーノが角の擦り切れた暫定版を広げた。
黒い描線は、この稜線の位置で途切れている。
行き道では、その先が真っ白だった。
ラースは野帳を開き、稜線から湖までの方位と歩数を、途切れた線の端に並べて置いた。
「ここが、図の端だった場所ですね」
「ああ。ここから南は、俺が昔引いた線の上だ」
ラースは暫定版の黒い線に指を置き、稜線の南側へ滑らせた。
線は、そこから先は途切れずに続いている。
「戻ってきたんですね」
「おう。降りるぞ。日が落ちる前に、風の当たらない岩棚を探す」
稜線から少し下った岩棚で、その夜は野営をした。
ホルストが昼の汁の残りを温め直し、全員が一杯ずつ飲んでから、毛布にくるまった。
*
翌朝は、王都を出て21日目だった。
山道は険しさを減じ、歩き慣れた下り坂へと変わっていく。
谷を跨ぐ高さ20メートルの岩アーチをくぐり、黒い玄武岩を滑り落ちる段々の滝を横目に下った。
行きは見上げて通ったアーチを、今度は背にしている。
振り返ると、岩の輪の中に滝の白い筋が収まっていた。
昼過ぎには山道が終わり、荷車の轍が刻まれた広い道へ合流した。
踏み固められた砂利道には深い轍が刻まれ、車輪の軋む音が遠くから響いてくる。
向かいから、鉱石を山積みにした頑丈な荷車が近づいてきた。
御者台で鉄の煙管を吹かしていた大柄な男が、測量隊の姿を認めて手綱を引いた。
「おう、地図の! 北の山から戻ってきたのか。生きてやがったか!」
かつて行き道の運搬路で出会った、あの煙管の御者だった。
ブルーノが手を上げて応じる。
「おかげさまでな。無事に湖まで測って戻ってきたところだ」
「へえ、あの先まで本当に行ってきたのか。……おい若いの、背負ってる筒の中に、その図が入ってるのかい」
御者がラースの背負い荷を指差した。
ラースは足を止め、背筋を伸ばして頷いた。
「現場図の下書きが入っています」
「運搬路の勾配、ちゃんと測れたのかい? 荷車を引く側としちゃ、どの坂が何度傾いてるか知りてえんだ。現場図が仕上がったら、一番に見せてくれよな」
「はい! 下書きでよければ、町でお見せします」
「約束だぜ。……そういや、町へ戻るなら気をつけな」
御者が煙管の灰を落とし、声を潜めた。
「坑道の崩落が片付いたあと、奥で新しい鉱脈が見つかったって噂が広まってよ。町は今、上を下への大騒ぎだ」
「新鉱脈だと?」
ブルーノが眉を寄せた。
「ああ。それでよ、3日前に王都から大層な役人が乗り込んできやがった。財務省の紋章が入った黒塗りの馬車でな。領主のアルブレヒト伯爵様も、青い顔して館へ引っ込んでるって話だぜ」
「財務省の役人、ですか」
「そうだ。金と帳簿に五月蝿い連中さ。あんた達にゃ関係ねえかもしれんが、町の空気はピリついてる。気をつけて通りな」
御者は手綱を鳴らし、煙を残して遠ざかっていった。
*
運搬路を歩きながら、ラースは隣を歩くブルーノの横顔を見上げた。
「隊長……財務省って、確か、隊長のお兄さんが勤めていると、領主様が言っていましたよね」
「財務省は、でけえ役所だ。役人が何百人いると思ってる」
「その何百人のうち、隊長のお兄さんは……」
ブルーノが足を止め、空を仰いだ。
「……1人だ」
「当たり前だろ! 2人もいたらたまらないよ」
マルタの突っ込みに、イルゼが手で口を覆って小さく吹き出した。
列の後ろで、ヴァルターの肩がかすかに揺れた。
「でも隊長、お兄さんなら力になってくれるんじゃないですか」
「逆だ、逆。あいつは規則の塊みたいな男だ。俺が一番苦手な手合いだよ」
ブルーノが首を横に振った。
やがて、鉱山町エルツハイムの北の入口が見えてきた。
丸太を組んだ柵と、門番小屋だ。
だが、その門前に広がる光景に、隊員たちの足が止まる。
門の手前の広場に、見慣れない豪奢な馬車が停められていた。
漆黒の車体の扉には、見事に磨き上げられた銀の天秤の紋章が刻まれている。
王都の財務省の公用馬車だった。
隊が門をくぐろうとしたそのとき、槍を持った衛兵が歩み寄ってきた。
埃まみれの旅装のブルーノの前で足を止め、姿勢を正す。
「王立測量隊の、ブルーノ・フォン・リンデンタール殿でございますか」
「……そうだ」
「財務省の監察官、ユリアン様が領主館でお待ちです。至急、出頭するようにとのことです」
衛兵の言葉のあと、ブルーノは黒塗りの馬車の銀の天秤を見つめたまま、動かなかった。
やがて深く息を吐き出すと、荷馬の脇に立つラースへと振り返った。
「ラース。……俺の上着は、どっちの馬に積んだ」
「ブリッツの、右の荷の底です」
「出せ」




